842年、承和の変が起こり、第54代 仁明天皇の皇太子だった
淳和天皇の皇子・恒貞親王は廃され、仁明天皇の第1皇子・道康親王が立太子します。
道康親王の立太子に関わったのが、藤原良房でした。
良房の妹・順子が仁明天皇に嫁ぎ、道康親王が生まれたためです。
850年、甥・道康親王が即位(第55代 文徳天皇)。
858年、文徳天皇が崩御すると、娘・明子と文徳天皇の間に生まれた惟仁親王が、
わずか9歳で即位(第56代 清和天皇)。
良房は外戚となり、政治の実権を手に入れ、摂政に就任します。
そんな中の886年、応天門の変が起こります。
伴氏が建てた応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行と告発。
良房の取成しで、源信の嫌疑は晴れました。
(源信は嵯峨天皇の皇子。臣籍降下で源氏)
放火犯は伴善男だと、目撃者が現れ、伴一族は流罪となります。
事件後、源信と右大臣・藤原良相が相次いで亡くなり、良房は朝廷の全権を手に入れます。
承和の変、応天門の変で、伴氏・橘氏・藤原式家の勢力をもぎ取り、没落させ、
また天皇に娘を嫁がせ、外祖父として政治基盤を整えたのです。
下の図でも分かるように、藤原家は天皇家との姻戚関係を結び、力をつけていきます。
系図:桓武天皇~陽成天皇-藤原家との関わり-
娘を皇室に嫁がせる手法は、この後、藤原北家の伝統となり、
天皇の代理者・補佐者としての地位を手に入れます。
これが摂関政治の始まりです。
次は・・・・・「寛平・延喜の治」
<摂関政治 関連記事>
まだ未投稿です。
<歴史入門シリーズ>
こちらからどうぞ→目次 -歴史入門-