私が高校生だった3年の間、家族で住んでた街は、郊外だった。
私には弟がいるのだが、弟もそこに3年間住んでたことになる。
その頃弟はまだ小学生だった。
私は高校に行くため、バスに乗って最寄りの電車の駅に行き、そこから電車に乗り換え、高校のあった町の駅まで通っていた。
通学には1時間半くらいかかっていたと思う。
その駅から高校まではけっこう離れており、駅から歩いて30分近くかかったのではなかったか。
なので、通学の片道だけでも、色んな風景を見ることになった。
バスから見えた風景、電車から見えた風景、駅から30分の歩きで見えていた風景。
あと、夏休みや冬休みにはその町のお店でバイトもしてたので、バイトでその地域の色んなところにも行った。
一方弟は、当時の自宅から小学校までは歩きでも行けたし、バスに乗ってもたった2駅ぐらいの移動距離であった。
なので、弟が通学で見てた風景は、かなり限られていたと思う。時間的にも当時の弟は小学生だったから、町の夜の景色などもあまり見ていなかったかもしれない。
近年私は弟と、昔住んでた町への思い入れについて話したことがある。
私は高校時代に住んでた町への思い入れは、それなりに強い。
だが、弟は、その町への思い入れは全くないと言う。
それを聞いて私は少し不思議に思えた。
当時弟は小学校4年から6年までの3年をその町で過ごしたわけで、少年時代の体験としてそれなりに記憶に刷り込まれているはずだと思っていたのだが。
なぜだろう。
いや、もちろん当時見ていただろう風景は覚えてはいるだろう。でも、思い入れは全くないようだ。
実は私は高校卒業後10年以上後に、その町に再び引っ越して、その町でひとり暮らしをした。その暮らしは・・・よく数えてはいないが少なくても6~7年は過ごしたと思う。
なのでトータルすると、その町で私は計10年ぐらいは過ごしたことになる。
一方、弟はその町で過ごしたのは小学校時代のたった3年だけ。
なので、その町に対する思い入れの差は、その街で過ごした年数の差が出てるのだろうとは思った。
だが・・・よく考えてみると、それだけで説明しきれるとも思えていない。
すると・・なんなのだろう。その差の他の理由は。
それは・・・
その街で見ていた日常風景の種類や数の差も大きいのではないか。
そう思えてきた。
私は前述の通り、通学の途中であれこれ変化のある風景を見て覚えている。
だが弟は、小学校から家までの間に見えていた、限られた風景ぐらいしか見ていない。
見ていた風景のストックや数や種類が違う。
また、見ていた風景の時間帯も、少なくても私に比べたら限られてたと思う。
当時私の家にはは友人がちょくちょく泊りにきていたし、友人が来ると夜の散歩に行くこともあった。なので夜の風景も色々覚えている。
また、1人暮らししてる時はマイカーを持ってたので、移動範囲も広かったし、マイカーから見てた色んな時間帯の色んな場所の風景も覚えている。だが弟は・・。
弟は限られた風景しか見ていないから、思い入れはないのかもしれない。
その町や、通学ルートは田園風景がけっこう残っていたので、色んな場所の色んな時間帯の色んな色合いの風景を私はよく覚えている。見てた景色に変化があった。
で、その町を思いだす時には、当時各地でみた色んな自然風景と混在する感じで頭に浮かびあがってくる。
もしかしたら、私はそういう様々な風景を楽しんでいたのかもしれない。
当時は「楽しんでいる」という実感はなかったけれど。
楽しんでいたからこそ、後で思いだすと懐かしく感じるのかもしれない。
一方弟は、家と学校の往復だけだったし、毎日同じ風景しか見てなかったから、景色にさしたる変化もなく、見てた風景に「楽しむ」という感覚はなかったのかもしれない。
だから、後で思いだしても「なんの思いいれもない」ということになるのかもしれない。
思いいれというものは、単にピンポイント的な風景だけだと、あまり心に残らないのかもしれない。
逆に、色んな風景が見れていると、そこに変化もあり、広がりも感じる。
ということは後で思いだすと、現実に見てた景色に妄想や空想をもからめやすくなり、そこに更なる広がりも出るのかもしれない。
そうなると、思い入れもより強くなる気がする。
世の中には何度も引っ越しをする人もいるが、そういう人にとっては、引っ越しの回数が多いと、後になって印象に残ってる町もあれば、印象が薄い町というものもあると思う。
その違いはなんだろう。
色んな理由はあるとは思う。
中には恋愛関係の理由もあったりするだろう。あるいは、その町で入っていた色んなお店が理由になってる場合もあると思う。
一方で、その町に住んでた時期に見ていた風景の数が多いというのも、印象に残りやすいのではないだろうか。私にはそう思えている。
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