「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、」
と書かれてある。とうとうと流れる流れに踏みいることは恐かろう・・そのことは身を捨てないと踏み込めない。
しかし、その前にモーセが手を出すだけで海の水は分かれ、乾いた地となってイスラエルを渡らせた。その主の働きを知っているのだからと次の信仰に導かれる。ご真実な主は私たちが塵に過ぎないこともごぞんじだから、信仰の学びはとても細やか。
信仰は成長しなければならない。岸部に立って水の引くのを待っていては、敵に連れ戻されてしまうばかり。
踏み出さないことは主を試みていること、「出来るものなら、この水が引くところを私に見せてください。」と繰り返していること。
主は弱さの中に完全に働いて下さるお方だけれど、次なる手段を懐に準備して「あなたが見せて下されば・・」などという者に応えては下さらない。
なぜなら、その人は決して弱くはなく十分賢いのだから。その賢さで生きることを許される。
信仰は未知の深み。未知の深みに立ち入ることはとても恐い。
ただ、導く真実なお方を知っているから、その御声を聞き覚えているから、その甘さをみことばから知っているから・・慕わしさのあまり飛び込んで行く。
それは、もう私のコントロールは何も効かない。すべての賢さも、心にあるはかりごとも、死に向かう者のように捨て去って、愛する方に飛び込んで行く。
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「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)