ちょっと歴史入門<まとめ・4>

2013-09-02 20:39:12 | ちょっと歴史入門

歴史入門シリーズ<15>から<18>までを

もっと簡潔にまとめてみました。

詳しくは「歴史入門シリーズ」、またはその関連記事をみてください。

 

 

772年、井上内親王と他戸親王がその地位を廃され、

翌年に立太子したのが、光仁天皇の第1皇子・山部親王。

第1皇子でありながら、生母・高野新笠の身分が低いことから、

皇位継承に程遠い場所にいました。

その山部親王を立太子させる為に尽力したのは、

藤原不比等の孫・藤原式家の藤原百川でした。

 

781年、光仁天皇の譲位で山部親王が即位(第50代 桓武天皇)すると、

翌月には出家していた同母弟・早良親王を還俗させ、皇太子にたてます。

 

784年には平城京で勢力の強い奈良仏教各寺の影響力から逃れるため、

長岡京を造営し、遷都します。

しかし長岡京遷都の翌年には、早良親王が謀反に加担したとして、廃太子・流罪となり、

天災や近親者の不幸が立て続けに起こり始めます。

それを回避するため794年、山城国に平安京を築き、遷都します。


時代は奈良時代から平安時代にうつります。


806年、桓武天皇崩御。

第1皇子・安殿親王が同日、践祚(せんそ)し、即位(第51代 平城天皇)。

これ以降、天皇が崩御すると、まず践祚(=位を受け継ぎ)し、

その後、内外に位に就いたことを知らせる即位式を行うようになり、現在まで続いています。

 

病弱でしたが、即位後は政治に意欲的に取り組んでいましたが、

809年、天皇が発病。 

在位わずか3年で弟・神野親王(第52代嵯峨天皇)に譲位し、太上天皇となり、

旧都・平城京に移り住みます。

 

810年、元気になった平城上皇は、愛妾・藤原薬子とその兄・仲成の介入で、

天皇位への復位を試みた「薬子の変」が発生。

上皇は剃髮・出家し、藤原薬子は自害。

これにより嵯峨天皇の皇太子に立てられていた上皇の第3皇子・高岳親王は皇太子を廃され、

平城・嵯峨天皇の異母弟・大伴親王が立てられました。

 

この時代、遣唐使に参加した空海・最澄による「平安仏教」が花開き始めます。

 

823年、嵯峨天皇は譲位し、大伴親王が即位(第53代 淳和天皇)します。

833年、淳和天皇は嵯峨天皇の第2皇子・正良親王に譲位(第54代 仁明天皇)。

仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女・仁明天皇の同母妹)の間に生まれた、

恒貞親王を皇太子に擁立します。

 

嵯峨上皇による大家父長的支配のもと、30年近く政治は安定していましたが、

840年、淳和上皇が崩御し、842年に嵯峨上皇が重篤・崩御すると、

皇太子・恒貞親王を擁立する派

仁明天皇の第1皇子・康親王を擁立する派が対立。

 

皇太子派の伴健岑と橘逸勢は逮捕され、流罪。

恒貞親王は責任を取る形で皇太子を廃されます。

これを承和の変といいます。

 

事件後、道康親王の伯父にあたる藤原良房(藤原北家)は大納言に昇進し、

道康親王が皇太子に立てられます。

この事件により、藤原北家は権威を確立し、

後の藤原道長に繋がる藤原氏繁栄の基礎を築いたわけです

 



 駆け足ですが、以上が<まとめ・4>です。

 

 

 

 

<歴史入門シリーズ>

こちらからどうぞ→目次 -歴史入門-




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