独白

全くの独白

子と云うものの限界

2017-11-17 20:58:46 | 日記
今朝は寒かった。いつもの様に私より遅く起きて来た母が水を出し乍ら、妙な事を言う。「朝、暫くは、温かい水が出るね」
既に先に水を使っていた私「僕はそうは思わないけどね」
すると母は、「最初は地下の水じゃないからね」
私「?」
家では井戸を使っている訳では無い。
母曰く「最初に出るのは、水道の先端近くの、空中に溜まってた水だから冷たい、次の(自分が使う頃の)水は、夜中地下にあったから温かい、それを使い切ってしまうと、外の本管の水に成って、又冷たくなってしまう」と。
詰まり三段構えに成って居るという訳である。
此処で暮らし始めて四半世紀以上が経つ、母より先に起きて、長時間、水を使って髭を剃る事も、簡単な炊事をする事も、多いというより、殆どであったが、迂闊にも、気付かなかった。
否、斯様な事はどこに住んでいようと有る訳で、生まれて此の方気付く事が無かったのである。
嘗ては気が利いていて、しっかりして居過ぎる程であった母も、老いに負けて居る事が多くなってしまった昨今、もう教えられる事も助けられる事も無いのかと思えば、寂しく感じる日ばかりである。其れなのに矢張りたまにはこのように、教えられたりヒントを貰ったりする事がある訳である。
子というのは所詮、親を超える事の出来ない存在なのかも知れない。
確かに「鳶が鷹を生む」事も多い。併し何らかの分野で優れてはいても、総合力では親に敵わないのではあるまいか?
「将棋馬鹿」とか「学者馬鹿」とか云われる人が居る。併し死ぬか生きるかという時に、将棋や学問だけに通じている事がどれだけ役に立とうか。
そんなに極端な局面ではなくても、鷹による国家的大事業と鳶の家庭的小事業との、どちらがより大切であるか、一概に決め込む事はできない筈である。
一個の人間に備わった種々の力を、種々の方面から勘案して、比べてみれば案外、子の力は親の力の埒内から金輪際、出られないものなのかも知れない。
不図そんな事を思わせられた、晩秋の朝であった。

犬も歩けば事故に当たる

2017-11-06 21:17:55 | 日記
完璧な快晴下、サイクリングに行って来た。十月の天候が悪く、あまり行けなかった分、今月は宜しく御願いしたいものである。冬も近く、雪になれば乗れない事でもあるし。
ともあれ、今日は素晴しかった。100km離れた後立山連峰の垣間見られる所さえあった。先日悪戦苦闘した土石流に因る土砂もすっかり片付けられた今日、私とモーグ(自転車の愛称)を遮る物は何も無かった。
満ち足りて人界に帰って来ると、交通事故の現場に出交わした。小さな交差点に壊れたバイクや救急車が在り、乗り手はもう車中に収容されているらしい。警察の車も在るが、まだ一人しか来て居ない警官は、通り掛りの郵便配達の人と一緒に交通整理をして居り、調べ始めては居ない。
救急車の人が報告書のようなものを手にして「バイクの人が、車と衝突したと言っているが、どの車でしょうね」と一人の女性に問い掛けると「私です」と彼女は言って、近くの駐車場に案内する。呼ばれていない私も付いて行く。
女性の事とて事故に慣れて居ないらしく、救急車の人に頻りに自身の正当性を主張している。
「バイクのスピードがかなり出てたみたいでふらついてましたよ。右折してた私の車の後ろの方に突っ込んで来たんです」車を見ると、確かに左の後輪がバーストして、その周りの車体も傷付いている。
自身が大通りを進んで居る所へ、横の小路や駐車場から、出て来たバイクが衝突したのならば確かに、車が通り過ぎるのを待てなかったバイクが悪かろう。併し対向しているからには、直進車が優先と決まっている。況して相手は車に対しての弱者である。右折する方が、ちゃんと間隔を見極めて動くべきである。
彼女は警官にも「ちゃんと見た」と主張するに違い無い。併しちゃんと見たのならば、ぶつかっている筈は無い。ぶつかってしまったという厳然たる事実が、ちゃんと見なかった事の、何よりの証左なのである。徒見るだけでは何にもならない。状況を正しく見極めて、その状況に相応しい行動をとって初めて、ちゃんと見たと言えるのである。車でも何でも、止まって居る事があれば動いている事もある。一度チラリと見ただけでその如何が解る筈は無い。二度以上見るか、一旦止まって凝視する必要がある。その短い時間に、動いた距離が即ち速度を表わしている訳で、それをこそ把握する必要がある。その上で、相手が高速で走っているならそれを加味して、自身の取りたい行動をとって良い距離か否かを見極める必要がある。
速度違反をしている相手には、ぶつけてもよいと言う事にはならないのである。
保険会社や検事の見解は知らず、私はそう思う。
又彼女は、バイクをふらつかせたのが、他ならぬ自身である事にも気付いて居ない様である。
バイクには乗らずとも、自転車位には乗る事であろう、二輪の急ブレーキの、四輪とは違う危険に気付いているべきである。
このような事故を起こす人の多くは、違反している相手にならぶつけても、相殺されて自身の責任が軽くなる等と思っている訳ではない。単に自分本位なのである。然もそれを自覚しては居ない。結果として甘えが生じる。下意識ではこんな風に思っているのであろう。
「早く某所に着いて、あれもこれもしなくては成らない」そして何の根拠も無く、他者もそんな自身の都合を理解してくれているように思い「少し位無茶をしても、多めに見てくれる筈、待ってくれる筈、ブレーキを掛けてくれる筈」。
悪意は無いのである。併しそれだけに却って危ない。暴走するような輩は、危険を自覚して遣っているだけに、周りを無視するような顔だけして見せて、存外見ている。に対して善意の持ち主は当然、自身が危険の種に為っている等とは、夢更思って居ないのであるから、全く無警戒である。
その間は常に警戒を要求される車の運転中に、全く無警戒なのであるから、こんな危ない事はない。
車の運転というのは、生まれて初めて乗ろうとする際の印象とはまるで違って、慣れれば超簡単である、そう思い勝ちである。確かに普通の状況で、普通の乗り方をする分にはそうかも知れない。オートマが普通の昨今であれば、尚更である。
併し何事につけても、技術の他に必要なのがセンスである。或程度のセンスも無い者に免許等・・・と言いたいところであるが、その有無を試験で見極めるのは難しかろうし、こんな車社会では、聞く耳を持つ者とて在るまい。
この上は少しでも早く、全自動運転車の普及する様、運転センスの無い人の為に祈るばかりである。

手話漫才とアウフヘーベン

2017-11-04 15:17:17 | 日記
TVを見ていると、手話を使った漫才師が紹介されていた。二人のうちの一人は、いわゆる健常者である。
客も両様で、立派に受けている。客の中の(健常である女性の)手話通訳士も紹介されていた。
彼女曰く「聾啞者との手話は、どうしても満足できるようなものに成らない。この漫才は、そんな悩みを忘れさせてくれる」と。
傍目にも確かに、手話というものの働きは拙劣に映る。勿論それは不可避であり、当然そこに齟齬や擦れ違いの頻出する事も又、不可避である。
落語や漫才の笑いの多くは、殊に齟齬や擦れ違いを基にしている。
詰まり、健常者と聾啞者との遣り取りは、笑いのネタの宝庫である。
而して、この二人の漫才師はそれを利用し、客は素直に笑って居る。
小池さんの云うアウフヘーベンがここにもあり、高座でも客席でも、受け容れられて居る訳である。
「アウフヘーベン」と云っても、「止揚」とか「揚棄」とか訳するから、難解そうになる。「正→反→合」の「合」である。
手話は多分、聾唖者同士に取っても、かなりもどかしい道具であろう。況して片方が健常であれば、それによる意思の疎通の困難さは、両者の皮膚感覚が違うからには当然の事として、弥増す筈である。それが先の手話通訳士の感じる、越えられない壁の礎となっている。
而して受け容れざるを得ないその現実を、苦悩の末に、妥協して受け容れた上での工夫の成果が笑いなのである。
単純化すれば、手話が「正」、その非力さが「反」、笑いが「合」と言う訳である。
別の言い方をすれば、手話は言語としての不完全さの為に、対話する者同士の間に、共通の認識を生み出せない。併しその「生み出せない」と言う共通の認識は、生み出され得ている。生み出した、手話より又通常の言語より高次の言語としての何ものかが詰まり、異なった皮膚感覚等というものを超越して存在する、より人間に取って本然的であり、万人の共有する、祈念や聖霊などの源でもある、精神の働きと言う事にでも為ろうか。而してその働きは多分又、笑いの源でもある。
感情の解放の一種である、手放しで泣いたり笑ったりする事で、(漫才を高座に上らせる前の)かの二人の漫才師自身も、手話通訳士も他の客も、精神を浄化されている訳である。そして傍からそれを見ている私等も、何か清らかなものを感じさせられている。
皮膚感覚の違いや、そこから生じるその持ち主相互の、相手への差別感や、道具としての手話や通常の言語の不完全さを超越した上に、万人に認識の共有を齎し得るような精神の働きは、当然の事乍らそれら凡てより有力で、より内面的で精神の中核に近く、詰まりは人間固有のものである性質の強いものでなければならない。「霊性」とでも名付けるのが相応しかろう。