すみません、10日以上も空けてしまいました。
ちょっとばたばたしていて、blogの更新がままなりませんでした。
それと、いま古い資料を読んでいまして(昭和26年頃)時間を取られています。
私が昔の資料にこだわるのは、一次資料であると言うこと。
当時の記録ですから、一番正確性が高いわけで、そうした資料を読みこむことの重要性を感じています。
さて、余談はともかくとして、「特急くろしお」の増発と「急行きのくに」の衰退について書かせていただきます。
国民の所得向上もあって、特急利用はますます大衆化していき、特に昭和45年の万国博覧会では新幹線利用が一般化するなど、それまでは、東海道新幹線が開業しても特急以外の旅客は、新幹線に移動しないと見込んでいたのですが、実際には、在来線から新幹線への転移が進み、九州直通急行の「桜島・高千穂」を除けば「長距離急行はほぼ全滅、「急行・東海」は、新幹線の恩恵を受けにくい静岡地区への区間輸送に、また、「急行・比叡」が名古屋~大阪間に残る程度となりました。
紀勢本線でも1967年(昭和42年)改正で、天王寺~名古屋間に加えて、天王寺駅~白浜駅間と、天王寺駅~新宮駅間で1往復ずつ増発されて3往復に、昭和43年の改正でも2往復増発された特急は5.5往復まで成長、急行きのくにもこの時点では天王寺発10本、天王寺行き8本、季節列車3往復の最高13本が特急とは別に運転されていたことになります。
当時は、白浜は大阪からの湯治場として栄えており、並行する高速道路もありませんでしたし、新婚旅行客も多く、特急・急行ともグリーン車を2両連結されていました。
昭和47年の改正では、日本海縦貫線の電化完成に伴い余剰となったボンネット型先頭車のキハ81形を含む「いなほ」「ひたち」運用の車両が転入し、天王寺~名古屋間限定運用で紀勢西線電化まで活躍しました。
現在は、京都の鉄道博物館に保存されているのはご存じのとおりです。
昭和53年になると紀勢西線も電化が行われ、381系が、新製投入されたほか113系も何編成化は新製投入(多くは首都圏からの転用)され
阪和線新快速色と同じ塗装に変更されて投入されました、「急行・きのくに」だけは、南海電車からの乗り入れ、「しらはま」など和歌山線経由の急行列車の存在、機関区の統廃合の問題もあったかと思うのですが(当初は和歌山機関区(当時の名称)を電車区に改装しようとしたが反対されたと言った話を聞いたことがあります。詳細は不明のため今後調査していきたいと思います。ご存じの方おられましたら、ぜひご教示願います。)
昭和53年の時点では紀勢本線の急行列車は架線下急行として昭和60年まで走ることとなりました。
昭和60年のダイヤ改正では、増収目的もあって急行列車を廃止して特急くろしおに吸収されることとなり。新たに、急行のみ停車駅であった海南駅・椿駅・周参見駅・古座駅・太地駅・湯川駅・那智駅に新たに特急が停車するようになり箕島駅・湯浅駅・南部駅ともども停車することとなり、特急の急行化がさらに進むこととなりました。
昭和60年の特急化に際しては、余剰気味だった485系を短編成化し、サハ481を改造した新形式クハ480が誕生しました。
この列車は4+4で運転し白浜駅で後部4両を切り離して運転するとされており振子列車ではないので速度も急行列車と殆ど変わらず評判は悪かったです。
結局1年で「やくも」を短編成化で捻出した、381系を転入させ、全列車、381系化することになり、485系は転出してしまいました。
歴史にIFは無いですが、仮に南海電車が485系を導入していたら・・・(車体幅に関しては特認をとる必要があったと思われますが)「特急くろしお」は比較的遅い時期まで485系による「くろしお」が、「きのくに」の流れをくむ特急として君臨していたかもしれませんね。
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ちょっとばたばたしていて、blogの更新がままなりませんでした。
それと、いま古い資料を読んでいまして(昭和26年頃)時間を取られています。
私が昔の資料にこだわるのは、一次資料であると言うこと。
当時の記録ですから、一番正確性が高いわけで、そうした資料を読みこむことの重要性を感じています。
さて、余談はともかくとして、「特急くろしお」の増発と「急行きのくに」の衰退について書かせていただきます。
国民の所得向上もあって、特急利用はますます大衆化していき、特に昭和45年の万国博覧会では新幹線利用が一般化するなど、それまでは、東海道新幹線が開業しても特急以外の旅客は、新幹線に移動しないと見込んでいたのですが、実際には、在来線から新幹線への転移が進み、九州直通急行の「桜島・高千穂」を除けば「長距離急行はほぼ全滅、「急行・東海」は、新幹線の恩恵を受けにくい静岡地区への区間輸送に、また、「急行・比叡」が名古屋~大阪間に残る程度となりました。
紀勢本線でも1967年(昭和42年)改正で、天王寺~名古屋間に加えて、天王寺駅~白浜駅間と、天王寺駅~新宮駅間で1往復ずつ増発されて3往復に、昭和43年の改正でも2往復増発された特急は5.5往復まで成長、急行きのくにもこの時点では天王寺発10本、天王寺行き8本、季節列車3往復の最高13本が特急とは別に運転されていたことになります。
当時は、白浜は大阪からの湯治場として栄えており、並行する高速道路もありませんでしたし、新婚旅行客も多く、特急・急行ともグリーン車を2両連結されていました。
昭和47年の改正では、日本海縦貫線の電化完成に伴い余剰となったボンネット型先頭車のキハ81形を含む「いなほ」「ひたち」運用の車両が転入し、天王寺~名古屋間限定運用で紀勢西線電化まで活躍しました。
現在は、京都の鉄道博物館に保存されているのはご存じのとおりです。
昭和53年になると紀勢西線も電化が行われ、381系が、新製投入されたほか113系も何編成化は新製投入(多くは首都圏からの転用)され
阪和線新快速色と同じ塗装に変更されて投入されました、「急行・きのくに」だけは、南海電車からの乗り入れ、「しらはま」など和歌山線経由の急行列車の存在、機関区の統廃合の問題もあったかと思うのですが(当初は和歌山機関区(当時の名称)を電車区に改装しようとしたが反対されたと言った話を聞いたことがあります。詳細は不明のため今後調査していきたいと思います。ご存じの方おられましたら、ぜひご教示願います。)
昭和53年の時点では紀勢本線の急行列車は架線下急行として昭和60年まで走ることとなりました。
昭和60年のダイヤ改正では、増収目的もあって急行列車を廃止して特急くろしおに吸収されることとなり。新たに、急行のみ停車駅であった海南駅・椿駅・周参見駅・古座駅・太地駅・湯川駅・那智駅に新たに特急が停車するようになり箕島駅・湯浅駅・南部駅ともども停車することとなり、特急の急行化がさらに進むこととなりました。
昭和60年の特急化に際しては、余剰気味だった485系を短編成化し、サハ481を改造した新形式クハ480が誕生しました。
この列車は4+4で運転し白浜駅で後部4両を切り離して運転するとされており振子列車ではないので速度も急行列車と殆ど変わらず評判は悪かったです。
結局1年で「やくも」を短編成化で捻出した、381系を転入させ、全列車、381系化することになり、485系は転出してしまいました。
歴史にIFは無いですが、仮に南海電車が485系を導入していたら・・・(車体幅に関しては特認をとる必要があったと思われますが)「特急くろしお」は比較的遅い時期まで485系による「くろしお」が、「きのくに」の流れをくむ特急として君臨していたかもしれませんね。
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