Blue jewel

拉致の解決を願って
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デザイン時々変更。

めぐみさん46歳

2010-10-06 | フレーズ
10月5日はめぐみさんのお誕生日

46歳になってしまったんですね。


あなたのお誕生日が近づくと、町に金木犀の香りが漂います。
お母さんは、その香りでいつもあなたのお誕生日が近いと感じたそうですね。




あなたが植えたコスモスが風にそよぐような弱々しさではなく、太く丈夫に育って、大笑いした話。

新潟の家のあった山茶花の寒さに立ち向かう強さ・・

あなたのエピソードには、いつも<花>がありますね・・



曽我ひとみさんとささやかに祝ったお誕生日から、もう30年以上たってしまいましたね・・

今年のお誕生日は、どんなふうに過ごしていますか?
ヘギョンちゃんにも、会えないままなのでしょうね・・

一人で過ごしているのでしょうか?

昨日お母さんとお話ししましたよ。

「絶望と、焦燥感で苦しくなることもありますが、あきらめないで頑張るしかないと思っています。。。」

と。

長すぎますね!

情けない政府と大臣に、あきれてしまうこともあります。

けれど、私たちは絶対に取り戻します!

日本人の心を一つにして、必ず救い出します!

待っていてくださいね!

本当に、ごめんなさい。

もう少し・・

多くの人々が、心配しています。

私たちにできることは、本当に僅かなのですが・・一つ一つ事を積み重ねて、必ず救出につながるように、努力していくことを誓います。

このあまりにも長すぎる<不在>を私たちは許しません!
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友人の温かさ・はがき

2010-02-09 | フレーズ


藤田隆司さん(藤田進さんの弟さん)

2月7日、冬の日、藤田進さんは、失踪しました。
北朝鮮による拉致濃厚の藤田進さんが、失踪したその日、川口で集会が行われました。

藤田進さんの同級生の方は、みなさん立派になられていて、その方達のお話をうかがっていると、たまらない思いでした。

藤田進さんも、北朝鮮の暴挙がなければ、きっと立派な体育教師になり、たくさんの子ども立ちに慕われ、スポーツを通じて、次世代の子供達を育てていたのではないかと思うと、辛くなったのです。もしかしたら、私の子供を指導していたかもしれないとも、思いました。

藤田さんのお友人は、小学校時代、中学校時代、高校時代、そして学芸大学時代の御友人も、はがきに興味を持ってくださいました。




このはがきは、拉致被害者宛になっていますが、もちろん、被害者に届くことはないでしょう。脱北し、総連との裁判を戦っきた千葉さんは、このはがきは、担当部署で丁寧に集められ、見えないところにしまわれだろうと、おっしゃいました。

無駄かもしれません。
けれど、その無駄を繰り返し、1000枚、2000枚~10000枚と積み重なったとき、必ずそのハガキを扱う人の目に触れます。
「おかしなはがきが来てるんだ」という<うさわ>になるかもしれません。その噂が、もしかしたら、翻訳に関わっている藤田さんの耳にはいるかもしれないじゃないですか?

たくさん文章が書いてあれば、内容を確認するために、誰かが翻訳するかもしれません。その翻訳に関わるのは、めぐみさんから、日本語を習得した担当者かもしれません。

もし万が一、そういうことがあれば、厳しい環境で、希望を失いそうになっている佐々木悦子さんが、『私達、忘れられていないんだわ』と思って、もう一度希望を持つかもしれません。

調査会のビラも、自由北韓放送やしおかぜも、一つの手段。効果を上げているでしょう。

けれど昨年末に放送されたNHKの番組を見ていても、金正日は、『一国の首相であれば、北朝鮮との約束を守る力があるはずだ。あなたは日本のトップなのだから』という主旨の発言をし、小泉首相が、私達日本の世論を抑えられないのが、理解できない様子でした。

金正日は、『世論』が理解できないのです。

 日本世論の力を、北朝鮮に届けましょう!
日本世論の思いを、金正日に嫌と言うほど、見せつけましょう!

一見無駄に見えるこのはがきが、そのためのアイテムです。
日本人1人が一枚、1億3千万のはがきが届けば、間違いなく山になります。

考えてみましょう。石岡亨さんの手紙が、どんな形で日本に届いたか?
あの手紙を厳重な監視の中で出すために、石岡さんは、何度トライしたのでしょう?
もしかしたら、何十通だそうとした、たった一通が、奇跡的にポーランド経由で届いたのかもしれません。

その手紙のおかげで、有本さん、松木さんと一緒に北朝鮮にいるということが、わかりました。

届いた手紙は、石岡さんの一通ですが、めぐみさんや、藤田さんも、なんとか安否を知らせようと手紙を書いたかもしれないのです。

幽閉され、過酷な状況にある拉致被害者が、家族に自分の安否を知らせようと努力してくれたのです。

安全に、自由に暮らしている私達だって、一枚のはがきを出す責任があると、私は思っています。

ご賛同の皆さんのご連絡お待ちしています。

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冬の空

2010-01-27 | フレーズ


晴れた冬の空に、ちぎれた雲が刻一刻と姿を変えながら流れていく。
青い空にその陰影を輝かせながら、流れていく。
今日の上空の空気の流れは、地上よりも早いのでしょう。
時にちぎれ、ときに繋がり、離され、また固まりになりながら、流れていく雲。

宇宙と、無常の時・・

しばらく空を眺めました。


空は、丸い地球をくるむ優しい大気。

雲は、海を隔てて待っているめぐみさんのところから流れてきたのかもしれないと、ふと思いました。

めぐみさんは、あの雲に、『私は生きています。早く助けてください』というメッセージを託したのではないかと、そう思いました。



昨日見た演劇『めぐみへの誓い』は、劇の中とはいえ、囚われの被害者の苦悩を表し、今も同じように苦しんでいる拉致被害者、強制収容所の人々の過酷な暮らしを想像させてくれました。

今も、田口八重子さんは、引き裂かれた我子、耕一郎さんやお姉さまの事を忘れてはいないはず。

招待所の閉鎖された空間で、生きるために耐えながら、それでも、きっと劇中にあったように、『帰りたい、子供に会わせて!』と悲痛な叫びを漏らすこともあるのだろうと・・

それは、めぐみさんだって、増元るみ子さんだって、市川修一さんも、有本恵子さんも、古川了子さんだって、松本京子さんも、佐々木悦子さんも、松木薫さんも、山本美保さんも・・・

全ての被害者が、何の罪もないのに、何十年も苦しみの中で待っているのだから、気も狂わんばかりの望郷と落胆と、苦しみの中で暮らしているのだろうと思いました。

それは、安穏と日本に暮らす私達の『犯罪』ではないかと・・
『救えないという犯罪』

もう、何十年もたっているのに、『救えない』私達。
もう、何十年もたっているのに、『救わない日本と言う国』。

日本は、何故、救おうとしないのか?
私達は、何故、救えないのか?

暗澹たる思いが体中を包みます。

けれど、

西から流れてくる雲は、『生きています』『助けて!』という被害者の願いを、私達に伝えているように、私は思いました。

石岡さんが、厳しい環境の中、必死に、消息を伝えようとした、あの手紙を思えば、私達が、沈んでいてはいけないのだと、太陽の光に一瞬輝いた雲が、『待っている、助けて』という被害者の思いを私に伝えているように思えました。

諦めない!
忘れない!

衣服も、食糧も、燃料も乏しいあの国で、生きて待っている被害者を、必ず救わなければ・・と声にだしてみました。
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六団体共同集会より 宋允復(ソンユンボク)さんの発言

2008-12-23 | フレーズ
蒼き星々掲示板メインボードより
http://8201.teacup.com/bluestars777/bbs
原さんのテキストを紹介します。

北朝鮮の人権改善を目指す人々による大発言会より3 宋允復氏

    投稿者:原 良一

北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 
        <アジア人権人同学会の設立準備期成会>
第3部「共催6団体他、北朝鮮の人権改善を目指す人々による大発言会」より
08.12.14 明治大学リバティータワーにて

 司会:川島高峰明治大准教授
 次に守る会から宋允復さん、おそらく世界で一番脱北者の話しを聞いている、それを通訳してきた方じゃないかな(宋氏照れ笑い)、と

 宋允復氏
 余りにも大げさな紹介で恐縮です。私もあまり忍耐力のあるほうでありませんで、時間も長引いておりまして頭も雑なもんですから、はしょった話しになると思います。

 この場に集われている皆様は、懐かしい面々で一杯なんですね。基本的に自動的に情報を聞いて帰ろうという方々じゃなくて、能動的な、実践的な関心からわざわざ日曜日に、雨の降る中こうした場に集われる貴重な皆様でございます。近くに野球場(東京ドームのこと)がありまして、野球のシーズンになるとまあよくも飽きもせず、毎日のように詰めかけますけど、これだけの私としては主観的には貴重な場にはこの教室が埋まるか、埋まらないかの皆様でございまして、その意味で尊い皆様とこうしてお話しできるのは、大変幸栄です。

 今回の集いが、6団体共催という形が取れたということ、これは既に壇上で話された方々のお話しを伺えば、一体誰の働きでこういう形になったのかということは、皆さんお感じになると思うのですね。特に特定失踪者問題調査会は日本的にも、国民の認知を受けた団体でありまして、聞くところによりますと、何で(調査会の)単独で集会をやらないんだ? というようなお話しもあったようですけども、単独の集会というのは常々やっていることであるから、こうした場で体系的に北朝鮮の内部の問題を知るということは大事な機会ということだというご判断を、代表の荒木さんがされまして、こういう形で実現したということがかなり大きかったようです。その意味で大変ありがたい機会です。

 で、わたし、紹介のありました守る会でも一応事務局長ということになっております。で、先ほど代表の砂川がごあいさつをしましたNO FENCEでも事務局長です。実態は、言葉もできる(朝鮮語を解する)し、定職もないから折り良くあっち行け、こっち行けと使われているのが実態なんです。

 そのぶんアメリカに行ったり、韓国に行ったりいろいろな機会がありまして、その中で北朝鮮の人権問題を通して、日本が国際社会でいかなるプレゼンスを持っているかを、折々肌身で感じる機会がありましたので、近々数ヶ月の経験を交えてお話しさせていただきたいです。

 韓国で弁護士協会みたいなものがありまして、どうしても左巻きみたいな方が多かったみたいです。学生時代に主体思想とか、マルクス・レーニン主義やって弁護士になった方が主流であって、だから脱北者の問題とか北朝鮮の人権問題には非常に消極的なんですね。

 それではいけない、という反省の声が強くなってようやく去年、北朝鮮人権白書というのが、大韓弁護士協会主催(日本の日弁連に相当)で編纂されました。それを日本の弁護士の先生方が日本でも翻訳したいということで、私もお手伝いして、弁護士の方と韓国に話しに行ったんです。

 そしたら大変なんですよ。ちょうどその時が慰安婦問題で強制性があるか、なかったかで新聞で意見広告を出したか、出さないかでアメリカの上院で決議を通るか、通らないかで、ちょうど折悪しくといいますか、私が日本から行きまして、私がこうやってコリアンネームで、コリアンだとやってるにも関わらず、日本の団体から来た人間だということで、途端に議論を吹っかけられまして、「北朝鮮の問題もいいけれど、日本の過去の問題はどうなんだ?」という話しになるんですね。

 それがボランティアでやってる学生ならまだしも、少なくとも地道にいろいろなことを下調べして、裏取りをして文書を作るプロのはずの弁護士のセンセェが頭に血を昇らせて、そういう形で食ってかかるわけでありまして、大変難儀で、なぜか私がそれを弁明しなければならない立場に追い込まれまして、大変難儀だなあと。

 その時私が言いましたのは、「貴方方がマスコミレベルの情報だけでね、判断できるつもりになってはいけないよ」と。「どれだけ多くの人たちが表に出ない形で、北朝鮮の人たちの苦しみに思いを寄せて、汗を流しているか知らないだろう、君たちは。その知らないということに対する自覚さえ持てないね。それを何というか言うと、独善っていうんだ」そういう言い方までしたんです、わたくしね。韓国人は独善に陥りがちであると言いましたら、まあ判ったのか、判からないのか、まあそんな感じでした。

 それから後ちょっとありまして、今年5月でしたか、アメリカに行きました。行ったきっかけというのが、申東赫(シン・ドンヒョク)という(北朝鮮の政治犯強制)収容所で生まれ育った人間で、日本で本も出版(「収容所に生まれた僕は愛を知らない」ベストセラーズ)されましたけど、アメリカのリンクという在米コリアン中心にやっている団体が彼を招きまして、彼(申氏)は、知らない所へ行くのは心もとないから一緒に行ってくれと言いまして、私もお金もないし、ニューヨークなど全米の主要な都市を回る日程だったんですよ。それを全部回る時間も(金銭的)余裕もないからニューヨークだけご一緒しましょうということで行きました。

 向こうの団体の人たちといろいろ話しました。在米コリアンで、海外で一世たちが苦労して教育つけて、ガリ勉してるのが多くて、それなりに優秀なルートを歩んでいるのが多くて…。彼らと話しても、何か若干の壁というか、何かあるんです。何でかというと、日本から来た人間で日本の団体である、と。何故なんだと聞いたら、率直に言って「日本の人は、拉致問題しか関心ないんですよね」こういう言い方をポロっとするんです、しばらくするとね。

(宋氏は答えて)「そうじゃんないんだと、申東赫に聞いてみろ」と。彼がこの間何回日本に行って、多くの人たちと話してきたかと、多くの人たちが涙を流しながら、彼の話しを聞いているのかと。しかも韓国人の翻訳書籍が日本で一番最初に出てきて、1万部も出てるんだと。韓国で印刷されたのは3000部で、実際に売れたのは…、まあわずかなもんです、1000も出てないと思いますけど(500部程度らしい)。日本じゃ1万部出版社が刷りましてね。

 これで私が思ったのは、アメリカの連中もやっぱりわからないんだなと思いましたね。アメリカの人たちが言うのは何かというと、彼らと一緒に活動で回ったんですけど、彼らがもっぱらどこを回ったかというと、国連、ニューヨークにあります国連本部と、あとその周囲にあります在外公館、ヨーロッパ諸国の、そこを回って申東赫を連れて話しをして、ビデオを見せて活動しているんです。

 アメリカの国内でもっとやる所あるんじゃない? と言ったら、彼らが何を言うかというと、「いやあ、アメリカがイラクでああいう戦争を起こした」と。「ある意味で大義名分のない戦争を起こして、アメリカの信用は非常に傷ついている。そのアメリカが北朝鮮の問題で突出して動くと、また何を動機にしてるんだ? という疑いの目を向けられがちである」と。「だからヨーロッパの国にもっと動いていただきたいんだ」と、こういうことを言ってるんですね。

 私は驚きまして、予算規模を聞きましたら専従が10人くらいいて、私たちの団体からすると羨ましい限りなんですね、予算規模が二桁くらい違いましてね。その連中でさえこの程度かと、ちょっとラフな言い方になりますけど、後で編集してください、出すときは(笑)。や~、これは難儀だなあと思ってまた(日本に)戻ってきました。

 今回日本で私たち、先ほど来話しが出ている国際会議やったんですよ。そこにアムネスティ・インターナショナルロンドン本部の東アジア担当のディレクター(調査員)、ラジブ・ナラヤンというインド人を招きました。今彼は、サバットといって1年間休職をして韓国の大学で教授をしています。これが終わったら、また来年2月、ロンドン本部に戻ってまたアムネスティの東アジア担当者として活動するそうです。

 その彼と話していまして私がぶつけたのは、「アムネスティというと、90年代半ばに北朝鮮の収容所に、平壌の郊外に勝湖里(スンホリ)という1級の政治犯を入れる収容所がありまして、その(収容者の)名簿をアムネスティが入手したんですよ。これを全世界に発信したんですね。そしたら北朝鮮が慌てふためいてしまって、慌ててその収容所を閉鎖して、その建物を一般の刑務所であるかのようにしつらえて、アムネスティの視察を入れるという、そういう実績のある団体でもあるんです。

 その団体が、私の目で見ると2000年以降どうも北朝鮮問題で消極的なように見えるんだが、どうなんだ? という話しをしたんです。で、その隣に日本のアムネスティの副議長を長年なさっていた日本の女性もいらっしゃっていて、その方は、私たちの国際会議を日本のアムネスティの会員からのFaxで知ったんですね。そのFaxの文面を見せていただいたんです。

(文面は)こういう北朝鮮の収容所問題に焦点を当てた国際会議があるから、ぜひ行って欲しい。それに加えて日本のアムネスティは、何で北朝鮮の人権問題でもっとやらないのかと。日本のアムネスティの会員として非常にジレンマがある、じれったい。どうなってるんですか? という文面だったんです。

 私が、その方の問題意識と一致したもんですから、ロンドン本部から来た人に話しを聞いたんですよ。そうしたら言ったことはこうです。国際的には、北朝鮮の問題に関して人権上のトピックになってるのは、日本人の拉致問題だと。今国際社会では、日本人拉致問題でのイメージが大きくなっていて、しかも日本が過去の慰安婦ですとかその他諸々の強制問題に対して、そうしたことはなかったという否定するような動きを取り、そして北朝鮮内の人道支援に消極的である。

 そういうあり方に対して、アムネスティの各国ヨーロッパを含めた各支部において疑問を持つ一定の認識があって、それを収斂した結果、アムネスティとしては北朝鮮の人権問題間に関しては慎重にアプローチすべきであるという判断が立ち、それを日本のアムネスティが支持したんだ、と。

 私は、これは大変な話しだと思いまして、雑な言い方になりますが、無知もありますし、無理解もありますし、一体その程度の判断でそういう態度をとるのはどうなんだ? という一点でそれはそれとしてあります。
 非常にびっくりして、「あなた今言ったこと公にしていいか?」と聞きました。(話しをした)その時は、国際会議の懇親の場でしたから、今各国からも、アメリカからも人が来ているよ、と。この場でアムネスティが、そのような認識で北朝鮮の人権問題に消極的であったというあなたの言葉をそのまま伝えていいか?」と言いましたら「いい」と言いました。で、伝えました。今の私の伝え方でミスリーディングなところはないか? 誤解を招くところはないか? と確認して「OKである。その通りである」ということでした。

 そのインド人ナラヤンという人が私に言いましたのは「どうかこうした(北朝鮮の)収容所の問題、脱北者の問題で、日本がもっと国際社会でプレゼンス(存在感)を持って欲しい」と。「そして私がこういう国際会議に参加して、各国アムネスティから上がってきた意見に誤解がある、認識の過ちがあることは認識したから、それを持ち帰って来年2月からロンドンに戻った時に、北朝鮮の問題を積極的にやろうと思う」と。

「それにつけても日本からはもっと国際社会に日本国民が本当に北朝鮮の人権問題に憂慮し、その改善のために努力しようとしているあり方を、意図的にプレゼンスして欲しい」ということを重ねて言って、彼は帰っていったわけです。

 私は、韓国、中国がそういう意味である種日本に対するレッテル貼りをして見ているのはわかるという話しもあるし、何とか誤解を解かないといけないと思っておりましたが、アメリカ、ヨーロッパでもそうかということを知って、これはちょっとあまり無頓着に放っておいてはいけないなということを思いましたね。
 それにさらに追い撃ちをかけるように、最近イギリスの下院の外交委員会が、何か報告書をまとめたということを電脳補完録で上げていまして(http://nyt.trycomp.com/modules/news/article.php?storyid=7770
)、その内容を見ると、重点は何があるかというと、「日本と朝鮮半島」というテーマなんですね。

 要するに日本と朝鮮半島は、日本と韓国がしっくりいってないが故に、北朝鮮問題でアジアの大きな民主主義国、自由主義国としては双璧であるところの日本と韓国が、共同歩調をしっかり取れていないが故に、北朝鮮の問題を進展させるのにマイナスになっている、と、何とかならないか、という趣旨なんです。それなんか見ても、やっぱりそういう図式で描いているわけです。

 で、日本人にとって拉致問題が感情的な問題であるということは、国際社会において理解されるべきである」と言うんだよね。感情的な問題なんでしょうか? そうじゃないですよね、単なる感情的な問題じゃありません。しかもそれがメインじゃないんですね。メインとして扱われているのは何かというと、この従軍慰安婦問題というのが、国際社会においてなかんずく朝鮮半島において、非常に、未だに大変センシティブで感情的な問題であるということを、日本を含め国際社会が認識すべきである。こういうことなんです。

 先ほど来言っているような国際社会のある種レッテル貼りというのを、イギリスという下院の外交委員会という公的な人たちの報告書で、そういう位置づけをしてるわけなんですね。あ、これはますますいかんね、と思いますね。

 今、外の見かたの話しをしました。で、今度は、日本国内ではどうだったかというここ一、二ヶ月月の経験を話したいです。(人権団体の)ヒューマンライツウォッチの土井香苗さんという弁護士さんがいらっしゃいます。この方が、11初の初旬でしたかね、申東赫(シン・ドンヒョク)を日本の弁護士協会が招きまして、講演をしたんですね、弁護士会館で。

 で、日程が空いているのでもったいないので、ヒューマンライツウォッチ代表の土井さんがアレンジをしまして、外務省の複数の部署とあとはどこでしたかねぇ、麻布高校ですね、麻布高校で、本来は彼女単独で講演をする機会があったんですけど、せっかく収容所の体験者が来たというので、話しをしました。

 外務省の複数の内、一つは北東アジア課で、もう一つは別の部署です。別の部署というのが、11月の下旬に国連の人権理事会で北朝鮮人権状況決議が可決されましたけれども、その人権決議を通すために、日本政府を代表してロビーをやる、だから日本政府の実務的には最高の責任者、課長さんなんです。それがニューヨークに出張する出張する忙しい合間を縫って、収容所の体験者が来たということで、直々に話しをしてくれたんです、忙しい合間を縫って。

 その方の話しを聞いて、私は驚いたんです。「いや、こういう収容所体験者の手記が、日本で出版されていることを、私、知りませんでした。土井香苗さんが、面談の直前に送っていたものだから読んでビックリして、今課内で回しています」って言うんです。局内で回してます、と。それはまあ新刊です。

 ところが、日本では既に10数年前、1990年代半ば以降、姜哲煥(カン・チョルファン)、安赫(アン・ヒョク)の「北朝鮮脱出」(文春文庫上・下巻)ですとか、あるいは収容所の警備兵をやっていた安明哲(アン・ミョンチョル)の「北朝鮮絶望収容所」(ベストセラーズ、ワニ文庫もあり)とかそういう本が90年代にいっぱい出ているんですね。そういう物が出ていることも知りませんとおっしゃいました。

 その(収容所の)中に日本から渡っていった人間がどんどん入れられていて、こういう類の扱い(虐待)をされてどんどん死んでますよ、という具体的な個人名がいっぱい載っているとう事実も知りませんとおっしゃいました。

 私はそれを聞いて、これはしまったなと思ったんです。私こういうものに関わっていますから、どうしてもテレビも盛んにやった、特に2002年以降集中豪雨的にやりましたんで、もうとっくにそういうことは知られていて、まして優秀な外務省の官僚の方々ですから、もう組織的に基礎的な情報というのは消化した前提の上に立って、国連などでどういう活動をするかという組み立てをなさっていると思ったところが、その基礎の部分が必ずしも共有されていない、組織として…。

 これと外の見かたというのが、ある意味で噛み合った所があったんです。拉致しか言わない。そうじゃないですね実態は。実態はそうじゃない。日本側が拉致問題に力を注いだ結果として、横田めぐみさんの夫であられる金英男(キム・ヨンナム)、彼のDNA鑑定なんかも、日本の動きがきっかけになって明らかになって、韓国内でその時大変韓国政府に批判しました。

 日本がわずか拉致問題で何年動いただけでこれだけ情報が出てきて、事実が判明したじゃないか、韓国政府は一体何をやってるんだと。何十年韓国人拉致被害者を抱えているのを知っていながら、何もしようとしないという意味で、韓国内でも自国政府に対して批判があって、その間で日本政府の仕事というのも大きかったわけですけれども、国際社会においては、必ずしもそういう認識は得られてない。

 日本の国際社会のプレゼンスというのは、非常に粗雑なまとめ方をすると、自国民の拉致問題しか関心がなくて騒ぎ立て、自分たちの過去の問題には頬かむりし、北朝鮮人民の窮状については関心がない。こういう事実とはかけ離れたレッテル貼りがされ、それがあたかも事実であるが如く一人歩きし、それが一定の効果を現に現れていたということなんですね。

 私が、話しが長くなってあれですから申し上げたいのは、やっぱりね、急ぎます。基礎的な作業を。もう既に本で出版されてるくらいの、全部集めて収容所の体験者の手記というのは、4~5冊ですから全部まとめても5000円にもならない話しですよ。これをできるならオバマ政権が発足するまでに在外公館に勤務している人々すべて含めて全外務省職員は読むべきである。それをしっかり消化して、落とし込んで、その憤りも併せて海外でロビーなり、働きかけなりをすべきである、と。

 あと、先ほど政治家の議員の方がごあいさつしていただきましたけど、日本の議員さんは全部合わせても千人ならないですよね、衆参合わせて八百数十人ですから、この方々にも漏れなく読んでいただきたいんです、なるべく速やかに。一人当たり5000円くらいですからお役人さんからすると、深夜のタクシーでの帰宅を一回止めれば、浮くくらいの(笑)、たいした額じゃないですよね。

 せめて日本語で出版されている本は読んで、その上で、今海外で、英語で出版されているのはどれかといったら、姜哲煥の「平壌の水槽」(ポプラ社)一冊くらいなんです。それ以外は女子刑務所の体験者の手記で李順玉(イ・スンオク、「北朝鮮泣いている女たち」ベストセラーズ、ワニ文庫もあり)さんの「ジ・アイ・オブ・テイルレス・アニマルズ」といって尻尾のない獣のような手記、せいぜいこの二冊ですから、この二冊を漏れなく携えて働きかけをしていただきたい、と。

 まあ、あまりまとまらない話しをして、あともう一つは、先ほど外の世界、見かたに誤解や独善があるという話をしましたけど、そこにもう一つ、もう一つ厳しさがあるなと感じてて、それは何かというと、一つにはそれはキリスト教なんです、キリスト教。世界の中でこういう問題に関心を持って活動する人というのは基本的にキリスト教徒なんです、クリスチャンの人たち、キリスト教ベースで動いている。

 その人たちは、一定のマナーというのを身に付けてますから、不躾に他の文明圏、日本国民、日本人と接した時に、敢えて宗教レベルの話しは持ち出さないんです。ただ持ち出さないが故にある意味彼らがある種独善に陥ってるところもあって、結局、信仰とか本質的なところでは、日本の人たちはわからないかもしれないな、わからないから自国民の拉致問題には関心を持つかもしれないけども、その枠を超えたところでは意識が行かないかもしれないという、大変な誤解というか錯覚というか、それを持っていながら、それを言わずに自分たちの内で抱え込んでいると、こういう実情があるのです。

 これは欧米圏だけでなく韓国もそうです。こういう問題で活動する多くの人たちがキリスト教徒であって、キリスト教団体ですから。そういう人たちとしばらく一緒にいて話すと、そういう話しがポツポツ出てくるんです。日本はあれだけ人口がいるのに、先進国なのにクリスチャンの人口比は、0点0何%らしいね、そう言うんです。そういうところがあるんです。

 その意味で、横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんがよくご自分の信仰ということを土台にして、拉致問題だけじゃない、北朝鮮の苦しんでいる人たちにも目を向けて、もっとその問題についての意見発信をしたいということを様々な折お話しになさっているのを承知しています。ところで欧米の人たちに理解を増す上で、大変大きな切り口なんですよ。

 ですから今後私が考えますのは、こうした物をどんどんYouTube等に翻訳を付けまして載せてって、日本人は自国民のことしか関心のないエゴイズムの人たちじゃないんだ、と。本当に心の底から苦しんでいる北朝鮮人のありかたに胸を痛めて、何とかしたい、と心の底から願って多くの人たちが汗を流してんるだと、このプレゼンスを意図的に国際社会に発信していきたいということなんです。

 その意味で、この場に座られた非常に貴重な方々です。皆さんはそういう視点を一つ置いて、能動的に海外に向けて情報を発信されますことを祈念しまして、私の話しとさせていただきます。(拍手)

 以 上、

※このテキストの音声ファイルはこちらから
 http://www.netlive.ne.jp/archive/event/081214.html

※北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
 http://hrnk.trycomp.net/

 NO FENCE 
 http://nofence.netlive.ne.jp/
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運動をもう―度市民の手に

2008-12-21 | フレーズ


運動をもう―度市民の手に

----拉致救出運動に関連して
       いささかの苦言とささやかな提言を----

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会  北村 武則


政治に翻弄される拉致問題  

北朝鮮が六力国協議に基づき(冷却塔爆破のパフォーマンスつきで)核申告を行い、米国がテロ支援国家の指定解除を検討開始-これが原稿を書いている時点での北朝鮮情勢である。これに対して家族会をはじめとする拉致関連団体が強く反発、政府をまじえて綱引きを展開している。私はここでため息をつかざるを得ない。いつから北朝鮮の人権問題は政治力学の課題になってしまったのだろうか、と。

私は拉致問題ではなく帰国者問題の側面から北朝鮮民主化運動にかかわってきた。現在も「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」にのみ所属して、拉致問題の団体には在籍していない。この立場から拉致関係運動団体の動きを見ていると(あくまで報道を通してである)あまりにも政治-政府・国会議員・米国政府等-と一体化しているように映るのだ。

私はもちろん北朝鮮の犯罪には強い怒りを覚えているし、拉致被害者と家族の苦しみを共有じたいと願っている。それだけに現在の運動のありかたに戸惑いを感じざるを得ないのである。

私と北朝鮮民主化運動との出会い 

私が北朝鮮民主化運動にかかわるようになったのは二十年も前、大学生の頃であった。朝鮮半島の歴史や文化に興味を持ち、本を読んで独学するうちに北朝鮮の体制や帰国運動家の事実を知るようになった。
強い怒りを感じているところへ在籍する関西大学で李英和(リ・ヨンファ)氏と知り合ったことがきっかけとなった。氏がRENK (救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットヮーク)を立ち上げたことを知り、私も微力を省みずに参加したが、当時の私たちを取り巻く情勢は最悪の一語に尽きた。冷戦構造末期の当時は弾圧機関としての朝鮮総連の機能はまだ健在で、RENKの集会には毎日多数の総連活動家が押し寄せ、妨害するのが常だった。

とりわけ一九九四年、当時まだ存命だった金日成首領の誕生日四月十五日を期して大阪市内で開かれた集会の場合は記憶に生々しい。李英和氏あての「必ず集会を潰す」という予告どおり、百人単位の活動家が集結し、文字どおり物理的に集会を破壊したのである。それ自体ももちろん悔しかったが、それよりも情けなかったのが、翌日の朝刊での事件の報道が社会面のべタ記事だったことである。大阪府警の機動隊が出動し、RENKメンバーを逃すために繁華街の道路と鉄道駅を封鎖する騒ぎにまでなった事件がべタ記事とは……。

北朝鮮を巡るこの国のありようと、その中で呻吟するしかなかった帰国者の家族の想いを想像し、暗澹たる気持ちにならざるを得なかった。

それだけに第一回小泉訪朝で金正日が拉致を認め、世論の北朝鮮認識が一気に変わったときには私も昂揚したものである。拉致被害者救出は日本政府の最重要課題と位置づけられた。長年にわたって苦闘してきた被害者家族の気持ちも同様だったはずである。これで一気に・・・・。
しかし、無数の人間の血を吸って生き廷びてきた独裁政権は想像を超えてしたたかだった。

運動があらたに直面する困難 

現在、北朝鮮民主化運動は、北の人権問題がまったく無視されていた頃とは別種の困難に直面している。政治家もマスコミも拉致被害者家族には「理解ある」態度を示してはいるが、その一方において奇妙な行動をとったり、不可解な言説をまき散らす。世論はそれによって混迷し、北朝鮮問題には冷やかな視線を送るようになる。私は長年月にわたって社会の誰からも無視され、孤独な闘いを強いられてきた家族会の方々が政府の弱腰を責め、その強力なリーダーシップを求める気持ちを理解できないわけではない。せっかく拉致問題解決を最重要課題に取り上げた政府が、その姿勢を後退させてほしくないと願うのは当然である。

しかしそれを承知であえて提言したいのだが、救出運動および広く民主化運動は政治とは距離を置くべきではないだろか。関係を絶て、というのではない。ただ政治家や政府というものは、あくまでも「利用」するものであって、決して「頼り」にするものではない---その決意を胸に秘めて行動するべきではないかと思うのだ。

もう一度、それぞれの立場の運動関係者が政治家や官僚に向かってではなく、孤独をかみしめながら闘っていた時代の気持ちを取り戻して、一般市民に向かって訴えるときに来ているのでは、と考えるのだ。

かつての世間(特に左派・リベラル)は拉致問題も北朝鮮国内の人権問題も日米韓の国家権力による「謀略」とみなして黙殺してきた。現在、さすがにこれらの事実を否定する言説は不可能となったが、あいかわらずその視線は冷やかである。

これにはさまざまな解釈ができると思うが、ひとつには左派陣営に伝統的に根強くある「反権力志向」がある運動のように見なされ、それに対する忌避感情が刺杖されるのではないだろうか。

もちろん批判されるべきはその狭量であることは言うまでもない。そもそも「反権力」の姿勢が権力そのものと化している点に彼らは目を閉ざしている点も問題である。(家族達の必死の訴えを圧殺してきたかつての「革新」政党の姿が分かりやすい例である) 

しかし、左派・リベラルの責任を追究する本誌の意図が批判のための批判ではなく、未来へ向けての建設的批判にあるなら、その批判対象がどのような心理で物を見、どのような論理で物を考えているかを考察することも無意味ではあるまい。それはまた同じ文化の中で生きる我々の姿とも通じるものであろうし……。

もし現在の救出運動のありようが、戦術的に好ましい方法となっていないならば、根本の部分から練り直す勇気と柔軟性を持ってほしいと思う。


運動は、政治から距離を 

私が救出運動家が政治から距離を置くべきだと考える理由はそれだけではない。政治と二人三脚で歩む状況が運動の広がりを阻害する危険性もあるからだ。
以前、家族会の方々が国会前で座り込みをしている二ュースをテレビで見た。家族の方々のご苦労に同情するとともに、率直に言ってこんな疑問も覚えた。___何故、朝鮮総連本部の前で座り込まないのだろうか? 北朝鮮の犯罪を批判する行動を旧本政府に向かってやる--この持ってまわった行為を私は当初、(在日朝鮮人に対する)日本人特有の遠慮によるものかと想像していた。

最近は少し違った見方をしている。自民党議員筋や公安関係筋からの示唆や誘導といった、何らかの「圧力」によるものではないか、という想像である。もちろん何の根拠も無い憶測、いわゆるカングリの類に過ぎないが、政治と近い運動のありかたが左派だけでなく、私のような右派(?)にまで疑問を持たせている現実を感じ取って欲しいのだ。

政治家や官僚は、本質的に自分たちのコントロールできない市民運動を嫌う。絶えず自分達の影響下に置くべく運動に制約を加えようとする。そのような形で展開する市民運動が果たして社会へ影響を与えることが出来るだろうか。

ブッシュ大統領や安部晋三氏がいかに被害者と家族に同情を寄せようが、それを頼みと考えてはならない。政治家個々人がどんな感情を持っていようと、政治というシステムが本質的に個人より全体を優先するものである以上、最終局面において家族の想いを踏みにじる存在である、という点を運動にたずさわる人々は肝に銘じるべきである。

政治から離れて行動の自由を 

くり返すが政治家や官僚は「利用」するものであって、「頼り」にするものではない。政治と過度に一体化すべきではない。外務省高官が家族会に対北交渉の内容を説明する映像は、政府が家族会に配慮しているポーズを印象付ける効果があるだけで、それ以上は何も無い。政治との一定の距離を保つことによって、発想と行動の自由を取り戻すべきである。

具体的に提言するなら、北朝鮮を批判する行動は北朝鮮に向けて直接するべきである。そして市民(拉致関係では国民という言葉が好まれるようだが、私は在日コリアンも含めた日本社会全体を視野に入れたいのであえてこの言葉を使う)をまき込んだ運動を考えるべきである。

たとえばピョンヤンの労働党本部や外務省気付で拉致被害者宛の励ましの手紙を送る---こういうキャンペーンを全国規模で展開してはどうだろうか。日本政府を動かして北へ庄力をかけるといった回りくどい運動ではない。日本の一般市民が直接独裁政権へ圧力をかけるのである。北の独裁者にとってこれほど不気味で不安をさそう運動があろうか。

横田めぐみさんの誕生月には「めぐみさん月間」と銘打って、誕生祝いのグリーティングカードを大量に発送する---日本社会は被害者の生存を信じている。帰すまで決して諦めない。この強い意志を北へ示す格好の運動になると思うのだが。

そして、種々の要請行動は朝鮮総連と北の最大の後見人である中国政府に対じて行う。日本政府と米国政府へ要請を続けているうちは、北は高みの見物であろう。勇気をふりしぼって、北朝鮮そのものと対決すべきである。

そのためにも政治家、官僚には「あなたたちは職責を全うしてください。私たちは市民として自由に闘います」と言い切る気概が必要であろう。

もう一度、運動を私たちの手に 

今北朝鮮民主化運動に携わる人たちに手詰まり感が漂っているように思われてならない。それは日本社会全体の拉致問題を見る態度にも共通している。政府に何を働きかけても何の進展も見られない。救いを待つ被害者、帰りを待つ家族、どちらの想いも国際政治の駆け引きの中で黙殺されるばかりである。その結果もたらされるものは社会全体の無関心と、ネット社会などで見られる対北武力行使論のようなヤケクソの声である。

この手づまりの状況を打破するためには、いま一度、民主化運動(救出運動を含む)を政治の世界から、私たち無名の一般市民の手に取り返すべきである。私たち一人ひとりが北朝鮮の非道と立ち向かう姿勢を取り戻すべきなのだ。そのための方策を以下に示したい。

民主化運動を市民の手に取り戻すための前提として、市民が関連の情報に気軽にアクセスできる環境作りが必要である。私のように守る会にしか属しでいない者には、拉致関連のニュースはメディアで知るしかない。同じ状況は各団体の一般般会員にとってもそうであろう。全ての団体を応援したい気持ちはあるが経済的事情で出来ない。

各団体のホームページを丹念にチェックする時間的余裕もない-- そんな一般市民が一元的に運動家全体の情報を手に入れる手段、たとえば「北朝鮮民主化新聞」のようなものを作ることは出来ないのか。インターネット上で、そういう『新聞』を作り、政府の動きから、各団体のHPへもリンクできるようにする。そんなサイトができたなら一般市民への情報発信・団体間の情報交換にも役立つだろう。

すでに北朝鮮人権大学(関西校)という画期的な複数の団体の協力で成功裡に実現した。日常レベルでの連携へも進むべきであろう。
そうやって市民へ情報の伝達を果たした後には、その市民の行動を促す方向へ運動をもっていきたい。各団体とも支援してくれる一般会員達を会費支払いマシーンではなく、行動する主体として捉えるべきである。

かつて『地球を救う五十の方法』といった本がブームになり多くの類書が世に出た。ブーム化の軽薄を嗤う声もあったが、確実に現在にまで通じる環境重視のムーブ メントを作り出した先駆的な動きであった。今,胡散臭い政治の場から民主化運動を市民の手に取り戻すため に、一般市民が実行できる「北朝鮮の民衆を救う方法」を五十でも百でもひねり出して、社会に提示しなければならない。
前述の被害者ての手紙もそうである。民主化新聞で家族会の署名活動予定表を掲載し、協力を呼びかけるのもよい。マスコミへの投書、地元国会議員事務所へ北の人権問題に関する質問状の送付、外務省への要請ハガキ・総連への抗議ハガキの投函・・・・北朝鮮の民主化運動は、運動家や学者、ジャーナリストの功名のためになされるものではない。自由を奪われ虐げられた市民を同じ市民が救う運動である。

運動家に役割があるとすれば、気持ちはあっても手段がない、方法がわからないと諦めている市民に、方法・手段を明示し、行動の後押しをすることである。

そして最後に日本の市民と脱北した北朝鮮市民との交流の場を設けて欲しい。孤独と悔恨の淵にに沈む脱北帰国者が人としての自信を獲得し、尊厳のために闘う意思を持てるようにする。そしてそれによって日本の市民も大きな勇気をもてる。--- 一方通行ではない民主化運動の実現を目指して定期的な交流の催しを開けないだろうか。

たとえば、韓国料理店や韓国語教室を借りて小規模で良いから定期的に宴をもつ。脱北者は不安をはき出し、日本人は疑問をぶつける。そこから動きが生み出されるのではないか。たとえば双方が言葉を教え合い、脱北者は拉致被害者への励ましの手紙を、日本人は金正日宛ての抗議の手紙を書く、といったぐあいに……。

さらに風呂敷を広げるなら、韓国や米国に住まう脱北者と支援者も集めて「国際脱北者サミット」を開く。
北朝鮮国内にも連なる楕報網と行動網が築かれないか……。仝はまだ夢かも知れないが、市民の意志を集めることができれば、決して実現不可能ではないはずである。
本稿において私は、拉致被害者救出運動に対するいささかの苦言を呈した。しかし、この運動にたずさわってきた人々、とりわけ家族の方々に対する敬意はいささかも減じていないことを表明しておきたい。家族の方々を見て思うのは「良き日本人」の姿である。
困難に直面してくじけない強い意志、仲間と支え合う強い団結心、他人を悪しざまに罵倒しない自制心の強さと心の優しさ、常に失われない礼節 これらの美点を体現したごく普通の「良き日本人」である。そして同時に『良き日本人』は『弱気日本人』でもある。

 “お上”に対する根拠なき信頼感-- 家族の方々は政治家と何度「紳士協定」を結んで裏切られただろうが。およそ信頼に値しない人種を相手に誠実に運動を続ける姿に私はやはり、まぎれもない日本人の姿を映すのである。

朝鮮民族とは違い、幸運な歴史を歩んできた日本人には、権力を心の底から疑い、憎むという心性は持ち得ないのかも知れない。それはよい。それも歴史によって培われた私たちの個性であろうから。しかしそろそろその弱さを自覚し、克服する努力をしてもよいのではないだろうか。

北朝鮮民主化運動とは、北朝鮮の民衆と交流・連帯し、北朝鮮の独裁者と対決することによって、日本人が自分達の姿を映し直す行動ではないかと思える。その結果得られる「国民」の限界を超えた「市民」の視座こそが、これからの地球全体のさまざまな問題に立ち向かう際にも有力な武器になると思うのだ。

当面とり組まなければならない北朝鮮民主化運動を、私たちは政治の場から取り戻そう。それが私たち市民の一人ひとりが覚悟を定めるきっかけとなるだろうから。
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冬の澄んだ青空のはてに

2008-12-15 | フレーズ


初冬の澄んだ青空に、木々の梢が鮮やかに映える季節になりました。

北朝鮮人権問題啓発週間も、三回目、各地で工夫を凝らした活動が行われました。ほんの少し定着したと言っていいのでしょうか?

いえ、この問題は、定着すべきものだとは、私は思いません。
拉致問題を含む北朝鮮の極悪な人権侵害は、早く解決して、こんな人権週間を掲げなくてよい時が早く来るべきなのです。

六者協議は、何の進展もなく終わりましたね。
金正日の病状と、アメリカの政権交代を目前に足踏み状態なのでしょうか?
オバマ政権と交渉するために、時間稼ぎをしているような、北朝鮮。

空を見あげて思いをはせます。
あの青い空の向こうで、めぐみさんたちは、どうしているだろうかと。

しおかぜは、聞こえていますか?
寒さを防ぐ燃料はあるのでしょうか?
食べ物は、きちんと配給されているのでしょうか?
希望を失っていませんか?

家族は年を取ります。
命は限られています。
誰か、家族の変わりに訴えてくれないのですか?

早紀江さんは、大阪で『どうして、政治家が、私たちがちゃんとやるから、絶対に助けるから、任せておきなさいと言ってくれないのだろうか?』とおっしゃっていました。

家族を全面にたてた活動は、家族を疲労の極地に追いやります。
生きて再会するために、親の世代は、必死に命を繋いでいます。

生きて再会させるために、全国民の力が必要なのが、拉致問題です。

私たちは、青空のように、全ての意見の違いを超えて、手を携えるべきです。

北朝鮮人権問題啓発週間を早く終わらせるために!
全ての被害者を救出し、家族と再会させるために!

北朝鮮人権問題啓発週間は、明日で終わります。
クリスマス、お正月と、何かと気ぜわしい年の瀬。
不況とはいえ、町は賑わいをましていきます。

けれど、みなさん、絶対に忘れないでください。

クリスマスも、お正月も、一家団欒を迎えられない拉致被害者が、あの空の向こうで待っていると言うことを!
そのことを、この年末も、誰かに伝えてくださいね!
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大阪小冊子から、平松邦夫大阪市長(2008/12/1)

2008-12-06 | フレーズ

メッセージ    大阪市長 平松 邦夫

 大阪ブルーリボンの会結成5周年講演会の開催にあたり、ご挨拶申し上げます。
 皆様ご承知のとおり、平成14年9月、平壌で行われた日朝首脳会議で、北朝鮮側が長年否定していた日本人の拉致を初めて認め、謝罪し、再発の防止を約束しました。現在、日本政府は17名の日本人を北朝鮮による拉致被害者と認定しており、そのうち5名の方々については、同年10月に24年ぶりの帰国が実現しました。しかしながら、他の安否不明の方々については、北朝鮮側が、直ちに真相究明のための徹底した調査を再開する旨、明言したにもかかわらず、納得の行く説明がない状態が続きました。
 本年6月の日朝実務者協議において、ようやく、北朝鮮側から、拉致問題の再調査を行う旨が表明され、8月の同協議では調査目的と具体的な態様について合意がなされましたが、その後具体的な進捗はなく、拉致問題の解決は依然として厳しい状況であります。
 この間の家族会の皆様のご心痛やご苦労に思いを馳せますと、まさに胸をしめつけられる思いがいたします。
 言うまでもなく、拉致問題は国家主権及び国民の生命と安全に関わる重大な問題であり、その解決なくして北朝鮮との国交正常化はあり得ません。
 こうした中、国際問題と安全保障問題の専門家である青山繁晴氏が、北朝鮮による拉致問題について、最新の情勢を含めてご講演されるとともに、横田早紀江さん有本嘉代子さんをゲストにお迎えしてご家族の思いを共有する機会を設け、広く市民にメッセージを発信されますことは誠に意義深く、開催に力を尽くされました大阪ブルーリボンの会の皆様方に深く敬意を表します。
 大阪市におきましても、国際社会の平和と発展への貢献を誓い、世界の多くの都市と相互の交流を深め、国際的な友好親善の進展に努めるとともに、拉致問題に対する市民の理解が一層深められるよう、市政だよりやホームページなどを通じて情報発信を行っております。また、12月10日から16日の北朝鮮人権侵害問題啓発週間に予定されている全国的な啓発活動など、北朝鮮による拉致問題の早期解決に向けた政府の取り組みにも協力してまいりますので、本日ご参加の皆様方におかれましても、引き続きご支援を賜りますようお願い申し上げます。

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特定失踪者 1000番台リスト第14次発表(2008/10/30)NO.1

2008-10-31 | フレーズ
平成20年10月30日
特定失踪者問題調査会

(1)宮澤康男さん(昭和17年10月20日生まれ 昭和35年9月21日 都内で失踪 当時17歳 会社員)


 東京都台東区上野の勤務先(製パン業者)の宿舎から失踪。不確定ではあるが複数の目撃証言がある。

(2)藤田慎さん(昭和6年9月5日生まれ 昭和35年 都内で失踪 当時29歳 会社員)

 長兄に「旅行に行く」と新品の靴を借りに来る。次兄夫婦には、「結婚したい人がいる」と相談。また、弟にお金を借りに来る。その後音信不通。失踪から数年後、兄夫婦宅(川口市仲町)に年賀状が届く。字体は達筆(本人の字体に似ていた)。差出人の名前がなかった。消印は世田谷だったようである。昭和51年2月7日、埼玉県川口市で失踪した藤田進さん(次に挙げる新潟の藤田進さんとは別人)のおじにあたる。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(3)藤田進さん(昭和23年3月25日生まれ 昭和40年3月26日 新潟県青海町で失踪。当時17歳 高校生 すでに1000番台リストになっている埼玉県の藤田進さんとは別人)

 自宅から徒歩15分ほどの映画館で開かれる演奏会に、一人で歩いて出かけた。猛吹雪だった。
学生服の上にブルーのアノラックを着ていた。この3年後に県境を越えた富山県の入善町で屋木しのぶさん、朝日町で水島慎一さんが失踪(ともに1000番台リスト)しているほか、同時期男子高校生の失踪が多い。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。
(4)七條一さん(昭和23年8月22日生まれ・昭和45年2月10日 石川県金沢市で失踪 当時21歳 大学生)

 北陸方面を旅行。8日に能登を回って西宮市の母の実家に立ちより、徳島に帰る予定で、金沢市のユースホステルを出発し、輪島市で宿泊。9日「能登を回ってバスが遅れ、大阪行きの汽車に遅れた」と同じ金沢市のユースホステルに再度宿泊。10日朝出発し、以後消息不明。「雪が降っていたので兼六園の雪景色を見てくると言って10センチ位積もった雪の上を堤防の方に向かって歩いて行った」という証言と「東尋坊・永平寺に回ると言って宿を出る」という証言がある。2月10日は夕方のフェリーで西宮市の母の実家から祖父母を徳島に連れて帰り、翌日行われる法要に出席する約束をしていた。事前に東京の下宿から西宮の母の実家に法要出席のための背広を送ってあった。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(5)三浦和彦さん(昭和27年3月28日生まれ 当時21歳)

(6)波多野幸子さん(昭和30年2月14日生まれ 当時18歳・同じ会社に勤務 昭和49年1月12日 福岡県志摩町で失踪)

 二人は会社の同僚。当日会社に出勤。三浦さんは退社前に同僚に前原に行くと告げ、波多野さんの残業が終わるのを待ったと思われる。12日から帰宅せず。15日、福岡県糸島郡志摩町芥屋大門近くの海岸に車が放置されているのが見つかる。車内に三浦さんの免許証、コートが置かれたまま。両人の靴が片方ずつ落ちていた。
 1970年代は男女での失踪が集中して起きている。波多野さんについては不確定な目撃情報がある。

(7)山下春夫さん(昭和21年3月25日生まれ・昭和49年8月17日 福井県小浜市で失踪 当時28歳 造船会社勤務)

 8月16日会社近くで夕涼みを兼ねて夜釣りに行くと出かけたまま失踪。本人の作業靴が発見されている。失踪2か月前に小浜市の岡津(おこづ)海岸から高敬美・剛姉弟が連れ出されたとされる。後述の山下貢さん、宮内和也さん、林雅俊さんも近隣地域からの失踪だが、この地域は過去も現在も頻繁に工作員の出入りが行われている地域である。

(8)萩本喜彦さん(昭和15年1月2日生まれ 昭和50年4月4日 兵庫県高砂市で失踪 当時35歳 会社員)


 夜勤で自宅から会社へ自転車で向かう途中失踪。お金も持たず仕事着のまま。失踪後無言電話や不審な電話があり不審な葉書が届く。元工作員金東赫氏が昭和50年8月に平壌サーカス劇場で目撃したとの証言をしている。

(9)峰島英雄さん(昭和27年9月2日生まれ 会社員)


(10)関谷俊子さん(昭和32年5月19日生まれ 高校生)


(11)遠山常子さん(昭和32年6月22日生まれ 高校生 昭和49年7月11日 千葉市で失踪)

 遠山さんと友人の関谷さん、ならびに関谷さんの親戚である峰島さんの3人は、千葉市内の飲食店で食事をした。峰島さんが、「二人を家まで送ってくる。戻ってくるから、食事を用意しておいてくれ」と言い残し、車で飲食店を出たまま三人とも失踪。峰島さんの車も未発見。失踪の当日は、関谷さんの引越しの日だった。引越しが終わったあとに、三人で飲食店に食事に来た模様。失踪以降、何ら手がかりとなるものは無かった。関谷さん、遠山さんについては北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(12)寺島佐津子さん(昭和35年7月26日生まれ・昭和54年8月10日 神奈川県横浜市で失踪 当時19歳 銀行員)

 失踪当日、勤務先の支店の親睦会で鎌倉の花火大会に行き、夜10時に現地解散。同僚と鎌倉駅で別れ、戸塚駅からバスで帰宅途中に行方不明。翌日、自宅近くの草むらからセカンドバッグが見つかる。

(13)小久保稔史さん(昭和22年8月1日生まれ・昭和55年1月13日 京都府舞鶴市で失踪 当時32歳 船員)

 東舞鶴のスナックを一人で出て失踪。午後7時に「パチンコ屋の横から」と言って自宅に普通の口調で電話をしている。船室もそのままだった。コートも置いてあった。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(14)長尾直子さん(昭和35年10月25日生まれ・昭和56年3月16日 北海道札幌市で失踪 当時20歳 自動車学校事務員)

 いつも通り出勤したがすぐに傘を取りに引き返してきた。会社に着いたと思われる頃会社から出勤していないと連絡。普段は会社から日に1、2回電話してくる。夜になっても連絡なし、心当たりもあたったが分からず。翌日捜索願。身の回りのものは手つかずで、預金を下ろしたりもしていない。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(15)松本重行さん(昭和10年7月25日生まれ・昭和58年10月17日 京都府舞鶴沖で失踪 当時48歳 漁船員)

 漁船「照和丸」で刺し網漁業中に行方不明。船は同日無人の状態で漂泊していたのを発見される。べた凪、転落しにくい船の構造、ベテラン漁師であることを考えると、転落は有り得ない。
たとえ転落しても、水温も高く自力で船に戻れるはずであり、遭難しても大掛かりな捜索から遺体が発見されたはずである。出港直後、不審な船が接近している。京都府の東端に位置し、北朝鮮絡みの事件が多発する地域に隣接する。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。
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特定失踪者 1000番台リスト第14次発表(2008/10/30)NO.2

2008-10-31 | フレーズ

(16)西安義行さん(昭和40年6月27日生まれ・昭和62年3月15日 京都府綾部市で失踪 当時21歳 無職)

 友人と舞鶴方面へドライブ。帰り道、綾部駅前で友人と別れた後失踪。度々、舞鶴に出かけていた。当日はいつになく、服装を気にしていた。綾部で降車する理由が見当たらず、舞鶴線で舞鶴に引き返した可能性が高い。失踪後、不可思議な電話が連続した。失踪後1年ほどして、名古屋中央郵便局消印で、該当者のいない電話番号入りの葉書が届く。1998年頃、不審な車が西安家の様子を伺い、周辺に聞き込みを行った。北朝鮮からの未確認情報がある。

(17)林かな子さん(昭和35年9月7日生まれ・昭和60年11月22日 都内で失踪 当時25歳 会社員)

 会社の上司に「風邪気味なので21、22日両日休ませて欲しい」と了解を求めて休み、そのまま失踪した。ほとんど何も持たず普段着姿で出かけた模様。失踪の数日前母親に「トイレットペーパーを買っておいて」と言っていた。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(18)尾上民公乃さん(昭和41年11月26日生まれ・昭和62年6月6日 大阪府大阪市で失踪 当時20歳 飲食店店員)

 5日午後11時30分頃、大阪市北区内のスナックへ行った後、友人の車に同乗。その友人は午前3時50分頃心斎橋の路上に停車、エンジンをかけたまま尾上さんを助手席に残し、近くのビルの飲食店にいる知人と連絡をとりに行った。その友人が約30分後に戻ると車ごと消えていた。尾上さんは免許を取得したばかりで運転歴殆どなし。翌朝、福岡市博多港の沖浜町中央埠頭東側岸壁から乗っていた車が海中に落ちるところを釣り人が目撃。ドアはいずれも閉まっていたが助手席の窓は開いていた。遺体は発見されず。車内には友人のセカンドバックがあったが、なくなっていた。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

<参考>昭和60年前後にはこの他にすでに政府認定者、1000番台になっているケース、非公開ケースでも以下のように若い女性の拉致被害者・特定失踪者がが多い。
●有本恵子さん(昭和・昭和35年1月12日生まれ 昭和58年7月 欧州で拉致 当時23歳 政府認定)
●井尻恵子さん(昭和35年10月23日生まれ 昭和59年3月16日京都府京都市で失踪 当時23歳)
●Aさん(非公開 昭和59年北陸地方で失踪 当時20歳)
●山本美保さん(昭和39年3月3日生まれ 昭和59年6月4日山梨県甲府市で失踪・1000番台)
●今津淳子さん(昭和32年5月28日生まれ・昭和60年4月30日埼玉県大宮市で失踪 当時27歳)
●Bさん(非公開 昭和60年北海道で失踪 当時23歳)
●秋田美輪さん(昭和39年1月25日生まれ 昭和60年12月4日兵庫県神戸市で失踪・1000番台)
●Cさん(非公開 昭和61年 関東地方で失踪 当時21歳)
●根本直美さん(昭和47年1月15日生まれ 昭和62年6月20日茨城県藤代町で失踪 当時15歳)

(19)和田幸二さん(昭和32年5月20日生まれ・昭和63年8月19日 宮崎県南郷町で失踪 当時31歳漁師)

 未明に飲食店から友人を車で送り届けた後失踪。車も見つかっていない。次の日はカツオ漁のために出航する予定だった。林田幸男さん、水居明さんの失踪約1か月後。不確定だが複数の目撃証言がある。

(20)山下貢さん(昭和25年7月5日生まれ・平成元年12月27日 福井県越前町で失踪。当時39歳 作業員)

 当日早朝4時頃、釣り道具を持って「魚を釣ってくる」と実家を出て失踪。越前町午房が平の国道305号線沿いに車が発見される。岩場にえさ箱が残されていたが遺体はもちろん釣り竿、その他の遺留品も未発見。車は鍵がかかっており、車内に長靴・食べかけのおにぎり・免許証などが残される。失踪後数年たった頃、本人の自宅や実家などに無言電話や不審な電話がかかる。

(21)河田君江さん(昭和41年8月15日生まれ・平成2年2月7日 山口県阿武町で失踪 当時23歳 会社員)

 退勤後自宅近くで買い物したのち不明に。2月20日頃、本人の乗っていた車が萩市と島根県益田市の中間の国道沿いの駐車スペースに止まっているのが見つかる。本人は運転時、ヒールのときは裸足で運転するほど汚すのが嫌いだったが、車が見つかったとき、運転席に泥、助手席にシダの葉、少量だが本人の血が付いたカミソリが見つかっている。免許証、通帳などはそのまま。
その後預金の引き出しなし。実家へ来るはずが全く逆の方向へ行っている。2月18日に本人の声で知人に架電して「ごめんね」と言っている。車内にあったレシートなどによると、8日午後1時34分 島根県出雲市でパン等を購入。同日午後7時11分 長門市内のコンビニでおむすびを購入。
午後7時36分 同市内でカミソリ、チョコレートを購入 午後7時37分 同市内弁当屋でのり弁1個を購入している。

(22)清水桂子さん(昭和43年12月9日生まれ・平成2年12月13日 岡山県井原市で失踪  当時22歳
 農協職員)

 勤務終了後、職場を出て失踪。途中に農協の支所があり、自宅への帰途立ち寄ることになっていたがそこに本人から「午後6時には少し遅れる」と電話している。日中、職場に電話があった。
誰なのかどういう内容なのかわからないが、話は短かった。本人の車が井原市井原町の書店の駐車場で発見。車内は荒らされていなかった。免許証、財布、ハンカチなどの入った小さなバッグだけを持っていた。キャッシュカードが井原の小田川の土手に四つ折りにして投げ捨ててあったのを近所の人が見つける。翌年3月31日には結婚が決まっていて、休日には楽しく準備していた。
帰りが遅くなるときはいつも何の用事で遅くなると電話を入れてくるが、この日はなかった。

(23)大政由美さん(昭和42年4月5日生まれ・平成3年3月28日 韓国慶州市で失踪 当時23歳 大学研究生)

 同年3月に三重大を卒業。考古学専攻。3月27日夜、慶州ユースホステルにチェックインし、翌朝10時に荷物を置いたまま外出し、その後消息不明。現地、慶州警察署で捜索。1991年3月~94年10月の間に数回無言電話。正確な日付は不明だが、午後から夕方にかけてがほとんど。受話器を取ると人の息、生活音も聞こえず受話器を置くまで一言も話さなかった。北朝鮮にいるとの複数の不確定情報がある。

(24)小野寺将人さん(昭和42年2月15日生まれ・平成3年7月19日 北海道富良野市で失踪  当時24歳 ホテル従業員)

 富良野ラベンダー祭に登別駅からレンタカーで出発し、その後消息を絶つ。1泊2日の予定だったがホテルが取れず車中泊。同21日室蘭警察署に捜索願いを出す。10月26日十勝岳中腹のホテルの駐車場でレンタカー発見。免許証は見つかっていない。銀行預金も引き出されていない。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(25)森本規容子さん(昭和47年11月25日生まれ・平成3年9月22日 兵庫県西宮市で失踪 当時19歳 会社員)

 大阪市梅田の本屋に行くと自宅を出て失踪。家での心当たりなし。失踪前日の21日夜に友人と電話で29日に映画を観る約束をしている。当時の所持金少々。金銭トラブル、人間関係のトラブルなし。失踪後連絡なし。失踪状況は(27)の福山ちあきさんと類似している。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(26)橘邦彦さん(昭和47年9月3日生まれ・平成3年10月15日 静岡県沼津市で失踪 当時19歳 専門学校生)

 10月15日夜、男性から電話があり沼津市の自宅から出ていったまま失踪。免許証の更新もせず部屋もそのまま。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(27)福山ちあきさん(昭和48年9月16日生まれ・平成3年11月3日 大阪府大阪市で失踪 当時18歳 高校生)

 アルバイト先から帰宅途中、大阪市営地下鉄動物園前駅で友人と別れ、それ以後行方不明。就職も決まっていた。生活道具は一切そのまま。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(28)松橋恵美子さん(昭和40年5月15日生まれ・平成4年1月15日 秋田県能代市で失踪 当時26歳 会社員)

 祖母に「鷹ノ巣に行って来る」と告げて車で出かけたまま、その日は戻らなかった。友人の家に行ったのだろうと思っていたら、翌朝出勤していないことがわかる。家族で探したところ、能代市の海岸で車が見つかる。車内には身の回りのものが全て残っていた。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

<参考>1990年代前半の若い女性の失踪としては以上6件の他にすでに1000番台になっている佐々木悦子さん(昭和38年12月6日生まれ・平成3年4月22日 当時の埼玉県浦和市で失踪 当時27歳 銀行パート)のケースがある。

(29)武山京子さん(昭和10年12月20日生まれ・平成4年6月12日 北海道浜益村で失踪 当時56歳 会社員)

 午前8時半頃、タケノコ採りに山に入り失踪。大捜索するが遺留品は全くなし。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(30)田中正道さん(昭和23年6月28日生まれ・平成5年6月7日 千葉県習志野市で失踪 当時44歳 建設関係の職人)

 5月16日、「急性アルコール中毒になり入院した」との連絡が千葉県の病院から鹿児島にすむ家族にあった。入院中病院より連絡があり「身内が近くにいないので、他の人より長く入院させるから」と言われ、6月3日まで入院した。退院前に主治医から鹿児島の妹に電話があり「そろそろ退院する。妹の世話にはなりたくないと言っているので、病院の方で仕事を紹介します」と言われた(後に主治医はそういう話はしていないと言っている)。6月2日、本人より「明日退院するので、免許の更新に茨城に行ってくる」と連絡があった。6月6日、茨城県交通協会で講習を受けたことは免許証にて確認。6月7日千葉市内の友人宅に寄り、「今から仕事に行く」と言って出ていったのが最後。同年6月11日、本人の車が習志野市内の路上に放置してあるとの連絡があった。
車は慌てたように斜めに放置、キーがついたまま、ドアの鍵も開いていおり、後輪がパンクしていた。車内には免許証、保険証、預金通帳印鑑、入院時の下着類、仕事着、アドレス帳があった。
車が置かれたのは10日夜半か11日早朝と思われる。北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

(31)宮内和也さん(昭和40年1月27日生まれ・平成9年4月24日 福井県三方町<現在は若狭町>で失踪 当時32歳 町役場職員)

 失踪翌月に三方町世久見のB&G海洋センターでカヌーの研修(本人はインストラクター)が予定されており、ナホトカ号重油流出事故の影響で海岸が汚れていないか確認のため出かける。
当日、世久見岸壁で海を見ている宮内さんが目撃されているが、その夜帰宅せず。後に世久見漁港から数百メートル離れた海岸のテトラポッドにカヌーが折れて突き刺さっているのが発見され、さらにその近くで宮内さんの上着が発見された。上着は石が重しのように乗せられていた。カヌーのパドル(櫂)とライフジャケットは艇庫に置いたままだった。

(32)林雅俊さん(昭和50年1月20日生まれ・平成10年5月12日 福井県越前町で失踪 当時23歳 大学院生)

 午前9時頃いつもどおりに大学へ車で向かった。22時30分に大学の指導スタッフと別れる。この日の夜は帰宅しなかった。それまでも卒論などで朝帰りや泊まり込みがあったので帰宅しなくても不思議ではなかった。5月13日福井県越前町の海岸に車が止まっているとの電話が四ケ浦駐在所から自宅にある。車は海岸の釣り場に下りて行くところ(本人は釣りはやらない)で、下りて行く道を塞いだように停まっていた。当日早朝から止めてあった模様。ドアはロックしてあり、中にパソコン、財布、免許証などすべて置いてあった。座席のリクライニングは倒れていた。パソコンには当日14時3分に「このパソコンは義兄にあげる。ゼネコンはいやになった。道を間違えた」と書かれていた。義兄の名前などもあったので内容からして本人であることは確か。その後無言電話が1~2カ月間続いた。1回女性の声で「雅俊さんいませんか」という電話があった。

 車が置いてあった場所は(20)山下貢さんの車が置いてあった場所から直線距離で10キロほどのところで、置かれていた状況も類似している。また北朝鮮にいるとの不確定情報がある。

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総裁選候補者へ拉致を訴える署名 都連HPに

2008-09-21 | フレーズ


都連HP:http://www.tokyo-jimin.jp/

記事:http://www.tokyo-jimin.jp/event/rachi/rachi.htm

↑、諦めて紹介しておきます。

少しでも、投票行動に参考にしてもらいたいです!
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加藤タキさんの講演で

2008-08-30 | フレーズ
加藤タキさんにお会いしてきました。








私が、加藤タキさんにお会いしたかったのは、以前、掲示板上部にもリンクしてあるblue wish のアクセサリー、ブローチを有田さんを通じて、お渡ししたことがあったからです。
加藤さんは、日テレの『ザ・ワイド』で時折そのブローチを着けてくださっていました。加藤さんが、ブルーリボンを付けてテレビに出てくださっていることで、励まされた支援者やお仲間が、たくさんいらっしゃると思います。私もその一人です。

お会いして、本当に良かったです。
開演前に、渋谷の街頭活動の資料と、ブルーリボンパックをお渡しして、ご挨拶しました。有田さんも、快く紹介してくださって、本当に有り難かったです。

『私は、いつも祈っています。忘れていません。本当に、どうして解決できないのか、私にできることがあれば、いつでも連絡してください』とおっしゃってくださいました。

講演の内容も、とても心にしみることばで、父を失ったばかりの私には、お母様=加藤シズエさん(104才で亡くなってもう七回忌を終えられたそうです)への想いが強く伝わってきました。

胸に直ぐにリボンを付けてくださって、講演の中でも、拉致問題に触れてくださいました。

『戦後日本人が失ってきた誇りと尊厳を取り戻すべきだ』というお母様の遺言は、そのまま、横田早紀江さんが、日本人に呼び起こした大切なことと同じだと。

有田さんも、講演の最後に拉致問題に触れ、会場に集まった方にも、帰り際受付でリボンセットを配付してくださいました。

※動画、短いものですが、アップしてあります。


加藤タキさん 自分らしく輝いて生きる (拉致問題に触れた部分)
http://jp.youtube.com/watch?v=gJm0DSn7jKU


横田早紀江さんのことばの英訳を差し上げ、私の資料にも、一言書いてくださいました。写真参照。

『拉致問題が1日も早く解決し、
 皆さまが、元気に帰国されることと、祈り 信じています。
いつもお祈りしています』 



帰りに『諦めずに、一緒に頑張りましょう』と私の目をしっかり見つめておっしゃてくださいました。

今日、私は、加藤タキさんから勇気と励ましをいっぱいいただきました。

みなさんにも、お裾分けのつもりで、ご紹介しました。
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アニメ「めぐみ」を無料レンタル 全国のビデオ店で

2008-08-29 | フレーズ
誰でも無料で借りられる事になりました。
みなさん、このことをお友だちに、伝えてください。
他のビデオを借りるついでに、無料の『めぐみ』を借りて見てもらえばいい。
職場でも、仲間に教えてあげてください。
そして、全国のビデオ店で<待ち>がでるぐらい、借りてもらえばいい。
アニメは誰にでも、とてもわかりやすい内容です。
是非、伝えてください。

――――――――――――――――――――――――――――――――

 北朝鮮に拉致された横田めぐみさん救出を訴える父滋さん(75)と、母早紀江さん(72)の姿を描いたアニメ映画「めぐみ」が全国のレンタルビデオ店で無料で貸し出されることが決まり、滋さんらが29日、内閣府で記者会見した。

 原作は雑誌に掲載され単行本にもなった漫画「めぐみ」(双葉社)。若い世代にも拉致問題を理解してもらおうと、政府の拉致問題対策本部が無料レンタルを決めた。

 対策本部はレンタルビデオ店5000店にDVD1万5000枚を配布。29日から早速貸し出しを始めた店舗もある。

 滋さんは「アニメを見た子どもたちからの反響が大きく、勇気づけられている」とあいさつ。

 早紀江さんも「親としては見るのがつらいほどよくできている。全国の人にこれほどひどいことがあったと知ってもらいたい」と話した。

アニメ「めぐみ」を無料レンタル 全国のビデオ店で
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米国大使館宛署名提出について

2008-08-17 | フレーズ
『 ◆―東京ブルーリボンの会―◆からの報告』

一斉行動における各地の街頭活動、企画参加された皆さま、お疲れ様でした。
一斉行動の声が、政府や国民に必ず届いたと信じたいです。

私達東京ブルーリボンの会は、9日、渋谷ハチ公前で街頭活動を行いました。

関係団体、ご家族、ボランティア含め約50名の参加。
はがきに署名していただく形で行い、はがきが足りなくなった時点で署名用紙に切り替えました。

合計650の署名を頂き、今日米国大使館に届けました。
厳しいセキュリティチェック後、入館、マーク フォリノ一等書記官に、面会し、手渡しました。

今回は、10日に同じ主旨の署名を行った救う会埼玉と合同で提出に伺いました。


↑提出署名に付けた表紙

渡したもの
1.はがき署名、ご家族含め300。
2.署名用紙 署名 350(渋谷で集めたもの)
3.救う会埼玉の署名(8/10集めたもの、テロ支援国家指定解除反対) 350
  (都合署名は1000)
4.横田早紀江さんのことば、『ブッシュ大統領 どうか拉致問題を忘れないでください』を英訳したもの(横田早紀江さんのことばは、以下のyoutubeを英訳したものです。)
http://jp.youtube.com/watch?v=KnhVhNZUCuk

5.大使館職員に、ブルーリボンパッケージ50セット

面会は、30分程度になり、私達の気持ちをつたない英語で説明しました。

アメリカ大使館としては、日本の一般市民の声も、聞いていますよというポーズという部分もあるともいますが、とにかく面会してくれたことは、ありがたいと思っています。

面会に行ったメンバーが、『同盟国でありながら、指定解除すれば、日本国民は、アメリカとの同盟に疑問を持ち、自立して国を守るべきという考え方に傾く。長い同盟関係を壊して良いのか』という主旨で話しかけたときには、一等書記官も、一瞬厳しい表情になりました。


面会の時点で、ライス氏が『指定解除延期』と発言したとのニュースがあり、そのことも聞いてみましたが、『私達も共同のニュースでみたばかりで、本国からの連絡はない』との返事でした。

とにかく解除は既定路線ではありますが、日本人の声と心を直接伝えられたことは、良かったと思っています。

この意思伝達を継続していくことも必要。

拉致問題を考える川口の会も、『指定解除反対』の署名を届ける予定と聞いています。


それにしても、日本の対応が、おざなりなのには、幻滅します。

何らかの行動が必要だと思いますが、一斉行動でお疲れのご家族のお体の負担が、気にかかっています。

 



署名をしてくださった皆さんに、改めてこの場を借りて御礼を申し上げます。
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■蓮池秀量・ハツイさんが加藤紘一議員に抗議文

2008-07-15 | フレーズ
■蓮池秀量・ハツイさんが加藤紘一議員に抗議文

加藤紘一氏(自民党元幹事長)の発言に対する抗議および質問

私たちは、子どもたちが拉致されて24年間、子どもが帰ってくることだけを
願っていた。そして、一時帰国という名のもとで子どもが帰ってきたときには、
北との必死の戦いのなか、こどもを漸く奪い返したというのに、加藤氏はそれが
過ちだったというのか? それが、国家の利益に反するというのか?

必死の思いで子どもを北から救ってくれた人たち、とくに私たち親の気持ちを
逆なでする発現が、自民党幹事長までやられた加藤氏の口から出たことに唖然と
するとともに、その真意が何なのか、実に理解しがたい。加藤氏に対し、この発
言の真意について是非お聞きしたい。さらに、加藤紘一氏が過去拉致問題解決の
ために一体何をやってくれたのか。そして、現在拉致問題解決の根本は一体何で
あり、拉致被害者およびその家族の立場についてどう考えていのるか、ぜひとも
問いたい。

以上、加藤紘一氏の発言(ブログ含めて)に対して、強く抗議すると共に偽り
のない回答をお願いいたします。

平成20年7月11日

北朝鮮に拉致され帰国した蓮池薫の親
父 蓮池秀量
母 仝ハツイ


救う会ニュースより
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アノーチャー・パンチョイさんの満54歳の誕生日に、実兄スカムさんが思いを綴った手紙

2008-07-13 | フレーズ
「タイ人拉致被害者アノーチャー・パンチョイさんの満54歳の誕生日(2008年7月12日)に、実兄スカムさんが思いを綴った手紙」

 「妹よ、おまえがこの家を出て以来、お父さん・兄さん・家族全員が、おまえの帰りをずっと待っていた。おまえがいつ帰ってくるのかと、お父さんは27年間待ち続けた。
 そして、お父さんが亡くなってわずか3ヶ月後に、『北朝鮮に拉致されたタイ人がいる。名前はアノーチャー。』と言うテレビニュースを見ることになった。兄さんは、このニュースを見るとすぐにテレビ局に駆け込んだ。報道の人が家にやってきて、本当にそのタイ人がこの家の家族にいるのかを確認しに来た。家族全員が「本当にいる」と答えた。
 妹よ、兄さんが書いたこの手紙を、おまえが読むことが出来たなら、おまえに家に戻ってきて欲しい。
 おまえが家を出てから、兄さんは毎日毎日本当に心配のし通しだった。
 私の気持ちは晴れない。なぜなら、どこに行ってもおまえのことを考えるからだ。私たちは2人兄妹。どんなことがあっても離ればなれになることなど出来ないのだ。
 もしおまえがそちらにいるのならば、そして帰ってくるのが出来ないのならば、手紙だけでも書いてどうしているのかを教えてくれ。そうすれば兄さんはうれしい。
 妹よ、兄さんの心は毎日晴れない。おまえのニュースを見ると苦しい。
 兄さんは今はもう病気になってしまった。耳は何も聞こえなくなってしまった。妹よ、兄さんはこうして暮らしているとは言え、まるで死んでしまっているようなものだ。それでも、私の心はいつもおまえを心配している。
 妹よ、兄さんと家族は30年間おまえの帰りを待って、あとどれだけこの苦しみに耐えればおまえに会えるのだろうか。
 私たちは兄妹だ。兄さんと家を恋しく思って欲しい。妹アノーチャーよ。」

(本会より注。アノーチャー・パンチョイさんは1978年にマカオから拉致されており、今年2008年は拉致後30年となります。)
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