さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。(1~3)
人は善悪知識の木の実を食べた賢さを持っている。それは自分を高め誇るための道具となった。誰よりも賢くなって他を支配したいと願うようになり、ついには力を合わせて神を出し抜こうとするほどに・・。
彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」(11:1~4)
世でよく聞く「世界が一つになる」というスローガンが、強い力によって達成しても平和が訪れることはない。そこに働く力が神の愛によるものではなく、それが起こる時は終末のしるしと黙示録に書いてある。
そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」(5~7)
神を排除して一致団結のお祭り騒ぎは、自分たちの力に陶酔する肉の働きである。そのようなサタンからの力は、再び地を滅ぼさなければならないほどに成長するものである。
仮にそれを止めようとする人が居ても、人の心には美しくも楽しくも見えるそれらは、もう止めようがない。
主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。(8~9)
それはキリスト者の間にもあることで、みことばよりも人の何かを大切にする組織は神が散らされるだろう。
聖霊によってみことばに真実であろうとする者は、ひとり一人が神との平和を持っており、みことばに従順する個々によって、キリストのからだが建て上げられて行く。
さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。(Ⅰコリント1:10)
キリスト者にとって「皆が語ることを一つにする」これを実現するものは、唯一みことばである。みことばに従順する者が、共にみことばを考えることに一致する所では、キリストが中心におられる。それによって、皆キリストのからだの各器官として一つなのである。
それは皆が同じことをするのでもなく、それぞれのタラントに応じた働きをして、キリストの体を建てあげて行くことである。
どんな塔よりも遥かに高い、天に至るキリストの栄光のからだが立つのである。