645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿・蝦夷親子を倒し、
天皇中心の中央集権体制を築くべく、改革を行いました。
これが前回の大化の改新です。
時の天皇は第36代孝徳天皇。
中大兄皇子の母・皇極天皇の同母弟で、叔父にあたります。
孝徳天皇は都を難波長柄豊碕宮に移し、皇后に姪である間人皇女(皇極天皇の娘)を立てました。
しかし皇太子となった中大兄皇子と不仲だったといわれ、
653(白雉4)年、皇后・母后(皇極天皇)を連れ、大和に帰ってしまい、
公卿大夫や百官までもが、大和に帰ってしまいました。
失意のうち、翌654(白雉5)年、孝徳天皇は崩御します。
655年、再び皇極天皇が即位します。
第37代斉明天皇です。
一度、退位し、再び即位することを重祚(ちょうそ)といい、
譲位・重祚は皇極(斉明)天皇が初です。
660年には同盟国・百済が唐と新羅の連合軍に敗れ、滅亡。
百済の皇子・徐豊璋を送り、百済復興を助ける為、筑紫に滞在。都も朝倉橘広庭宮に移します。
しかし661年、斉明天皇が筑紫で崩御します。
即日、中大兄皇子が即位せず、政務をとります(これを称制(しょうせい)といいます)。
斉明天皇の亡骸を伴い、大和に帰ってきます。
663年、百済復興の為、参戦していた戦(白村江の戦)で大敗し、
667年、都を近江大津宮に遷都します。
一説には、大和の地では攻められやすいため、遷都したとあります。
翌668年、中大兄皇子は即位、第38代天智天皇の誕生です。
白村江の敗戦後、政治改革に着手。
唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれます。
皇太子に弟・大海人皇子をたて(皇太弟)、皇后には古人大兄皇子の遺児・倭姫王を立てますが、
天智天皇は実子・大友皇子を太政大臣に付け、政務の補佐を取らせます。
誰もが、「天皇は大友皇子に皇位を譲りたい」と考えているのが、分かるほど。
大友皇子の母の身分は低く、皇位を継げる資格はありませんでしたが、
唐の文化にならった嫡子相続を天智天皇は目指していたのです。
また近江大津京への遷都は、豪族や民衆に新たな負担を与え、大きな不満を生みます。
遷都したばかりの頃、火災が多数発生。
豪族・民衆の不満の現れだとされています。
そんなこんなで、天智天皇は病臥し、大海人皇子は大友皇子に皇太子を譲ると宣言し、出家。
吉野宮に引きさがります。
672年1月、天智天皇が崩御すると、大海人皇子は挙兵。
7月に近江側と大海人側が激突しますが、近江側はやぶれ、
翌日、大友皇子は縊死します。首を吊ったんです。
当時に身分の高い人が自害するときは、毒杯を飲むのが普通でしたが・・・・。
この後、大海人皇子は、都を飛鳥に戻し、即位します。
第40代天武天皇です。
大友皇子は第39代弘文天皇として、現在は歴代天皇に加えられています。
日本書記には大友皇子が天皇位に就いたという記録はなく、
実際、近江宮で即位したのかは、不明です。
ただ、日本書記の編纂の命がでたのが、天武天皇の時代。
時の権力者の力で、即位の事実は葬られたのかも知れまん。
天智天皇の皇后・倭姫王が政務と取っていたという説もあります。
これが国内で最古の内乱・壬申の乱です。
次回・・・・・「白鳳文化」
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