太海の漁港の目と鼻の先に海上に浮かぶ島、それが仁右衛門島である。
島には、「仁」「右」「衛」「門」「島」と1文字づつ書かれた看板が立てられており、誰でも認識しやすい。
本土との距離はどれぐらいなんだろう。泳いでも渡れそうなくらい、近い。本土と地続きなのではないか・・との錯覚を覚えるぐらい、近い。
ウィキペディアによれば、この島は・・
「全島砂岩よりなる。千葉県鴨川市・太海の沖合約200mにあり、周囲約4kmの千葉県ででもっとも大きな島で個人所有。源頼朝や日蓮の伝説で知られる。千葉県指定名名勝。新日本百景にも選ばれている。」
とのことである。
本土との距離は200メートルあっても、太海の渡し船乗り場から見れば、もっと近くに迫って感じる。
私が太海にやってきたのは、つげ義春先生の作品の巡礼が目的だったが、せっかく来たのだから仁右衛門島にも渡ってみることにした。ちょっとした、旅行のオプション気分で。
太海に来る前から、私はこの島のことは知っていた。一応、調べてあったので。
太海地区にとっては、この島は観光名所なのだ。
渡し船に乗れば、島へはほんの5分くらいだろうか。渡し船に乗って実感したのは、水がきれいなことと、思ったより波があるということだった。
船頭さんと、灯台。↓
船に乗ると、ほどなくして仁右衛門島が迫ってきた。まあ、もともと本土に迫っているのだが(笑)。
さて、仁右衛門島に船は着岸し、私は島に上陸した。
船着き場付近には建物があり、入ってみると、そこにはある程度の土産物が売られていた。
少し歩くと看板があり、なんとその看板には、その日の日付が表記されていた。毎日その表記は変えているのだろう。
看板を通り過ぎると、いきなり登り階段が現れた。その階段のところには、「順路」と書かれていた。
ちゃんと散策路が整備されているのだ。
登り階段を登って、島の標高の高い場所にでると、海が見下ろせた。
太陽が海原を照らし、海原はキラキラ輝いていた。見晴らしが良い。太陽の照り返しで演出された海は、来訪者の心をなごませてくれる。
散策路は、当初植物のトンネルの中を進む。直進していく途中に、いくつかの句碑があった。なおも進むと、弁天様があった。
そして弁天様を過ぎれば、いきなり視界が開けた。そこにはベンチもあり、灰皿も用意されており、そこが仁右衛門島の本土寄りの突端であった。それより先は崖になっており、柵があって降りて行けないようになっていた。
ここは展望台だ。ここからは太海の漁港が正面から見える。太海の漁港と向かいあうような感じだ。
まさにビューポイント。漁港のほぼ全景が見渡せる。仁右衛門島から見た、太海漁港が。
魚港のすぐ後ろにまで迫ってきている山には、山の途中に様々な建物が建てられているのが見えた。この地区で住む人は、なんとかして海や山と共存してきたのであろう。
しばらくここで休んだ後、私は先ほど来た道を少し引き返し、散策路の別の分岐に進んだ。
すると、門が現れた。
みれば表札がしっかりと掲げられており、そこには
「平野仁右衛門」と書いてあった。現役の表札という感じ。
この島は元々、平野仁右衛門という方の個人所有の島であり、その方(家族も?)だけがこの島に居住してきたのだそうだ。
で、その仁右衛門の家が、この門の向うに残されているのだ。
なんでも、この島の所有者は、代々「平野仁右衛門」と名乗っているらしく、それは今現在もそうらしい。
仁右衛門島の名の由来は、大昔・・・源頼朝の時代に、平家に追われていた頼朝を、初代平野仁右衛門がかくまったことがきっかけらしい。それにより危機を脱した頼朝は、仁右衛門を「命の恩人」として感謝し、この島を初代仁右衛門に与え、島の名前は仁右衛門島と呼ばれるようになったらしい。
それ以来、この島の所有は、代々平野仁右衛門なのだそうな。驚いたことに、今でも平野仁右衛門さんの家族が住んでらっしゃるらしい。
なにやら、日本昔話や伝説が、今もこの島には宿って、しかもそれが続いているような気にもなる。
門の中に入ると、更なる門が現れるのだが、その門の塀が面白い。瓦を継ぎ合わせて壁になっているような部分もある。
で、更にその門をくぐって進むと、そこには庭が現れ、庭の前には仁右衛門邸の縁側があった。
で、邸宅の中も見れるようになっていた。建物はかなり年季が入っている。それもそのはず、この邸宅は宝永元年(1704年)に立て直された家屋なのだ。それが、そのまま残されているのだ。ということは、今からかれこれ300年以上も前に建てられた家屋ということになる・・。まさに文化財だね。
この古い民家は、今もこの島で暮らしてらっしゃる平野さんの家の一部で、この古い邸宅の部分のみ一般公開している・・ということらしい。
きっと、今も暮らしてらっしゃる家屋のほうは、新しい家なのだろう。現役の家として。
さて、この縁側でしばし休憩した後、私は散策路を更に進んだ。
すると、注連縄のある奇岩が現れた。これは、ここで日蓮が朝日を拝したという伝説のある岩らしい。
また、稲荷神社もあり、その脇には、頼朝が追手を逃れて潜んでいたといわれる洞窟もあったりする。
これがその洞窟。↓
更に散策は続く。散策路は実に整備されているし、喫煙所があちこちに設置してあるのが、喫煙派には嬉しいはずだ。
以前にもブログで書いたことがあるのだが、綺麗な自然風景に出会ったり、見晴らしのいい展望台などに来ると、愛煙家は景色を見ながらついタバコを吸いたくなる傾向があると思う。そういう意味では、配慮が行きとどいている島だ。
なので、愛煙家は、くれぐれも歩きタバコなどしてほしくない。ちゃんと愛煙家にもこれだけ配慮してくれてるのだから、ポイ捨てなどもっての他だと思った。
散策路は歩きやすく、小さな登り下りを繰り返す。
すると、島周辺の海を一望できる場所に出た。そこからは、仁右衛門島のまわりの海に、奇岩が多数見えた。しかもその奇岩は、随分向うの方まで広がっていた。
そして、そのかなり向うの方まで、この島から渡っていけそうだった。というのは、どこかの家族連れが、奇岩群のかなり向うのほうまで渡って行ってるのが見えたからだ。
あんな向うのほうの奇岩まで、どこから渡っていけるのだろう。そう思い、奇岩エリアのところまで私は降りていった。
すると、奇岩が続くエリアにわたる、細い岩道があることに気付いた。そうか、この岩道を歩いていけば、奇岩エリアまで渡っていけるのだな・・と思い、私も渡ってみることにした。
↓ 渡る前。
ただ、その岩道は海面すれすれにあり、正直言って、満ち潮になると水没してしまうのではないだろうか。もしも足を滑らせたら、海に落ちてしまうことになるので、要注意。もし、渡ってる最中に波が来たとして、うかつに波を避けようとしたら、バランスを崩して海にドボン・・ってなことになりそうだった。
実際私がその岩道を渡っている間にも、波がやってきて、岩道を覆ってしまった。幸い、私の靴の中まで海水が入ってくることはなかったが、あと少し波が強かったら靴は完全に水没してしまったのではないだろうか。
↓ 渡りきって、振り返ってパチリ。
ともかく、岩道を渡って、私は奇岩エリアまで辿りついた。
ここからは、太海漁港から見える仁右衛門島を裏側から見ることができた。↓
このあたりは、ホント、不思議な風景であった。白っぽい岩といい、岩の形といい。
まるでどこかの惑星にでも来たかのような錯覚も、若干覚えた。
奇岩エリアに立って海風に当たっていると、このエリアはかなり向うの方まで続いていることを等身大で実感した。この奇岩エリアは、どこまで歩いていけるのだろう。
それにしても・・・この仁右衛門島、小さな島の割には、見どころが多い。
小さな島なのに、見どころが凝縮されている気がした。
中々の、めっけものだった。
これが、個人所有の島だなんて、信じられない。
島主・・・なんとも、いい響きではないか。
そんなことを思いながら、しばし私は海原の照り返しを眺めていた。キラキラ、美しかった。
太陽光線が、海にスポットライトを当てているようにも思えた。
正直、この島は、私にとっては「つげ義春巡礼」で太海に来た旅行の「プラスアルファ」的なオプションのようなつもりで、渡った島であった。
だが、これが中々中身が濃く、あなどれない。
観光名所とされているのは、だてではないと思った。
太海に来た旅人は、この仁右衛門島に渡る人は多いと思うが、もしその気にならなかった方でも、この島には訪れてみて損はないと思う。
仁右衛門島、お主、なかなかやるのう。
っつうか、だんぞうさん!
どうしてこうもコメント書きたくなるような記事を
次々と書いてくれちゃうんですか〜
そうです、太海です、仁右衛門島です、
子供の頃、毎夏のように、親に連れていってもらってました。
よしのや旅館に泊まって、
仁右衛門島でさざえのつぼ焼き食べたことくらいしか覚えていませんが…
三年も前の記事だったんですね、すみません
太海も、そのなかの一カ所でした。
くまさんは、仁右衛門島に毎年のように行ってたんですか?
それはスゴイ。シブイ。
良いご両親ですなあ。
太海で私が泊まった宿は、、、どこだったかなあ。
宿の名前は忘れちゃいましたが、スタッフの感じは良かったのを覚えてます。
つげ先生に関係する場所を聞いたら、親身になって協力してくれました。