独白

全くの独白

此の改竄問題の本当の問題

2018-03-28 21:51:04 | 日記
 佐川氏の証人喚問の結果は、大方の予想通り、大山鳴動して、鼠一匹であった。
証言拒否連発答弁も、「記憶にございません」から類推する迄も無く、予想しなかった者は在るまい。
抑、違法行為があれば訴追によって追及されるのが本来の姿であり、国会で出来る追及など高の知れたものに過ぎないのは、火を見るよりも明らかである。
 道義的には佐川氏を始めとして、麻生氏も安倍氏も各の責任を認めて詫びて居る、これ以上は追及のしようもあるまい。
 又、人情には忖度が付き物である。問題とされるべきはそれが犯罪や背徳などと結び付いた時のみであって、忖度そのものに罪はあるまい。
 さっさと求めに応じて、招致でも喚問でもすれば好かったのである。それを、必要でも無いのにいつ迄も拒んで来たから、痛くもない(か実際に痛いか私は知らない)腹を探られる事態を招いて居るのである。
 更にその結果として、果てし無く続く空騒ぎへの愛想尽かしからの支持率低下が出来して居るのである。
 斯様の事態を私は、安倍さん達の為にも歯痒くも残念にも思う。
 併し先に述べたように、畢竟は自業自得なのである。
 不可思議に意地を張り、体面に拘泥した結果、議員だけでも何百人という人々に、極めて多くの時を浪費させた罪は、決して軽いものとは言えない。
苟も一国の領袖にして賢明なる安倍さんには、この責任をこそ懇ろに取って戴きたいものである。
 野党に代表される国民の求めを、徒に拒む事で更に無益に罪を重ねる事無く、今井さんでも迫田さんでも、谷さんでも昭惠さんでも、喚問が如何しても厭なら招致でも良かろう、佐川さんの例に鑑みて安心して、応じるが良かろう。
 答弁に懸念があるなら、これも佐川氏のように、補佐人を置けば好いのである、困難な事は何一つ無い筈である。

此の改竄問題に関わる問題 

2018-03-23 14:44:45 | 日記
 此の改竄問題は、最初ピンと来なかった。
野党は鬼の首を取ったように騒いで居るが、私に訴え掛けて来るものはあまり無かった。何故であろう?
思うに、非難している議員も、非難されるような事をしてしまった役人も、謂わば同じ公の僕であって、これは内輪揉めに過ぎない、然も両者とも間接的には吾人国民の選んだ人々であるからには、畢竟吾人自身の内輪揉めという、醜悪と迄は言えずとも、決して美しいとも言えない有様を、天から見せ付けられている様なもので、態々注目する程のものでも無いと、自ら感じるが故なのであろう。
 併しピンと来ないくせに引っ掛かるものがある。
それはこの問題の抑々の端緒たる加計と森友や、それらに纏わる圧力や詐欺や忖度と云った事物が、改竄そのものの過剰なクローズアップと時の経過に依り、背景がぼやける様に曖昧模糊として見えて来つつある事に加え、就中多分教育的配慮も在ってではあろうが、置き去りにしてしまった加計を思い出すに付けても、これではならじと感じるが故なのであろう。
 そこでこのピンと来ないくせに引っ掛かる問題を展望してみる。
此の様に渾沌とした問題は、先ず分解しなければなるまい。大まかに三つに分けられそうである。
 ① 刑事問題
 籠池氏と近畿財務局が、結託して価格を決めた様子がある。それが事実で不当に安かったと認められ、籠氏が訴追される事に成れば近財や、成り行きに依っては、本省からも被訴追者が出る事に成ろう。公務員の背任であるからには、籠氏との刑罰の重さの差は大きかろう。
籠氏からの脅迫や恫喝も、その背後からの直接の働き掛けも無かったとすれば、財側の動機は自らの勝手な忖度しか無い。
働き掛けの在否は、それをした蓋然性の持ち主に、まず聞いてみる必要があろう。もし事実であったならば、其の人の立場に依っては、其の人の罪も問われる事に成ろう。
事実では無かったとしても、情状酌量の材料には成り得ようから、兎にも角にも、聴いてみる事は必要であろう。
その人が遠い外国に赴任していてもである。
 ② 改竄問題
 財務相の云う様に、佐川氏以下のみが関わる改竄かも知れない。併しそうでない蓋然性も無いとは言えない以上、此処でも又、そこへの影響力を行使し得る凡ゆる人に聞いてみる事が必要である。聞いてみたところで、責任者の判明は望まれないにしてもである。
 ③ 担保されない客観性の問題
「私も妻も関わって居ないのは明らかだ」という様な事を、安倍さんは言う。
併し吾人の求めているのは、そのような主観では無い。それや他からの客観や物証等から浮かび上がる客観的事実なのである。
「盗んではいない」と主張する、泥棒である蓋然性を有する人の言葉を、鵜呑みにし得ないのは当然である。
又、悪党でさえ人の子、人の親である。而して赤の他人は平気で攻撃しても、家族は守ろうとするのが人の情である。
このような強弁が私の脳裡に浮かび上がらせるのは、非良心的な小商人である。
「相手は素人、何を言っても解りはしない、適当な事を言って丸め込んで、兎に角売り付けてしまえ」との、その心中である。
客観的事実の追及の為には、関わり得る一部の人のではなく、関わり得る総ての人の発言が、何を差し置いても必要であろう。

 斯様に見てみると、どの面からも、谷さんや昭惠さんを含む総ての人からの聴取の必要性は、明らかになった。
此処で明らかになった事が、安倍さんの脳裡に於いて明らかならざる筈は無い。
では何故、喚問にも招致にも応じさせようとしないのであろうか?
思うに、籠氏への配慮からかも知れない。
 籠氏は多分、拘置所であろう。黙秘して成り行きを見守って居そうな気がする。
 仮に昭惠さんが国会に出て来たとする。事実が如何様であれ、然らざるべき在り方での働き掛けをしたとは、認める訳に行かない。
当然強く否定する事に成る。それを知った籠氏は開き直る。
 昭惠氏に近付いて利用する筈が、もう少しの所でしくじったばかりか、冷たく突き放されたのである、愉快な筈は無い、逆恨みに走る。
 逮捕され動かぬ証拠を突き付けられても、それらに基づいた判決が下っても、頑強に不知を切り通す人が稀に見られる。
 彼はそういう人かも知れない。妻君もそういう人かも知れない。
 そういう人は、仮令共犯者の言との齟齬を、取調官から指摘されても、飽迄自身の言い分を貫き通しそうな気がする。従って別々に勾留されて居ても、口占合わせの必要を感じない事であろう。詰まり何とでも欲するが儘に言うのである。在る事無い事を言い散らすに違いない。
 もし事態がこの想像のように遷移したら絶望的である。水掛け論になってしまって真実は金輪際、明るみに出る事があるまい。
 而して鈍色の印象だけが独り歩きして、昭惠氏を腐らす事に成ろう。
 細君想いの安倍さんの心配は、此の辺りに在りそうな気がするのである。

   

商品券と人間の、自家撞着

2018-03-17 21:36:42 | 日記
 曩日、本を買うのに図書券を使う事が出来て、安堵した。
10年以上前に贈られた券であり、爾来喉に刺さった小骨のように気に掛かって居たので、それが抜けたような気がしたのである。
商品券と云うのは、うっかりしていると期限付きの物があって、それが切れてしまう場合があり、そういう物を、神経質な私はさっさと使ってしまいたいのである。
 ところがそれが、他ならぬ図書券であるばかりに、ずっと使う事が出来なかった。
へそ曲がりの私は、売れている本をあまり読まないので、書店へ行っても大概取り寄せて戴く事に成る。
それで本を買う時は送料無料の所か、そこに無ければ他所で他の本と共に注文する事で無料にして、端から自身で取り寄せる事に、随分前からしている。
 求める物が文具であれば足を運ぶ事も多いが、生憎文具に図書券は使えない事に成って居る。
詰まり図書券こそ已む無く持っていたものの、他の商品券ならふた月と持っては居まい。
苛々するのである、理由には期限切れの虞れの他に、同じ紙でも紙幣ほどの存在感が無い為の過って捨ててしまう心配、というのもあるのである。
 私のように神経質な者は、斯様に気掛かりな物はさっさと片付けてしまいたいのである。
 借りた物等でも、可及的速やかに返してしまいたい。
 即ち私の様な者にとって、商品券と借りた物や金は同じ位置にある。
 換言すれば、或多くの人間にとって債務と、商品券と云う無記名債権は或面で等価である。
 いわば商品券には、債権であると同時に債務であるという、自家撞着が内在しているのである。

 而も商品券での取引に、釣銭は介在しない。
額面と同額の品を買うのは難しい。と言って額面未満に収めてしまっては、残りを無駄にしたようで勿体無い。
追い銭をしてでも使い切ろうとするのが人情である。売り手が黙っていても、当面は不要の物まで買って、売り上げに協力する羽目になる。
もし人情に反して釣の分を捨ててしまう客が在っても、心配は要らない。売られた品の価格が自動的に上がって、上がった分は総てが儲けとなる訳である。
売る方にとっては願ったり適ったりの存在である。
都合の良い物を捻り出したものであるが、抑も人間は一面では儲ける為なら何でもする、詐欺師を始めとして、詐欺師顔負けの者ばかりと云って良かろう。
 一方人間の中には、山歩き等を好む者も数多居る。汗水垂らして歩いても、報いは小さい遊びである。
その上金銭的にも、一文にもならないどころか入費さえ必要とする、そんな無益極まる事に、知恵と汗を絞って打ち込むのも人間なら、詐欺師跣に利得の為に現を抜かすのも又人間である。
 即ち商品券と云うものの生みの親たる人間がそもそも、自家撞着を内に秘めた存在なのである。

介護と云う職種#5(神の領域③)

2018-03-02 22:49:57 | 日記
 併しそもそも吾人は、空前絶後の大洪水にも、バベルの塔に於ける警告にも、耳を貸さず目を瞑って、堕落の一途を辿って来た。
享楽を追い求め、自然を破壊し、核、化学、生物兵器等を生み出した。
これらは先述の「人間に因る神の領域の侵犯等、実は無い」の傍証で在り得よう。
詰まり従来、吾人の誰もがそう考えていたに違い無いと、思われるのである。
 然るに近来改めて、再生医療や不妊治療等の分野に限って、忌避すべき事柄、神聖で侵さざるべき領域なのでは無いか否かに就いて、熟慮すべきであるとの風潮があるのは、利己心の塊である吾人であるからには、寧ろ当然である。
この風潮の存在理由は決して、困難さや対象の見え難さ等では無い。そのような事物はこれ迄、いとも容易く克服して来ている。
他の事物の生命は省みずとも、自らの生命の、而も根源的な部分に手を加えるのである、躊躇われる筈である。
 然れどそれも結局、一時の迷いに過ぎず、吾人は突き進む事に成るのであろう。
 何となれば古来凡ゆると云って良い程の、神話や宗教に、生まれ変わりや、再生、復活といった事態が、登場する。
神話も宗教も、人間の精神活動の結晶であり恐らくは、人類発祥の砌から共に在ったろう。
即ち今日の医学の在りようは発祥の砌から、吾人に依って冀われ信じられ、予言されて来たものと云って良かろうからである。(続く)