JRでは今年の改正で、「はまなす」が廃止になって列車種別としての「急行」も無くなり「特急」と「快速」の列車種別になってしまいました。
元々、特急はLimtited Express(特別急行列車)という位置づけだったんですけどね。
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そして最盛期には、国鉄には特急と呼ばれた種別以外に急行、さらにその下に準急と呼ばれる種別がありました。
この辺は50代以上の方ならよくご存じだと思います。
昭和38年の時刻表から
私鉄の場合準急も急行も停車駅の差でしかない場合が多いのですが、国鉄の場合はその名称の差は列車の設備の差として厳然と分けられていました。(昭和30年頃まではのお話で、国鉄の赤字がひどくなってきた昭和40年頃ではぼったくり急行が多数走っていました。その辺はまた別の機会にお話をさせていただこうと思います。)
さて、昭和38年頃の時刻表を見てみますと、準急・急行・特急と列車種別が分けられているのが判ります。
当時の東海道線を見てみますと準急東海が東京~大垣を走り、東京~大阪を走る列車は急行列車となっており、どちらも153系電車が使用されていました。
急行なにわ 昭和36年の鉄道ピクトリアルから引用
同じ153系ですが、2等車は同じですが、1等車で大きく差をつけていました。
当時の準急東海の1等車は、回転クロスシート(特急の普通車と同じT17と呼ばれる回転シートでリクライニングはしません。)でしたが、急行編成にはフルリクライニングシートが使われ蛍光灯のカバーも付いていました。ちなみにサロ153は蛍光灯のカバーはありませんでしたし、気動車急行は1等車のシートはリクライニングでしたが蛍光灯カバーは付いていませんでした。これは恐らくローカル線区に使うので少しでも経費を安く上げたいと言うところからではないかと推測しています。(実際にはエンジンの価格が高く、少しでも経費を減らしたい思惑もあったようです)
サロ152の車内(冷房は付いていませんが、蛍光灯のカバー付き)
外観 サロ152 いずれも鉄道ピクトリアル昭和36年から引用
サロ153の車内(冷房は付いていません、蛍光灯のカバーも無し)
さらに、サシ153と呼ばれるビュフェが連結されており特に東海道線では本格的な寿司を食べる事が出来るということで有名になりましたね。
当時の記事を見ますと、寿司を担当していたのも日本食堂など当時食堂車に乗り込んでいた業者だったそうで、列車によっては日本食堂と都ホテルといった具合で一つの列車で二社がサービスを競う?ということもあったそうですが、当時は多分今と違ってそうしたサービス合戦があったようですね。
まぁ、特急が全車冷暖房完備の特別列車として君臨する時代、急行列車は一般向けの速達列車という位置づけであり、平均して500km~800km程度を守備範囲としており、準急は100km~400km程度が守備範囲であり、それに見合った車両を投入するといった具合のようでした。【一部文言の修正 2019/5/13】結果的には、急行車両よりも接客設備が劣る車両を準急が使用することが一般的で有ったようです。
実際に、北海道の準急列車のように、キハ05形と呼ばれる気動車準急がありました。
遜色準急 第2摩周
もっとも、準急でも、日光号のように自ら特別準急と名乗って準急でありながら特急と同等の設備を持つ車両もありましたし(実際に冬季は「特急ひびき」として運転されていますしその後、増備されて「ひびき」がメインの運用になってしまいました。
このように、列車種別は明確に車両の施設とともに、ある程度明確に分かれていたのですが、国鉄の増収施策の陰で、この差別化は縮小され、昭和41年の改正では100km未満の列車だけになってしまい準急料金は急行料金と統一されてしまいました。
さらに、昭和43年にはそれまで残っていた100km未満の準急も急行に統合されてしまいここで準急という種別は国鉄から消えてしまいました。
昭和38年の時刻表から 準急料金と急行料金
その後、国鉄では急行用車両の開発を行わず特急化する施策を行ったことで年々急行が減少して優等列車と呼ばれるのは特急だけになってしまいました。(快速は普通列車なので優等列車の分類にはなりません)
元々、特急はLimtited Express(特別急行列車)という位置づけだったんですけどね。
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そして最盛期には、国鉄には特急と呼ばれた種別以外に急行、さらにその下に準急と呼ばれる種別がありました。
この辺は50代以上の方ならよくご存じだと思います。
昭和38年の時刻表から
私鉄の場合準急も急行も停車駅の差でしかない場合が多いのですが、国鉄の場合はその名称の差は列車の設備の差として厳然と分けられていました。(昭和30年頃まではのお話で、国鉄の赤字がひどくなってきた昭和40年頃ではぼったくり急行が多数走っていました。その辺はまた別の機会にお話をさせていただこうと思います。)
さて、昭和38年頃の時刻表を見てみますと、準急・急行・特急と列車種別が分けられているのが判ります。
当時の東海道線を見てみますと準急東海が東京~大垣を走り、東京~大阪を走る列車は急行列車となっており、どちらも153系電車が使用されていました。
急行なにわ 昭和36年の鉄道ピクトリアルから引用
同じ153系ですが、2等車は同じですが、1等車で大きく差をつけていました。
当時の準急東海の1等車は、回転クロスシート(特急の普通車と同じT17と呼ばれる回転シートでリクライニングはしません。)でしたが、急行編成にはフルリクライニングシートが使われ蛍光灯のカバーも付いていました。ちなみにサロ153は蛍光灯のカバーはありませんでしたし、気動車急行は1等車のシートはリクライニングでしたが蛍光灯カバーは付いていませんでした。これは恐らくローカル線区に使うので少しでも経費を安く上げたいと言うところからではないかと推測しています。(実際にはエンジンの価格が高く、少しでも経費を減らしたい思惑もあったようです)
サロ152の車内(冷房は付いていませんが、蛍光灯のカバー付き)
外観 サロ152 いずれも鉄道ピクトリアル昭和36年から引用
サロ153の車内(冷房は付いていません、蛍光灯のカバーも無し)
さらに、サシ153と呼ばれるビュフェが連結されており特に東海道線では本格的な寿司を食べる事が出来るということで有名になりましたね。
当時の記事を見ますと、寿司を担当していたのも日本食堂など当時食堂車に乗り込んでいた業者だったそうで、列車によっては日本食堂と都ホテルといった具合で一つの列車で二社がサービスを競う?ということもあったそうですが、当時は多分今と違ってそうしたサービス合戦があったようですね。
まぁ、特急が全車冷暖房完備の特別列車として君臨する時代、急行列車は一般向けの速達列車という位置づけであり、平均して500km~800km程度を守備範囲としており、準急は100km~400km程度が守備範囲であり、それに見合った車両を投入するといった具合のようでした。【一部文言の修正 2019/5/13】結果的には、急行車両よりも接客設備が劣る車両を準急が使用することが一般的で有ったようです。
実際に、北海道の準急列車のように、キハ05形と呼ばれる気動車準急がありました。
遜色準急 第2摩周
もっとも、準急でも、日光号のように自ら特別準急と名乗って準急でありながら特急と同等の設備を持つ車両もありましたし(実際に冬季は「特急ひびき」として運転されていますしその後、増備されて「ひびき」がメインの運用になってしまいました。
このように、列車種別は明確に車両の施設とともに、ある程度明確に分かれていたのですが、国鉄の増収施策の陰で、この差別化は縮小され、昭和41年の改正では100km未満の列車だけになってしまい準急料金は急行料金と統一されてしまいました。
さらに、昭和43年にはそれまで残っていた100km未満の準急も急行に統合されてしまいここで準急という種別は国鉄から消えてしまいました。
昭和38年の時刻表から 準急料金と急行料金
その後、国鉄では急行用車両の開発を行わず特急化する施策を行ったことで年々急行が減少して優等列車と呼ばれるのは特急だけになってしまいました。(快速は普通列車なので優等列車の分類にはなりません)
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