ちょっと歴史入門<9>壬申の乱

2013-04-04 12:58:51 | ちょっと歴史入門

645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿・蝦夷親子を倒し、

天皇中心の中央集権体制を築くべく、改革を行いました。

これが前回の大化の改新です。

 

時の天皇は第36代孝徳天皇

中大兄皇子の母・皇極天皇の同母弟で、叔父にあたります。

孝徳天皇は都を難波長柄豊碕宮に移し、皇后に姪である間人皇女(皇極天皇の娘)を立てました。

しかし皇太子となった中大兄皇子と不仲だったといわれ、

653(白雉4)年、皇后・母后(皇極天皇)を連れ、大和に帰ってしまい、

公卿大夫や百官までもが、大和に帰ってしまいました。

失意のうち、翌654(白雉5)年、孝徳天皇は崩御します。

 

655年、再び皇極天皇が即位します。

第37代斉明天皇です。

一度、退位し、再び即位することを重祚(ちょうそ)といい、

譲位・重祚は皇極(斉明)天皇が初です。

 

660年には同盟国・百済が唐と新羅の連合軍に敗れ、滅亡。

百済の皇子・徐豊璋を送り、百済復興を助ける為、筑紫に滞在。都も朝倉橘広庭宮に移します

しかし661年、斉明天皇が筑紫で崩御します。

即日、中大兄皇子が即位せず、政務をとります(これを称制(しょうせい)といいます)。

斉明天皇の亡骸を伴い、大和に帰ってきます。

 

663年、百済復興の為、参戦していた戦(白村江の戦)で大敗し、

667年、都を近江大津宮に遷都します。

一説には、大和の地では攻められやすいため、遷都したとあります。

668年、中大兄皇子は即位、第38代天智天皇の誕生です。

 

白村江の敗戦後、政治改革に着手。

唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれます。

皇太子に弟・大海人皇子をたて(皇太弟)、皇后には古人大兄皇子の遺児・倭姫王を立てますが、

天智天皇は実子・大友皇子を太政大臣に付け、政務の補佐を取らせます。

誰もが、「天皇は大友皇子に皇位を譲りたい」と考えているのが、分かるほど。

大友皇子の母の身分は低く、皇位を継げる資格はありませんでしたが、

唐の文化にならった嫡子相続を天智天皇は目指していたのです。


また近江大津京への遷都は、豪族や民衆に新たな負担を与え、大きな不満を生みます。

遷都したばかりの頃、火災が多数発生。

豪族・民衆の不満の現れだとされています。


そんなこんなで、天智天皇は病臥し、大海人皇子は大友皇子に皇太子を譲ると宣言し、出家。

吉野宮に引きさがります。

 

672年1月、天智天皇が崩御すると、大海人皇子は挙兵。

7月に近江側と大海人側が激突しますが、近江側はやぶれ、

翌日、大友皇子は縊死します。首を吊ったんです。

当時に身分の高い人が自害するときは、毒杯を飲むのが普通でしたが・・・・。

 

この後、大海人皇子は、都を飛鳥に戻し、即位します。

第40代天武天皇です。

 

大友皇子は第39代弘文天皇として、現在は歴代天皇に加えられています。

日本書記には大友皇子が天皇位に就いたという記録はなく、

実際、近江宮で即位したのかは、不明です。

ただ、日本書記の編纂の命がでたのが、天武天皇の時代。

時の権力者の力で、即位の事実は葬られたのかも知れまん。

天智天皇の皇后・倭姫王が政務と取っていたという説もあります。

 

これが国内で最古の内乱・壬申の乱です。

 

 

次回・・・・・「白鳳文化」

 

 

<壬申の乱 関連記事>

ちょっとまって・・・・・-阿武山古墳-

夏・・・そして秋-談山神社-

王者の墳墓-天智天皇陵-

 

 

<歴史入門シリーズ>

ちょっと歴史入門<1>先史時代

ちょっと歴史入門<2>倭国大乱

ちょっと歴史入門<3>空白の4世紀

ちょっと歴史入門<4>倭の五王

ちょっと歴史入門<5>古代国家の成立

ちょっと歴史入門<6>豪族の台頭

ちょっと歴史入門<7>乙巳の変

ちょっと歴史入門<8>大化の改新

ちょっと歴史入門<まとめ・1>

 



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