
主に命じられ、イサクを捧げて山を下りて来たアブラハムたちは、登って行った時とは違っていた。彼らの価値はまるで違う・・。
捧げられたイサクは主のものとなり、主が彼を養い守られる。アブラハムも主を第一にした者として祝福の中に住む。
このことが試練なら、それは聞き従うものにとっては大きなチャンスでもある。確かに主は良い方であるから・・。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)
アブラハムがイサクを主の御手に渡したことによって、その子孫も主の庇護を受ける者と成った。
そうして今、その祝福は私たちにまで至っている。歴史のその時に主に従順する者が、主のご計画には必要なのである。
いや、すべてのキリスト者の従順によって、祝福の主のご計画が成就して行く事になるのだから・・
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:6)
問われているものは、「私」を忘れて主のご計画を生きるのか、それとも「私」の計画、または感情のままに生きるのかという選択である。
その選択はその場限りのことではなく、長く歴史に変化をもたらせるものだと思う。目の前のことではなく、まだ見てはいないけれど、主の良いご計画に信頼することができる者は、キリスト者だけであり、内に宿す聖霊によって生きる者だと思う。
主の完全な愛の中に私の愛する者を託すには、聖書から知って居り、また信頼した日々の恵みから、主がどのようなお方であるかをよく勘定に入れることが大切である。
動機は主に対する信頼であり愛であるけれど、しかしそのことを成し遂げるエネルギーは信仰に基づく計算であるから・・。
私が握り締めれば私の貧しい愛に閉じ込め、私が主におゆだねすれば豊かな主の愛を受けることになる。
人は決して完全な親にも、子にも、友にもなれない。しかし、主に託する時、主の完全なご計画が彼らの上に備えられる。
これこそ主を証して、主の栄光を現すもの。私たちはそれを見て共に主を喜び、感謝していよいよ主によって祝福の中を歩むことができるのだから・・。
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。
こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル11:19~20)