毎年、12月に入ると「今年の・・・」という言葉が目に付き、耳に届く。
今年の漢字も早々と発表された。「命」に決まった。
命という字を口と令に分ける考え方がある。口は人間特有の言葉を用いて伝達しようと思い立つと活躍する体の一部である。令は「天皇の令」と言うが上からの命令という意味が込められている。二つを一つに纏めて、改めて命という字にして考えると「天からの命令で生きている状態」が自然に想像できる。だから、命とは生物が生きて行く為のもとの力となるものだという事になる。
京都東山の清水寺にある奥の院のご本尊・千手観音菩薩に、今年の世相を反映させて「命」という字を本堂に奉納する儀式が12月12日に行われた。
珍しく、ひとつしかない命の重みや大切さを噛み締めてこの一年を過ごしてきた私には命について私なりの説明を付ける事が可能である。
平成18年の年明けは先ず「命」に泣いた。昨年暮れに余りにも哀しくてやりきれない訃報を真夏のオーストラリアから受け取ったのである。兄とも慕った人は私の留学には欠く事が出来ない。暫らく続いた闘病生活の末にクリスマス前に他界した彼は私にいっぱいの涙を流出させた。心臓の梗塞がかけがえのないコートニーの命を奪った。数日後、東京発の私からの訃報は愛犬ゴールデン・レトリバーの突然死、悪性リンパ腫瘍が主な原因だった。クリマスイブの日、愛すべきドックは命を天に委ね、昇天した。
次に私は「命」に不安を覚えた。今年に入ってリハビリにリズム体操を加えた。リズミカルに無理なくストレッチ体操を組み込んだプログラムは私の身体にとてもいい感じを齎した。だが、一方、外部からの刺激にとても敏感な私の右側はこの秋から、痺れで反逆を起こし始めた。毎日、大奮闘している私を蚊帳の外に置いた痺れ強行軍には手加減という言葉がないらしく、遠慮なしに襲ってくる。そして私には不安がいっぱい押し寄せてくる。脳外科医はシャアシャアとした顔で「脳とは関係ないからね」と簡単に答える。整形外科医は? 「論外!」と言って苦笑いする。慣れた医者とは斯くも情が薄れた関係になるものだろうか。いいよ! 自分で答を出すから、と膨れる私が頼もしい。数ヶ月すると、リズム体操の影響とも結果とも言える動きが少しずつ出て来たという事は否めない。痺れは強くてもバランスがかなりいい感じの歩行だと言う結果が出た。これは北里の療法士が私に実験しているものから出た結果である。彼はプロセス及びレザルトを簡単に解り易く報告レポートにして私にくれると約束してくれた。「命」の不安と言うのはオーバーかもしれないが、私は真剣に悩んでいた。だが、ここ暮に来て不安は走り去ろうとしている。また、新しい不安が湧いてくるだろうが、これは生きている証拠だと言える。
私個人的には、戌年も終盤を迎えて「命」に笑いを付き添わせて終えようとしている。とは言うものの私の母は大晦日に亡くなっているし、愛犬ドックはクリスマス・イブに最期を迎えているのだから、油断は禁物である。ところで、愛犬を語った本は念願かなって戌年に出版できる事になった。我が家歴代のお犬様のエピソードもふんだんに取り入れたので、戌年生まれの犬大好き人間だった亡き母も色々な場面で出場している。昨年末は涙で愛犬を見送ったが、今年は笑みを添えて愛犬の命を天国に預ける事が出来そうだ。
今年の漢字も早々と発表された。「命」に決まった。
命という字を口と令に分ける考え方がある。口は人間特有の言葉を用いて伝達しようと思い立つと活躍する体の一部である。令は「天皇の令」と言うが上からの命令という意味が込められている。二つを一つに纏めて、改めて命という字にして考えると「天からの命令で生きている状態」が自然に想像できる。だから、命とは生物が生きて行く為のもとの力となるものだという事になる。
京都東山の清水寺にある奥の院のご本尊・千手観音菩薩に、今年の世相を反映させて「命」という字を本堂に奉納する儀式が12月12日に行われた。
珍しく、ひとつしかない命の重みや大切さを噛み締めてこの一年を過ごしてきた私には命について私なりの説明を付ける事が可能である。
平成18年の年明けは先ず「命」に泣いた。昨年暮れに余りにも哀しくてやりきれない訃報を真夏のオーストラリアから受け取ったのである。兄とも慕った人は私の留学には欠く事が出来ない。暫らく続いた闘病生活の末にクリスマス前に他界した彼は私にいっぱいの涙を流出させた。心臓の梗塞がかけがえのないコートニーの命を奪った。数日後、東京発の私からの訃報は愛犬ゴールデン・レトリバーの突然死、悪性リンパ腫瘍が主な原因だった。クリマスイブの日、愛すべきドックは命を天に委ね、昇天した。
次に私は「命」に不安を覚えた。今年に入ってリハビリにリズム体操を加えた。リズミカルに無理なくストレッチ体操を組み込んだプログラムは私の身体にとてもいい感じを齎した。だが、一方、外部からの刺激にとても敏感な私の右側はこの秋から、痺れで反逆を起こし始めた。毎日、大奮闘している私を蚊帳の外に置いた痺れ強行軍には手加減という言葉がないらしく、遠慮なしに襲ってくる。そして私には不安がいっぱい押し寄せてくる。脳外科医はシャアシャアとした顔で「脳とは関係ないからね」と簡単に答える。整形外科医は? 「論外!」と言って苦笑いする。慣れた医者とは斯くも情が薄れた関係になるものだろうか。いいよ! 自分で答を出すから、と膨れる私が頼もしい。数ヶ月すると、リズム体操の影響とも結果とも言える動きが少しずつ出て来たという事は否めない。痺れは強くてもバランスがかなりいい感じの歩行だと言う結果が出た。これは北里の療法士が私に実験しているものから出た結果である。彼はプロセス及びレザルトを簡単に解り易く報告レポートにして私にくれると約束してくれた。「命」の不安と言うのはオーバーかもしれないが、私は真剣に悩んでいた。だが、ここ暮に来て不安は走り去ろうとしている。また、新しい不安が湧いてくるだろうが、これは生きている証拠だと言える。
私個人的には、戌年も終盤を迎えて「命」に笑いを付き添わせて終えようとしている。とは言うものの私の母は大晦日に亡くなっているし、愛犬ドックはクリスマス・イブに最期を迎えているのだから、油断は禁物である。ところで、愛犬を語った本は念願かなって戌年に出版できる事になった。我が家歴代のお犬様のエピソードもふんだんに取り入れたので、戌年生まれの犬大好き人間だった亡き母も色々な場面で出場している。昨年末は涙で愛犬を見送ったが、今年は笑みを添えて愛犬の命を天国に預ける事が出来そうだ。