私は昨今のサポーターのように熱狂的ではないが、昔からのサッカーファンである。
サッカーは、スポーツとして原初的である。手を使ってはならない処など、吾人は四足歩行をしていた砌から、これで遊んでいたのではなかろうかと、思わせる程である。
音楽における太鼓の轟きのように、誰の心をも振わせる力を持っている。
アメフト等のように始終中断する事は無く、ルールもシンプルで解り易い。防具も道具も殆ど使わない分、身近でもある。
私の子どもの頃男の子の遊びは野球と決まって居た。兎に角暇さえあれば野球、野球であった。人数が足りないと、三角ベースと称して、二塁を省いてまで遣って居た。因みに、三角形であるのはダイヤモンドであるにも関わらず「三角『ベース』」は妙であるが多分「『三角』形のダイヤモンドでの『ベイス』ボール」の略されたものであろう。
兎も角矢鱈にルールのある野球に、面倒な事の嫌いな私は興味を持てず、女の子の後ばかり追いかけて居たのが祟ったのか、未だに独り身である。
それは扨置きサッカーは見て居ても解り易い。知らなければ知らないなりに楽しめる。
私等も、体験は体育の授業でしかしては居ないが、熱中するあまり、親指の爪を三回程剥いでいる。強引なインターセプトをするので、ボールより相手の脛に当たるが故である。為に爾後も二十年位、再生しては剝がれる、を繰り返されて困ったが、勿論自業自得である。
見る方では、故岡野俊一郎氏が解説していた「三菱ダイヤモンドサッカー」などが出色であった。一流の試合ばかりを、然もダイジェストで放送するのである。面白くない筈は無い。岡野さんのサッカー普及への意気込みも熱く、その懇ろな解説も、面白さを弥増していた。当時既にドイツ ブンデスリーガ等で活躍していた奥寺さんが映ったり、登場しなくても言及する際などは、岡野さんの声も心做しか誇らしげであった。
長髪を靡かせて駆け回りながら、どこか瓢々としていたアルゼンチンのマリオ・ケンペスなども印象に残っている。
他の番組でも、草分けたる奥寺さん程早い時代ではないが、矢張り日本サッカー界の魁ではある少年三浦さんが、ブラジルにサッカー留学する迄を追ったドキュメンタリーも、リアルタイムで見たものである。
野球をも凌がむ許りの隆昌の今、あの頃を省みると隔世の感がある。
(因に「FIFA」は普通「フィーファ」であり、岡野さんもそう発音していた。それなのにこれだけ英語の普及した昨今の日本で未だに「フィファ」と呼ばれているのは面白い現象である。)
そんな長くサッカーを見続けて来た私が思い知らせられ続けているのは誰もがそうであるように、男子日本チームの得点力の欠如である。
無論ジーコやラモス瑠偉、イニエスタ等錚々たる外国人選手の招聘等、斯界の先達の奮励努力の甲斐あって、今では日本のサッカーも、野球に比肩する人気を集めている。
同時に得点力を始めとする実力も付いて来ては居る。ワールドカップの決勝トーナメントへの進出等、嘗ては夢の又夢であった。それだけにそういう場面での弱点も目に付くようになって来て居る。
国内のチーム同士の試合なら、割合点を取り合って居て面白い。確かに何でも素人同士の方が面白い、という事はある。ボクシングなどでも、強者同士や、ヘビー級の試合は地味で、「違いの分からない者」にとっては退屈である。に対して縁台将棋などは、へぼである分、親しみを感じられて面白く、つい要らぬ口も出てしまい易い。そこでは誰もが「違いの分かる男」で居られるのである。
無論国内のサッカーでも、アスリート同士となれば、へぼ等では有り得ない。
それが国際試合と為った途端に弱くなってしまうのは、思えば不思議である。
昨今では外国人と然程違った物を摂っては居ない。昭和の前半辺り迄の様に、物珍しさからの異人アレルギーを持って居る訳でもない。
尤も外国の殆どの優れた選手に比べて、骨格や筋肉の今でも劣って居る事は一目瞭然であるが、それを原因と決めてしまったのでは、撫子の強さの説明が付かない。女性の方が攻撃的であるとしても、女性は女性同士で試合をするので、撫子と他国との間にその点での差は無い。
と成れば矢張り弱さの原因は、日本男子チーム特有の決定力の欠如という事になろう。
而して決定力の欠如を齎して居るものとては、ボールへの執着の欠如の他にあるまい。
無論意識下でそれの無い選手等居ない。問題は日本男子の下意識に累積した遺伝情報であり、具体的にはそこに宿る潔さ、諦めの良さ、執着心の無さであると云って良かろう。
外国人選手の外見上の優位点には体格の他にも、目の覚めるようなドリブル等、高い個人技の数々の保持があるがそれも畢竟は、外面に関わる遺伝情報に依る優れた身体能力と、下意識の遺伝情報に依る優れた勘やセンスの齎す処という事に成ろう。
然り乍ら、如何に高い個人技も、決定力の無い処では無益であろう。詰まる所、外面的に如何にも優れた外国勢が日本男子チームから、又外面的にはそうでもない撫子が外国勢から勝利を奪い得るのも、決定力に優れているからであり、換言すればゴールやシュートやボールへの執念に於いて優れているが故であると云って良かろう。
嘗ての日本男子チームの試合では、誰かがシュートを放つと、如何にも終わったという感じで、何か知ら空気の弛緩するのを感じさせられたものである。死力は尽くしたので、勝敗にはこだわらないという美しい潔さが出てしまって居たのであろうか。結果として波状攻撃が出来ない。8月20日のU-20女子W杯 、準決勝、イングランド戦でバーに弾かれた宮澤のミドルシュートに喰らい付いて流し込んだ遠藤のようなプレーが出来ない。
又泥臭くしつこい、7月15日のフランス相手の決勝戦の最後の最後で、GKロリスのトラップしたボールを押し込んだ、マンジュキッチのような真似も出来ない。
必然的に監督である西野さんの口からさえ、男子日本にとって最後の試合と為った、7月2日のベルギー戦の後の「覆されるとは思ってもいなかった」「ああいうスーパーカウンターを受けるとは予測していなかった」と云った言葉が、出て来る事に成った訳である。
斯かる点で選手や西野監督を責める事等出来はしない。
奥深くこびりついた遺伝情報の呪縛を免れるのは誰にとっても至難である。
我が石川に輝と云う力士が居て、私も陰乍ら応援して居る。真面目に稽古し生真面目な相撲を取るのであるが、力士の中でも有る方である上背が災いしてしまってか、腰が高く脆い負け方をする。
親方等からも指摘されようし、容易く幾らでも録画の見られる現代であれば、本人とて自身のそうした弱点を把握して居ないとは思われない。 把握した上で熱心に稽古を積んでも直らないのである。腰が高ければ腰を低くする稽古をして、常に腰を低くして構える様にさえすれば弱点の腰高は直る筈である。
併し言うは易く行うは難し。輝も又日本男子チームと同じく勝利の為にはならない遺伝情報の虜なのであって、意識下の認識や努力だけでそれを免れる事は容易ではない。然りとて勝利の獲得を諦める訳にも行かないと為れば、反復とその結果として獲得する習慣に依る遺伝情報の更新を目指す他は無かろう。然ればこそ誰もが只管反復練習に勤しむのであり、その方法の研究に励みもするのである。
そこで古典的サポーターたる私としても、その方法の考察を、試みない訳には行かない。
先ず何を措いても考えなければ成らないのは、固有の事物というものを変える事の可否と是非である。
具体的には、日本男子チーム固有の、美しい潔さを、縦令そうすれば勝利が得られるとしても、又仮にそうする事が出来るとしても、安易に放擲してしまって良いものであろうか。
私は、可であり是であると思う。というより可否も是非も無いと思う。
「固有の事物」の各が、総て本質的に不易であるとは言えないからである。
抑、或事物には不易性が在り、或事物にはそれが無い、又或事物にそれは在る様でも無い様でもある。
例えば吾人の梨と呼ぶ果実が木に生って居るとする。その梨は軈て落ちて腐るか、採られて食べられるかと云った定めにあるからには不易性が無く無常である。併し来年には又似た様な果実が生るから不易であるようにも見えるが、梨の木が何れ枯れてしまう物であるからには、その果実である梨の実も矢張り、滅びる定めにあって不易では無い様に思われる。
併しその梨自体は、或時は小さく、次第に大きく成長し乍ら色も変わって行く、と云った物ではあっても、どの時点に於いても飽迄梨ではある。
要するに、現実界に在って吾人の梨と呼んでいる物は、不易性が全く無い訳では無いが、刻々変化し所詮は滅びる定めの、無常の物である。
翻って言詞としての梨は、その指し示す物のそのようであるに拘らず恒に、(現実界ではそのように無常である)梨であって、不易である。
換言すれば現実界の如何なる事物に於いてもそれを表わす言詞は、言詞と云うものの総てが自己同一性を持っており、自己同一性の本質的属性の一つとして不易性があるという意味で、不易である。
言詞が自己同一性を持って居なければ、雑談一つ出来はしない。自己同一性を有する事は、言詞が言詞として機能する為の要請である。あの周知の梨が、或時は桃を意味し、或時には林檎を意味したりしたのでは、話にならない。因にここで「あの梨」で通じるのも、梨と云う言詞に自己同一性があればこそである。言詞が不易であると云っても、ナシがナチに成ったり、モモに成ってしまったりという変化を、する事が無いという意味では無論無い。言葉は生き物、現に種々の言葉が、目まぐるしく変わり続けている。験担ぎで「梨の実」が「有の実」と呼ばれるような変化もある。不易であるのは言詞の持つ自己同一性であって、言詞と雖もその持つ他の属性迄もが不易であるとは限らない。言詞も又或面では所詮、現実界を漂う事物の一つであって、ナチに成ったりモモに成ったりするのは、ナシと云う言詞の持つ他の属性が、なのである。而してナチはナチで、モモはモモで言詞としての自己同一性は飽迄持つ訳である。
生きて独り歩きし、勝手に変遷する上に多義を有するようにもなってしまい勝ちである言詞はそういう性質の所為で、創造者にして自在に使いこなして居る筈の吾人を、往々にして困惑させる。
「アイデンティティ」の意味も例外ではなく、本来の(と思われる。何故なら、小さい辞書で「アイデンティティ」を見ると、「同一である事」とある。言葉が多義的である事は多いが、辞書は小さい程その多くを載せられず、であるからには主なるものを選んで載せて居る筈であるから。)「同一である事」から「同一である事」の属性である「同一性」や、その一種の「自己同一性」が派生し、更にその「『同一性』の証と成り得る事物」迄もが次第に加わって来た様に見受けられるのである。
同一性が「甲は乙である(例えばこの山は富士山だ)」場合の甲と乙との関係が同一であるという性質であるのに対して、自己同一性とは「甲は恒に甲である」という性質の事であり、「『甲は乙である』は恒に『甲は乙である』である」という性質の事である。ここで「自己」の使われて居る事は、「自己同一性」の意味を非常に紛らわしいものにし、又違った意味を派生させてしまっている。
(従って自己同一性が言詞特有の事物であると、言い切る事も今の私には出来ない。)
ところで或事物の「『同一性』の証と成り得る事物」をその事物「固有の事物」と言い換える事に、無理は無かろう。
「サッカーの国際試合で勝つ為に、勝てる様に変わって行く事も必要だ。だが日本チームには日本チームのアイデンティティがある。それは失ってはならない。」等と云われる事がある。この場合の「日本チームのアイデンティティ」とは現実界の「日本チーム固有の事物(謂わば『らしさ』)」であり、「失ってはならない」事物とは言い切れないのである。勿論「失って良い」事物とも言い切る事は出来ない。
同様に言詞の、現実界の事物の一つとして持つ属性は変化し得るし,それを失う事の是非を断言する事も難しい。
それに対して言詞の自己同一性というアイデンティティは、失われてはならないと断言し得る。理由は前に述べた通り、それの失われてしまった言詞には、吾人にとっての有用性が無いという事である。
而して言詞の創造と使用の主が吾人であるからには、吾人にとって無用の言詞には存在する意義も理由も、吾人は見出せない。従って言詞は言詞として存在する為に、自己同一性を失ってはならないのである。
一方「日本男子チームらしさ」は、そのような宿命を負っては居ない。現実界の総てがそうであるように、有用性とも存在理由とも関わり無く、只存在しているのみである。それに容喙する事等誰にも出来ない。
抑現実界に不易の事物等在りはしない。而も有為転変する万物の中、人間の随意に成る事物等極僅かに有るに過ぎない。吾人は只、大気や水と同じく人の世にもある流れに押し流されながら、じたばた踠くのみである。
不妊治療も角界も、その在りようは同様の流れに乗って今に至っている。ハワイ出身の高見山の入門の時の騒ぎ等、今では夢の様である。サッカーの世界だけがそういう在りようを免れ得ると考える理由は無いのである。
免れようと指向すべき理由も無いかも知れない。
寧ろワールドカップの常連的な在りように迄成長した今の隆盛も、夢としか思われなかった濫觴に在ってその先の流れを見据えての努力により、踠き悩みつつも自身をも朋輩をも変化させ続けて来た先達の御陰であろう。
泥臭いリアクションとアピールのネイマールに勝つには、彼の泥臭さを凌駕する者が必要である。と云って皆がネイマールに為ってしまってもいけない。必要であるのはチームとしての多様性である。
その為に先達が数多の外国人を招き続けて来たからこそ、又こちらから積極的に国外に出て栄養を吸収し続けて来たからこそ、今が在るのである。
事実今のJリーグにも意外に多くの外国人選手が居る。彼等の存在をより生かす為に、報酬は全チームで拠出して彼等だけのチームを作るのも良かろう。いつもどこかのチームが彼等との、親善でも練習でも無い、真剣国際試合をする事に為る。チームに招き入れて内的刺戟を、完全に外に置いて戦う事で外的刺戟を受ける事が出来る様になるという訳である。
夏に蕎麦の垂を作った。早く冷蔵庫に入れようと、鍋の中の垂の真ん中に、垂が薄くなってしまわない様、袋に入れた氷を放り込んでみたが、いつまで経っても冷えない。しびれを切らして流水で外側から冷やすと何時もと違って外側には氷を使わなかったのに、あっという間に冷えた。嚢中の氷で実は或程度冷えていた上に、矢張り流水の力は強かったという事かも知れない。少なくとも内外両面からの刺戟の相乗効果で短時間で冷えた事は略確かである。
小さな方策も時として大きな成果を齎す。事実微に入り細を穿った、無駄な時間稼ぎをそうは見せない技術の追究等と云う、私の様な素人には想像も付かない事も日本男子チームでも行なわれているらしい。無理は無い。変わるだけではなく、変わる事で勝てるように為る為には、意識下に留まらない下意識での例えば、日本男子チームらしい美しい潔さの尊重の払拭と云った変化が必要でありそれは、生易しい事ではない。どんなに些細な事でも遣ってみるが良かろう。一流同士の試合であれば互いに綻が無い。一瞬の隙に付け入った方が勝てる。その時各の選手の中に在って各の選手を差配する力の大きいのは矢張り、意識下のよりは下意識の事物であろう。従って勝つ為には、種々の事物を反復により習慣付けて下意識に浸透させ、勝利の為に為る遺伝情報の獲得を目指すしかあるまい。気の長い話ではあるが、諦めては終わりである。練習段階での執念は既に実戦での、勝利への執念の一部を成して居るのである。
素人には些細に見える事物に左右される点は、どんなスポーツでも同じである。靴で苦しんだ紀平の事は記憶に新しい。卓球でも、ボールやラバーの僅かな差異が、斯界を知らない私等の、思い寄らない結果を齎すらしい。
スウェーデンオープンのシングルスで優勝した伊藤美誠も爾後の11月13日に言って居る。「練習で毎日中国の人に打ち込んで貰って居る御陰で、中国選手への恐怖感や厭だと思うような所が無くなって来て居る。」
PS
長いブランクもあったのに、お見捨てにもならず、お付き合い下さって、有難うございます。
皆様が佳い御年を御迎えになります様に、お祈り致します。