山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
光源氏17歳、最初の恋の冒険談。それは人妻・空蝉(うつせみ)を盗む話。「源氏物語」は全54帖の中で男女の密通を幾つも描く。光源氏と義母・藤壺女御との密通、光源氏と兄(後の朱雀帝)の想い人・朧月夜(桐壺帝のきさき弘徽殿の女御の妹)との密通、光源氏が40歳で娶った若妻女三の宮(兄の娘)と柏木(光源氏のライバル頭中将の息子)との密通、そして宇治十帖では、浮舟(光源氏と兄弟の娘)と匂宮(におうのみや:朱雀帝の孫)との密通。この物語が密通を大きなテーマの一つとしていることは間違いない。
光源氏は空蝉を彼女の寝所から抱き上げ、自分の寝所に運ぼうとするところで、空蝉の女房・中将の君に気づかれている。彼の纏(まと)う薫物(たきもの)の香りが辺りに満ちて、暗闇でも彼の存在を示していた。だが光源氏は中将の君の鼻先で襖障子(現在の襖)を閉め、「暁に御迎へにものせよ (明け方暗いうちに奥様をお迎えに参れ)」と言い放った。この堂々たる盗み方はどうだろう。17歳でこれではちょっと図々しすぎるのではないか。
実は、平安時代にもいわゆる「姦通罪」が存在した。当時の刑法にあたる「養老律」には、夫ある女性との姦通には懲役2年の刑を加えると記されている。とはいえ、この法律がどこまで実効性を持っていたかはわからない。女性が后妃だったり、天皇の名代で未婚の清らかな女性として伊勢神宮に仕えた斎宮だったりという特別な場合を除き、特に男女合意の上でのいわゆる「不倫」については、処罰された実例が見つからないのだ。合意がない場合にごく一部に逮捕された例が見えるが、処罰されるのは身分の低い者たちだった。光源氏のような高貴な身分で、一般の人妻との姦通により法律的に罰せられた例は見えない。
空蝉の例でも、光源氏と気づきながら女房・中将の君は声も上げられない。光源氏が並みの身分ではないからだ。平安社会の姦通罪は貴公子の女性関係には厳格でないと言えそうだ。
いっぽうで、人妻自身が「密通して子供をつくった」と公にした例もある。紫式部の女房仲間で「栄華物語」の作者とされる歌人、赤染衛門(あかぞめえもん)の生まれた経緯である。赤染衛門の母は平兼盛の妻だったが、離婚後すぐに赤染衛門を出産。兼盛が「私の子だろう」と親権を求めて裁判を起こすと、母は「いや、赤染時用(ときもち)と通じて生んだ子だ」と主張し、結果、赤染の子と認められた。
真実はと言えば、やはり赤染衛門は平兼盛の子なのだろう。平兼盛も赤染衛門も歌人。二人の歌が小倉百人一首に入れられている。赤染衛門の家集によれば、赤染衛門本人も平兼盛を実の父と慕っていたと思しい。
ところで、赤染衛門といえば夫の大江匡衡(まさひら)とおしどり夫婦と見られていた。だが家集の研究からは、以前からの恋人・大江為基との交際が、匡衡との結婚後も続いていたことが明らかになっている。その思い出を記した「赤染衛門集」は、彼女自身が編集して時の関白・藤原頼通(よりみち)に提出したものだ。夫の死後に公開したものとはいえ、「不倫」への意識が現代とは随分違っていたと分かる。
実は、人妻の「不倫」が厳しく罰せられるのは、武家社会に入って以後のこと。
とはいえ、ここまでは世間の話だ。社会の通念と当事者の心はまた別。空蝉は光源氏との関係に深く苦しんだ。恋に寛大な時代の物語だからこそ、この苦悩は決して見逃してはならない。