930年、醍醐天皇の崩御に伴い、即位したのが8歳の寛明親王。
第61代朱雀天皇です。
母の中宮・藤原穏子は怨霊を恐れ、匿うように育てられたそうです。
幼帝のため、伯父・藤原忠平が政務をとります。
その朱雀天皇の時代、関東で戦が起こります。
「平将門の乱」です。
この時代、地方の政治は国司まかせ。
国司は一定の税を朝廷に納めていれば良かったのです。
なので国司が勝手に税率をかえ、高い税を民から徴収。
一定の税を納め、残りは自分の懐に・・・・・。
こんな状態では、地方の治安は悪化していきます。
そのため、民は身を守るために武装し始めます。
武士です。
その武士をまとめていたのが、国司をして地方に下った清和源氏や桓武平氏です。
平将門の祖父で桓武天皇の曾孫・高望王は、平氏の姓を賜り、
上総国の国司として赴任します。
しかし任期後もその地に居座り、勢力を拡大し、武士団を形成するようになります。
その子・良将が亡くなると、相続争いが起こります。
935年に平将門が叔父を殺害。
939年には従弟・平貞盛の引渡しを常陸国府が断った為、将門は国府を攻撃。
国府を攻撃され、朝廷が軍を挙げます。
将門は関東の国府を次々に攻撃。
国司を追放し、ついに「新皇」と自らを名乗ります。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、派遣しますが、
軍が到着する前に、将門は地元の武士・藤原秀郷と平貞盛に討たれてしまいます。
「平将門の乱」が起きた年、瀬戸内海でも「藤原純友の乱」が起きます。
藤原純友は藤原北家の血統を継ぐ、中級貴族でした。
父・良範を早くに亡くしたため、中央での出世を諦め、
地方官の伊予掾(いよのじょう)の任務に就きます。
伊予掾として、瀬戸内海で強奪を働く海賊の鎮圧を行っていましたが。
自身が海賊の首領となり、海賊行為を指揮するようになってしまいました。
朝廷は追捕使長官・小野好古、追捕使主典・大蔵春実、
征西大将軍・藤原忠文に純友の征伐を命じます。
940年、伊予国警固使・橘遠保によって、本格的な追討が行われ、
純友と息子の重太丸父は捕縛され、処刑されます。
この二つの反乱を合わせて「承平・天慶の乱(しょうへい・てんぎょうのらん)」といいます。
関東と西国で同時に発生した事件で、
公家政権の統治力の衰えを象徴する出来事でした。
次は・・・・「安和の変」
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