山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
しれっと、新シリーズの開始です(笑)
平安時代の天皇は一夫多妻制である。これを私たちは「英雄色を好む」と受け取りやすい。権力があるから次々ときさきたちを娶って、よりどりみどりで相手をさせているのだろうと。
確かに平安時代の特に初期には、きさきの数は非常に多かった。しかし平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。確実に後継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。
だが、子だくさんだけでは天皇として不合格だ。後継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではではない。即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはなくてはならない。一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。ならば天皇は、第一にそうした後継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない。個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった。
こうなると、天皇が「よりどりみどり」という訳にもいかないことも、推測がつくだろう。貴族たちはしかるべき子どもをつくることを期待している。それはしかるべき家から送り込まれた。しかるべききさきと、しかるべき度合いで夜を過ごすことを期待し、見守っているということだ。摂政(せっしょう)・関白・大臣、大納言。天皇はきさきの実家を頭に浮かべその地位の順に尊重しなければならない。その順できさきを愛さなくてはならない。天皇にとって愛や性は天皇個人のものではなかった。最も大切な政治的行為だったのだ。
こうした当時の常識に照らせば、桐壺帝が「いとやむごとなき際にはあらぬ」更衣に没頭したことは、掟破りともいうべき、許しがたい事件だった。皇子誕生は政界の権力構造に係わる。実家の繁栄を賭けて入内したきさきたちが怒るのは当然のこと、「上達部(かむだちめ)、上人(うへびと)」など政官界の上層部が動揺したのも、これが自分たちの権力を揺るがしかねない政治問題だったからだ。
さて、「源氏物語」が書かれる直前、時の一条天皇(980~1011年)には心から愛する中宮定子がいた。「枕草子」の作者・清少納言が仕えた。明るく知的な中宮である。だがその実家は没落していた。そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長の娘で、やがて紫式部が仕えることになる彰子である。定子は23歳、天皇は20歳、そして彰子自身はまだ12歳。彰子とは年の差もあって気が進まない天皇だが、道長や貴族たちの手前、定子よりも彰子を重く扱わなくてはならない。その苦しい胸の内は貴族たちの日記や「栄華物語」「枕草子」などから知ることができる。結局定子は翌年、息子を残して亡くなった。
辞世は「知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな(知る人もいない世界への旅立ち。この世と別れて今はもう、心細いけれど急いで行かなくてはなりません)」。一条天皇は悲しみにくれた。
「源氏物語」の執筆が開始されたのは、この出来事のわずか数年後だ。いうまでもなく、桐壺帝は一条天皇に、桐壺更衣は定子に酷似している。
更衣の辞世「限りとて別るる路の悲しきに いかまほしきは命なりけり(もうおしまい。悲しいけれど、この世と別れて旅立たなくてはなりません。私が行きたいのはこんな死出(しで: 死出の山(死後の辛さの例え)の略)の道ではない、生きたいのは命なのに)」は定子の辞世と言葉が通う。また遺児の光源氏を桐壺帝が溺愛し後継ぎにしたいと願ったことも、一条天皇が定子の遺した息子・敦康親王に抱いていた願いと同じだ。
物語を書き始めた時、紫式部はまだ彰子に仕えていない。一個人の立場から、ドラマチックな史実を効果的に掬いあげて、この物語を構成したのだ。だがそれは面白さを狙っただけではない。一条天皇の苦しみは、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれての人間的葛藤だった。紫式部の描く桐壺帝も、実に人間的だ。人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く、それが「源氏物語」だといえるだろう。
こうした「源氏物語」は、定子を悼み天皇の心を癒やす力をも持っていた。当の一条天皇がやがて「源氏物語」の愛読者となったこと、これは紫式部自身が「紫式部日記」に記している。