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イエス様は度々宗教者の招きに応じて、食事を共にされる。イエス様にとって決して楽しい所ではないであろうに。しかし、このことにイエス様の約束の民への執着が感じられる。主は招かれればその所に行き教え諭される。聴くために招く者は幸いである。
安息日の癒しは続く、主は彼らの安息日の偽りを暴露して考える時を与えようとされた。主が私たちを暴露されるのは恥をかかせるためではなく、諭してくださっているのであり、悔い改めのチャンスを備えてくださっているのである。
それは主の私たちへの執着である。真実なお方は無視することができないからである。
イエス様は時に命じて癒し、触れて癒し、抱き寄せて癒し、流れ出る力によって癒される。その方法はいつも同じではない。主は人を同じには造られないように、癒しも後のケアも期待し下さる計画もそれぞれである。それは一人ひとりをそれだけ細やかに知っていてくださるからである。
私たちも日々、色々なことを計画し実行する。主に拠り頼んで生きる者が、過去の成功にそのまま倣うことは罪を犯すことである。
それは主により頼まず経験によっているからである。そこに主はおられない。たとえどんなに小さな事であっても、私たちが日毎に新しく聴かず自分により頼むなら主のみわざを見ることはない。
「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。(出エジプト17:6)
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」(民数20:8)
主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数20:12)
このことはただ、モーセが過去の成功に一度倣っただけである。しかし、主は「わたしを信ぜず」と言われた。
自分の経験により頼むことは主を抜きにしていることであり、重大な結果となる。
私たちが聴くなら、イエス様は何時も細やかに新しい言葉を語ってくださる。その計画は完全である。それは主の緻密なご計画だから、些細なことから不信仰が入ることがないように注意して、日々御前に座るべきである。
新しい言葉を聴かなければ、私たちは安全に祝福の中を歩むことは出来ないのである。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。(エレミヤ29:11~12)