基礎的分野を冷遇せざるべしと。同感である。経済優先の昨今では何かにつけ二言目には費用対効果、である。しかもその効果の求め方は余りにも性急である。その為何につけても腰を据えてやるという事が難しくなっており、結果として求められる効果は逆に出にくくなってしまっている。私はそもそも甲という事の為に乙という事をする、というやり方を好まない。乙という事は乙という事自体の為に成されるのが本来の在り方のように思われるのである。就中学問や芸術などというものは完全に自由で独立していなければ純粋性を保つことができず、その成果は砂糖で食べる刺身の様なものになってしまう事であろう。此の本来の在り方に背いた為にしくじったのがソ連であろう。ソ連の目指したのが全く見当違いの方角であったとは思われない。学者の中には、資本主義の後に来るべきものは科学的社会主義しかないと言い切る人もいる。戦後の日本の奇跡的復興はひとえに特有の(法と規制でがんじがらめになった)社会主義的資本主義に負うという説もある。現にその反動としての行き過ぎた規制緩和が、様々な分野で混乱を生んだりしたのは記憶に新しい。ソ連の明らかな間違いは方便である。目指す国家建設の為にあらゆる事物を強制的に利用したやり方である。文学、芸術、科学は言うに及ばず個人の職業や住む場所さえ(この点で私は転勤という制度が好きではない)専ら国の為に利用され国に支配され国の都合で決められたのである。ショスタコーヴィチなどもそのような制度の下で音楽的に生き延びる為にどれだけ苦労を強いられたか知れぬらしい。末期のソ連の、企図に反した疲弊ぶりも又記憶に新しい。尤も甲の為に乙を利用する事自体が悪という訳で無いのは勿論である。昨年一昨年辺りの日本の受賞者には、有用であってこその学問だという人が多かった。それはそれで又一つの立派な見識であろう。ただ彼らにあっても、学問は飽く迄その学問の為に追及された筈である。そして本来なら別に存在した筈の、彼らの学問的成果を人類の健康で文化的な生活に生かす方法を追求するべきものが、偶然彼ら自身の中にいたという事に過ぎない。問題となるのは、本来独立してあるべき甲と乙の間に第三者の強制が介在した時である。
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