全焼のささげ物を、自分勝手な場所で献げないように気をつけなさい。
ただ主があなたの部族の一つのうちに選ばれる場所で、あなたは全焼のささげ物を献げ、そこで、私があなたに命じるすべてのことを行いなさい。(13~14)
聖い捧げものは神から発したみことばへの従順であり、それによって神が備えてくださった祝福を味わうのである。
人から出たものはすべて神の基準とは違っていて汚れており、人となられたキリスト以外誰も神の基準を知らないゆえである。
しかし、あなたの神、主があなたに下さった祝福にしたがって、あなたのどの町囲みの中でも、いつでも自分の欲するとき動物を屠り、その肉を食べることができる。汚れた人もきよい人も、かもしかや鹿と同じようにそれを食べることができる。(15)
神は、ひとり子の御子さえ賜るほどに愛深く、気前の良い方である。ご自分に来る者をキリストの血潮に洗いきよめ、神の子として永遠の交わりの中に置いてくださっている。
命の必要をすべて満たし、日々に聖霊の導きによって永遠のいのちを守り、キリストに在る祝福を味合わせ、主を喜び楽しむ食卓を備えていてくださる。
今は、信じる者にも信じない者にも命の必要を地上に備えておられる。人に等しく分け合う愛と知恵があるなら神の備えは完全である。
朝毎に祝福のみことばを味わうことは、松阪牛の味わい勝って、何時までも消えることの無いいのちの豊かさと満足を経験させ、創造主なる神の甘さを霊と魂のうちに保たせる。
主の備えてくださったものは、霊、魂を養い、体をも養う健やかな食事の喜びであり、それを家族で楽しむ事が出来る。それは主を喜んで今日を元気に生きる力となる。
主にたまわった食物を、家族のために料理することは愛の表現であり、自分のために作ることも主に在る命を養って自分を愛することとなる。自分の命を愛さない者は人をも愛せないのである。
食事の度に命の主を覚え、準備した人への感謝を繰り返し表現することとなり、交わりを深めつつみこころを行う命を養う恵みの時となる。
ただし血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。(16)
キリストは聖い血潮を十字架に注ぎ出され、すべての人類の罪を洗って死んで墓に葬られた。その血は人のいのちの代価であり、その血によって買い取られたものは、信じる者の永遠のいのちである。
キリストが罪をあがなって死んでくださったことを信じ、キリストの死と復活を自分のことと告白する者は、神のさばきである永遠の滅びから救われている。
キリストの十字架はすべての人類の罪をあがなったものであるが、それを否定する人は自分からその恵みを捨て去ったのである。ひとり子の命を差し出すほどの愛を否定された神の怒りは、此処に極まるのである。
ただ、あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みの中にいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。(18)
主の一方的な恵みによって救われた者は、その命をキリストに委ねて永遠をたまわっている。
この世には日々に、あんなことやこんなことがあり、それらに支配されて命を終えるようになっているが、キリスト者が生きるのは、キリストという永遠のいのちのバリアーの中である。
日ごとに聖霊が語られる祝福のみことばを聴く交わりの中で、今日みこころに命を燃やすことが出来るのは、何という光栄であり、なんと望みに溢れたことであろう。
平凡に思える日であっても、すべてのことを主に聴くなら主の喜びをたまわっている。
「神より発し、神によって成り、神に至る」喜びである。造られたものが、みこころに叶って生きるほどに目出度いことがあろうか。これ以上の命の満足が他にあろうか。
あなたは一生、あなたの土地でレビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。(19)
自分の力により頼む者は、いつも自分より劣るものを見つけて安心をする。レビ人の働きは、レビ人だけが知ることであり無知は彼らを軽んじる。
主に身を預けるレビ人を重んじることは、みことばに従ってのみ出来ることであり、主に仕える人々のために祈り続けることは祝福である。