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清少納言は都にいた。
清少納言が月の輪にかへり住む頃
― ありつつも雲間にすめる月のはを いくよながめて行き帰るなん ―
清少納言が月の輪の山荘に帰って夫と住みだした頃
空にありつつ雲の切れ間に澄んだ光を見せる月。あなたがいた宮中も「雲」の上と申しますね。そこに住む月を幾夜・・・・・・幾代眺めて、一度離れた「月の輪」の地へと帰ってきたのですか。
藤原公任が清少納言に贈った歌である。月の輪は、清少納言の元夫の藤原棟世が山荘を持っていた地と考えられている。三田村雅子氏はこの歌を、宮仕えに憧れて歳の離れた棟世の下を飛び出した清少納言が、何年も経って結局は復縁したことを公任がからかったもの、と解釈している。清少納言は四十歳前後、夫はもう七十を超えていたと思われ、貴族社会の小さな噂になったのだろう。清少納言は歌を受け取ってもしばらく返事をしなかった。さすがにむっとしたのだろう。
月の輪という地名は今も京都市東山区に残っていて、地内の門跡寺院泉湧寺(せんにゅうじ)の境内には清少納言の「夜をこめて」の歌碑がささやかに置かれている。説話の世界では清少納言は晩年落ちぶれたとされ、田舎に下って菜を干しながら「宮廷の殿方のなほし(直衣)姿よ」と思い出にふけったり、刃傷沙汰に巻き込まれるなど、ひどい話もある。だが事実としては、晩年はこの月の輪か、あるいは亡父清原元輔の遺した京中の邸宅で暮らしたと思われる。元輔邸では隣人が、学者大江匡衡(まさひら)の妻にして彰子の女房、『栄花物語』正編の作者ともされる赤染衛門だった。大雪の日に、二軒を隔てる垣根が倒れてしまったという歌が残ってる(『赤染衛門集』)。
また清少納言は、和泉式部とも文通していた。平安随一の女流歌人にして『和泉式部日記』の主人公でもある恋多き女性で、やはりこの時期を彩った才女の一人だ。和泉式部は1009年頃から彰子に仕えたが、清少納言との歌のやりとりは、互いの男性関係をからかいあったり、清少納言から海苔を贈ったりと親密である(和泉式部集)。
清少納言には明るく元気というイメージがあるが、今に残る歌集『清少納言集』には、意外にも老いの悲しみや恋の涙を詠むなどしみじみした歌が多い。逆境の中でこそ笑いを、という『枕草子』の姿勢は、本当はもろい清少納言がことさらに気丈であろうとしてとったものだったのかもしれない。ともあれ赤染衛門や和泉式部とのやりとりからは、友人の多い晩年だったと想像される。
投稿者補足;和泉式部と赤染衛門の関係は諸田玲子著作のミステリー小説「今ひとたびの、和泉式部」に詳しい。
ー あらざらむこの世のほかのおもひでに
今ひとたびの逢ふこともがな ー
清少納言もちょっとだけ怖いおば様としてでてきます。
続く(彰子は女院「上東門院」に)
参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり
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