一度閉まると、しばらく開かない「開かずの踏切」と言われる踏切は、あちこちにある。
私がマイカー通勤をしていた時は、私の通勤ルートの中にもあったし、仕事上であこちこち車で移動する時にもあった。
安全のためにしばらく踏み切りがあかないのは理屈では分かっていても、それでも、ほとんど開かない踏み切りにやきもきしてしまうのは、多くの人が同じであろう。
何十分も踏み切りがあかないばかりに、それが仕事上影響してしまう場合もある。
特に、初めて遭遇する「開かずの踏み切り」では、そう。
あらかじめ「この時間帯、あそこの踏み切りはほとんど開かない」と分かっている場合は、それが車での移動の途中なら、迂回したりできる場合はある。
だが、この場合、一種の博打みたいな感覚になることがある。
迂回路があることは分かっていても、それがけっこう大周りなルートになる場合(時には駅ひと駅ぶん大周りになる場合もある)、おとなしく目の前の「開かずの踏切」が開くのを待っていたほうが早いのか、それともひと駅分遠回りになっても迂回路に行ったほうがいいのか、ちょっとした決断が必要になる。
それでも、それが車の場合はまだいい。
これが自分が歩行者だったりすると、ひと駅分の迂回となると、これはけっこう大変。
なので、仕方なく目の前の「開かずの踏み切り」が開くのを待つしかなかったりする。
ラッシュ時などに、一時間の間にほんの数分しか開かない「開かずの踏み切り」では、事故も多かったりする。
お年寄りが、その歩くペースの遅さゆえ、渡り切れなかったりすることもある。
一時間のうちに数分しか開かないのであれば、開いた瞬間というのは、「千載一遇のチャンス」にも思え、貴重でもあるし、渡りたくなるのは人情だ。
また、お年寄りじゃなくても、あまりの待ち時間に業を煮やして、踏み切りが閉まっているのに無理に渡ろうとして事故にあう方もいる。
そういうのは、確かに「無謀」ではあるし、「危険」でもある。それは分かっている。
でも、あまりに踏み切りが開かなすぎると、その気持ちは・・・正直分かる。
私もそうしたくなることはある。
さすがに、事故にあうほうが怖いので、私はごり押しで渡るのは避けているが、渡りたくなる人の気持ちは、分かる。
だから私は・・こんなこと書いたら怒られるかもしれないが、それで事故があっても、単にその歩行者を責める気になれなかったりする。
もちろん、そのせいで人身事故につながり、尊い命が失われたり、電車のダイヤが大幅に遅れて多数の人に迷惑かかれば、大変なことだし、その原因になった歩行者に非があったにしても・・・だ。
最近は、そういう状況に鑑み、高架にするなどの改善策はとられているが、それも全ての「開かずの踏み切り」にとられているわけでもなく、相変わらず「開かずの踏み切り」のままである踏み切りもあるはずだ。
誰だって、その危険性は分かってはいるはず。
なのに、危険をおかしてでも渡るのは、好きでそういう行為をしているわけではないはず。
かといって、それが事故につながり、死者が出たり、電車のダイヤが大幅に乱れるのが良いはずもない。
それを解消するために、電車を高架ににするか、あるいは線路の地下に「地下道」を作るか、あるいは車も歩行者も通れる「線路をまたぐ橋」を作るのが一番の解決策ではあるのだろうが、それには多額のお金もかかるわけで・・。
なので、そのへんは・・・私の中でジレンマでは・・ある。
電車を高架にするのと、歩行者も車も通れる「地下道」や「線路をまたぐ橋」を造るのでは、「地下道」か「線路をまたぐ橋」を作るほうがまだ経済的な気はするが、それはあくまでも私の素人考えなので、それが正しいかどうかは定かではない。
ともかく、開かずの踏み切りで延々と遮断機が上がるのを待っている時、数メートルから数十メートルしか離れていない、踏み切りの向う側が、やたら遠く感じる。
こちら側と向う側がたとえ同じ町の中だったとしても、対岸は別の町のようにも思えたりする。
実際、同じ町なのに、踏み切りのどちら側にあるかによって、経済効果が踏み切りのこちら側と向う側では大きく違う町もあるのだ。
よく学校や古い家の中に「開かずの間」があったりすると、その部屋には不吉な噂があったりするが、同じ「開かず」でも「開かずの間」と「開かずの踏み切り」では、大きく違う。
「開かずの踏み切り」の前で延々と待たされていると、同じ「開かず」でも、まだ「開かずの間」のほうがマシのような気さえしてくる。
なお、写真は、この記事の踏み切りとは関係ありません。
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