歴史入門シリーズ<15>から<18>までを
もっと簡潔にまとめてみました。
詳しくは「歴史入門シリーズ」、またはその関連記事をみてください。
772年、井上内親王と他戸親王がその地位を廃され、
翌年に立太子したのが、光仁天皇の第1皇子・山部親王。
第1皇子でありながら、生母・高野新笠の身分が低いことから、
皇位継承に程遠い場所にいました。
その山部親王を立太子させる為に尽力したのは、
藤原不比等の孫・藤原式家の藤原百川でした。
781年、光仁天皇の譲位で山部親王が即位(第50代 桓武天皇)すると、
翌月には出家していた同母弟・早良親王を還俗させ、皇太子にたてます。
784年には平城京で勢力の強い奈良仏教各寺の影響力から逃れるため、
長岡京を造営し、遷都します。
しかし長岡京遷都の翌年には、早良親王が謀反に加担したとして、廃太子・流罪となり、
天災や近親者の不幸が立て続けに起こり始めます。
それを回避するため794年、山城国に平安京を築き、遷都します。
時代は奈良時代から平安時代にうつります。
806年、桓武天皇崩御。
第1皇子・安殿親王が同日、践祚(せんそ)し、即位(第51代 平城天皇)。
これ以降、天皇が崩御すると、まず践祚(=位を受け継ぎ)し、
その後、内外に位に就いたことを知らせる即位式を行うようになり、現在まで続いています。
病弱でしたが、即位後は政治に意欲的に取り組んでいましたが、
809年、天皇が発病。
在位わずか3年で弟・神野親王(第52代嵯峨天皇)に譲位し、太上天皇となり、
旧都・平城京に移り住みます。
810年、元気になった平城上皇は、愛妾・藤原薬子とその兄・仲成の介入で、
天皇位への復位を試みた「薬子の変」が発生。
上皇は剃髮・出家し、藤原薬子は自害。
これにより嵯峨天皇の皇太子に立てられていた上皇の第3皇子・高岳親王は皇太子を廃され、
平城・嵯峨天皇の異母弟・大伴親王が立てられました。
この時代、遣唐使に参加した空海・最澄による「平安仏教」が花開き始めます。
823年、嵯峨天皇は譲位し、大伴親王が即位(第53代 淳和天皇)します。
833年、淳和天皇は嵯峨天皇の第2皇子・正良親王に譲位(第54代 仁明天皇)。
仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女・仁明天皇の同母妹)の間に生まれた、
恒貞親王を皇太子に擁立します。
嵯峨上皇による大家父長的支配のもと、30年近く政治は安定していましたが、
840年、淳和上皇が崩御し、842年に嵯峨上皇が重篤・崩御すると、
皇太子・恒貞親王を擁立する派と
仁明天皇の第1皇子・道康親王を擁立する派が対立。
皇太子派の伴健岑と橘逸勢は逮捕され、流罪。
恒貞親王は責任を取る形で皇太子を廃されます。
これを承和の変といいます。
事件後、道康親王の伯父にあたる藤原良房(藤原北家)は大納言に昇進し、
道康親王が皇太子に立てられます。
この事件により、藤原北家は権威を確立し、
後の藤原道長に繋がる藤原氏繁栄の基礎を築いたわけです。
駆け足ですが、以上が<まとめ・4>です。
<歴史入門シリーズ>
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