皆さん、こんばんは。
昨日は、運休してしまって申し訳ございません。
さて、今夜の深夜便は2部構成で行きたいと思います。
1部は、先ほどmixiの日記でも書いておきましたが、献血に関するお話です。
さて、現在でこそ血液は、「献血」という手段でのみ提供されていますということで、若い人への献血を呼びかけたりしていますよね、特に駅前等では移動採血車が・・・。
気が付けば85回も献血している変人ですが、昔は献血なんて・・・という自分がありました。
なぜ、献血をするようになったかというと。
それは、私が警察官を拝命して、警察学校に入った頃でした。
警察官は、市民の手本にならなくてはならないという理由?らしき理由で、強制的に献血したのが始まりでした。
だって、あんな太い針を見たらちょっと、びびりまくりでしたよ。
「あんな太い針、痛いだろうな。怖いなぁ・・・・」
「あ、痛い、痛い、・・・・」
「今、消毒のアルコール塗ったばかりですが痛かったですか?」
「あ、これは失礼失礼・・・・」
てな具合で、妄想していたのですが、最初にチラッと痛みを感じ、次の瞬間に血がスーっと抜けていく、少し気が遠くなるような錯覚を起こしたころ、横から声がして。
「はい、お疲れ様、終わりましたよ。ご協力ありがとうございました。」
「え?もう終わったの.」
そんな、少し気が抜けるような初めての体験だったと、この書き込みをしながら思い出しましたよ。
さて、そんな風に現在では、献血という方法で集められる血液ですが、昭和44年頃までは献血よりも売血という、方式により血液が集められていたのです。
この辺は、医療関係にお勤めの方でしたらよくご存知のお話だと思いますが・・・。
また、預血制度【血液の預金みたいなもので、優先的に家族及び本人が輸血を受けることが出来る】もありましたが、こちらも昭和49年には廃止になっています。
私が子どもの頃は、小学校の頃は、血液は病院で買ってくれるとか。献血しないと優先的に輸血してもらえない(預血制度のことと思われる)といった話を子ども心に聞かされたものでした。
ここで、血液が売れる・・・「売血」について歴史を少し紐解いてみたいと思います。
終戦後の昭和24年、GHQの援助で、日本初の血液銀行というものが誕生し、血液を集めることになったのですが、その制度発足の際、売血によリ血液を集めることが認められていました。
このため、本来では献血できないような人、【貧血・頻度売血者】が後を絶たなかったそうです。
現在では、400mml献血をすると2ヶ月以上は献血できませんが、彼らはそれこそ、1ヶ月もほどで売血を繰り返して、それを生活の糧にしていたのです。
当時日雇い労働で一日働くのと、ほぼ同じ金額が僅か30分で稼げるのですから、たまりませんよね。
でも、そう言った人たちの血液は極端に赤血球が少なくて「黄色い血液」と呼ばれていたそうです。
昭和30年代から40年代にかけて売血は比較的よく行なわれていたようで、私も巷で噂として売血の話は聞いたことがありましたし、今と違って当時の病院は薄暗くて陰気な場所が多かったので、病院=売血=暗いイメージとつながっていたのかもしれません。
そんな昭和44年といいますと、上野~成田間に直通していた蒸気機関車牽引の客車列車が消えて、山陽新幹線用試験電車の試作車が登場するなど、過去の遺物が消え去り、新しいものが誕生しようとする時代のちょうど真中だったのかもしれませんね。
また、国鉄にあっては列車等級【1等・2等】という制度が廃止されて1等車は、「グリーン車」、二等車は「普通車」という名称に変更されたのも、昭和44年でした。
今まさに、新しい日本に生まれ変わろうとしていたのでしょうね。
さて、献血に興味をもたれましたら、是非このサイトもご覧になってはいかがでしょうか。
かなりの分量でhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9043/baiketsu/index.htmlすが、読み応えあると思いますし、それだけの値打ちはあると思います。
昨日は、運休してしまって申し訳ございません。
さて、今夜の深夜便は2部構成で行きたいと思います。
1部は、先ほどmixiの日記でも書いておきましたが、献血に関するお話です。
さて、現在でこそ血液は、「献血」という手段でのみ提供されていますということで、若い人への献血を呼びかけたりしていますよね、特に駅前等では移動採血車が・・・。
気が付けば85回も献血している変人ですが、昔は献血なんて・・・という自分がありました。
なぜ、献血をするようになったかというと。
それは、私が警察官を拝命して、警察学校に入った頃でした。
警察官は、市民の手本にならなくてはならないという理由?らしき理由で、強制的に献血したのが始まりでした。
だって、あんな太い針を見たらちょっと、びびりまくりでしたよ。
「あんな太い針、痛いだろうな。怖いなぁ・・・・」
「あ、痛い、痛い、・・・・」
「今、消毒のアルコール塗ったばかりですが痛かったですか?」
「あ、これは失礼失礼・・・・」
てな具合で、妄想していたのですが、最初にチラッと痛みを感じ、次の瞬間に血がスーっと抜けていく、少し気が遠くなるような錯覚を起こしたころ、横から声がして。
「はい、お疲れ様、終わりましたよ。ご協力ありがとうございました。」
「え?もう終わったの.」
そんな、少し気が抜けるような初めての体験だったと、この書き込みをしながら思い出しましたよ。
さて、そんな風に現在では、献血という方法で集められる血液ですが、昭和44年頃までは献血よりも売血という、方式により血液が集められていたのです。
この辺は、医療関係にお勤めの方でしたらよくご存知のお話だと思いますが・・・。
また、預血制度【血液の預金みたいなもので、優先的に家族及び本人が輸血を受けることが出来る】もありましたが、こちらも昭和49年には廃止になっています。
私が子どもの頃は、小学校の頃は、血液は病院で買ってくれるとか。献血しないと優先的に輸血してもらえない(預血制度のことと思われる)といった話を子ども心に聞かされたものでした。
ここで、血液が売れる・・・「売血」について歴史を少し紐解いてみたいと思います。
終戦後の昭和24年、GHQの援助で、日本初の血液銀行というものが誕生し、血液を集めることになったのですが、その制度発足の際、売血によリ血液を集めることが認められていました。
このため、本来では献血できないような人、【貧血・頻度売血者】が後を絶たなかったそうです。
現在では、400mml献血をすると2ヶ月以上は献血できませんが、彼らはそれこそ、1ヶ月もほどで売血を繰り返して、それを生活の糧にしていたのです。
当時日雇い労働で一日働くのと、ほぼ同じ金額が僅か30分で稼げるのですから、たまりませんよね。
でも、そう言った人たちの血液は極端に赤血球が少なくて「黄色い血液」と呼ばれていたそうです。
昭和30年代から40年代にかけて売血は比較的よく行なわれていたようで、私も巷で噂として売血の話は聞いたことがありましたし、今と違って当時の病院は薄暗くて陰気な場所が多かったので、病院=売血=暗いイメージとつながっていたのかもしれません。
そんな昭和44年といいますと、上野~成田間に直通していた蒸気機関車牽引の客車列車が消えて、山陽新幹線用試験電車の試作車が登場するなど、過去の遺物が消え去り、新しいものが誕生しようとする時代のちょうど真中だったのかもしれませんね。
また、国鉄にあっては列車等級【1等・2等】という制度が廃止されて1等車は、「グリーン車」、二等車は「普通車」という名称に変更されたのも、昭和44年でした。
今まさに、新しい日本に生まれ変わろうとしていたのでしょうね。
さて、献血に興味をもたれましたら、是非このサイトもご覧になってはいかがでしょうか。
かなりの分量でhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9043/baiketsu/index.htmlすが、読み応えあると思いますし、それだけの値打ちはあると思います。