
今、自分に満足をして生きている人にとって、福音を聞くことは、実際には楽しいことではないだろう。
だって、彼らにとっての楽しい人生が、永遠の滅びに向かっていることを知らされるのだから・・。それは癌の告知を受ける以上に苦痛なことであろう。
救いに至る門は狭く、魂の死という十字架を通らなければならないことを知るからである。
だから、聞かなかった事にするか、割り引いて聞くことになる。
このようなわけで、福音を聞いたことがないという人も、実際は多くは耳にしているのである。
語る方も、耳に心地良い言葉を聖書からつまみ出したり、賢そうな豆知識を披露したり、救いの原点である十字架にスポットライトを当てないようにする。
しかし、神の言葉は直覚によって受け、サムエルのように真っ直ぐに語らなければ、聞いた人に福音は成就しない。
「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」(Ⅰコリント1:17)
しかし、自身に癌のような罪の自覚や、痛みを持っている者には、やっと自身の問題の正体を見たことで、解決の糸口を見つけ安息に至る。
そこに示された福音は、まさに待ち望んでいたことであり、罪による苦痛からの避け所、情けない自己からの脱出の道であるから、喜んでキリストに聞き従うことを決心する。
決心した者をイエスは助けてくださる。どんな駄目人間であっても、必ず彼の願いを聞き入れてくださる。それは人の力に拠ることではなく、神の備えによるからである。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6:6)
ハレルヤ!