>昭和48年10月に電化開業した関西線ですが、12月に大変大きな事故を起こしてしまいます。
その辺のお話は明日以降にでもさせていただこうと思います。
と書いたのですが、その前にキハ35が導入された経緯等について、当時の資料がありましたので少しだけ補足させていただきます。
みなさまこんにちは、本日も関西線のお話をさせていただこうと思います。
関西線の平野付近の高架の記事も出てきたのですが、その辺はまた別の機会にでもさせていただこう思います。
天王寺駅ホームにて
その前に、キハ35の導入に際して会計検査院からの指摘と言った内容で書かせて書かせていただいたのですが、改めて資料を参照しますと、昭和34年、国鉄監査委員会からの指摘によるものであることが判明いたしました。
誤った記述をしていたことをお詫び申し上げます。
関西線は、関西鉄道時代の固定資産が多かったことでこれら施設の集約などは大きな課題であったのは事実でありましたが、それ以上に、近鉄の存在が大きかったと言われています。
電化・複線により頻発運転が行われているなか、名古屋~大阪間の最短ルートであるとはいえ蒸気機関車による旧態然とした運転では、大阪~名古屋間の利用者は近鉄を利用することになるのは自明の理でした。
特に、関西地域は私鉄の発展が著しく、首都圏のように私鉄が国鉄の培養線(山手線の駅に沿って私鉄のターミナルが出来た。)的性格を持っていたのとは対照的でした。
天王寺駅ホームにて
さて、そんな中でやはり、旧態然としたままの経営で無駄な赤字を垂れ流すわけにもいかず国鉄当局でも本腰を入れて改良を図ることになりました。
その一つが、関西線の湊町(現・JRなんば)~奈良間を近代化することでした。
計画では通勤型気動車(101系に準じたロングシート車)の2両編成による頻発運転を行うことで輸送改善を行うというもので、第1次陣として昭和36年12月10日に気動車26両を投入し、快速列車を30分に1本、奈良~湊町間に運転、各駅停車も30分に1本、ただし、柏原までは10分に1本が走ることとなり大幅な増発になったそうです。
これにより、奈良から湊町間を運転する列車は27本からほぼ倍増の53本に変更され、利便性は大きく上がりました。
(昭和37年1月鉄道ピクトリアル参照)
ここで、ご存じの方も多いかと思いますが、キハ35について簡単に車両の紹介させていただきます。
キハ35は、国鉄で初の通勤形?気動車(それまでは、気動車の分類は一般形と急行形・特急形でしたので、本来であれば一般形3ドア車なんでしょうけれど)でした。
特徴はその扉で、外吊りの3枚両開き扉となっていました。
これは、当時の気動車ではホームが低い地域も多かったので、ステップを設けていたのです。そこでキハ35もステップを設けるのですが、一つだけ問題があって、戸袋式にすると側梁を切ることとなり強度的に不利になります。さらに、車体中心部はエンジンを床下に積んであるためい、強度を下げるわけにいけなかったと言われています。
その後のキハ38では設計手法の見直しにより、補強しても極端に重くならないと(エンジンの変更なども大きいと思いますが)判断されたことから、戸袋付きの車両として投入されています。
ただ、戸袋を設けないことで強度を確保したものの簡易な扉で蓋をしたようなものですから隙間風が大きく、快適な車内とは言えないものでした。
また、ドア横の窓はドアが移動しますので、腕などを窓から出せないように殆ど開かない構造になっており、注意書きも書いてありましたが、正直危険であることには変わりないですよね。
まぁ、時代が時代だったと言えますが。
それと、キハ35は通勤列車と言えども、一般気動車の伝統を踏んで、禁煙ではなく出入り口付近のパイプには、灰皿が設けられていました。
おっと、昭和48年の事故の話をしようと思ったのですが、紙数が尽きたのでまた別の機会にさせていただきます。
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その辺のお話は明日以降にでもさせていただこうと思います。
と書いたのですが、その前にキハ35が導入された経緯等について、当時の資料がありましたので少しだけ補足させていただきます。
みなさまこんにちは、本日も関西線のお話をさせていただこうと思います。
関西線の平野付近の高架の記事も出てきたのですが、その辺はまた別の機会にでもさせていただこう思います。
天王寺駅ホームにて
その前に、キハ35の導入に際して会計検査院からの指摘と言った内容で書かせて書かせていただいたのですが、改めて資料を参照しますと、昭和34年、国鉄監査委員会からの指摘によるものであることが判明いたしました。
誤った記述をしていたことをお詫び申し上げます。
関西線は、関西鉄道時代の固定資産が多かったことでこれら施設の集約などは大きな課題であったのは事実でありましたが、それ以上に、近鉄の存在が大きかったと言われています。
電化・複線により頻発運転が行われているなか、名古屋~大阪間の最短ルートであるとはいえ蒸気機関車による旧態然とした運転では、大阪~名古屋間の利用者は近鉄を利用することになるのは自明の理でした。
特に、関西地域は私鉄の発展が著しく、首都圏のように私鉄が国鉄の培養線(山手線の駅に沿って私鉄のターミナルが出来た。)的性格を持っていたのとは対照的でした。
天王寺駅ホームにて
さて、そんな中でやはり、旧態然としたままの経営で無駄な赤字を垂れ流すわけにもいかず国鉄当局でも本腰を入れて改良を図ることになりました。
その一つが、関西線の湊町(現・JRなんば)~奈良間を近代化することでした。
計画では通勤型気動車(101系に準じたロングシート車)の2両編成による頻発運転を行うことで輸送改善を行うというもので、第1次陣として昭和36年12月10日に気動車26両を投入し、快速列車を30分に1本、奈良~湊町間に運転、各駅停車も30分に1本、ただし、柏原までは10分に1本が走ることとなり大幅な増発になったそうです。
これにより、奈良から湊町間を運転する列車は27本からほぼ倍増の53本に変更され、利便性は大きく上がりました。
(昭和37年1月鉄道ピクトリアル参照)
ここで、ご存じの方も多いかと思いますが、キハ35について簡単に車両の紹介させていただきます。
キハ35は、国鉄で初の通勤形?気動車(それまでは、気動車の分類は一般形と急行形・特急形でしたので、本来であれば一般形3ドア車なんでしょうけれど)でした。
特徴はその扉で、外吊りの3枚両開き扉となっていました。
これは、当時の気動車ではホームが低い地域も多かったので、ステップを設けていたのです。そこでキハ35もステップを設けるのですが、一つだけ問題があって、戸袋式にすると側梁を切ることとなり強度的に不利になります。さらに、車体中心部はエンジンを床下に積んであるためい、強度を下げるわけにいけなかったと言われています。
その後のキハ38では設計手法の見直しにより、補強しても極端に重くならないと(エンジンの変更なども大きいと思いますが)判断されたことから、戸袋付きの車両として投入されています。
ただ、戸袋を設けないことで強度を確保したものの簡易な扉で蓋をしたようなものですから隙間風が大きく、快適な車内とは言えないものでした。
また、ドア横の窓はドアが移動しますので、腕などを窓から出せないように殆ど開かない構造になっており、注意書きも書いてありましたが、正直危険であることには変わりないですよね。
まぁ、時代が時代だったと言えますが。
それと、キハ35は通勤列車と言えども、一般気動車の伝統を踏んで、禁煙ではなく出入り口付近のパイプには、灰皿が設けられていました。
おっと、昭和48年の事故の話をしようと思ったのですが、紙数が尽きたのでまた別の機会にさせていただきます。
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