有本恵子さんを救うぞ東京集会
2005年2月10日(木)東京友愛会館で行われた集会の模様、ぴろんさんのレポートです。
有本嘉代子さんのお話 1
皆さんこんばんは。
こんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。 この問題は一言で言って長くかかり過ぎております。
皆さんはご承知だろうと思いますけども、私どもの恵子は国内からではなくて、ヨーロッパの方から、よど号の奥さんたちの手によって連れて行かれたという形なんですけども。
当初から申し上げますと、小さいときからわり方おとなしい子だったんです。
人の前にバッと出にくい、物の言いにくい、どっちか言うたら後ろへ後ろへ寄るような子なんですね。
幼稚園の頃なんかはちょっと小柄でしたので、一番前に並んでいるんですけれども。
小さい子供って、先生が「きちっと並んで行きなさいよ」って言われても後ろからく~っと掻き分けて行きますよね?
いつも一番前にいますのに一番最後に出てくるんですね。
そんなような子だったんです。
有本嘉代子さん
おぎゃ~っと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ~わ~と泣かない。
おしめを代えて気持ちが良かったら、す~す~と寝るような子で。
本当に(子育て)しやすくて、全然手がかからなかった。
ちょっと物心付いてからでもわり方聞き分けのいい子供で、こちらのことは言うことは理解できたようで。
普通のほかの子よりも。
私は女の子5人男の子1人と6人あるんです。
私がきょうだいはあるんですけど、家庭の事情で私一人で育ったもんですから、子供はたくさん産んで賑やかなのがいいなと言う感じでおりましたので、6人なんです。
その3番目なんですけども。
非常におとなしい聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども。
最後に一番手がかかって(笑い声)本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。外国へ行くときでも1人で行くって言ったんですね。
そんな知らんところへ行って、水も変わるし、体もきょうだいの中で一番弱かったもんですから、それが心配だったんです。
でもこんなことが起こるなんて夢にも思わなかったですけど。
向こうに行ってる間に病気になったらどうするの?ってそれが一番の心配でした。
1982年に学校を卒業しまして、3月に。
あの子は神戸市立外大の2部を出てるんです。
ここはお昼行こう思ったら非常に難しい学校なんです。
ちょっと入れないんです。
それで2部の方に行きまして、お昼はね、自分でアルバイトをしてました。
ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子供でしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。
主人のきょうだいが3人いまして。
姉と妹と真ん中なんですね、主人と。
どちらも子供たちは良く可愛がってくれました。
本当に、上も下も義姉も義妹も良くしてくれました。
義妹と恵子は偶然にも生まれた月日が一緒なんです。
誕生日が一緒だからと言うわけじゃないんですけれども、たくさんいる中で特に恵子が可愛かったみたい
です。
小さい時分から、次に出来ましたのが1年2ヵ月ぐらいですぐに次が出来たんです。
私が下に手がいるもんですから、下が出来た時点で義妹が自分が夜になったらずっと抱っこして寝てくれたんですね。
そんなんで、私以上に恵子のことは叔母の方が良く知ってると思います。
そんな関係で高校に入りました時点で、英語が小学校の時分からわりと好きで、ちょっと昔習いに行ったこともありますし。
高校に入った時点で元町にファルマーって学校があるんですね。
職業人の方も大勢来ておられました。
その夜間に行く言うことで、お昼高校で夜そこへ行ってたんです。
たまたまその学校が義妹が買いましたマンションのすぐ端にあったんです。
「遠いところだったら通うのも大変だから、私が迎えに行くわ」って、5分くらいの所でしたから、いつも夜間のときだけは迎えに行ってくれてたんです。
そしたら「そないするのが面倒だから、とにかくずっと家におって一緒に暮らそう」と言うことになって高校の時点から私どもの手から離れて、義妹と一緒に暮らしてたんです。
よく叔母ちゃんが世話してくれましたし、恵子のことは良く知ってると思います。
自分が外国へ行くと言うたんも事後承諾で、私ども全然お金出さなかったんです。
自分が4年間に夜の学校ですから、お昼アルバイトをして(お金を)貯めてましてね。
全部申し込んで、何もかも手続き済ましてて事後承諾みたいに。
義妹はやりたくなかったから、「親が止めてくれると思ってた」といまだに怒ってるんですけども。
止まらなかったんです。
いつでも素直に言うことを聞くのに、これに関しては一歩も譲らなかったんです。
泣いて「行かしてくれ」て言うたんですね。
最初は半年と言う約束だったもんですから、半年くらいだったらすぐ済むわという感じで、半年経ったらすぐ帰ってらっしゃいよって言うたんですけれど。
それがもう半年経った時点で。
手紙はねもう本当にこまめに、毎月に最低でも1回、多いときは2回3遍と来てました。
「今日はこんなところ行ったのよ」とか、一年間いたんですけど、一年間おる間本当に楽しくて仕方がないといった感じですね。
手紙が来たらそんな感じがするんですね。
だからちょっと帰りたくなかったんだろうと思います。
やっと翌年の1983年の6月の末に、「もう帰るわ」と手紙が来たんですから。
私もやれやれ思いまして、そしたら「夏の2ヶ月くらいは旅行しもって帰るから」という手紙でして。
すぐに帰ってくればいいのにと思って、私もすぐに手紙出したんですけど、ちょっと行き違いになってたんじゃないかなと思うんですね。
2ヶ月くらいは旅行しもって、こんなゆっくりなかなか来られないからいうんで、その時ちょっとまとまってお金も出してたんじゃないかと思います。
丁度私は弟が東京銀行に勤めておりましたんで、後輩の人がちょうどロンドン支店に勤務しておられたので、その人にくれぐれも頼んでくれてね。
「なにか相談に来たら相談に乗ってやってくれ」って、お願いしてくださったんですけど、「いっぺんも来てなかったよ」と言うことだったらしいです。
そこでちょっとお金を引き出して、2ヶ月くらい回るつもりでしてたんだろうと思うんですけれども。
そのときは八尾さんのことなんか全然分かりませんから、「8月の9日に帰る」ってと手紙が来たもんですから、そのときはああ良かったやれやれ帰ってくると思ったんですが。
義妹が8月の9日に一緒に迎えに行こうというつもりだったんですけど、義妹はちょっと私は気になることがあるからと。
あのひとはピンと霊感が働くことがあるんですね。
「とにかくいっぺん伊丹に電話してみるわい」って空港に電話してみたんです。
「その方ね、キャンセルしておられますよ」って、そない言われたんですね。
それが今も覚えておりますが、キャンセルした人があの、なんせ横文字でしたわ。
そんな全然聞いたこともないし、その前に「どうしてキャンセルしたんだろう?」と私たちもドキッとしたんですけど。
追ってその日のうちに電報が来ました。
今日も確認したんですが、8月8日付で出してるんですね。 そのときに今思いましたら、電報全然出せないんです。
だからこれは多分よど号関係の人が出したんだと思います。
後になって分かったんですけれども、西側の警察の方が、キム・ユウチョルいう北朝鮮の工作員をずっとチェックしてたんですね。
たまたまその人をコペンハーゲンの空港で見つけて写真を撮ったんですって。
そのときに恵子が端にいたんです。
それでそれは早い時期に(日本の)警察にその写真が来てたみたいです。
だけど私どもは全然分かりませんし、とにかく帰ってくる言うたまんま帰ってこないし。
本当(時間が)経っても連絡がないし、手紙は「市場調査みたいな仕事が見つかって、ちょっとしたいんだけれど」と言う手紙だったんですけれど。
一ヶ所にいないですからね。
方々行きますから、行った所から手紙出しますっていうような、だから本当にイライラしましたんですけど。
片便りでこちらからはどうすることも出来なかったんです。
それで、そうですね、8月の中ごろにいっぺん手紙届きました。
「また行った所から手紙出すからね」って感じで。
10月の中ごろに来てるんですけど、これはいつもあの子は日にちをきちっと書くんですけど、書いてないんです。
これはおかしいな?と思ったんですけど。
だからこれは多分、八尾さんが書かせたんだろうと思いますけど。
「手紙出しておいてあげるから」って言うたん違いますかね?
手は恵子のでしたから、恵子の字で、ただ日にちだけ入れんと書いてました。
それが私がいつだったか日にちを覚えてなかったもんですから、10月の中ごろと私が自分のこれに書いてあるんです。
それを最後にばたっと来なくなったんですね。
それでも何ヶ月も経つもんですから、そうですね、10月に来なくなって翌年の年明けてから初めて警察に届け出しました。
「こんな状態で・・・見てたんですけどもいまだに帰って来ないんです」言うことを、警察に届け出したんです。
警察から、そうですね、3回か4回くらい足運んだと思います。
「ちょっと来てください」言われまして行きますとね。
いろいろ、「身長はどれぐらいですか?どんなものを好んで着られますか?」とか「足は何文くらいの靴を履かれますか?」とか。
ひょっとしたらこれ外国で死んだ人じゃないかな?と思いまして。
「ひょっとしたらこの人、東洋人らしき人が外国で亡くなった人の照会違いますか?」って聞いたら、「そうです」っておっしゃる。
「そんなのあんまり私聞きたくないです」って言うた記憶はあります。
そしたら警察はそのとき「私が調査しなくていいと断った」っておっしゃってました。
そういうように取られてたんですね。
そんなんでそのまま、5年間は本当にどうしようもなかったですね。
手も打ちようが無かったんです。
1983年の最後の手紙で、今度は1988年に北海道の石岡さんという方の所へ手紙が参りまして、それで手紙とそれから写真が入ってたんですね。
これが入ってた写真を引き伸ばしてもらったんです。
(恵子さんと石岡さん、赤ちゃんの3枚のモノクロ写真を会場に向けて披露する)
そしてもうひとつ子供の写真とね、3枚入ってたんです。
文面が、「北海道の石岡さんと恵子とそれから九州の松木さんと3人が、一緒に力合わせもって平壌に暮らしております」いうような手紙でした。
だから私はずっと子供の写真はね、松木さんだと思ってたんです。
松木さん、どうして外国に行かれるのにこんな子供の頃の写真をずっと持ち歩いてたんかなぁ?と。
二人は見たことあるのでこれは北朝鮮で撮った写真だなぁ、と思ったんですけど。
これは松木さん松木さんとずっと思ってたんですね。かなり経ってから、「宿命」という本を書いた高沢皓司さんという方があるんですけど。この方が、ちょうど震災の年でした。
あのときに突然訪ねて来られて、一度来られたんですけど、私も全然面識が無いもんですから、ちょっと不安だったもんですから、主人にちょっと外で会ってきてって。
どんな人か分からないからということで、ちょっと外で会ってもらって。
二度目に来られたときは朝日放送の石高さんていう方が、拉致問題にずっと取り組んできた人なんですけど、この方がご一緒してうちまで来てくれたんです。
そのときに初めて子供の写真のことを説明なさいました。
「これは石岡さんと恵子の間に出来た子供だと思いますよ」とおっしゃって。
「あ、そういえばそうだな」と納得いったんですね。
その時点までは松木さんだ松木さんだと思ってたんですね。
結局(手紙を書くのに)用紙も何も無かったんだと思います。
これは伊丹を出るときに入った保険の用紙に、これはずっとも持ってたんだろうと思います。
そこに字を書いてある上に自分の手で住所と名前と書いて、両親の名前と書いて、電話番号を書いておりました。
石岡さんも自分の手で書いておられました。
ところが松木さんは、そのとき一緒にいなかったんじゃないかな?と思うんです。
松木薫さんと書いてあるんですけど、これは石岡さんの手で、熊本県熊本市までしか書いてないんです。
だから松木さんには長い間連絡できなかったんです。
住所がキッチリ分からなかったもんですから。
ボブヘアーの恵子さんの写真 そんな状態で、一応北朝鮮におると言うことが分かったもんですから。
とにかく私はそう思います。
この写真がやつれてます。
だからこの間から特定失踪者の方の写真がいろいろ出てきてますけど、全然他人さんが見てはったら分からないと思うんです。
これが恵子の、(写真立てに入ったボブヘアの恵子さんの写真を掲げる)この顔しか私知らないんです。大学行ってる、ちょうど入学する頃はこんな顔だったんです。
私が入学式のときは付いていったもんですから、最寄の駅で待ち合わせして、一緒に行ったんです。
私はこの顔しか記憶にありません。
全然顔が変わってますからね。
特定失踪者の方でもあんなに変わっていたら、全然。
親だから分かります、特徴のあるところはありますから。
全然分からないだろうと思います。
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2005年2月10日(木)東京友愛会館で行われた集会の模様、ぴろんさんのレポートです。
有本嘉代子さんのお話 1
皆さんこんばんは。
こんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。 この問題は一言で言って長くかかり過ぎております。
皆さんはご承知だろうと思いますけども、私どもの恵子は国内からではなくて、ヨーロッパの方から、よど号の奥さんたちの手によって連れて行かれたという形なんですけども。
当初から申し上げますと、小さいときからわり方おとなしい子だったんです。
人の前にバッと出にくい、物の言いにくい、どっちか言うたら後ろへ後ろへ寄るような子なんですね。
幼稚園の頃なんかはちょっと小柄でしたので、一番前に並んでいるんですけれども。
小さい子供って、先生が「きちっと並んで行きなさいよ」って言われても後ろからく~っと掻き分けて行きますよね?
いつも一番前にいますのに一番最後に出てくるんですね。
そんなような子だったんです。
有本嘉代子さん
おぎゃ~っと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ~わ~と泣かない。
おしめを代えて気持ちが良かったら、す~す~と寝るような子で。
本当に(子育て)しやすくて、全然手がかからなかった。
ちょっと物心付いてからでもわり方聞き分けのいい子供で、こちらのことは言うことは理解できたようで。
普通のほかの子よりも。
私は女の子5人男の子1人と6人あるんです。
私がきょうだいはあるんですけど、家庭の事情で私一人で育ったもんですから、子供はたくさん産んで賑やかなのがいいなと言う感じでおりましたので、6人なんです。
その3番目なんですけども。
非常におとなしい聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども。
最後に一番手がかかって(笑い声)本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。外国へ行くときでも1人で行くって言ったんですね。
そんな知らんところへ行って、水も変わるし、体もきょうだいの中で一番弱かったもんですから、それが心配だったんです。
でもこんなことが起こるなんて夢にも思わなかったですけど。
向こうに行ってる間に病気になったらどうするの?ってそれが一番の心配でした。
1982年に学校を卒業しまして、3月に。
あの子は神戸市立外大の2部を出てるんです。
ここはお昼行こう思ったら非常に難しい学校なんです。
ちょっと入れないんです。
それで2部の方に行きまして、お昼はね、自分でアルバイトをしてました。
ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子供でしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。
主人のきょうだいが3人いまして。
姉と妹と真ん中なんですね、主人と。
どちらも子供たちは良く可愛がってくれました。
本当に、上も下も義姉も義妹も良くしてくれました。
義妹と恵子は偶然にも生まれた月日が一緒なんです。
誕生日が一緒だからと言うわけじゃないんですけれども、たくさんいる中で特に恵子が可愛かったみたい
です。
小さい時分から、次に出来ましたのが1年2ヵ月ぐらいですぐに次が出来たんです。
私が下に手がいるもんですから、下が出来た時点で義妹が自分が夜になったらずっと抱っこして寝てくれたんですね。
そんなんで、私以上に恵子のことは叔母の方が良く知ってると思います。
そんな関係で高校に入りました時点で、英語が小学校の時分からわりと好きで、ちょっと昔習いに行ったこともありますし。
高校に入った時点で元町にファルマーって学校があるんですね。
職業人の方も大勢来ておられました。
その夜間に行く言うことで、お昼高校で夜そこへ行ってたんです。
たまたまその学校が義妹が買いましたマンションのすぐ端にあったんです。
「遠いところだったら通うのも大変だから、私が迎えに行くわ」って、5分くらいの所でしたから、いつも夜間のときだけは迎えに行ってくれてたんです。
そしたら「そないするのが面倒だから、とにかくずっと家におって一緒に暮らそう」と言うことになって高校の時点から私どもの手から離れて、義妹と一緒に暮らしてたんです。
よく叔母ちゃんが世話してくれましたし、恵子のことは良く知ってると思います。
自分が外国へ行くと言うたんも事後承諾で、私ども全然お金出さなかったんです。
自分が4年間に夜の学校ですから、お昼アルバイトをして(お金を)貯めてましてね。
全部申し込んで、何もかも手続き済ましてて事後承諾みたいに。
義妹はやりたくなかったから、「親が止めてくれると思ってた」といまだに怒ってるんですけども。
止まらなかったんです。
いつでも素直に言うことを聞くのに、これに関しては一歩も譲らなかったんです。
泣いて「行かしてくれ」て言うたんですね。
最初は半年と言う約束だったもんですから、半年くらいだったらすぐ済むわという感じで、半年経ったらすぐ帰ってらっしゃいよって言うたんですけれど。
それがもう半年経った時点で。
手紙はねもう本当にこまめに、毎月に最低でも1回、多いときは2回3遍と来てました。
「今日はこんなところ行ったのよ」とか、一年間いたんですけど、一年間おる間本当に楽しくて仕方がないといった感じですね。
手紙が来たらそんな感じがするんですね。
だからちょっと帰りたくなかったんだろうと思います。
やっと翌年の1983年の6月の末に、「もう帰るわ」と手紙が来たんですから。
私もやれやれ思いまして、そしたら「夏の2ヶ月くらいは旅行しもって帰るから」という手紙でして。
すぐに帰ってくればいいのにと思って、私もすぐに手紙出したんですけど、ちょっと行き違いになってたんじゃないかなと思うんですね。
2ヶ月くらいは旅行しもって、こんなゆっくりなかなか来られないからいうんで、その時ちょっとまとまってお金も出してたんじゃないかと思います。
丁度私は弟が東京銀行に勤めておりましたんで、後輩の人がちょうどロンドン支店に勤務しておられたので、その人にくれぐれも頼んでくれてね。
「なにか相談に来たら相談に乗ってやってくれ」って、お願いしてくださったんですけど、「いっぺんも来てなかったよ」と言うことだったらしいです。
そこでちょっとお金を引き出して、2ヶ月くらい回るつもりでしてたんだろうと思うんですけれども。
そのときは八尾さんのことなんか全然分かりませんから、「8月の9日に帰る」ってと手紙が来たもんですから、そのときはああ良かったやれやれ帰ってくると思ったんですが。
義妹が8月の9日に一緒に迎えに行こうというつもりだったんですけど、義妹はちょっと私は気になることがあるからと。
あのひとはピンと霊感が働くことがあるんですね。
「とにかくいっぺん伊丹に電話してみるわい」って空港に電話してみたんです。
「その方ね、キャンセルしておられますよ」って、そない言われたんですね。
それが今も覚えておりますが、キャンセルした人があの、なんせ横文字でしたわ。
そんな全然聞いたこともないし、その前に「どうしてキャンセルしたんだろう?」と私たちもドキッとしたんですけど。
追ってその日のうちに電報が来ました。
今日も確認したんですが、8月8日付で出してるんですね。 そのときに今思いましたら、電報全然出せないんです。
だからこれは多分よど号関係の人が出したんだと思います。
後になって分かったんですけれども、西側の警察の方が、キム・ユウチョルいう北朝鮮の工作員をずっとチェックしてたんですね。
たまたまその人をコペンハーゲンの空港で見つけて写真を撮ったんですって。
そのときに恵子が端にいたんです。
それでそれは早い時期に(日本の)警察にその写真が来てたみたいです。
だけど私どもは全然分かりませんし、とにかく帰ってくる言うたまんま帰ってこないし。
本当(時間が)経っても連絡がないし、手紙は「市場調査みたいな仕事が見つかって、ちょっとしたいんだけれど」と言う手紙だったんですけれど。
一ヶ所にいないですからね。
方々行きますから、行った所から手紙出しますっていうような、だから本当にイライラしましたんですけど。
片便りでこちらからはどうすることも出来なかったんです。
それで、そうですね、8月の中ごろにいっぺん手紙届きました。
「また行った所から手紙出すからね」って感じで。
10月の中ごろに来てるんですけど、これはいつもあの子は日にちをきちっと書くんですけど、書いてないんです。
これはおかしいな?と思ったんですけど。
だからこれは多分、八尾さんが書かせたんだろうと思いますけど。
「手紙出しておいてあげるから」って言うたん違いますかね?
手は恵子のでしたから、恵子の字で、ただ日にちだけ入れんと書いてました。
それが私がいつだったか日にちを覚えてなかったもんですから、10月の中ごろと私が自分のこれに書いてあるんです。
それを最後にばたっと来なくなったんですね。
それでも何ヶ月も経つもんですから、そうですね、10月に来なくなって翌年の年明けてから初めて警察に届け出しました。
「こんな状態で・・・見てたんですけどもいまだに帰って来ないんです」言うことを、警察に届け出したんです。
警察から、そうですね、3回か4回くらい足運んだと思います。
「ちょっと来てください」言われまして行きますとね。
いろいろ、「身長はどれぐらいですか?どんなものを好んで着られますか?」とか「足は何文くらいの靴を履かれますか?」とか。
ひょっとしたらこれ外国で死んだ人じゃないかな?と思いまして。
「ひょっとしたらこの人、東洋人らしき人が外国で亡くなった人の照会違いますか?」って聞いたら、「そうです」っておっしゃる。
「そんなのあんまり私聞きたくないです」って言うた記憶はあります。
そしたら警察はそのとき「私が調査しなくていいと断った」っておっしゃってました。
そういうように取られてたんですね。
そんなんでそのまま、5年間は本当にどうしようもなかったですね。
手も打ちようが無かったんです。
1983年の最後の手紙で、今度は1988年に北海道の石岡さんという方の所へ手紙が参りまして、それで手紙とそれから写真が入ってたんですね。
これが入ってた写真を引き伸ばしてもらったんです。
(恵子さんと石岡さん、赤ちゃんの3枚のモノクロ写真を会場に向けて披露する)
そしてもうひとつ子供の写真とね、3枚入ってたんです。
文面が、「北海道の石岡さんと恵子とそれから九州の松木さんと3人が、一緒に力合わせもって平壌に暮らしております」いうような手紙でした。
だから私はずっと子供の写真はね、松木さんだと思ってたんです。
松木さん、どうして外国に行かれるのにこんな子供の頃の写真をずっと持ち歩いてたんかなぁ?と。
二人は見たことあるのでこれは北朝鮮で撮った写真だなぁ、と思ったんですけど。
これは松木さん松木さんとずっと思ってたんですね。かなり経ってから、「宿命」という本を書いた高沢皓司さんという方があるんですけど。この方が、ちょうど震災の年でした。
あのときに突然訪ねて来られて、一度来られたんですけど、私も全然面識が無いもんですから、ちょっと不安だったもんですから、主人にちょっと外で会ってきてって。
どんな人か分からないからということで、ちょっと外で会ってもらって。
二度目に来られたときは朝日放送の石高さんていう方が、拉致問題にずっと取り組んできた人なんですけど、この方がご一緒してうちまで来てくれたんです。
そのときに初めて子供の写真のことを説明なさいました。
「これは石岡さんと恵子の間に出来た子供だと思いますよ」とおっしゃって。
「あ、そういえばそうだな」と納得いったんですね。
その時点までは松木さんだ松木さんだと思ってたんですね。
結局(手紙を書くのに)用紙も何も無かったんだと思います。
これは伊丹を出るときに入った保険の用紙に、これはずっとも持ってたんだろうと思います。
そこに字を書いてある上に自分の手で住所と名前と書いて、両親の名前と書いて、電話番号を書いておりました。
石岡さんも自分の手で書いておられました。
ところが松木さんは、そのとき一緒にいなかったんじゃないかな?と思うんです。
松木薫さんと書いてあるんですけど、これは石岡さんの手で、熊本県熊本市までしか書いてないんです。
だから松木さんには長い間連絡できなかったんです。
住所がキッチリ分からなかったもんですから。
ボブヘアーの恵子さんの写真 そんな状態で、一応北朝鮮におると言うことが分かったもんですから。
とにかく私はそう思います。
この写真がやつれてます。
だからこの間から特定失踪者の方の写真がいろいろ出てきてますけど、全然他人さんが見てはったら分からないと思うんです。
これが恵子の、(写真立てに入ったボブヘアの恵子さんの写真を掲げる)この顔しか私知らないんです。大学行ってる、ちょうど入学する頃はこんな顔だったんです。
私が入学式のときは付いていったもんですから、最寄の駅で待ち合わせして、一緒に行ったんです。
私はこの顔しか記憶にありません。
全然顔が変わってますからね。
特定失踪者の方でもあんなに変わっていたら、全然。
親だから分かります、特徴のあるところはありますから。
全然分からないだろうと思います。
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