久しぶりのバラトンそぞろ歩きである。 国道8号線を走る機会があり、バラトン湖畔からは
40 km ほど離れているが、ヴェスプレーム郡内であることより取り上げることにした。
国道から城の姿が確認できないことで、これだけの古城を見逃していたこともある。
謂わば、大きなサプライズであった。
● 大昔の火山活動によって出来たショムロー山 (Somló-hegy)、国道8号線より。
Mar. 14 2019
● 海抜431mの山は玄武岩で覆われ、麓には葡萄畑が広がるワインの名産地でもある。
南方角の国道8号線から見ると城の存在は判らない。 Apr. 26 2019
<ロケーション>
ショムロー城 (Somló vár) .... これ以降の画像は、Apr. 26 2019 に撮影したもの。
1352年の古文書より、城はモンゴル(タタール人)のハンガリー襲撃後に出来た石造りの砦
であったのが起源である(14世紀の初期であろう)
フランスのアンジュー家出身のラヨシュ大王の時代1370~1380年の間には皇帝の城として使わ
れていた期間もあった。 1389年にルクセンブルグ出のジグモンド王は、領主Garai家に城を
与えた後、所有者が幾たびか替わった。
15世紀後半にEger の司教 Támás Bokócz が、現在の姿のイタリア・ルネサンス様式の城に
新しく造り替えた。 それは3方が崖で囲まれた難攻不落な城であった。
<1707年、ラーコーツィ独立戦争当時の城構造>
城に到達するまで玄武岩の山道を1時間ほど昇り降りする。
南方向が城の入口で、敵はこの方角からしか攻め入ることが出来ない。
北側城壁
東側城壁(下は険しい断崖に繋がる)
NHK大河ドラマ「真田丸」に登場した上田城に似ていないだろうか。 千曲川に接する断崖
を利用した天然の防御力、徳川勢38,000人の大軍を2度にわたり撃退した地方のいち弱小大名
の山城。 1583年真田昌幸による築城は時代的にも近く、興味深い因縁らしさを感じてしまう。
1543年にオスマン帝国軍は唯一の進路であったこの草原(古戦場)で3,000人という兵士を失い
撤退を余儀なくされた。 この先更に北へ2kmほど山中に城があり難攻さが窺える。
結局、城はオスマン帝国軍に墜ちることはなかったが、1653年の第2回モハーチの戦い以降
オーストリア帝国の手中となり、ラーコーツィ (Rákócz) 独立戦争後(1711年)は、廃墟と
なり現在に至る。
城の内部
● 城入口;
● 城の通路;石壁には攻撃用の小窓が開けられており、こちら側だけの防御に集中できた。
● 城中庭;
● 城共用棟;
● キッチンの煙突内部;
● 北側監視塔跡;麓の村はショムローソーローシュ (Somlószőlős)
傍らに興味ある形状の石(人間の顔のようにも見える)
城から見える景色
● 北西の方角;
● 北東の方角;麓の村はドバ (Doba)
● 東の方角;黄色は菜の花畑
付属
● 聖マルギット礼拝堂 (Szent Margit kápolna)
向こう下が国道8号線、更に向こうがバラトン湖。 城へはここから徒歩。
● 城へ通ずる途中にある聖イシュトヴァン展望台 (Szent István Kilátó)
● 山に生息する色鮮やかな小さなトカゲ(山守かな?)
これにて「バラトンそぞろ歩き 古城(8)ショムロー城跡」は、お終いです。
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