いよいよドナウ川もハンガリーをトータルで416km流れ下り、別れを告げる所に差し掛かった。
1.トゥッル・イシュトヴァン橋 (Türr István hid)
ハンガリーの東部地方から西部地方へドナウ川を渡る最後(南端)の橋が、バヤ (Baja)
に架かる、鉄道と一緒になった歴史ある、情緒ある(あった)橋である。
Nov. 10 2018
橋が出来たのは1908年で、小生が最初に渡った時は鉄道とクルマ道が離れた木造の橋
であったように記憶していたが、今の橋は1998~1999年に大改造されたそうである。
ドナウは、この時期は水の量も少なく、穏やかに南下し、モハーチ (Mohács) へと向かう
2.モハーチ (Mohács) の渡し
モハーチには橋がない為、フェリーが対岸までの100 mほどを30分ごとに運航。
手前岸がモハーチの河畔 Nov. 10 2018
ドナウ川は写真右方向に流れ、Duna-Dráve 国立公園の深い森の中を15 km ほど進み、
クロアチアに引き継がれる。
3.モハーチの戦い
歴史には「タラとナラ」は付きもの、もし1526年に若き国王ラヨシュ (Lajos) 2世が
トランシルヴァニア軍、ハプスブルク軍、ボヘミア軍等のキリスト教国連合軍の援軍をもう
少し待ってからモハーチの戦いを始めていたら、もし百戦錬磨のベテラン国王であったなら
ハンガリーは今頃は超大国であったかも知れない。
ハンガリーにとって非常に大きく歴史を動かした戦いが、ここドナウ河畔にあるモハーチで
オスマン帝国軍と死闘が繰り広げられた。
● 第1次モハーチの戦いの戦場
ハンガリー第33代国王ウラスロー (Ulászló) 2世はポーランドのヤゲロー家の出でボヘミア
国王も兼ねており、1514年にトルコへの侵攻を十字軍として画策していたが、2年後に病死。
その後を継いだのが息子のラヨシュ2世で10歳という若さであった。
オスマン帝国の皇帝スレイマン1世はチャンス到来とばかり、1521年にはハンガリー領土の
ベオグラードを奪取し、1522年にはロドス島で十字軍を壊滅し、1526年8月29日には
モハーチで天下分け目の戦いが始まったわけである。
キリスト教国連合軍は敗れ、ラヨシュ2世は20歳という若さで戦場に散ってしまった。
以後、ハンガリー王国は実質上、1867年のオーストリア/ハンガリー二重帝国が発足するまで
消滅する結果となった。
“戦闘記念の丘” 入口 Nov. 10 2018
数多くのトーテンポールが立ち並ぶ内部の広場
ラヨシュ2世の木像と向かい合うオスマン帝国スレイマン1世の木像
何を意味するのか趣味の良くない像もある。 どちらの国の意向が反映されたものか??
● 第2次モハーチの戦いの戦場
1683年7月の第2次ウィーン包囲攻撃で敗れたオスマン帝国軍は、ハンガリーをじりじり
敗走し始め、1687年8月12日に二度目のモハーチの戦いが始まった。
大宰相サン・スレイマン・パシャ(*)率いるオスマン帝国とロレーヌ公シャルル5世が
率いる神聖ローマ帝国の間での戦いであって、今度はオスマン帝国の敗北であった。
以降、オスマン帝国は徐々に衰退し始め、1922年には完全に滅亡してしまった。
一方、ハンガリー国王は神聖ローマ帝国とハプスブルク帝国が兼ねることになり、
事実上ハンガリーの主権は消滅してしまうことになる。
Nov. 10 2018
記念碑は道の片隅にこれだけ。この戦いでのハンガリーの関与が少なかったためかも?
*参考;第1次モハーチの戦いの立役者スレイマン皇帝(後に大帝と呼ばれる)は、
1566年にペーチ (Pécs) の西にあるシゲットヴァール (Szigetvár) という所で
この時点では既に病死している。
<シゲットヴァールにあるハンガリー/トルコ友好公園> Feb. 02 2008
向かって右の像がスレイマン大帝、左はズリーニ・ミクロシュ(この地の城主)
4.ブショウ・ヤーラーシュ (Busójárás)
モハーチと云えば、もう一つ忘れてならないのが、日本(秋田県)にもある「なまはげ」に
似た、毎年2月に行われる祭事である。 その由来には2つの言い伝えがあると云われている。
① 冬将軍を脅かして追い払い、春を待つ祭り.... これが時節からも妥当だと思うが
② オスマン帝国の侵攻でモハーチの住民は街を逃れ付近の森の中に逃げ込んだが、ある夜
ショカツ人の老人が現れて「嵐の夜に覆面の騎士が迎えに来るので、恐ろしい仮面を被って
出来るだけ大きな音を立てながら街に戻れ、そうすれば無事に家に帰ることが出来る」と
告げて何処へとなく姿を消した。 数日後の嵐の夜に騎士が現れ、お告げの通り家に戻れた
という説 ..... 個人的にはこちらの方を採用したいところだが。
Feb. 03 2008 Feb. 22 2009
ショカツ人(クロアチア人の一派)の祭事の為、地元の人ばかりでなく近郊のセルビア
やクロアチア等の周辺国からも祭りに参加する。
祭り最大のイベント、各地域団体の民族舞踏コンテスト Feb. 03 2008
会場のセーチェーニ広場では観衆も輪になって踊り出す。
5.モハーチ (Mohács) の教会
● 誓約教会 (Fogadalmi templom)
モハーチの戦場記念教会で1929年にビザンチン様式で建てられたカトリック教会(受胎告知)
Feb. 03 2008
● 市教区教会 (Belvárosi templom)
街の中心部に1766~1770年に建てられたバロック様式のカトリック教会(聖ミハエル教会)
Nov. 10 2018
塔は1783年に追加され、1909年には聖ステファンと聖ラズローの彫像をファサードに設置
聖ラズロー像 聖ステファン像
教会身廊部
● フランシスカン教会
1724~1771年にバロック様式でフランシスコ会の修道院として建てられた。
Nov. 10 2018
街のランドマーク(最も高い建造物)である。
これにて「ドナウ河岸歩き(10)は、お終いです。
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