皆様、深夜にこんばんわ。
こんな遅い時間まで夜更かししています。
実は朝5時に起きる自信が無いので、徹夜することにしました・・・笑
早朝から京都まで行かないといけないのですが、遅れると怖いので眠気覚ましに書いています。
さて、前回に新快速物語の番外編として、大山車掌の物語を書かせていただきますと予告しておりましたので今回はそのお話をさせていただきたいと思います。
実は、大山車掌のお話を取り上げるのは今回が2回目です。
前回は、4年程前の2004年6月19日に「国鉄魂」というタイトルでアップさせてもらっておりますので興味のある方は是非ご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/blackcat_kat/s/%B9%F1%C5%B4%BA%B2
この事件は当時大きく取り上げられ、須磨駅構内には大山車掌の顕彰碑も建立されています。
ほんじつは少し思い内容になるかもしれませんが最後までお読みいただければと思います。
このお話は、線路に転落した乗客を救助しようとして老人とともに亡くなった若き車掌の物語です。
事件は、今から30年以上前の師走、昭和50年12月27日15:50頃に起きました。
新快速電車を退避するため【当時は、現在と異なり新快速電車は普通電車と同じ線路を走っていました。】停車していた普通電車に乗務する車掌でした。
ホームに出て、通過電車の監視をしていたところ、ホームを千鳥足で歩く老人がホームから転落するのを発見、しかし、新快速電車はすぐそこまで接近していましたが、若き車掌は躊躇することなく、線路に降りて老人を抱きかかえましたが、新快速電車【当時は153系】が50m手前まで迫ってきており、ホームに上げることは不可能と判断、ホームと線路の隙間に体を委ね、やり過ごすこととしたのです。
しかし、哀れ2両目か3両目付近で機器と接触し老人ともども線路にその命を散らせたそうです。
車掌の名前は、大山健一氏、甲南大学を昭和48年卒業、50年2月からは、車掌として勤務していたそうで、当時の新聞記事を読んだ記憶では、大変真面目で職務で、その姿は同僚からも厚い信頼を得ていたそうです。
当日も、ホーム監視、出発合図にと各駅できびきびした動作で活躍していたそうで、通過監視の際に、強風にあおられ帽子を飛ばしてしまったので、同僚?指導車掌?から帽子を借りて乗務していたといったエピソードも当時の新聞記事で紹介されていました。
また、父親も大阪鉄道管理局の勤務だったそうで父親の背中を見て自然と国鉄の道に進んだのだと思います。
歴史にifはありませんが、もし大山車掌がこの事故に巻き込まれずに生きていたとしたら、きっとJR西の幹部として経営にあたっていたのではないかと思われてなりません。
昭和50年といえば、私が中学校3年生の頃で、この事件は大変衝撃でもありました。
現在、顕彰碑が須磨駅構内に建立されており、電車からも見ることは出来ます。
新快速電車で須磨駅を通過する歳は是非、その碑を見つけてください。
続・事故の鉄道史」佐々木冨泰・網谷りょういち 共著 にも、須磨駅事故の状況などが詳しく記述されていますので興味のある方は是非ご一読を
こんな遅い時間まで夜更かししています。
実は朝5時に起きる自信が無いので、徹夜することにしました・・・笑
早朝から京都まで行かないといけないのですが、遅れると怖いので眠気覚ましに書いています。
さて、前回に新快速物語の番外編として、大山車掌の物語を書かせていただきますと予告しておりましたので今回はそのお話をさせていただきたいと思います。
実は、大山車掌のお話を取り上げるのは今回が2回目です。
前回は、4年程前の2004年6月19日に「国鉄魂」というタイトルでアップさせてもらっておりますので興味のある方は是非ご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/blackcat_kat/s/%B9%F1%C5%B4%BA%B2
この事件は当時大きく取り上げられ、須磨駅構内には大山車掌の顕彰碑も建立されています。
ほんじつは少し思い内容になるかもしれませんが最後までお読みいただければと思います。
このお話は、線路に転落した乗客を救助しようとして老人とともに亡くなった若き車掌の物語です。
事件は、今から30年以上前の師走、昭和50年12月27日15:50頃に起きました。
新快速電車を退避するため【当時は、現在と異なり新快速電車は普通電車と同じ線路を走っていました。】停車していた普通電車に乗務する車掌でした。
ホームに出て、通過電車の監視をしていたところ、ホームを千鳥足で歩く老人がホームから転落するのを発見、しかし、新快速電車はすぐそこまで接近していましたが、若き車掌は躊躇することなく、線路に降りて老人を抱きかかえましたが、新快速電車【当時は153系】が50m手前まで迫ってきており、ホームに上げることは不可能と判断、ホームと線路の隙間に体を委ね、やり過ごすこととしたのです。
しかし、哀れ2両目か3両目付近で機器と接触し老人ともども線路にその命を散らせたそうです。
車掌の名前は、大山健一氏、甲南大学を昭和48年卒業、50年2月からは、車掌として勤務していたそうで、当時の新聞記事を読んだ記憶では、大変真面目で職務で、その姿は同僚からも厚い信頼を得ていたそうです。
当日も、ホーム監視、出発合図にと各駅できびきびした動作で活躍していたそうで、通過監視の際に、強風にあおられ帽子を飛ばしてしまったので、同僚?指導車掌?から帽子を借りて乗務していたといったエピソードも当時の新聞記事で紹介されていました。
また、父親も大阪鉄道管理局の勤務だったそうで父親の背中を見て自然と国鉄の道に進んだのだと思います。
歴史にifはありませんが、もし大山車掌がこの事故に巻き込まれずに生きていたとしたら、きっとJR西の幹部として経営にあたっていたのではないかと思われてなりません。
昭和50年といえば、私が中学校3年生の頃で、この事件は大変衝撃でもありました。
現在、顕彰碑が須磨駅構内に建立されており、電車からも見ることは出来ます。
新快速電車で須磨駅を通過する歳は是非、その碑を見つけてください。
続・事故の鉄道史」佐々木冨泰・網谷りょういち 共著 にも、須磨駅事故の状況などが詳しく記述されていますので興味のある方は是非ご一読を
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