710年、藤原京から平城京に遷都。
この後、平安京に遷都する794年までを奈良時代といいます。
712年、天武天皇の命で編纂されていた「古事記」が完成、献上され、
翌713年には「風土記」の編纂が命じられます。
715年、元明天皇は老いを理由に退位、太上天皇となり、
娘・氷高皇女が即位します。
第44代・元正天皇です。
結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇です。
元正天皇は文武天皇の同母姉。
この時、文武天皇の皇子・首皇子は13歳頃。
まだまだ即位するには幼い、ってことで、再び中継ぎの女帝が誕生したわけです。
皇位継承権利のある皇子は、天智天皇の皇子・天武天皇の皇子を多くいたわけですが、
皇位を我が子に・・・という持統天皇の思いがここにも続いているわけです。
さらに首皇子の母は、藤原宮古。不比等の娘です。
不比等の「藤原の血を皇統に」という願いもあったわけです。
さて、元正天皇の時代、日本の正史である「日本書記」が720年、完成します。
時同じくして、不比等が病の床につき、左大臣に皇族である長屋王が就任。
長屋王は父は天武天皇も第1皇子・高市皇子で、
母は元明天皇の同母姉・天智天皇皇女で御名部皇女。
妻は元正天皇の妹・吉備内親王。
もっとも皇位に近い人物で、皇親勢力の中心人物でした。
724年、伯母である元正天皇の譲位を受け、首皇子が即位します。
第45代聖武天皇です。
一説には、
次の皇位に、血統確かな「長屋王」を押す派と、
藤原の血を引く「首皇子」派があったといわれます。
即位した聖武天皇の妃(夫人)は、藤原不比等と後妻・県犬養三千代の血縁で押さえられていました。
安宿媛(あすかべひめ)は 藤原不比等と後妻・県犬養三千代の娘ですし、
県犬養広刀自は、三千代のはとこの孫、
他の夫人も藤原不比等の孫や三千代の孫が嫁いでいます。
どの皇子が皇位についても、二人の後ろ盾が入ることになるのです。
しかし事件が勃発します。
724年、聖武天皇が母である藤原宮古を「大夫人」と称するとした勅を発します。
これに異を唱えたのが、長屋王。
「大夫人」という尊称は、存在しない尊称でした。
それに該当するであろう尊称は「皇太夫人(=天皇の生母、前天皇の夫人)」で、
「大夫人」を使うという勅は、制定された律令(法)を曲げることになります。
聖武天皇は一旦撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、
口頭での言葉は「大御祖(オホミオヤ)」とする詔を出して事態を収拾しました。
これを「辛巳(しんし)事件」といいます。
この事件を発端に、長屋王(皇親勢力)VS藤原四兄弟(不比等の子)の対立が激化します。
藤原氏側は、臣下出身の生母に、特別な称号を与え、
格式を高めようとしたのではないかと考えられます。
727年、聖武天皇と藤原光明子の間に待望の第一皇子・基皇子が誕生。
生後32日で立太子しますが、翌年、夭折します。
この幼すぎる死は、長屋王の呪いだと噂が立ち、
聖武天皇も疑心暗鬼になります。
長屋王は先代天皇・元明天皇の信頼も厚く、皇位に最も近い人物。
聖武天皇や産まれたばかりの第二皇子・安積親王(母は非藤原氏)に何かあった場合、
天皇の叔母・吉備内親王が産んだ長屋王の子どもたちに、
皇位が繋がることも、ありえるわけで。
729年、「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」という密告を受け、
軍勢が長屋王の邸宅を包囲。
長屋王は妃・吉備内親王や子どもたちの首を絞め、
その後、服毒自殺します。
長屋王は無実の罪だったといいます。
この一件を「長屋王の変」といいます。
この事件後、聖武天皇の妃の一人、安宿媛を皇后とするという詔が出されます(光明皇后)。
王族以外から立后された初めて例であり、
この後続く、藤原氏の子女が皇后となる先例となります。
次は・・・・・・「仲麻呂の乱」
<歴史入門シリーズ>