プーチン露大統領は、「ロシアに対する領土的野心を剝き出しにした日本のシベリア出兵は、世界中が仰天した一九九一年の[ソ連邦の崩壊]に匹敵する困難だった」(「ロシアから見た北方領土」 p100)ととらえている。シベリア出兵に関しては幣原喜重郎が、「米国政府より日本の行動の自由を認めた公文を取りつけて置いたから、これを機会として日本も面目を失することなく、直ちに撤兵し得られることになろうと考え、面目維持のため人知れず苦心したのである。しかるに陸軍はこれを悪用して、自由行動の権利を書面で取ってある以上遠慮はいらん。やれ、やれというので逆に多数の兵力増援を決した。こと志と違い、私の苦心惨憺たる思いやりも、全く水泡に帰して、かえって期待と正反対の方向に事態は進展した。しかも兵力を増援した結果は、いかなる有益な目的に役立ったか。ために多額の国幣を浪費して、いたずらに列国の疑惑を招くに止まった。前車の覆るは後車の戒めである。」(「外交五十年」 幣原喜重郎著 中公文庫 p105~p106)と書いており、旧陸軍の暴走がロシアの対日感情を悪化させる結果となった。
日本の言うABCD包囲網というのも間違いである。「泡沫の三十五年 日米交渉秘史」(来栖三郎著、中公文庫、p214~p216)には、『果せるかなこの度の戦争前、わが国が小林一三氏や芳沢大使を蘭印に派して、日蘭交渉を行った際にも、自分がその交渉に関った石沢総領事に確かめたところによると、オランダ側は石油の輸入量についても新油田の開発についても、日本の要求を全部容認したのであって、すなわち外務大臣の自分に対する口約を立派に果したのである。ただあの時、日蘭交渉が成立しなかったのは、ある種の物資に対する日本の要求が日本自身の所要推定量を超えているので、蘭印側としては当時オランダ本国を占領している敵国ドイツに転送されることを恐れて、その物資について日本自身の合理的所要推算量以上の輸出を拒んだためであると聞いている。もしあの当時、石油についてだけでも、日蘭協定が成立していたのなら、米国は自身の石油の売り止めはできても、蘭印石油の輸出まで止めさせるわけにはゆかなかったはずで、蘭印石油輸入年額数百万トンに関する限りは、「ジリ貧」は日本自身が招いた事態といわなければなるまいと思う。』と書かれている。第二次日蘭会商使節団の初代代表は阪急の創立者小林一三商工大臣で、「日本は三国同盟の有無に拘らず、万一、ドイツ側に敗色濃厚なる時は、之が援助に赴かざるべからず」と述べて蘭印との交渉を暗礁に乗り上げさせ(「戦争と石油(3) 『日蘭会商』から石油禁輸へ =v 岩間敏 石油・天然ガスレビュー 2010.3 Vol.44 No.2 p75)、交代させられた。また「泡沫の三十五年」には、来栖が通商局長のとき、日本は石油輸入業者である英米の石油会社に、一定量の石油を常に日本に貯蔵しておくことを命ずる石油業法を制定しようとし、苦慮した英米石油会社は石油業法の緩和を求めて副社長を派遣して交渉に当たったことが書かれている。「この交渉において米英石油会社側は、石油業法の貯油義務の代りに石炭液化の特許権を提供し、貯油義務の目標とする国防上必要な石油は、たとえば撫順炭のごとき豊富低廉な石炭の液化に求めることを勧めたのであるが、わが陸軍側はあくまで貯油義務を固執して一歩も譲らないので、交渉はついに不調に終わってしまったのである」(p217)。第二次大戦時、ドイツは液体燃料のかなりの部分を液化石炭から作った合成石油で賄っている。その後来栖がドイツ大使時代に「わが陸軍当局は石炭液化事業を計画し、ドイツから石炭液化の特許権を購入しよう企てて、ゲーリングの斡旋まで求めたのであるが、いかんせんこれらの特許権は、英米石油会社等との共有になっているのみならず、製造の各工程についていちいち特許権を異にしているような実情なので、ドイツの一存をもって各工程にわたって全部そっくり日本に譲渡することができないために」(p217)特許権獲得に失敗し、「人造石油事業に関しても、ジリ貧状態を招来したものはじつはわが陸軍自身なのである」(p218)と非難している。
また、『事前に海軍では、米国が対日戦争に出るとの判断と、覚悟があったようだ。小野田中佐(註・捨次郎・兵学校第四十八期)が永野軍令部総長に南部仏印進駐の決裁を受けに行ったとき、「これで戦争だな」といった(註・永野が)ことがこれを証明している。陸軍では海軍に比して甘かった。』(「凡将 山本五十六 その劇的な生涯を客観的にとらえる」 生出寿著 光文社NF文庫)と、日本の軍事組織のトップが米国は許さないだろうと自覚している行動を、日本軍は真珠湾攻撃の前にとっていたことになる。陸軍の読みの浅さが目に付く。
「アジア・太平洋戦争 戦争の日本史23」(吉田裕、森茂樹著 吉川弘文館 p284)には、『六月八日、モスクワの佐藤尚武大使は東京に対して、「独潰滅の今日ソ連として何を苦んでソ米関係を犠牲にしてまでも日ソ関係の増進を考ふべきや」と痛烈な批判の電報を送り、無条件降伏のほかはないと厳しい意見を開陳している(外務省編『終戦史録』新聞月鑑社 一九五二年)』とある。また「岡田啓介回顧録」(岡田啓介著・岡田貞寛編 中公文庫BIBLIO20世紀p246)では、小磯内閣の頃、ソ連に特使を派遣しようとしたが断られ、佐藤尚武大使はモロトフソ連外相から「今、自分はギリシャの哲学者の言葉を思い出した。万物は変わる、という…」と、その後の状況の推移を示唆する発言を聞いている。沖縄戦で軍服を脱いで変装して生き残った高級参謀の八原博通は著書「沖縄決戦 高級参謀の手記」(中公文庫 p293~p294)で、「大東亜戦争は美しい口実で開始されたが、畢竟支那事変の処理に困却し果てたわが指導グループがその地位、名誉、権力等を保持延長するための、本能的意欲から勃発したとも考えられる」と指摘していた。ソ連に対する日ソ中立条約違反の非難も、日本の指導層が自らの過失を隠蔽し、地位、名誉、権力を保持延長するためのものだろう。
『溥傑自伝 「満州国」皇弟を生きて』(愛新覚羅溥傑著 金若静訳 丸山登監訳 河出書房新社 p118~p119)には、ソ連参戦三日後の新京の様子が書かれている。『新京市民は市街戦のための塹壕を掘り、数々のバリケードもできていた。関東軍は大あわてで司令部と家族を移動させていた。(中略)関東軍に見捨てられた下級職員の家族や一般の日本人の家族は、大きな荷物を背負い、両手にもぶらさげて、酷暑の中を、次々に新京駅へと殺到した。この時、列車は軍に徴用されていたため、駅には列車がなかった。人の群れからは泣き声や罵声があがり、誰もが撤退の切符を手に入れようとしていた。一部の日本人が貨物列車の切符を高額で売りだしたが、それもあっという間に絶望した人びとが奪うように持っていってしまった。(中略)生き地獄そのものであった。私たち一行は警衛隊に守られ、プラットホームにあふれている群衆を無理矢理かきわけて専用車に乗りこんだ。彼らは羨望と怨恨の混じった目で私たちを見つめていた。「もう二日も待っているんです。お願いします。乗せてください。」「この子だけでも連れていってください。私はもう歳ですから死んでもかまいません。子どもは生かしてやって」憲兵は怒鳴って、哀願し列車にしがみつく人たちを力まかせに突き落とした。ようやく列車は動き出した。夜一時であった』。
東京五輪を誘致した時の首相、安倍晋三氏は早々に開会式欠席を発表、閉会式にも出席しなかった。新型コロナウイルス感染者の自宅療養は棄民政策と批判されている。防疫に失敗した厚生労働省をはじめとする日本政府も、メンツを保つために言い訳を繰り返し、関東軍のように民を見捨てて逃げだす算段をしているのだろう。
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