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ゲラサ人の男は悪霊につかれて墓場に住み自分自身を傷つけていた。鎖でさえもつなぎ止めることができず、誰も彼をつないでおくことができなかったとある。
それは異常な話しのようであるけれど、自分の家があるのに落ち着いて住むことができず、自分自身を追い込んで傷つけてしまう有様は、今の世にはありふれた出来事に思えた。
墓場に住むということは、必ず訪れる死に対して何の手段も持たない人の様でもある。
イエスさまによって悪霊から解放された男は「お供をしたい」としきりに願ったとある。
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。(ルカ8:39)
見知らぬ所に出掛けてではなく、彼は自分の家に帰って住み、身近な町に自分の身に起こったイエスさまのわざを語ったのだ。それは言葉によっても語るだろうけれど、家に穏やかに住んで居るという存在によっても伝わることであろう。
キリストの救いを受けた者の「国籍は天にある。」(ピリピ3:20)
必ず造り主なる神様の元に帰ることができる身の幸いは、世の中に於いて自分の状況がどうであろうと些細なことなのだ。もし、世にキリストの救いの道具として用いられるならそれはとても名誉なことである。
救いの基礎は、イエス・キリストによって賜った十字架のあがない。その救いは一方的な恵みを謙遜に受けることである。
救われた男はもう決して墓場に住むことはなく、すでに天に永遠の住まいを持っているのである。