人間は生まれてから死ぬ迄戦い続ける事を余儀無くされていると云って良いかも知れない。
その為に下意識には戦闘というものが蟠って居て、武器への不可思議な興味の源泉と成って居るのであろうか。
赤ん坊と雖も病原体としての細菌と闘い、胎内で受け継いでしまった病と闘い、空腹や暑さ寒さや屎尿に依る不快感と闘っている。
座禅をすれば覆い被さって来る煩悩と闘う事に成ろう。野原に寝転んで漫然と青空に浮かぶ雲や、遊ぶ雲雀を眺めていても、藪蚊や蜂とは戦わずに居られない。
私等も常に何かと戦って居り、今朝も自身と闘って来た。
何年も走っているルートを走って来た。他に所用が無く数日続けて走って居ると、膝等の痛み始める事がある。何年経ってもそうである。
翻って何年続けて居ても、一向に楽には成らない。
山旅なども同様である。幾ら経験を積んでも初日には、始めた頃より楽に成って来つつあると思った事が無い。
重いザックを背負い、急坂を上る時等は、此の一歩で力が尽き、次の一歩は出せまいと思うが、不思議と又力は湧いて来る。
どこが辛いのであろうかと省みてみる。息苦しいような気はするが、肺や心臓に然程負担が掛かって居るような感じでもない。
喘息持ちで、吸入器と共に山歩きをしている友人もいる。
足は疲れているが、僅か一歩の為に然程の力が筋肉や関節を苦しめている様にも思われない。
まだ何時間も歩かなければならないとの心理的苦痛もあるが、細やかなものであり、どうしても厭なら登山等しなければ良いだけの話である。
すると登山やジョギングの苦痛は局部ではなく、心身の全体から少しづつ発して居るもの共の総体であるらしい。
だからこそ、一歩の為に全力を出し切った様でも、次の一歩を踏み出す事が出来るのであろう。
骨折等の為に局部に激痛が在ったのでは、出来ない事である。
山旅も含んだ旅と、人生とは良く相互に例えられるが、似た処ばかりでは無さそうである。
人生では時間が待ってくれない、人間は常に時間に追われている。
一方旅で待ってくれないのは空間であり、立ち止まって居る限り目的地には着かないのに対して時間の方は、
当事者が好きで設定したものであるに過ぎず、厭なら旅に等出なければ良いだけである。(因にこれは飽迄、拙い乍らレトリックである。
旅に於いても実際に吾人を追い立てるものは時間の方であって、立ち止まって居る時、時間の方も進むのを已めてくれるのであれば問題は無い。
実際は、立ち止まっている間にも時間は容赦なく過ぎて行き、暗く成っても目的地に辿り着けないからこそ困るのである。
畢竟は旅も後述のように、人生の一駒であるに過ぎず、従って旅と人生とが異質である事等在りはしない。)
併し相互に似通っている点も確かに在って、どちらに在っても人間は、何かと戦い続けて居るのである。
旅も人間の営為の一つであり、至極尤もな事ではあるが。
その為に下意識には戦闘というものが蟠って居て、武器への不可思議な興味の源泉と成って居るのであろうか。
赤ん坊と雖も病原体としての細菌と闘い、胎内で受け継いでしまった病と闘い、空腹や暑さ寒さや屎尿に依る不快感と闘っている。
座禅をすれば覆い被さって来る煩悩と闘う事に成ろう。野原に寝転んで漫然と青空に浮かぶ雲や、遊ぶ雲雀を眺めていても、藪蚊や蜂とは戦わずに居られない。
私等も常に何かと戦って居り、今朝も自身と闘って来た。
何年も走っているルートを走って来た。他に所用が無く数日続けて走って居ると、膝等の痛み始める事がある。何年経ってもそうである。
翻って何年続けて居ても、一向に楽には成らない。
山旅なども同様である。幾ら経験を積んでも初日には、始めた頃より楽に成って来つつあると思った事が無い。
重いザックを背負い、急坂を上る時等は、此の一歩で力が尽き、次の一歩は出せまいと思うが、不思議と又力は湧いて来る。
どこが辛いのであろうかと省みてみる。息苦しいような気はするが、肺や心臓に然程負担が掛かって居るような感じでもない。
喘息持ちで、吸入器と共に山歩きをしている友人もいる。
足は疲れているが、僅か一歩の為に然程の力が筋肉や関節を苦しめている様にも思われない。
まだ何時間も歩かなければならないとの心理的苦痛もあるが、細やかなものであり、どうしても厭なら登山等しなければ良いだけの話である。
すると登山やジョギングの苦痛は局部ではなく、心身の全体から少しづつ発して居るもの共の総体であるらしい。
だからこそ、一歩の為に全力を出し切った様でも、次の一歩を踏み出す事が出来るのであろう。
骨折等の為に局部に激痛が在ったのでは、出来ない事である。
山旅も含んだ旅と、人生とは良く相互に例えられるが、似た処ばかりでは無さそうである。
人生では時間が待ってくれない、人間は常に時間に追われている。
一方旅で待ってくれないのは空間であり、立ち止まって居る限り目的地には着かないのに対して時間の方は、
当事者が好きで設定したものであるに過ぎず、厭なら旅に等出なければ良いだけである。(因にこれは飽迄、拙い乍らレトリックである。
旅に於いても実際に吾人を追い立てるものは時間の方であって、立ち止まって居る時、時間の方も進むのを已めてくれるのであれば問題は無い。
実際は、立ち止まっている間にも時間は容赦なく過ぎて行き、暗く成っても目的地に辿り着けないからこそ困るのである。
畢竟は旅も後述のように、人生の一駒であるに過ぎず、従って旅と人生とが異質である事等在りはしない。)
併し相互に似通っている点も確かに在って、どちらに在っても人間は、何かと戦い続けて居るのである。
旅も人間の営為の一つであり、至極尤もな事ではあるが。