美しい夕焼け

美しい晩年を目指して

旅 香港

2024-02-22 15:49:39 | 

1997年1月、夫と香港へ行きました。

1997年7月に、香港はイギリスから、中華人民共和国へと返還されることになりました。

中国は「一国二制度」を約束し、香港に共産主義をすぐに施行しないとして、香港側の不安を取り除いたのですが、あれから、ずっと中国は、香港の中国化を目指しているように見えます。多くの人たちが戦い、傷ついた様子をテレビで見て、国の約束など何の価値もないものだと、思っています。

その自由な香港の最期を見るということで、香港への旅は人気がありました。私たちもそんな気持ちで香港へ行ったのでした。

香港は、スピーディーで、人々が闊歩し、高層ビルが立ち並んで経済の街という感じの街でした。香港の女性も男性も小柄ですが、きりっと締まり、前を見ながらさっそうと歩いていました。私はなんだかこのスピード感についていけないなあと思ったほどです。

二人で歩いていると、インド人かと思うような人が、私の耳基に、「偽物時計あります」と日本語で言いました。私はびっくりして、夫に「なんで私が日本人だと分かったんだろう」と訊くと、夫はすまして、「日本人はぼんやりしてるからわかるんだろう」というのです。

私たちは、香港の南のほうの商店街に行こうと計画し、行ってみると商店というより、テントで商品を売るといううらぶれた感じの場所でした。香港の華やかなビル街があって、こんな場所もあるのだと思いました。

帰りは2階建てバスに乗り、上に行こうと大はしゃぎで帰りましたが、今ならきっと2階建てバスはパスするだろうと思います。

美しい香港の夜景、颯爽としたビジネスマン、林立するビル、そんな美しくかっこいい香港ばかりではなく、インド人の商売、増えてきたと思う中国人(英語も日本語もしゃべれない人達)、南のほうのテントの人々、など負の香港を見たように思います。

夫と出かけるのはとても面白く、二人でいろいろな冒険をしたなあと思い返しています。

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旅 ハワイ

2024-02-13 12:16:49 | 

初めていった外国はハワイでした。母と2人で40代の初めに行きました。

母と暮らすようになって、母が海外旅行をしたことがないので行きたいといったからです。

私は、その頃は、海外に行くことなど考えていませんでした。人はどこの人も同じだと思っていたのです。わざわざ出かけていくことなどないじゃないかと思っていました。

でも、母がどうしても外国に行きたいというし、飛行機にも乗りたいといったので、旅行代理店に行き、相談しました。

初めての海外ならハワイがいいでしょう、といわれ、日本語が通じるし、たくさんの日本人が行きますから。

私は、英語なら、中学校から大学1年までやったのだから、きっと大丈夫と思い、ハワイに行くことにしました。

どこの人も同じだという思いは、ハワイですっかりなくしてしまいました。人は、住む国にも、住む環境にも、仕事にも、いろいろなことによって、まるで違うのだということ。

人間としての根本的なところは、良心とか、情緒や、権利も普遍的なものはあると思いますが、そのあらわれ方は、国によって全然変わるのだと思いました。

ハワイで会った人たちは、ガイドや観光にかかわる人だけでしたが、多くの人たちは、日本人に対して、好感を持っていないと思いました。

多くの日系のアメリカ人は、どうしてそこにいるのかということを考えるだけでも、日本を好まず、大挙して訪れる日本人を嫌っているように見えました。

私は、英会話などほとんどできないまま、ホテルのフロントに単語だけを並べて四苦八苦したのでした。その時のフロントの日系アメリカ女性の軽蔑の目つきを忘れることができません。

私は帰国して、英会話の教室に通い、英語を勉強しました。単語や文法などは分かっても、どういう風にしゃべるのかを全然理解していませんでした。そして、観光旅行に行くくらいの英会話なら何とかしゃべれるようになったのです。

人は、どこに住んでいるかということは、どうしてなのかを考えなくてはならないのだろうと思います。同じ東アジア系の顔ですが、あまり同じ人種とは思えなかったのでした。

外国に行くことで、知らない人の思いを見ることができるような気がしました。

この絵は、ハワイに着いて、ホテルに行く時間を待った公園でのものです。風景画はほとんど描いたことがないので、バックはなんとも言えない出来ですが。

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チャーリーと暮らす日々

2023-12-12 14:43:10 | 

ローリーが死んで2年、犬のいない生活をしました。家族3人で旅行も行けたし、気楽な生活をしたように思います。犬がいるとやはりほかの命のことを考えなくてはならないからです。

ローリーの温かさを、少しずつ過去のこととして考えられるようになったのは、2年経った頃でした。

夫に犬が欲しい、というと、「もう犬は飼わないんじゃなかったの?」と笑いながら言い、「犬を飼うのなら、早い方がいい。もう僕たちは犬を飼う年齢のぎりぎりだろうから」といいました。

ミニチュアダックスフントは、メリーとローリーだけでいいし、他の犬種を飼うことにしました。そしてやってきたのがヨークシャーテリアのチャーリーです。

チャーリーは、小さいころから活発で、怖れを知らず、私たちのほうが怖れてしまうほどの子でした (危ないことをするので)。やんちゃで、あまり素直ではなかったですが、でも本当にかわいらしくわが家の一員になりました。

チャーリーはいつも夫に遊んでもらい、ボール投げをしたり、一緒に走ったりしていました。その夫が倒れ、私も病気になり、急に家の中の2人がいなくなったのです。きっとチャーリーは、そのことを今も、心にとどめていると思います。

今も私には距離を取っていたりすることもありますし、でも、だんだん病院から家に帰ったときよりは、近づいているようです。何か安心できない人だと思われているのでしょう。いついなくなるかわからない、と思われているような気がします。

犬と人間は、お互いの命を感じあって生きています。その存在は、とても大切なものだと思って生きています。

この頃、チャーリーはとても年を取って弱ってきました。目もあまり見えません。それでも、おもちゃを持ってきて投げてといいます。投げるとどこにあるかが分からず、取りに行けません。それでも毎日おもちゃ投げをしたいのです。(私がおもちゃのところまで歩いて教えます)

耳も聞こえなくなりました。とても大きな声を出すと、聞こえますが、自分が呼ばれたこともあまり分かりません。

ベッドの上に上がるのも降りるのも、まだ何とかできますが、とても難しそうです。もう14才になり、3か月過ぎました。

これから、どういう風にチャーリーと暮らそうか、考えています。できるだけ、チャーリーの楽なようにと思っています。

メリーとローリーとピーターの最後はとてもつらいことでした。チャーリーともそういう別れがいつかやってくるでしょう。それでも、最後まで一緒に生きて、よく頑張ったねと言いながら送ってやりたいと思っています。

この絵は、2010年4月、大崎下島に行った時の写真を見て描きました。チャーリーはまだ1才になっていないころ、私は60才のころです。

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ローリーとピーター

2023-12-06 13:33:02 | 

ピーターは、ローリーと一緒に生まれたお兄ちゃんです。妹のところで育ちました。

メリーが元気な時は、去勢してなかったピーターが追いかけるので、あまり連れてこられませんでした。

ローリーがメリーの死後、元気をなくしたので、妹がピーターを連れてくるようになりました。

2匹はとても仲良しで、元気のなかったローリーも少しずつピーターのおかげで、元気になりました。

年を取ってからは寒がるので、おそろいの洋服を着ていました。この時は、色違いで、オレンジがローリー、ピーターはブルーグレイの洋服を着ています。

2006年の4月に津和野や山口に行った時の写真を見て描きました。ローリーとピーターは14才。顔の白いのは白髪です。私は、56才。乳がんの手術後、少し髪が伸びてきたころです。

ピーターは、生まれてすぐのころは、とても穏やかで、のんびりしていたのですが、妹のところに行って、幼稚園児2人とその友達にもみくちゃにされ、かなりのタフマンになりました。環境で変わるとは、よく言ったものです。

2匹は、わが家に来ると、顔を突き合わせて、挨拶をし、そのあとは一緒に何か探しては遊んでいました。疲れると、2匹で、コロンと横になり、お互いくっついてお昼寝をしていたものです。今もその姿を思い出すと、かわいかったなあと、ちょっと涙腺が緩みます。 

ローリーは16才になって1か月ほどで、ピーターは4か月ほどでかわいらしかった命を終えました。ローリーは、老衰のような感じで、ピーターは癌になって死にました。

命を終えるのは、犬もまたとても壮絶で、周りのものは何をしてあげたらよいか、わからないまま見ているだけという感じでいました。誰の命もずっと私の心に強い印象を残しています。

メリーとローリー、ピーター、みんなとても可愛い印象的な犬でしたから、もう次は飼えないねと、思っていたのですが、チャーリーがやってくるのです。犬は、私の人生の中で切っても切れない存在なのだと痛感しています。

犬のことを書くと、自分の生きてきた姿が少し見えるかと絵を描きました。あと1匹、チャーリーのことを書きますね。

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ローリーのいた日々

2023-12-04 14:16:49 | 

犬のいる日々は、自分の周りに、少し暖かい空気が流れているような気がします。犬は人に気持ちをつたえ、人も犬に気持ちを伝えて、お互いに分かり合えるように思います。

私が一番愛した犬は、ミニチュア・ダックスフントのローリーです。ローリーはメリーの生んだ犬の1匹でした。メリーのように賢さがピンピン伝わる犬ではありませんでしたが、その代わり温かな空気がふんわりと周りに流れているような犬でした。

なんでもメリーの真似をして、それで納得しているようでした。自分が自分がという感じは全然ありませんでした。自分の興味のあるところでは、やりたいことをやるという感じでしたが、周りを気にして何かをするという感じはありませんでした。

家族が大好きで、メリーも大好きでした。メリーが一度動物病院へ入院たことがありましたが、その時は帰ってきたメリーを見て、家じゅうを走り回って喜びを表現しました。

私が近所の赤ちゃんを抱っこしていると、私の周りを走り回って、ワンワンと吠えました。僕のお母さんが、誰か抱っこしているのを許せないという感じで。

ローリーは私にとっては、自分で取り上げた犬でしたし、ずっと一緒に生きてきたという感じがするのです。

ローリーは16才まで生きて、自分の命を生き切ったという感じで亡くなりました。最後のころは、体が弱く、しょっちゅう病院へ通いましたが、私は、できるだけローリーの楽なようにといろいろ工夫して過ごしました。

いろいろなことを感じるローリーとの生活でしたが、人と犬が一緒に生きるということが分かったと思います。

この絵は、1992年、私は43才、ローリーは1才になる年の写真を見て描きました。春にドライブして、ローリーと一緒に遊んだ時の様子です。一緒にいろいろなところに遊びに行ったなあと思い出します。実際のローリーは絵よりもずっとかわいいです。

このころは、とても元気で、走り回っていたローリーです。出かけても、メリーはおばあちゃんに抱っこされていたことが多く、ローリーは、夫や私と走り回っていました。若いころの犬は、走り回るのが特技のように走ります。そんなころの愛しいローリーの姿です。

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