
口がきけない霊につかれた人を弟子が癒せなかった時、イエスさまは弟子の不信仰を嘆かれた。
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(マルコ9:19)
「では、弟子はどうした良かったのだろう・・」と一緒に読んでいた息子がつぶやいた。
私たちには出来ないことばかりの中で、ただ主に依り頼み、主と居るだけだではないか・・と話した。
その中で、私たちにキリストのわざを見せて「あなたは神のキリストです」と告白をさせてくださる。
ただ、いつかイエスさまと同じ嘆きを味わうことがあるだろう・・、その時イエスさまが忍耐をもって愛してくださったことを思い出し、感謝にあふれて主のくびきを負うようになるだろう。
すべての戒めを守っているという金持ちの青年が、神の国を求めて「何をしたらよいでしょうか」と尋ねたとき、イエスさまは言われた。
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)
青年は悲しんで去って行き、イエスさまは言われた。
「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:25~27)
「青年はどうしたら良かったのだろう」と息子は言った。
イエスさまが金持(人)にはできないことが、「神にはできる」と言われた。青年は財産を処分できない(このことはイエスさまは初めからご存じであった)自分を、イエスさまの憐れみに置くべきであった。
青年は「出来る方」に留まるべきであった。絶対に去って行ってはいけない。出来ない自分をイエスさまのお側に置いて、なをみことばを聴き続けるべきであった。神の国を求めて粘るべきであった。
「何をしたら・・」と彼は言ったが、神の国は人の行いによって入れる所ではない。
唯一イエスさまによるのだから・・、主に居ることによってのみ可能なのである。
金持ちが神の国に入れないのは、金の力(マモン)によって神の国を求める熱心が削がれるからである。財産への執着は、その力が永遠に続くと勘違いしてのことである。
イエスさまは捧げたものの百倍をこの世で受けると言われ、後には永遠のいのちを受けると約束された。青年も留まって良く聞けば、こんなうまい話は無いとわかるのである。
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。(マルコ10:29~30)
この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」(マルコ7:26~28)
イエスさまは彼女の娘を癒された。主は交渉の余地を残してくださって居る。私たちが少し謙遜なら、交わりを喜んでくださるお方である。主のお側で求め続けるなら得るのである。私たちを忍耐強く導いてくださる。
なにしろ私たちの造り主であり、もっとも良く知っていてくださる最高の教師なのだから・・。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(ルカ11:9)