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ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。(ヘブル2:1)
大切なことは「誰から聞いたか」ということ・・、それはイエス様に聴いたことば。イエス様が成就してくださった聖書の言葉。
何に押し流されないようになのか・・、イエスさまが成就してくださったわざに、人の努力を付け加えるような流れに押し流されないように、恵みに留まっていることだと思う。
真実な主はおことばを、しるしと力あるわざによって、また、聖霊のたまものによって証してくださった。そう、人にはこのことが必要なことをご存じだから・・。
神様による一方的な祝福を受けたことが書かれている。
「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」(ヘブル2:6~8)
イエス様の事が書かれているのか、人のことであるのか・・私にはわからないけれど、今、信仰によって主とひとつにされているのだから・・、(だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。Ⅰヨハネ4:15)
同じ事でもあると思う。畏れおおくあろうとも、主のものは私のものなのだから・・。
しかし、私たちはその完全な勝利をまだ見てはいない。ただ、すべてをご自身において成就してくださったイエス様の事実を歴史において見ている。だから、この方によって私たちは約束の栄光を受けることができる。
イエス様は私たちと同じように血肉をもって人の子となってくださり、そのいのちを持って救い出してくださった。このことはすでに完了している。
なんと・・、死の恐れに縛られた悪魔の奴隷から、神の子とされる栄誉にあずかっているのだ。
造り主である主は、ご自身を否むことが出来ないご真実なお方だから此処に私たちの平安がある。
これらを得ていてもなを安息しないから、主は祝福したくても出来ないのでなはいかと思う。
もし、頑張っている者を祝福するなら彼は「神は憐れみ深い」とは言わず、「私の良い行いによって神は祝福してくださった」と言うだろう。主は彼に間違ったメッセージを送ってしまうことになるから・・。
神様はすべての子供たちをどれほど祝福したいと思っておられることだろう!ご自身のしるしを現したいと思っておられることだろう・・。
イエス様の祝福を受けたのは十字架上の罪人(ルカ23:42~43)であり、子を亡くして泣いている母親(ルカ7:13~15)であり、叫ぶこともできない盲人(ヨハネ9:1~7)であった。彼らは間違いなく「神は憐れみ深い」というだろう、彼らにはその言葉しかないのだから・・。