
その言葉は、早くに両親を亡くし、味方のいない孤独な人生のなかで、なにがあろうともひねくれ者にはなりたくないと、ことさらに愚かしく思えるような選択さえして、抗してきた過去、しんどくてあまり振り返りたくない過去を思い出させたから・・。
でも、メッセージの間しらけていたわけでもなく、のめり込んで聴くこともあったのだけれど、時々どうしようもなく嫌になることがあった。そのような感情を引きずっていたのだけれど、きちんと向き合わずに放置していたので、年末にはもう動けなくなってしまった。
お前はイエスさまではなく人に頼ろうとしている、組織に頼ろうとしている、礼拝に通うその行いにおいて結局は宗教をしているだけではないかと、巧妙な罠のような思いに囚われていった。
疑問に勇気を持って真っ正面から取り組み、忍耐強く話し合おうとするよりは、私はさっさとその場を後にして問題から逃げ出すことが多かった。コミュニケーションの不器用さもあって、話す言葉の力が信じられず、人に信頼することができない弱さをもったいたから。
これからはひとりで居よう・・ひとり主に聴こう・・主だけを頼りとして、その日その日を過ごそうと決めてみたけれど、一方で私はちっともひとりではないことにも気づかされた。
家族に助けられ、許され、わがままさえも聞き入れられている状況の中だったので、「何がひとりで・・」なのかと考えさせられ、主がこんな者の家庭さえも守って下さることへの恐れもあった。
一方で、主にある家族とは誰なのか・・。それは誰が選ぶのか・・。そのような問いかけが深いところで広がっていった。
そんな折り、教会の姉妹が訪ねて来てくださった。礼拝を休んでからずっと会いたいと思っていた方だったのでとても嬉しかった。ひとりでいるのは正直寂しかったから、お顔を見たら一度に心が緩んでしまった。
人は本当に一人では居られないことを今更再認識させられ、頂いた百合の花が日ごとに大きく開いてゆくのを見ていると、主の備えて下さったやわらかな愛を見るような気がして、無条件に心がほぐされて行った。
私は、主の忍耐によってこんな時でも守られているではないか・・私は決して「心の直ぐな者」ではない。私はどこから救われたのかそれを考えようと・・
ひとり一人にいろいろな言葉を用いて語りかけることは主のお導きであり、それはすべて主の赦しの中にあることなのだと・・。
私には机からこぼれ落ちるパンくずをいただくだけの者であることをわきまえなければならないと思う。
saltさんはよく言われる「メッセージを吟味してください・・」と・・、みことばのパンは完全で純粋であるけれど、机からこぼれたパンくずには、塵や埃がつくことがあるだろう。また、拾う私の手も汚れている。
聖書の文脈の中に、すべてのみことばを通して流れるイエスさまを、互いの足を洗い合うという中で受け取らなければいけないのだった。
メッセンジャーに一方的に依存してしまうと、自分で埃を払うことさえしないで、パンの味も分からなくなるほど一片の塵にかき乱されてしまうこともある。
いつの間にか、自動的に私好みのメッセージを口に入れて下さるという、そんなことを期待していたのかも知れない。
また、聖書の翻訳にもいろいろと問題があるという・・、そんな不完全な言葉を通してイエスさまのあがないは伝えられるのだけれど、私たちにはイエスさまを明かしてくださる助け主がいてくださる。
すでに、イエス・キリストの十字架によってバベルの呪いは解かれているのだから、自分の傷なんかに閉じ込められていないで、積極的に礼拝に参加して行こう。
しばらく礼拝を休んでいたけれど、出席した日そんな私をsaltさんご夫妻は笑って赦してくださった。
礼拝後に、京都に引っ越しをされた聾のご夫妻のお宅にお祝いに行かれると言うことで、私も姉妹方に付いて行かせていただいた。ご馳走になり、時の経つのも忘れて盛り上がってしまって、k姉妹が家まで送って下さらなかったらシンデレラになってしまって主人に怒鳴られるところだった。どこが「ひとりで・・」なんだろうと、我ながらあきれる結末となってしまった。
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