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2月2日の礼拝の内容です。

2025-02-01 20:06:00 | 日記
2月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.197.404.411.78.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/PhJ0ZtO4Jjw?feature=shareです。

礼拝説教      使徒14:1~7「神を頼みとして生きる」    2025.2.2

 2月の最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように皆様と共に神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。神のみ言葉によって、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと祈ります。

 先週の日曜日の礼拝後に教会懇談会を持ちました。いろいろなご意見を聞くことができました。感謝な時を過すことができました。この教会懇談会のテーマは「10年後の瀬戸永泉教会を考えよう」でした。長老会の話し合いの中で、次年度の計画や予算のことを考える時期になっています。その中で、教会員の高齢化の問題、教会予算の減少など、マイナスの要素が次々に出ている中で、現状を受け止めながらも希望を持って歩んでいきたいという願いから、そのようなテーマにしました。教会の10年後を考えることは必要なことだと思いますが、もっと身近な自分たちの信仰生活を深めることも必要だと考えます。私たちは、それぞれの人生の中で、イエス・キリストに出会い、信仰を持ち、教会生活を送っているのですが、その意味はどこにあるのでしょうか。私たち、自分たちの信仰生活を考えて、それが自分たちの人生の中でどのように生かされているのでしょうか。その点を、今日は考えていきたいと願います。

 私は、この礼拝の中で使徒言行録を読んでいます。これは、キリスト教の初めての歩みが書かれてあります。その中心は使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」です。イエス・キリストの福音がエルサレムから始まって、当時の世界の中心都市であるローマにまで及ぶことが書かれてあります。使徒言行録は全部で28章あります。1~12章は、イエス・キリストの福音がユダヤ人に向けて語られています。13~28章は、イエス・キリストの福音が異邦人に向けて語られています。使徒13章には、初めて、異邦人の教会がアンティオキアにできます。アンティオキア教会は祈りを持って、バルナバとパウロを伝道旅行に行くことを求めていきます。この伝道旅行の働きの動きは、聖霊によるものです。聖霊の導きに、アンティオキア教会の人々は祈りと按手を持って、2人を送り出していきます。第1回伝道旅行の始まりです。この伝道旅行は、バルナバの故郷のキプロス島から始まって、アジアに向けて進んでいきます。

 バルナバとパウロはキプロス島へ行き、伝道していきます。その後、船に乗って、ピシディア州のベルゲ、アンティオキアへと進んで行きます。この時もパウロたちは最初に、安息日にユダヤ人の会堂に行き、礼拝を守ってから、伝道を始めていきます。ここでは、パウロによる説教が語られました。ここでは、神の救いが新しい形で語られていくのです。それは今までユダヤ人たちが大切に守ってきたモーセの律法の本当の意味を語られています。それは、モーセの律法は、ユダヤ人たちは守ることができないこと、律法によって、自分たちが罪人であることを自覚させる働きであること、イエス・キリストの十字架の死と復活は、完全な罪の赦し、罪の贖いが行われ、人は、このイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって義とされること、救われることがいわれたのです。

 このパウロの説教を聞いた人々は、多くのユダヤ人や異邦人が、イエス・キリストを信じていきました。一方で、今までのことを大切にしてきたユダヤ人たちは、パウロの説教を受け止めることができず、間違いだとして、反対し、迫害し、攻撃していくのです。ユダヤ人たちの迫害によって、パウロたちは、アンティオキアの町を出ることになっていきます。そして、イコニオンに行くのです。ここが今日の聖書の箇所です。このイコニオンでも、パウロたちは、ユダヤ人の会堂に行き、そこでイエス・キリストの福音を語っていきます。その結果として、多くのユダヤ人やギリシャ人が信仰に入っていきます。ところが信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、パウロたちに対して悪意を抱かせました。つまり、イエス・キリストの福音を信じる者として、多くのユダヤ人がいたこと、また多くの異邦人がいたことが分かります。その一方で、反対する多くのユダヤ人たちや多くの異邦人がいたことが分かります。だから、ユダヤ人だから、教会を迫害するということではなく、異邦人だから福音を信じるということだけでなく、信じないで迫害する者もいたということです。そして、イエス・キリストの福音に対しては、信じる者と信じない者とに分けられたということです。ユダヤ人と異邦人の区別はあまりないということになります。

 パウロたちの宣教によって、多くの者が信じました。また、多くの者が信じないで迫害するようになっていきました。反対があってもパウロたちは、そこに長く留まって、主を頼りとするように勇敢に語っていきます。主は、パウロたちの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証していったのです。イエス・キリストの福音は、2つに分けてしまうものでした。町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人側に、ある者は使徒側についていくのです。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって、パウロたちに乱暴を働き、石を投げつけようとした時、パウロたちは、これに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に避難していきます。そして、そこでも福音を告げ知らせていきます。

 パウロによる伝道旅行を見ていきますと、絶えず、ユダヤ人の迫害が起っていきます。それは、使徒7:54~60にあるステファノの殉教の記事を読んでいくとよく分かっていきます。ステファノはユダヤ人に対して、イエス・キリストの福音を語っていく中で、ユダヤ人の罪を明らかにしていくのです。その前のステファノのユダヤ人に対する強い言葉があります。

使徒7:51~53
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。

 このステファノの言葉を聞いたユダヤ人たちの反応は、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしました。ユダヤ人たちは大声で叫びながら耳をふさぎ、ステファノに目がけて一斉に襲い掛かり、都の外に引くずり出して石を投げ始めていきます」とのようになってしまいました。ユダヤ人たちがそれまでずっと大切なこととして守ってきたことを完全に否定されてしまったからです。ユダヤ人にしてみれば、自分たちが守ってきたことは完全に間違っていた。モーセの律法を守ることはできない。神がモーセを通して、ユダヤ人に与えたことは律法によって、罪の自覚を生じるためだったといわれて、受け止めることができない。そして、あなた方が神の子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのだといわれて、逃げる場を失ってしまい、使徒たちに黙れというしかなかったのです。イエス・キリストの十字架の福音を受け止めるためには、聖霊の働きが必要です。人間の力や知恵によっては受け止めることはできないのです。聖霊によって、信じることができたステファノは、次のような信仰を持つことができています。ユダヤ人から石打ちにあっている中で、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を仰ぎ見ることができ、「天が開いて、人の子が神の右の手に立っておられるのが見える」といったのです。ユダヤ人が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」それからひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んでいます。そして、ステファノは眠りについていきました。殉教していきました。

 パウロは、このステファノの殉教を目の前でみています。後のパウロの回心に大きな意味を持っていったと思います。私たちの信仰生活では、それぞれの人生の最終章に、このようなステファノのような信仰を持つことができるのです。私たちはそれぞれの人生の最後に、どのような時を持つことができるかを知ることは難しいこともありますが、このようなステファノの信仰を持っているはずです。死を前にして、聖霊に満たされて、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を仰ぎ見るのです。自分の声で「天が開いて、人の子が神の右の手に立っておられるのが見える」というのです。そして、最後に「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」いい、神の御国へと行くのです。私たち1人1人が、そのような神の御国を待ち望み、神の御国で、イエス様が待っておられることを確信しています。そのような神の御国を待ち望む、私たち1人1人が持っていって欲しいと願います。神の救いの確信を、身近にいる家族に伝えていって欲しいと願います。

祈り 神よ、あなたをこのように礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロが語るイエス・キリストの十字架の死と復活の福音、それがステファノの殉教の時にように、神の御国を仰ぎ見て、歩むことができる信仰を改めて知ることができました。私たち1人1人が、この神の御国へと招かれるという信仰を持ち、確信し、それぞれの人生を、信仰生活を全うすることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。



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