リメーク版「どろろ」
先日、リメーク版のアニメ「どろろ」を全話観てみた。
このリメークアニメ「どろろ」は、2019年に放送された作品だ。
初代アニメ「どろろ」が放送されたのは1969年。
その間に、実写映画版なども制作されているので、根強い人気のある作品である。
「どろろ」といえば、原作はもちろんあの手塚治虫先生の妖怪・時代劇漫画である。
個人的には手塚作品の中で一番好きな作品だ。
「火の鳥」もいいし、「ブラックジャック」もいいけど、私にとっては「どろろ」こそ一番好きな手塚作品。
原作漫画も好きなら、子供の時に観た最初のアニメ版「どろろ」も好きだった。
原作よりもより写実的な百鬼丸のキャラにほれ込んだ覚えがある。
実写映画版の「どろろ」も見たことがあるが、さすがに映画1作にまとめるのは無理があったかな・・・とも思った覚えがある。
さて、ふと見つけたリメーク版アニメ「どろろ」。
現代風にキャラは少し直されていたが、観続けるうちにそれなりにはなじんでいった。
リメーク版アニメ「どろろ」の百鬼丸が原作と大きく違っていたのは、中盤くらいまで百鬼丸は一切しゃべれないという点。百鬼丸はまだ声を魔物から取り戻していなかったからだ。
原作では、百鬼丸はどろろと出会った段階ですでに言葉でのコミュニケーションはとっていた。
どろろと出会った時点ですでに百鬼丸の声は戻っていたのか、あるいはテレパシーみたいな能力で話していたと思う。
また、顔に関しては、目が戻っていなかったせいもあるのか、まるで「お面」のような顔であった。
百鬼丸は体の何箇所を魔物に奪われた状態で生まれてきた。
原作や初期アニメでは百鬼丸は魔物に体の48か所も奪われていたが、リメークアニメ版では11か所を魔物に奪われている・・・という設定に変更されていた。
なんにせよ、魔物に何十か所も体のパーツを奪われて生まれてきたという設定は変わらない。
百鬼丸は顔の皮膚も目も鼻も口も耳も眉毛も奪われていた状態で、その後医者によって義眼や義鼻や義耳が取り付けられていた状態だった。ということは、顔はほとんど人形のような顔だったり、お面みたいな顔だったはず。顔の全てのパーツが、人工物だったわけだから。しかも、時代は応仁の乱の時代だったので、今より義眼などの技術が優れていたとも思えず。
そのへんをリメーク版では初代アニメや原作よりもリアルに演出していた。
特に目は、アイライトもなく、生気がない目だった。
今の医療技術ならもっとリアルに作れたのだろう。
百鬼丸は体全体が人形みたいな存在だったはずであることを、リメークアニメではよりリアルに描こうとしてたのが印象的。
例えば何かを持ちあげる時(だったかな)、義手ではうまく持ち上げられず、無理に持ち上げようとすると、義手がすっぽ抜けたりするシーンもあった。
このへんのリアルさは、原作にはなかったように思う。
体が何十か所も奪われた状態で、後から医者に体の見た目の全てのパーツを作ってもらい、見た目だけだけは普通の人間に近づけた人間・・・という、この作品の最も奇抜な設定に、リメーク版はけっこうこだわっていたようにも思う。
もちろん、当時の医術や、体のパーツの材料、体の動きなどを考えると、リアルで考えるともっと不自由な行動になるはずだが、さすがにそこまでこだわったら、制約が多すぎて物語が成立しなくなるので、スルーしてる部分もあったが。
物語全体的には「暗い」「重苦しい」雰囲気がただよっていたが、考えてみれば初代アニメでも全体的に「暗さ」「重苦しさ」はあった。
だいいち、原作がリアルタイムで連載された当時は、読者である子供たちに「暗い」と判断された部分はあったようで、そのせいか当時はあまり人気が出ず、おどろくなかれこの作品の原作は「未完」のような終わり方をしていた。打ち切られた可能性もある。
だが、年月がたつにつれ、この作品の魅力は再評価されていき、やがては手塚作品の中でもファンの多い名作とされていった。
私はもともと水木しげる先生の妖怪もの作品が好きだったので、「どろろ」はリアルタイム時にすぐに好きになった。
なにより、百鬼丸の設定が奇抜だった。
前述の通り百鬼丸は魔物に体の何十か所も奪われた状態で生まれてきて、魔物に奪われた自身の体のパーツを取り戻すために魔物と戦い、1体魔物を倒すごとに、体のパーツが戻ってくる・・という設定が凄かった。
百鬼丸がなぜ魔物に体のパーツを何十か所も奪われて生まれてきたかというと、父親である醍醐(だいご)が天下を取りたさに、魔物と契約したからであった。
多数の魔物の像に向かい、魔物の像に向かって「生まれてくる我が子の体、好きなところをお前たち(魔物)にやる。そのかわり、わしに天下をとらせろ。」と。
その結果、その父は1国1城の主になれた。
だがそれと引き換えに、子供は・・・体の何十か所を魔物に奪われ、およそ人間とは思えない状態で生まれてきた。本来・・例えば目があるべき場所には、ぽっかりと穴があいてるだけ・・というように。目だけではなく、鼻も口も耳もない。なので視覚も、聴覚も、声もないし、においも感じない。
もちろん、両手もなければ、両足もない。神経もなければ、背骨もない。なにも・・ない。
あまりといえばあまりな姿の赤ん坊で生まれた。
やがてその赤子は、小船に流されて、捨てられてしまう。なんという悲劇であろう。
そんな姿で捨てられた、あわれななその子は、やがて腕の良い医者に拾われた。
その赤子を不憫に思った、その医者は、せめて見た目だけでも普通の人間らしくしてやろうと思い、義眼、義手、義足など、その子に欠けている人間としてのパーツを作ってあげた。おかげで見た目は一見普通の人間と変わらぬ姿になった。
さらに、その子に百鬼丸という名前を与え、魔物はびこる世の中を生きていけるように、両手には刀をつけてあげた。
つまり百鬼丸の両手は刀になっていた。
さらにその刀の上に義手を「さや」がわりにつけてあげた。
やがて、百鬼丸は旅に出る。自分の体を奪った魔物と戦い、自分の体をひとつづつ取り戻すために。
途中で「どろろ」という名前の子と出会い、共に旅をすることに。
そして魔物と戦い続け、ひとつづつ自分の体を取り戻していく。
実の親である醍醐やその妻(百鬼丸にとっては母)にも出会うことになるし、醍醐の跡取りになる予定の弟とも出会うことになるのであった・・。
と、こんな流れで物語は進む。
リメーク版のアニメには、より物語や設定が膨らまされ、原作にはなかった局面も出てくるように。
それは例えば・・百鬼丸が魔物を倒し、自身の体を取り戻すにつれ、醍醐の収める領国は乱れてくるようになったこと。
醍醐の国は、百鬼丸の体を報酬として受け取った魔物の力によって栄えていた。
そう、百鬼丸の体の犠牲の上に、醍醐の国は繁栄していたのだ。
だが、醍醐の国を繁栄させていた魔物を百鬼丸が少しづつ倒していけば、醍醐の国を繁栄させていた力は段々弱まるのは当然であった。
そこで・・自身の領国を守るために、醍醐の息子(百鬼丸の弟)である多宝丸はやがて百鬼丸と戦うことに・・・。
なぜなら醍醐の国の人間にとっては、百鬼丸は、国を滅ぼす存在だったから・・。
醍醐の国の立場としては、確かに百鬼丸は疫病神みたいな存在だったろう。
だが、百鬼丸と共に長く旅をしてきたどろろは言う。
「なぜ、兄貴(どろろは百鬼丸を兄貴分として慕っていた)ばかりが犠牲にならなきゃいけないんだ!!」
このリメークアニメでは、こんな要素が大きくクローズアップされていた。
こういうくだりは原作の設定をうまく膨らませていたと思う。
このへんは、観てて中々面白かったし、深みも出てたと思う。
物語の細かい部分や逸話、流れに関しては、未見の人のためにこれ以上は書かないでおく。
作画レベルも高く、原作や初代アニメへのリスペクトも感じられたし、見始めたばかりの時は少し違和感(特に、どろろのキャラ)も感じたが、観続けるうちになじんでいき、素直に入り込めた。
深みもあったし。
特に百鬼丸に関しては、もし本当に百鬼丸がいたら、こんな感じだったろうな・・とも思える部分もあったので、納得。
観てよかったと思う。
「どろろ」がお好きな方は、観て損はない作品に仕上がっており、個人的にはお勧めしておきたい。
見応えがあるのは間違いないし、凄みのある出来栄えになっていた。
もともと「どろろ」という作品からは、「生きよ!」というメッセージを感じていた私としては、手塚先生に長生きしてもらって、この原作をいつか完結させてほしかった。
今回のこのリメークアニメ「どろろ」では、それなりに話は決着つけていた。
スタッフはよく頑張ったと思う。これなら手塚さんがご健在であっても、納得してもらえたのではないか。
手塚さんがご健在で、「どろろ」を完結まで描いた場合でも、これに近い終わり方にしたのではないかなあ。
このリメークアニメを観てて、私はそう思った。
ともかく、この作品は、百鬼丸の設定が秀逸だと思う。改めて手塚先生の発想は天才だったと思う。
自分の体を何十か所も魔物に奪われたキャラが、自分の体を取り戻すために魔物と戦う・・という設定が、少年だんぞうには衝撃だった。
それは必ずしも正義の味方が世のために魔物と戦う・・・という性格のものじゃなかった点が斬新だった。
百鬼丸が魔物と戦うモチベーションは当然でもあったし。
この作品のコミック版を、もし未読の方がいたら、何かの機会に読んでみるといいと思う。
この作品での手塚先生は、明らかに画風を変えていた。
キャラはともかく、背景が特に。
それは水木しげる先生が妖怪漫画で緻密な背景を描いていたことへの手塚先生の対抗心でもあったのではないか。
私は「どろろ」での手塚先生の背景の緻密な画風は大好きだった。
ちなみに・・・「どろろ」というタイトルに関して、生前手塚先生はこういう趣旨のことを語ってらっしゃったのを私は覚えている。
「どろろ・・って変わったタイトルでしょ?小さい子供が「どろぼう」という言葉をうまく発音できなくて「どろろ」と呼んでいたのです。そこからこのタイトルをつけました。」
とのこと。