Blue jewel

拉致の解決を願って
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松木薫さんを救うぞ東京集会(1)

2005-01-13 | 松木薫さんを救うぞ東京集会
1.斉藤文代さんのお話(1)  

皆様こんばんは。
今日はお忙しい中集まっていただいて、
本当にありがとうございます。
このような場で私の弟の話をさせていただくと言うことは、
本当にうれしく思っております。

松木薫という人物を知らない方がまだたくさんいると思います。
私の弟・松木薫は1980年に、スペインのマドリードから
北朝鮮の方に拉致されました。
連絡も何も無くて、88年に石岡さんの手紙、有本さんたちのところに「薫と3人で一緒に暮らしている」ということで、北朝鮮にいると言うことが分かりましたけども。
私たちきょうだいには父は何も教えてくれなくて。
父は本当につらかったと思います。
私たちが(北朝鮮による拉致を)知ったのは本当に後のことですから。

(司会者より「座って」の声)
よろしいですか?
すみません、座らせてお話させていただきます。

父は本当につらい思いをしたと思います。
薫は私より8つ下で、小さいときからだいたいおとなしくて。
私たちきょうだいは父母が戦後復帰で、一生懸命二人とも共稼ぎしておりましたので。
薫が生まれてからは、私が8つ下の薫をいつも連れて、どこへ行くにも一緒におんぶしたり引っ張って歩いたりして面倒を見てきましたので、私が母親みたいな役をさせていただきました。

本当におとなしいもんですから。
女のきょうだいの方が、うちの場合は男の子一人ですから、女のきょうだいの方がやんちゃで。
面倒見るのは全然手がかからない弟でした。
弟は私たちにとっては大事な宝物でしたし、小さいときから男の子が一人ということで。

父親は男の子が欲しくて欲しくて、「男の子が生まれるまで産んでくれ」と言うことで母に言ったらしいんです。
でも母も、いやもう私・・・女ばかり生まれるもんですから、5人きょうだいで4人目が亡くなったんですけど女ばっかりでしたから。
母は「そんなに産めない」って言ってたらしいんですけど、5人目に薫が生まれまして、それはそれは父はとっても喜んで。

嬉しくて私たちにも小さい頃、父がよく言ってたんですよ。
「やっと薫、男の子だよ、きょうだいだよ、きょうだいだよ」と言ってかわいがってくれました。
私たちもとても大事にしてくれましたし。
父は子煩悩で優しい顔をしておりましたし、小さいときからですね。
私たちも、だから父も大好きだったし、母も大好きでした。

母もおとなしい性格で、父の言うとおりに人生を歩んできておりますので、薫もどちらの方に似たのか、良い方ばかりを貰ってて。
私たち女の子は、ちょっと男・・・私はあります。
二番目はおとなしいですけども。
3人ともいろいろ特徴があって、案外元気良かったんですが。
薫は小さいときから私たちが一緒に面倒見ても手のかからない。

母も勤めに行ってるときに、私たちは少しでも母の手伝いをしようと思いまして、きょうだいで青果市場なんかにですね、お掃除に行くんです。
「おじちゃん、お掃除させてください」と言うとね、「いいよ」って言って、竹ぼうきを持って、子供ながらに役にはたたなかったと思うんですけれども。

お掃除が終わるとお野菜なんかをくれるんですよね。
たくさん大根とかを、ひびの入ったのとか西瓜のひびの入ったのとか、私はそれがうれしくて。
きょうだいみんなでそれを頂いて帰っては、家で七輪を起こしながら母の帰りを待ちながら、出来ないながらも料理を何かかにか作って帰りを待って。
そういう、貧しいなからも楽しい家庭だったんですよね。

薫たちが成長していくにつれ、私たちもきょうだいいろんな、年の差もありますもんですから。
私が大体早く結婚しましたので、父親たちとは一緒にいる時間帯がちょっと少なかったかな?と今思えば後悔しております。
もう少しお嫁行かないで、父ともう少したくさんおればよかったかな?とか、そう言う事も父がいなくなってからそう思います。

うちの家族はとても父母を頼りにしていましたし、甘えていました、皆。
薫がいなくなったときの頃も、今となりにいる信宏は父から伝えられましたけれども、なんか「私たちには言うな」と言うような。
私たちお嫁に行ったりしてましたので、口止めされていたようで、信宏もつらい思いをしたと思うんです。
父もとてもつらい思いをしたと思うんですよね。

父親は私たちに口癖のようによく言ってたんですが、
「お勉強したければ、父ちゃんはどんなに働いても苦にならないから、お勉強したければどんだけでも頑張って勉強していいよ。
どんだけでも父ちゃん頑張るよ。
だから学校に行きたければ学校行きなさい」
と一生懸命言ってくれましたけど、私たちは高校だけであれしましたけれど、薫はやはり勉強が好きな子で、小さいときから。
一生懸命机に向かって本を読んだり勉強したりしておりました。

父にお願いして大学も行かしていただいて、それで最後にスペインに行くときにも「家に帰ってきて父と一緒に、勉強して帰ってきたら父たちと一緒に暮らすから」、と約束して行ったのですから。
父を裏切ったのでもないし。
また帰ってくる、あの、いろんな事情もありましたので、多分薫は一年たったら帰ってきたと思うんです。

私は本当に、スペインに行っただけでこんなことになるって、本当に思いもしなかったし。
スペインに行く前に、今日これ初めて私これを公開したんですけど。
(信宏さんが、衿にホテル名の入った黒いはっぴ姿の薫さんの写真を一枚掲げる)
やはり行きたくてお小遣いをですね、溜めてたんですよ。
これは大きくしましたが、富士山にですね、富士山でバイトをしてたみたいで。
だいぶきつい仕事だったと思いますけれど、お友達とずっと皆さんとでバイトをしていて。

その中に一人女の方がおられて、薫のことを良く知ってらっしゃってですね。
私に初めて去年手紙を下さって、写真も、「薫さんとこういうお仕事さしていただいたんですよ、バイトしてたんですよ」と、初めて私は知ったわけです。
「どんな風に薫が言ってたですか?」と言ったら「お小遣いを貯めて、スペインに行って、お勉強をして、そしてまた帰ってくるから」と。
「みんな待っててね」というような話をしたということでした。

ですから、薫が好んで北朝鮮に行くということは絶対にありえないし。
またよど号犯の森に、いろんな報道で流れているときもありますけど。
色恋なんかで薫が(北朝鮮に)行くような子ではない、ということだけは、本当に私は皆様に分かっていただきたいと。
薫はどうしても日本に帰ってきて、いろんな自分の人生計画を立てていたと。
私は今でも信じております。

ですから、本当に今でも薫を拉致した人が憎いです。
母もですね、今も病院に入院しています。
父は亡くなりましたけども、父も本当に無念だったと思います。

私は何もしてあげられなくて父にはですね。
本当に申し訳ないという気持ちもあります。
母は病院のほうに入院しておりますけども、やはり痴呆がかかっておりますから、私が病院に行ってもですね。
毎日時間がある限りはわたし行きますけども、私が娘ということがですね、今は分からないんです。

ですから私が「誰?」ってこういう風に(自分を)指差すと違う人の苗字を言うんですよ。
でもやはりね、私はそれでもいいと思ってます。
母は母なりにいろんな苦労をしてきていますから、だから私は精一杯出来ることをしてあげたいと。
毎日毎日本当にそう思って病院のほうに来ておりますけど。
2.斉藤文代さんのお話し(2)

やはりあの、小泉さんが訪朝されたときにですね。
私に・・・病院に行ったときが。
私はその日はつらくてとても病院に行けなくて、死亡と言う事を言われた時に行ってなくて、次の日に行ったんですね。

そしたら「テレビを見た?」って私に言うもんですから、母が。
「何のこと?」って、私もすぐピンと来たもんですから「何のこと?」って。
であの「違う人よ」って。
「薫って名前はたくさんいるんだから」って。
「だから母ちゃん、それは違う人よ」って私が言ったら「そうかしら?」って言うんですよ。
だから私が「薫はもうすぐしたら帰ってくるからね」って言ってるんですけれども。

あの私のこと、名前すら分からないのに、母はいつも「薫、薫」という頭。
でまた、26歳の記憶で母は止まってるわけです。
私が病院から帰ろうとすれば「奥さん、奥さん」って私に言うから「なあに?」て言うと、「ご飯が炊い
てありますので」と敬語を使うんですよね。

「ご飯が炊いてありますので、おかずを作って、薫と爺ちゃん食べさせてあげてくれませんか?」て言うから。
「ああいいですよ、作りますよ、じゃあ何がいいかね?」って私が言うと、
「薫はまだ若いからお肉がいいんじゃないですか?お肉料理をたくさん作ってあげてください」て言う。
「ああいいわよ、じゃあ爺ちゃんはどうしようか?」と言うと、
「爺ちゃんは年だから、簡単な軽いものでいいんじゃないですか?」って私に言うから、
「ああいわよ、じゃあたくさん作って食べさせるから」って言ったら、
「薫は若いからたくさん作ってあげてください」って言うんですよね。

だから本当にそれを聞くとですね。
つらくてつらくて、私は何とかして母に会わせてあげたい。
本当に何とかして会わせてあげたいと思うんですけど、私の力ではどうすることも出来ませんし。
かといって私たちが動かなければ、尚更薫は置いていかれるし。

だから私も何とかして頑張って、これから先も生きていかなければ、母に会わせてあげなければ、薫を、と思ってですね。
(病院に)行けば私がいつも「今日も元気で来て良かったね」って「私も元気だよ」って「だから一緒に頑張ろうね」って、いつも口癖になってるんです。
「頑張りますよ」って言うんですけど、やはり病気なんかして高熱を出したときなんか、「頑張ろうね」って私が言うと「もうそんなに頑張れませんよ」とかって言うんですよ。

そのときは本当につらくてですね。
なんでこんなに長いね、拉致の人生をね、過ごして来たんだろうかと。
この世に神も仏も無いのかなぁ、と思いつつですね。
でも、私がくじけたら、母に薫に会いたいと言う希望をかなえてあげなきゃいけない、という気持ちがあるもんですから。
「頑張るのよ」と。
「どんなことがあっても頑張るのよ」といつもいつも励ましております。

去年ですね。
ちょっと、具合が悪くなりまして、もう本当にだめかと助からないかという状態になりました。
私は耳元でですね。(文代さんの目から一筋の涙がこぼれる)
もう、くたっとしておりましたので。
だから母に「かあちゃん!」って。
「今あなたが頑張らなければどうするの!薫が帰ってきたら泣くよ!」と耳元で言ったんですよ。

そしたら本人は本当に具合が悪いもんですから、くたっとしていて返事も出来ませんけど。
私はかわいそうだな、耳元で大きな声でこんなに叫んだらかわいそうだな、とは思ったんですれどけど。
「頑張るのよ、薫が帰ってきて母ちゃんがいなかったら泣くでしょ!」と、ちょっときつかったんですけどそう言いまして。
そしたら何とか母もそれが通じたのかどうか、熱も一週間以上ずっと続いていたんですけど、点滴なんか本当かわいそうだな、と思って。


見るに耐え切れないようないろんな治療をしておりましたけれども、なんとか今も頑張っておるんです。
いつも病院から帰るときも「今日、母ちゃん頑張ってくれてありがとうね」という気持ちで私は帰るんです。
いつかは絶対に薫をこの病院に連れてこなきゃいけないから、って。
いつもいつも頭の中に入れてますもので。

看護婦さんたちも「お母さん、薫さんが帰ってきたときにはお迎えに出ようね、玄関に」と約束してるらしいんです。
ですから、母が「はい、迎えに出ますよ」って言って。
「そのときのご挨拶は?」って、看護婦さんと相談してるみたいなんですよ。
「なんていうの?」てたまに言うと、「お帰りなさい」って言うって。
私が冗談ですね「じゃあ、『薫どこ行ってたの?』って言って頭ポンポンってしようか?」って冗談で言うんです。
「そんなことしたらかわいそうだよ」って、まぁ冗談なんですけど、そう言うんですよ。

「そうだよね、好き好んで行ったわけじゃないのにね、かわいそうだね」って言うと、「そうですよ」って私に言うもんですから。
「そうだね、帰ってきたときは、おいしいものたくさん作って食べさせようね」と言うような会話を、毎日毎日私は母としているんです。

母がですね、今も何とかかんとか頑張ってくれておりますので、帰ってくるということを、本当にそう長くは待てないわけなんです。
私たち家族には時間が無いわけですから。
何としてでも、去年もそう思ってたんですけども、今年中には本当に北朝鮮から返して欲しいといつもいつも願っております。

それでなくてもうちの場合にはいろんなおまけが付きまして。
骨も何度も何度も持たされてきてます。
本当にね、なんという国なんだろうと。
最初の時は本当につらい思いをしました、あの鑑定が出るまでですね。
これはなった者の身でないと、本当にもう分からないと思いますけど。

1ヶ月間、本当に苦しかったです。
どのような結果が出るのか。
本当に薫の骨なのか?
薫の骨ではないとは思っていても、やっぱり不安ばっかりが募るわけですから。
橋本先生の電話を、本当にもう、かかっていたときは身震いがしました。
先生が一言最初にですね「お姉さん、おめでとうと言っていい?」と言ってくれたときは本当に嬉しかったです。

あ、薫のものではないんだ。
「先生、薫じゃないんですね?」って言ったら「違いますよ」って言われて。
「60過ぎのおばあちゃんですよ、女の方ですよ」って言う。
「そうですか、ああ良かった」と思ってですね。

そしてそのあと、また今回第3回実務者協議で骨をまた渡されましたね。
でもそれは、もう全然私はなんとも思っておりませんでした。
また北朝鮮がそういうことをしたんだと。
じゃあ薫はね、生きてる証拠をね、だんだん、だんだんこうやって逆に出してきてるんじゃないかと、私はそう思います。

3回目に行った時も書籍を持って帰ってきてましたので。
「出航」っていうのを、中身は見られませんでしたけれど、字を見たときに信宏と「ああ、薫兄ちゃんの字だね」って信宏もですね、言ってくれて。
本当に私たちやっぱりきょうだい皆、特徴というのをちゃんとわかってるんだなぁ、って思ってですね。
何年離れてもですね、本当に懐かしいと思ってその字を読みました。

それをちょっと見るのがちょっと、ビデオとって下さったので、私見なきゃと思ってずっと思ってたんですけど。
今回こちらに来るときにですね、見てきました、「出航」というのをですね。
それは本当に、薫の気持ちがそのままドラマの中の気持ちが伝わってきました。
ていうのは、あの船がですね、銅鑼がぼ~んと鳴ってですね、テープを皆がわ~っと投げて出航して行く所からドラマが始まるんですけれども。

もうなんか、それを最初見たときに「ああ、帰りたかったんだろうなぁ」って「皆本当におうちに帰って来たいのに、なんでこんな僕だけ帰れないんだろう」って「つらかったんだろうね」って思って。
そのドラマを見たとき薫は帰りたい一心で、この「出航」というのをね(シナリオを)書いたんだろうなと思って。
ますます取り返してあげなければかわいそうだと思いました。

ドラマの内容、がいろんな内容が素晴らしいもので、300回記念で日曜洋画劇場なんですけども。
(信宏さんが隣で「日曜劇場」と訂正の声をかける)日曜劇場か、に出てて。
本当に素晴らしい「出航」というドラマでした。
私も主人も二人で見入っておりました。
その内容が伝わるものがあって、薫からのメッセージがですね、ますます私の胸の中に入ってきました。

だから絶対にこれは特に母に、これは薫を取り返して何としてでも生きてる間に会わせてあげなければ、私は本当に母に対して申し訳ないと、言う気持ちが今ますます沸いてきております。
自分では何にも出来ないんですけど、やはり国民の力を借りて政府を動かしていただきたい、と。
本当にその気持ちしか私はありませんので。

私たち、薫を本当に取り戻すという気持ちが毎日毎日募るばかりで。
薫を母に会わせてあげたい。
そして母も薫に会いたいと思っておりますし。

母はですね、今となりにいる信宏って、「信宏」と言う名前にもいろいろいわれがありまして。
信宏にはこの間話したんですけども。
薫がですね、まだ信宏が生まれてない時に、薫って名前は女の子みたいな名前ですから、自分でも男らしい名前が欲しかったんだと思うんです。

それで私たちに相談したことがあるんですよ。
「僕家におるときにはこの名前を使っていいかなぁ?」って母に言うから、私たち「いいんじゃないの、いい名前だね」って。
自分でちゃんと考えて来たって言うから、家では「信宏、信宏」と呼んでたんですよ。

ですから信宏が生まれたときになんて名前をつけようかねって、皆で。
かわいい子でしたから、小さいときに(くすくす笑い)なんて名前をつけようかねって皆で言ってたら、薫がですね。
「僕の名前、信宏ってのをあげていいよ」ていうもんだから、「そうだね、信宏って言う名前にしようか」と言う事で。

ですから信宏とまぁ薫を、私たちは知ってたんですけども、父が亡くなる前に信宏のことを「薫お帰り」とかって言ったとか言ってるから。
それは信宏を薫と家では言ってたもんですから、そこんところは、父は間違っていったわけじゃあないんですが。
信宏にしてみたら「何で間違えるんだろう?」と。
そういう話をしなかったから、思ったんだろうと思います。

信宏も薫もとっても父は男の子はなんて言うんでしょうかね。
可愛がって可愛がって自慢して抱っこして、信宏なんか孫でしたから、本当に可愛くて抱いて歩いてたんですよ。
そういうような家庭でしたけども、拉致ということになってから、本当に家の中が一変してしまってたんです。

父も母もそわそわと、私たちと会話をするときも何かこう避けるような。
何か分からなかったんですけど。
後でよく考えれば、そういうような薫が拉致されて本当に苦しんでたんだなと。
本当に何も力に慣れなくて申し訳なかったという気持ちで一杯です。

ですから母には、精一杯私は出来ることは、薫が帰ってくるまで、薫に会わせて。
それからじゃないと絶対に私は母を死なせるわけには行きませんので。
もう一生懸命私はそれを毎日毎日願って、こういう活動をしたり、家のことをやったりしております。
皆様がお力を貸してくださるから、こんなして頑張れるんじゃないかと自分でも言い聞かせをして、ありがたいなと感謝しています。

もう、本当に今年中には解決したいです。
本当に返して欲しいです
薫がですね、帰ってきたら「玄関で母が『お帰りなさい』って迎えるんだ」と練習をしておりますので、どうかみなさん力を貸してください。
私たちも頑張りますので、よろしくお願いしたします。(拍手)
◆―――――――――――――――――――――――――◆
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松木薫さんを救うぞ東京集会(2)

2005-01-13 | 松木薫さんを救うぞ東京集会
2.松木信宏さんのお話(1)

私の名前の件については2~3日前に聞いたばっかりなので、正直ちょっと驚いてます。あんまり「信宏」という名前も男らしい名前とは思えないんですけども。(笑い声)
まぁ、私の兄にとっては、薫よりはるかにましだったのではないかな?と思います。

私は本当は、兄から見れば2番目の姉の子供になるんですけども。
いろいろまぁ、私の実の母親の方にもいろいろな事情があったかも知れないんですけど。
生まれてすぐに、本当でしたら祖父母になる父親の養子ということで入りました。

まぁ、兄はその当時大学・・・短期大学に行ってみたり、そこから編入学して京都産業大学の方に行きましたりしてましたので、滅多に家に帰ってくることは無かったんですけども。
帰ってきたときは良く・・・遊ぶといっても、私の兄は参考書とかそういうものを買ってきては勉強を教えてやるから付いて来いという感じでしたから、遊びにはならないんではないかな?と思うんですが、よく勉強を教えてくれました。

本当にじっくり私が本気になって教わっていれば、もうちょっと私も違う人生を送ったんではないかな?とは思うんですけども。

本当に私の目に焼きついている兄というのは、机に向かっている姿っていうのがほとんどです。
よくまぁ、私と父親母親とで、週末に海に行ったり山に行ったりするわけですが、兄がいるときはもちろん兄にも一緒に行こうよと声をかけるわけですが、10回誘って1回付いてくればいいほうかなぁ、と。
「家で留守番してるよ」と。

「またそんなこと言って留守番するとか言って、どっか遊びに行くんじゃないのかな?」と言ったら、「いやそんな暇があるんなら、勉強してるほうがましだよ」というふうな感じで。
実際帰ってくれば、どんな時間に帰ってきても、大体机に向かっていると。
だからもともと賢いとかそういうあれではないと思うんですけど、努力の人かなぁ?と、言うのは、まぁ私の目にはそう映りました。

先ほどうちの姉の方が、うちの父親が「勉強したいと言えばどんなことしてでも学校に行かしてあげるよ」と言ってた事を言ってましたが、私なんかの時はだいぶ父親が定年退職した後で、比較的落ちついた状態でしたので。
なんでもこちらのわがままをきいてくれるという風な。
なんでもいいよ、と。
何かしたいことがあったらしていいよと、言うようなことをよく言ってました。

あんまり自分で取り立てて(勉強)しようという気持ちが無かったせいか、結局はうちの父親がよくまぁ、なんていうんですかね。
あちこち塾を探してきて、「おまえ、そこに行け」と。
「勉強しなくちゃ薫兄ちゃんのようになれないぞ」ということで。
結局は無理やり押し込まれて、しぶしぶよく塾だのなんだの、通っていた記憶があります。

そうこうしているうちに、兄もだいぶ落ちついて帰ってきたときに、「スペインに行きたいんだ」という話をしたんですけども。
「いや、そんな遠くに行ってもらっては困る」ということを言ってました。
その当時まだ私は小学生だったんですけど、とにかく反対をしてましたね。
隣にいる姉などは「行かしてやりなよ」と、言ったんだよね?(隣に座る姉・文代さんのほうを見る)
大分女きょうだいは、みな結束してどうにかして行かしてあげたいということで。
母親といろいろとやってたみたいですけど。

うちの父親というのは一回だめだといえばなかなか頑固者で。
自分がこうと思ったらもう、てことして動かないタイプの人間なので、相当苦労したんではないかと思います。
で、姉も言いましたけど、私の耳にも焼き付いているのは「一年で絶対に帰ってくるから」と。
やはりあの、「とうちゃん、かあちゃんのそばにいるから」と、いうふうなことを言ってました。

最後に私の母なんかは、あんまり意見をするタイプの人ではなかったんですけど。
「薫がそんな滅多に頼まないタイプの人間なのに、こうやって頼んでるんだから、行かしてあげな」というようなことを言って。
まぁその場では「ダメだぁ!」と言ってたんですが、最後は「一年だけだぞ」ということで。

兄自身もスペインに行く渡航費用っていうのは、こそこそバイトして貯めてたみたいなんで。
「お金はいいよ」ということを言ってたみたいなんですけども。
何かあったら困るから、ということで確か父親も、金額はちょっと私も記憶に残ってないんですけども、まとまったお金を確か渡して、送り出したと思います。

もともと日本にいるときから、筆不精なタイプの兄ですので、なんて言いますかね。
ちょっと半年・一年手紙が無くても、便りの無いのは元気の印というか、そういう風な感覚でいたんですけど。
行ってすぐに絵葉書が一通来まして。
まだ学校に入る前っていう風な感じで内容が書いてあって、「当座は仕送りも必要ありません」ということでかいてありまして。

後、私の姉たちの名前がずらずら書いてあって、最後に信宏にもよろしくと書いてあったんで、「あぁ僕のことを忘れてないでいてくれたんだなぁ」と思いながら、喜んだ記憶があるんですけども。
その絵葉書が来て、一年たっても音沙汰が無いし、二年まではなってないと思うんですけど。
一年半くらいたった頃から、多分うちの父親があちこち・・・おそらく行ったのは警察とかあたりだと思うんですけど。
日本の警察じゃどうしようもないですから、それで外務省とかに手紙を書いたり電話したりしてましたですね。

私が外務省というか、スペインの大使館のほうにも手紙を出したりしてたみたいですけど。
どちらか、本省の方が言ったのか?現地の大使館の方が言ったのか?分かりませんけど。
印象に残っている言葉は、「それだけ言葉が出来てるんだから、結構楽しんでくらしてらっしゃるんじゃないですか?」「帰りたくないから帰らないんじゃないですか?」というようなことを、うちの父親に言ったらしくて。
「自分の育て方がまずかったのかなぁ?」と、「自分が何か押さえつけてたのかなぁ?」と。
時折ぼやいてたことがあります。

いなくなった後に、普段夫婦喧嘩というのはしないんですけど、大体きっかけは私のことで喧嘩になるもんですから。
例えば、髪の毛が、あの私の父親というのは髪の毛が長い人間が嫌いなんですよね。
だから私の兄なんかは、髪の毛をずっと伸ばしてるもんですから、「そんな見苦しい髪をするな」と、よく言うもんですから。

だから母親が帰ってきたときにお金が無いんだろうと思って、お金を渡して「これで切っておいで」と。
とりあえず切っては来るんです。
でもなんか、床屋さんに行った髪ではないんですよね。
で、あとでよくよく聞いてみたら、自分でそこらへんのはさみでちょっきんちょっきんと切って。(くすくす笑い)
写真のなかでどれかあったかな?(薫さんの写真を指し示しながら)
あ、ちょうどこの上のなんかそうですけど、これなんか間違いなく自分で髪の毛を切って、いますね。

ちょっと真ん中あたりは、いや真ん中も多分自分でやってるんだなと思うんですけど。
(「これもそう」と文代さんの声)
とにかくまぁ、まず一年に何回床屋に行ったかと、数えたほうが早いような人でした。
うちの父親は一月に2回でも3回でも、ちょっと耳にかかれば行くタイプで、だから私なんかにも「そんな伸ばすな」と。

で、母親や隣にいる姉の方はやっぱり髪の毛短く切るほうが好きなんですけど、ほかの姉たちはちょっと伸びた髪の方が好きらしくて、よく私はおもちゃにされてたんですけど。
だいたい、そういう「短くしろ、いやこれでいいじゃない」というのが喧嘩のネタになったりしました。
子供ですからいろいろ口答えするわけですが、それを母親がかばうと、また夫婦喧嘩になると。
いう図式だったんですけど。

その散髪の件に付いては、いろいろ余談があるんですけど、「家族」って本にも確か(となりの文代さんに向かって)書いたよね?
書いてあったと思ったんですけど、京都から帰省してきたときに「これお土産」とかって菓子箱になにか入れてきたらしいんですよね。
母親が「あれまぁ」と開けたらば、床屋代とか仕送りのあれとかなんでしょうね。
お金をずっと菓子箱に入ってたやつを母親にプレゼントしたという。
私は母親が泣いてる姿は見てないんですけど、姉のほうはね、それを見て喜んで感激して泣いてるのを見たということをよく言ってます。

私はなんでもぱっぱ、ぱっぱとお金でも使うタイプなんですけど、兄は本当にほとんどお金があれば、教材というか自分の勉強のものを買うと。
着るものについても無頓着ですし、食べ物もそこらへんにあるものなんでも良いやみたいな感じで。
よくスーパーとかで父親と買い物に行ったら、ちょっとカップラーメンとかが、一箱いくらとかって安売りがあれば、「これ薫に送ろう」と言って。

ジュースでもそうですよね、なにか買って送ってました。
とにかく送らないと、食わないで一週間でも二週間でも過ごすんじゃないか?っていう風なそういう雰囲気が漂っているような、兄でした。

服なんかもよれよれのジーパンとかはいてましたし。
とにかくネクタイ姿というのが大っ嫌いみたいで、北朝鮮側から出してきた写真なんかもネクタイの結び方が非常に下手なんですよね。(笑い声)
うちの父親なんかもあんまり上手なほうじゃなくて、要はひとかけっていうか、一回くるっとまわして伸ばすようなタイプで、そういうふうな結びをこれも(北朝鮮から提供されたネクタイ姿の薫さんを指して)してると思うんですが。

とにかくスーツとかいうものの姿を見たのは一回か二回ぐらいで、ほとんどラフな格好というか。
それしかなかったというのが多分現実なんじゃないかと思います。
母親なんかが(スーツを)買ったりとかして着せようとするんですけど、やはり性に合わないと。
私から見れば非常にジーパンが似合って羨ましいな、と思っているんですけど。

私が高校生のときに、「これ薫が着ていたやつだから、お前着てみろ」とかって、ジーパンをもらうわけですよね。
でも足の太もも辺りではいたときに引っかかっちゃうんで。(笑い声)
「じゃあ腰周りだけ直せばどうかな?」とかいったら、そうすると今度は、足の長さが全然合わないですね。(笑い声)

ただ、上のシャツだけはぴったし合う。
特徴というか体型の特徴ってのは、遺骨を持ち帰ってきたときに、体型の特徴というのは、橋本先生に言ったのは、「うちの兄は逆三角形で間違いありません」と。
「足も私の腰くらいあるはずです。自分ではいて確かめましたから」と言ったら橋本先生少し笑っておられましたけど。

松木家っていうのは、あんまりなんていうんですかね、足の長い人間とか、そんなに勉強が出来る人間というのががいなかったもんで。
「突然変異で出来た人間なんじゃないかな?」と僕なんかは子供の頃ずっと思ってたりしたんですが。
突然変異じゃなくて、影で隠れて人一倍努力をしていたと、今から考えてみればそういう風に思います。

辞書とかそういうのを離した姿というか、握っている姿のほうしか、私も印象に無いもんですから。
よく言ってたのは「この辞書を丸暗記するぐらいのつもりで、自分は勉強している」というようなことを、胸を張って言ってましたから、それだけのことをしていてたんじゃないかと思います。
ただ、私なんかはそういう真面目って言うふうな印象しかないんですけど。

私、学校も小学校から高校まで兄とまるっきり一緒なんです。
熊本の名前なんでご存じない方もいらっしゃるかもしれないんですけど。
中高一貫教育でやってる九州学院ていう、私立の学校に男は行かさせてもらったんですけど。
女の人は信愛女学院といって、両方ともキリスト教の学校なんですけど。
これクリスチャンの方は分かるかもしれないんですけど、九州学院っていうのはプロテスタントっていってキリスト教では新教の学校なんですけど。
信愛女学院のほうはカトリックの旧教の学校なんですよね。

一回聞いたことがあるんですよ、うちの父親に。
「どうして男は九学で、女は信愛なの?」とかって言ったら、「え~?意味は無いよ」って。
「うん、ただ見てくれが良さそうなところに行ってもらいたかっただけだ」(笑い声)と言ったときにはさすがに吹き出したんですけど。

ただ、自分がやっぱり勉強したくても出来なかったと言う事が、私にも言ってました。
やっぱり長男だったんですけど、もともと田舎は鹿児島なんですけど、鹿児島に帰ることをせずに九州の地方を転々としてたんで、言葉ではあまり苦労したという言葉は吐いたことは無いんですけど。
母親のほうは「苦労した苦労した」といいますけども。
でも本人は盲腸で腹膜炎起こしちゃって死にかけたとか、戦争中に爆弾で足やけどしてたりとか、体を見ればいろいろ痛々しい姿があるんで。
そういう苦労したということは人には言わない感じの父親でした。

兄もどちらかといえば、そういうことを言わないタイプで。
父親に似たか?というと、顔もそうなんですが、私の兄は母親にそっくりだな、と思います。
母方のおじとかみんな体がすらっとしてるんですよね。
体型も似てるし、男一人だけ、母方に似たと。
私は先ほども言いましたように孫ですから、なんか皆「年を追う毎にだんだん爺ちゃんに似てきたね」と。
「信宏は爺ちゃんに似てきた、あとは髪の毛似なきゃいいわね」というようなことを言ってますけど。

うちの家では特別な存在でした。
同じ学校なので、私立で先生とかも一緒なんですよね、私と。
教わった先生も一緒なんですよね。
やはり私は真面目な兄だと思ってたんですが、第三者の意見もやはり聞かなきゃいけないと。
ひょっとしたら、違った一面があるかもしれないと。
いなくなるには何か理由があるんだと。

その当時は拉致だとは思わなかったですから、絶対訳があるはずだというふうなつもりで。
それで「松木薫って覚えてますか?」と言ったら、実際教えたことあるはずなのに、知らないという先生もいれば、よく知っているということを言われる先生もいて。
「本当に松木の弟か?」とか「そうですけども」、「それは似ても似つかぬ兄だなぁ」、ということをよく言われました(笑い声)

やはり私が教わった先生で印象に残っているのは、もう亡くなったんですけど国語を教えておられた先生で、授業中酒飲んでやってくるタイプの先生だったらしくて。
私が教わる頃には定年間近でもうだいぶお年を召されて、代わりに質問に答えられたらポケットから飴やチョコレートをだして、ほれほれと上げるような先生だったんですけど。
「松木君、遊びにおいでよ」と。

家に行ったらずらっと寿司だの酒だのが並んでいて、「飲んでけ」とか。
本当は飲んではいけないんでしょうけど、もう時効だと思うんで、一緒に飲みながらいろりろ話をしたら、「本当にお前の兄さんも、もう少し頭が柔らかだったら、よかったのになぁ」と。
「お前ほど柔らかだったら困るけど」、とよく言われました。(笑い声)

その学校に入学するときも、父親が「松木薫の父親ですけど、今度私の身内が受験するんでよろしくお願いします」と。
「そんなことしなくてもいいのに」とかって言うんですけど、うちの父親はとにかく、兄もそうなんですけど、学校の先生に必ず挨拶に行く。

長崎だろうが京都だろうが、必ず一回は行くという、変に生真面目というかそういう面があって。
そこへ行ったときに、そこの先生から「松木薫さんの弟さんなら間違いないでしょう」と、「通るの間違いないですよ」と言われて。
それを聞いたときに、「さあ、これは通らなかったら大変なことだ」ということで、本当に勉強した記憶があります。

本当に幸い通りましたので、まるっきり同じ環境の元で勉強したんですけど。
でも同じ学校なので本当に思うんですけど、どう考えても自分の意思で行方不明になる事は考えられなかったんですよね。
だから、「おかしいな?おかしいな?」と。
「絶対この学校出てて、そんな蒸発するようなことないのにな」と思っていたら、ポツリと私の母親のほうが言ったことは、「本当は薫兄ちゃんは牧師になりたかったのよ」と。
「え?なんで?」と、「やっぱり学校の影響じゃないかしら?」とかって言ってたんです。

それを普段は基本的に勉強することについては賛成している父なんですけども、こと、そういう宗教的な面では「うちはちゃんと先祖代々の宗教があるんだから、そんな牧師になるんだったら勘当だ」と、「今後一切支援をしない」とかと。
相当強いことを言われたらしくて、それだけで断念したんじゃないんでしょうけど。

結局その牧師っていう道はあきらめて、「どうせなるんだったら先生になれ、学校の先生になれ」と父親が言ったらしくて。
そこらへんから「(学校の先生を)やってもいいかな?」ということで、学校の先生になる道を探り始めたらしいんですけども、と母親が言ってました。

私が高校一年のときですかね。
北海道からの手紙が届いて、二年後に私の家に連絡が入ったんですけど。
ちょっと姉がしゃべったときに父親が知ってるというふうなようなことを言ってたんですけど。
実は父親は知らなくて、姉がどうしてこういうことをいうかというと、その手紙が来たときに・・・母親が、姉たちは外に出て行ってますので、家には父親と母親と私という暮らしだったんですよね。
そのとき「絶対しゃべるな」と。

「きょうだい親戚はもちろん、絶対しゃべるな」ということを私に言ったんです。
「なんで?」と「だって身内じゃない?」と。
「いや身内だから何でも知らせていいってもんじゃない。そういうことを知ることでかえって迷惑をかける」と、「親戚にも迷惑をかける」と。
北朝鮮という国をなんとなくわかってたのかなぁ?と思うんですけど。

「とにかくしゃべるな!」ということで、強い口調で言われますもんですから、私もついぞ隣の姉にも何もしゃべらなかった。
本当に9.17のときになってから話したんだね?(文代さんに向かって)
本当にしゃべらないまんまで。
私の姉がどこから聞いたかといったら、警察から聞いたと。

だから、私からの口からも言ったわけでもないし、母親の口からも言ったわけでもないと。
だから、その分かるまでの、そういう拉致されているということが分かる経緯を私は詳しく話すことができなかった。
その点では申し訳なかった。
亡くなった父親にも申し訳ないけど、隣の姉にも本当に申し訳なかったと。 
隠し事してて申し訳ないと、いうふうに思っています。

そのまえにちょっと・・・連絡が取れなかった時期もあった。
それも仕方が無いけどね、あったからね、あれだけども。
そういうことでだから、黙ってました。
母親もそういうことで一切外話すこともなかったもんですから、ご近所も多分みんな知らなかったんではないかと思います。
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松木薫さんを救うぞ東京集会(3)

2005-01-13 | 松木薫さんを救うぞ東京集会
 松木信宏さんのお話2

よくまぁ、私の家に兄がいなくなってから、2~3年後くらいからおまわりさんが来るようになったんですよね。
「年寄りの家庭だから、年寄りとちっちゃい子供のいる家庭だから、見回っている」と言って来たんですけど、それがずっと代々引き継がれていって。
その手紙が来て、神戸の有本さんたちと連絡を取るようになってからはじめて言ったのが、
「松木さん、どっかから手紙が届いたとかって言う、連絡が来ませんでしたか?」
「え?なんでそういう話を知ってるんですか?」って言ったら、「実は・・・」ということで。

おそらくいなくなってから何年か後には、ひょっとしたらそういうことを把握していたのかなぁ?と。
それまではよく家に来てくれて私のアルバイトの世話をしてくれて、親切なおまわりさんたちだなと思ってたんですけども。
実際は私らの家庭の行動を確認というか、ひょっとしたらそういう思想の家庭ではなのか?と思われていたのかな?と思います。

ずっと家にこられていれば分かるんですけど、うちはそういう家庭ではないと分かるんですけども。
だから終わりの頃はうちの家に上がってきて「ちょっと今日は眠たいから寝させてくれ」といってよく寝ていったり。
「ご飯を食べに行こう」と言ってご飯食べに行ったり。
私が就職が決まったときはスーツを作ってくれて、熊本にいたときは何かとお世話になりました。

ホントにそれで3家族集まってから・・・が結構長かったです。
会ってすぐに帰って来るものかなぁ?と思ってたんですけど、なかなか。
初め確か私一人で行ったんですけども。
神戸のほうに行ったんですけど、外務大臣宛に嘆願書を出すという形式だったんですけど。
それで上京して記者会見すると。

そのとき有本さんや石岡さんが、「松木君はまだ高校生だから、そうやってテレビの画面とかそういう映像に出ると、将来何かあったら困るから」って言って。
「私は構わないからどこへでも行きますよ」って言ったんですが、石岡さんとかが、「いや、まだね、そういう将来があって、この先何があるか分からないんだから、ついて来ちゃだめだ」って言うことで。

「私たちでやるから」ということで。
会見をするぞということで行ったんですけども。
それは皆様ご存知かも知れませんけども、そういう北朝鮮とのコネクション持つという人が「この会見、取り合えず取りやめてくれたら何とかするから」というふうなことでお流れになって。
それから有本のお母さんお父さんとかがだいぶご苦労されて、それはよく放送などで出ているんで分かっていると思います。

ただ、私らの場合は、母親が「言うな、しゃべるな」というタイプでしたし。
「なんでかな?」と思ったんですけど、やはりもちろん兄の身に何か起こるかもしれないということもあったんでしょうけども。
ひょっとしたら本当はやってくれという気持ちがあったんじゃないか?と。
ただ相手が私ですから、やはり石岡さんとかと同じで、要らぬ気苦労をかけさせたくなかったというのがあったのかなぁ?とも思います。

その間、考え方の違いで連絡を取らない時期もありまして、石岡さんや有本さんとかとの交流が途絶えた時期もあって。
私も仕事で、大阪に行ったり東京に移ったりしましたもんですから、家族会結成とかそういう風なことは丸っきり耳に届かなかったと。

でまぁ、もし届いたとしても、姉はどうだか知らないんですけど、姉の場合は届いたら参加してた?(隣の文代さんに問いかける)
(文代さんの言葉)一緒にやりましょということで・・・その間に・・・最初は(後は聞き取れず)
うちの場合は、最初に集まったときにやるときは皆一緒でと。
石岡家もやるときは一緒にと。
みんなでやると決めたときに一緒にやろうと。
なんとなく暗黙の了解があったんですよね、表に出ることを控えようと。

それぞれ言葉に言うあれじゃないんですけど、なにかあったら?とかって。
そのあと、点点点ということになるんですけども。
有本さん場合はお父さん母さんの場合はご存知かもしれませんけど、叔母さんという方がいらっしゃって。
叔母さんという方も、やはり何かあったら、点点点と。

私なんかも今のまんまじゃ・・・というのがちょっとありました。
その手紙の中に私の兄の筆跡が何も無いもんですから。
熊本の警察の方にも「今声を上げても、向こうが知らぬといったらそこで、松木薫という者の存在自体が否定されちゃうぞと、なくなっちゃうぞ」ということを言われたんですよね。

なにも物証が無いもんですから。
やはりあの・・・生きてて欲しいという気持ちが家族にあるもんですから。
変に・・・
有本さんたちは証拠があるもんですから。
本人の顔写真もあるし、旅行保険もあるし、石岡さんももちろんあったんですが。
でもうちの場合は石岡さんの代筆で何も無いんですよ。
だから声を上げようにも上げられないと、いう状態でいて。

これはもう、ちょっと本音の本音なんですけど、ちょっといやらしい気持ちがありまして。
あわよくば、本人じゃないかも?しれないと、淡い期待を抱いていたんですよね。
本人の筆跡じゃないから、ひょっとしたら本人じゃないんじゃないか?と。
スペインでパスポートだけ盗られて帰るに帰れなくてスペインでね、現地人に成りすましているのかな?と。
言葉が出来るし、どこへでも行けると。
ひょっとしてそういう状態なのかな?とか。
ひょっとしたら北朝鮮に渡ってないのかな?と、ほんのちょっとだけ淡い期待を抱いていたこともあります。

ただ結果は、本人は向こうにいるということを北朝鮮は認めましたんで。
で、実際こうやって写真も持ち帰りましたし。
遺骨は人様のものでしたけども、ああいうシナリオも日本語のテキストとして使ってるということもいってるんですけども。
前にもここの場所で言ったんですけども、シナリオを日本語の教材というのはちょっとおかしいなぁ?と。
シナリオってその時代時代の流行語があるじゃないですか。

だから十年たったら使いものにならないフレーズというのもあるわけですし。
そういうものを日本語の教材に使うのはどうなのかな?と思って。
ひょっとしたらシナリオというもの自体が、「これは北朝鮮の“シナリオ”なんだから、あんまり信用するなよ」と、私なんかそういう風にとったんですよね。
姉なんかはその「出航」というドラマのビデオを見て、また違う思いを抱いたみたいで。
これはもう、兄が帰ってくるまで、どっちが本当のことかわかんないですけど。
本当にそういうものだったんではないか?と、何がしかの意味があるんではないか?と思っています。

ずらずらっとしゃべったんですけど、最初に姉も言ったんですけど。
私の兄がよく報道などでなにか色仕掛けとか、一度ならずも二度までも夕刊紙にちょっと書かれちゃいまして。
何の根拠があって言っているのかな?と。

その当時よど号の妻たちのアパートに出入り、兄と石岡さんがしてたもんですから。
そのとき一緒に出入りしていた女性がいるんですが、一緒にスペインに行ったことがあるんですが、その方にテレビでは露骨過ぎて放送できなかったんですが。
そのとき行かれたプロデューサーの方が「ずばり単刀直入に聞きます」というふうな形で、「何ですか?」と。
「松木さんとよど号の森順子(よりこ)っていうのは、肉体関係があったんですか?」と。
私なんかとなりでぐっと息を飲み込むばかりで、「何てこと聞いてくれるんだ」と。

思って聞いてたんですけど、そしたら一言で、「それは絶対にありません」と。
すくなくとも、スペインからウイーンにって言ってたんですけど。
まぁ、実際にウイーンに行ったかどうかもわかんないですけど、証拠が無いんで。
そのときに「少なくても私たちと一緒のときは、そういうことが出来る環境にはありません」と。
私の兄は勉強だけじゃなくて、トランプゲームも暇つぶしにやってたらしくて、「私は松木さんにトランプを教えてもらいました」と。

で彼女たちは、よど号の妻たちはふたりで自分たちのベッドで寝て、泊まることは私の兄や石岡さんたちは滅多に無かったと。
必ず遅くても帰って。
そのまま帰って、二度と行かなきゃいいんですけどね、なんか次の日にまたやってきたと。
だから、どういうふうな誘い方というか。
だから、一緒に食事をするのが色仕掛けだったら、それはね、どんな若い人は毎日色仕掛けを受けてるようなもので。
だから何を持って色仕掛けというのかな?と。

そういうことを書いて結局何もこういうこと、皆様はご存知でいらっしゃいますけども、拉致問題について。
何も知らない人が見たら、「なんだ、そうやってだまされてるんだから、帰ってこられなくても仕方が無いじゃないか」といった雰囲気を作ることになったりしないか?と。
私なんか、そういう報道を憤懣やるかたない思いで見ている。

あと、政府の発表と違うことを、さも政府の発表のように番組で言う方もいらっしゃいますし。
なんでうちの家ばっかりこんなこと言うのだろう?と。
お骨も2回も持って帰って来るし、と。
何かあるのかなぁ?と。
そのお骨のときも、薮中局長とかが帰ってきて個々の家族に説明するまでは何にも言わなくて。
次の日の新聞報道かなんかに、何気なく新聞を開いたらえ~?って感じで。
「何で話してくれなかったんだ?」ということで、問いただしたりもしたんですが。

そしたら「私たちは松木さんたちのものとは思ってないんで、言わなかったんだ」と。
「だったら鑑定が終わるまでマスコミにも言わなくていいじゃないか?」と。
変にそうやって流れるから、私たちいらない気苦労をしなきゃいけなくなるわけですし。
私らはいいんですけども、母親がもしテレビの放送とかを見たらまた「松木薫の遺骨」その後に「らしきもの」と付くんですけど。

「松木薫の遺骨」とかいうのが出るだけでも、痴呆といってもすべてが痴呆なわけじゃないですから。
読み書きはまだできる、あ、書くのはもう出来ないね。
読むのは出来るんだよね?
でも読むのは私の目の前でも、これなんていうの?というと読めますし。
活字は見れるわけですから。
そしたら活字はちゃんと頭の中に入っていくわけですから、どう思うのか?と思うと

うちの家ではポリシーがあってふたりとも。
松木薫のことについて、松木薫の名誉を傷つけられるような事については、どんなことをしてでも抗議するぞと。
うちの母親が泣くようなことをするやつは絶対に許さないぞ、というのが絶対条件であって。
だから、ほかのご家庭よりも過敏に反応する面はあるんですけど。

いや本当になんていいますか、私の兄は反論したくても反論できない環境にあるわけで。
かたや、いまよど号の妻たちが帰ってくるわけです。
いろいろ私が裁判とかへ行ってもいろいろ言ってるわけですよ。
そいつら自分たちの主張をね、いろいろ言ってるわけなんですよね。
それを聞きながら思うのは「いいよなぁ」と。
「おまえらいいよなぁ」と。

私の母の気持ちを代弁すると、自分が丹精こめて育てた息子を勝手になんの理由もなく連れ去ってて。
で、自分は向こうに居づらくなったから帰ってきて、そういう環境の中で、なに言ったって日本じゃ殺されるようなことは滅多に無いですしね。
仮に刑務所の中に入ったって、死ぬということはないですよね。

かたや自分が連れ去った人間は置いてけぼりで、いつ何があったっておかしくないようなところに置いてくる。
そんな理不尽なことあってもいいものかな?と思ってます。
それをずっと言ってたら、3月には石岡さんのまあ、ペアって言ったらおかしいですけども、拉致のときに石岡さんと接触してた若林佐喜子というのが帰ってきますし。
7月になったらいよいよ、兄のまあそういう相手だったといわれる森順子というのが帰ってきます。

帰ってきて・・・私の兄が帰ってきてからだったら、いつ帰ってきてもいいんですけども。
今のままで帰ってくるんだったら・・・まぁ、これは家族のエゴかもしれないんですけど、どうしても心の中に引っかかるものがあって。
少なくとも自分の兄たちが帰ってくるまでは、加害者が帰ってくるというのはどうかなぁ?と。
姉はどう思ってるか知りませんけど、私個人の気持ちとして日本の刑罰では軽いですから。
そのまま北朝鮮の刑法で罰してもらえたらな?と、そういうことすら考えています。

それに自分たちで好きで行ったんですから、そのまま向こうにいればいいんじゃないかな?と。
で、お子さんたちは罪がないと私も思うんですけど、でも毎月のように北朝鮮に行ってるらしいですから。
そんなに北朝鮮が好きだったら、もうまた北朝鮮に永住しちゃえばいいんじゃないかな?と。(拍手)
僕はそういう風に思ってます。

裁判に行って、これは笑い話なんですけど。
私は直接聞いたわけじゃないんですけど。
よど号のメンバーを支援している方々たちが、まぁ松木家は私の姉と私と、有本さんのお父さんお母さんと・・・石岡さん来られてたんです、今度は。
そしたら、ふた家族って言ってると。
石岡さんが余りマスコミに出ないもんですから、どれが石岡さんか分かんないで、ふた家族来てるとよって言ってたらしくて。

馬鹿じゃないの?って思いながら。(笑い声)
少しは学習しろと。
そんなことしてるとよそ見している間に刺されちゃうぞと。
石岡さんに刺されちゃうぞと。
そういう風に思ったりしたんですけど。

裁判でもよど号の弁護士さんたちのほうが迫力があるんですよね。
日本の検事さんたちの方はなんとなく弱々くて。
「これじゃ、大丈夫かな?頼みますよ」と。
なんか傍聴してて祈るような気持ちで、「もっとやってください、お願いします」という感じになりました。
まだ石岡さんなんかは、たまたまこの前は水谷、田中協子って言って元は水谷って言うんですけど、裁判の傍聴に行ったんですけど、やはり自分たちの主張をするわけですよね。
それを聞いて「私は拉致なんかに関わってない」ということを言う。

石岡さんなんかは肩をぶるぶる震わせちゃって。
「で、どうでした?」って私が聞いたら、「いい勉強をさせて、も・も・もらったよ」とかって顔を笑おうとしてるんですけど、顔を笑えずに引きつってひくひくしてる訳なんですね。
用事があるからって言ってすぐいなくなったんですけど。

普通なら感想を私にメールなどで送ってくるんですけども、待てど暮らせど送って来なかったんで、きっと相当ショックだったんだろうと。
昔は石岡さんなんかは「帰ってきて自分たちの罪を償いなさい」と、メンバーに対して比較的寛容なことを言っておられたんですけども、「一度裁判を見てください」と。
「考え絶対変わりますから」と。
変わったみたいです。
「帰ってくるな!」って言ってますから。
もう「帰ってくるな~!」ていうふうな。

私母親が元気な間は母親を悲しませることしたくないですし。
とにかく母親を一日でも長く長生きしてもらうということを、二人とも至上命題にしてますんで。
最後は時間の勝負かな?と。
母親はまだ元気なときに私に、あのこういうことを言ってはどうかな?と思うんですけど。
「私が生きてる時には間に合わないかもしれない」ということを、北朝鮮にいるという手紙が来たときに、すぐ言ったんですよね?
「なんで?」と。
「まだ70、大丈夫だよ」
「いや・・・」って黙るんですよね。

だからおそらく北朝鮮がどういう国なのか、薄々感じてたんじゃないかと。
そういう戦争体験もありますし、あとは母親の勘なのかよく分かりませんけど。
でも本当に母親が言ったとおりのことになってきてると。
なかなか・・・なんていうんですかね、その、兄が生きているということは日に日に強くなるんですよ。
もう間違いないと。

ただ、兄が帰ってくるということが、それと平行してなかなか行かないですよね。
進んだりこう後ろに下がったり、じれったいというか。
こんなじれったいことしてたら、うちの母親なんて今83になりますけども、今度4だよね。
何歳まで生かさなきゃいけないのかな?と。
120歳くらいまで生かさないといけないのか?と、それはちょっと難しいと、ホントそう思います。

私たちはこうやって訴えさせていただいたりお話させていただいたり出来ますけども、実際の交渉は政府ですから、政府の方にはしっかりやっていただきたいなと思います。
ただ私らに出来るのは母親をどんなことをしてでも、一日でも一時間でも一分でも長くやって生きててもらうと。
それしかないと思ってますんで。
これからもちょっとそういうふうなことでやっていきたいと思います。

あと私は、よど号のメンバーたちに対して、いろいろ出来得ることを、ね。
帰ってくるというのを「帰ってくるな!」といって、成田空港にバリケード張るわけにも行きませんから。
どうにかして、少しでも彼らが日本に居心地を、日本にいて快適だな?と思わないようにするしかないですよね?
性格悪いかもしれませんが。

それしか出来ないんで、無い知恵を絞って、いろんな人に協力を頼んでそういうことをやって、出来得ることならば「自分たちがやりました」ということを、正直に言えるような。
言わせると言ったら、あの人たちはおそらく意地でも言わんごとなるので、言っていただけるように丁重に丁重にいろいろ考えてやっていきたいと思います。
長くなりましたけど、本当、今後ともよろしくお願いいたします。(拍手)
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松木薫さんを救うぞ東京集会(4)

2005-01-13 | 松木薫さんを救うぞ東京集会
3.熊本救う会代表 加納さんのお話


救う会熊本の加納です。
今日はたくさんお集まりいただきまして大変ありがとうございます。

実は松木さんは、父の友人でありまして、あのお父さんがですね。
それを全く知りませんでした。
そして、うちにお母さんもよく遊びにこられておったんですが、拉致のらの字も言われなかったもんですから。
私はこの救う会の活動を始めて何年間も、うちにいらっしゃってた松木さんと、被害者のお母さんの松木さんが結びつきませんで。
結びついたのが2002年だったんですね。
それぐらい一生懸命自分でこらえていらっしゃったんだなぁ、と今から思います。

熊本県警も最近になって口をやっと少し開き始めていますが、拉致の当初から知っておったと。
まだたくさん情報を隠しているみたいで。
先ほど信宏さんがおっしゃいましたが、「今騒いでも向こうがいないと言ったら終わりだ」などと。
信宏さんたちは非常に好意的にそれを受け止められたみたいですが、とんでもないと。
公安の関係の話を聞くと、たくさんの情報をいまだに隠しておるんだな、と思って。
今年はもっと、そういうのを少し目標にしようかな、と。
口を開かせるということで目標にしようかなと思ってます。

で、今日丁度、熊本の朝鮮会館の減免に関する裁判を私が今しておりまして、今日結審だったんですが。
今度4月の21日に判決が下ります
熊本の市長は、私どもがおととしの9月に監査請求を行いまして、熊本市の監査委員が「減免は不当である」と。
「直ちに徴収しなさい」という、勧告が出たにもかかわらずこれに従わなかったと、言うことで私が裁判を起こしたんですが。

熊本の市長は保守系の人だったんですが、どうも市長に当選するときに共産系の人の支援を得まして、どうもそのせいで朝鮮会館の減免を続けておるようなことみたいです。
で、丁度朝鮮会館というのは、今信宏さんがおっしゃられたように、松木薫さんも信宏さんも行かれた九州学院高校の目と鼻の先という所にありまして、多分、なにか関与があるではないかと思っております。

本当にいま少し、もう一歩だと思っております。
今年、今年は本当に帰ってきて、皆でやれたらなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
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松木薫さんを救うぞ東京集会(5)

2005-01-13 | 松木薫さんを救うぞ東京集会
西岡力副会長のお話(1)  

本日の実はですね、家族会・救う会の役員で、新しく外務省の次官になられました谷内さんと、それからアジア太洋州局長に新しくなられた佐々江さんの所に挨拶に行ってきまして。
その前に支援室にも行ったんですが、支援室でもらった資料がこれでして。
・・以下資料の内容 全文引用開始・・・

拉致問題に関する専門幹事会 
第17回会合(平成16年12月18日)概要

 拉致問題に関する最近の情勢や今後の対応等についての報告等。
 杉浦副長官(議長)より、以下の点を述べ、関係省庁に対して一層の尽力を要請。

○ 第3回日朝実務者協議を通じて北朝鮮側から得た情報及び物証からは、「8名は死亡、2名は入境を確認せず」との北朝鮮側説明を裏付けるものは皆無である。北朝鮮側の「結論」は客観的に立証されておらず、我が方としては全く受け入れられない。


○ 今後の対応として、次の6点を確認。
 ・ 北朝鮮側が、日朝平壌宣言に則り、安否不明の拉致被害者に関する真相究明を一刻も早く行なうとともに、生存者は直ちに帰国させることが基本であり、これを要求していく。
 ・ 北朝鮮側の迅速かつ納得いく対応を引き続き求めることとし、その対応如何によっては厳しい対応をとらざるを得ない。
 ・ 対北朝鮮人道支援は当面行なわない。
 ・ 船舶検査等、現行制度の下での厳格な法執行を引き続き実施していく。
 ・ 拉致事案に関する責任者の特定及び処罰に関して、より明確な説明を求める。また、拉致に関し国際手配している3名について、その他「よど号」犯行グループとともに、北朝鮮に対し、引き続き身柄の引渡を要求していく。
 ・ 拉致問題に関する情報収集に引き続き努める。

○ 帰国された拉致被害者御家族に対する支援を関係機関が連携して行うこと、拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はないこと、を確認。
                                                   (了)

・・・資料の引用終了・・・

これは昨年の12月28日に、政府が北朝鮮から第3回実務者協議で提供された、証拠なるもの情報なるものを分析をした結果を発表しましたね。
それを受けて専門幹事会というのが開かれたと。
政府の中で各省庁の局長クラスの人が入っていて。
安倍さんが官房副長官のときに議長をやられてたんですけども。
その後任の後任ということで杉浦副長官が議長をやっているんですが

そこでですね。
最初の丸のところでこう書いてあるんですね。
議長より以下の点を述べた、と政府の立場なんですが。
第3回日朝実務者協議を通じて北朝鮮側から得た情報及び物証からは、「8名は死亡、2名は入境を確認せず」との北朝鮮側説明を裏付けるものは皆無である。
皆無であると。

北朝鮮側の「結論」は客観的に立証されておらず、我が方としては全く受け入れられない。
説明を裏付けるものは皆無である。
全くない。
そして、我が方としては全く受け入れられない。
一部でも受け入れる部分はない。

というのが今の日本政府の基本的な立場です。

ここでずっと私はひとりひとりのお話を聞いた後にずっと言ってたんですけど。
北朝鮮が8名死亡、2名入国・・・日本政府が北朝鮮を国と認めてないんで「未入境」といってるんですね。
我々もそうしたほうがいいのかな?と、思ってるんですけど。

という風に言ってるんですけども。
それを裏付けるものはないんです。
ないと、家族会・救う会は言ってたんですけども、今は政府も言ってるんです。
今は日本政府も8名死亡、2人が入ってないということを裏付けるものは全くないといってるんです。
ゼロだといってるんです。
日本政府が我々の認識に一致したということです。

そのことを強くここで確認したいんですけど、その中にはつまり松木薫さんのことも含まれているわけです。
松木薫さんが死亡したということを裏付けるものは皆無である、と。
松木さんが死亡したという北朝鮮のいわゆる結論は、客観的に立証されていない。
我が方としては全く受け入れられない。

これは家族がまだ諦め切れなくて言ってることではないんです。
日本政府の基本的な見解なんです。
そういう点で、私たちはこの間も申し上げましたけども、この2年間で大きく勝利したんですね。
2002年の9月の終わりに日本政府の調査団が行っていろんな事を聞いてきたわけです。
そのとき松木薫さんの遺骨であるという可能性が大きいものと称するものが、まず来たりしたんですね。

そしてどこどこで死んだとか、どうだって話はいろいろ出てたんです。
それについて当初から我々は信用していなかった。
疑問があるって事をずっと言い続けてきたわけです。
北朝鮮側はそれを信用させようとしたんです。

10人について限定して言いますと、この2年数ヶ月の間の私たちの北朝鮮との戦いというのは。
8名死亡、2名入境と北朝鮮側は言ってるけれども、それは全く根拠がないんだということを、主張する戦いだったんです。
彼らは日本政府にそれを認めさせようとしたわけです。

小泉総理は一時期、「私の任期中に国交正常化をする」といったわけです。
それは拉致問題が解決するという見通しがあったわけです。
それはどういうことかというと、北朝鮮側の言ってることについて確認出来るようなものが出てくるだろうと。
そうすれば先に進めるということを考えていたから、ああいう発言がでるわけです。

しかし私たちはそんなことは無いと。
生きてる人たちを見捨てるのか?と。
去年の5月からずっと言ってたわけです。
ですから安否不明者という言葉はやめて未帰還者と言おう、と。
向こうにいるんだと。
証明されてないじゃないかと。
言うことを言ってたわけですけども。

北朝鮮は満を持してめぐみさんの遺骨と証するものを出して来たわけですね。
それが鑑定できずという結果になれば、国民の半分くらいは死んだかもしれないと思う人が出てきた可能性が高かったわけです。
実際国会議員の中でも松木さんは死んでるんだと、いうことを公然とあるマスコミの集まりで言った人がいて。
松木家に謝罪に来てもらったわけです。
その後もその人は死んだということを言ってるわけです。
今度は松木さんだけじゃなくて、被害者はほとんど死んでる。
皆死んでるとかって、言ってることを私たちは裏づけを持って確認してますけども。

しかし、一国会議員が言うことと日本政府の基本的立場は違うんだと。
今日谷内次官に会いましたけど、「もう真相究明とあまり言ったら良くないんじゃないか?と私は思ってる」と次官が言ってました。
真相究明というと今生きてる人、まぁ、ちょっとそこまで露骨じゃなかったですけど、意味としてですね。
変なことをして証拠だというものを出してくるかもしれない。(拍手)

我々はずっと言ってきたんですけども。
外務省の事務方のトップがそういうふうに言ってました。
それは安倍晋三幹事長代理もいろんな所で講演でおっしゃってるとおりです。
ですから今は日本政府の基本的立場は、生存者を帰せということだ。(拍手)

そしてですね、私たちは5月の時に「政府は生存者を見捨てるつもりなのか?」と記者会見で言って。
松木さんですよね?(信宏さんの方を見る)
総理に「総理は被害者は生きてると思っているんですか?」と端的な質問をされたわけですよね?
そしたら「生きていて欲しいと思うけど、私は分かりません」と。
「分かりません」とうふうに客観的な物言いをされるわけです。

横田さんの早紀江さんがここにおられますけど。(会場には横田夫妻と、飯塚副代表の姿もありました)
お母さんがいつもおっしゃるのは、「救出運動というのは、例えば川や池にはまって溺れている子供たちを取り戻しに飛び込むようなものだ」と。
飛び込んで身柄を引き上げて人工呼吸して、病院に連れて行って、それで死亡だとお医者さんが言って、それで救出運動が終わるわけです。

今は何も分かってないんですから。
分かってなければ、「生きてるってことを信じて助けます」ということをなぜ言わないのか?(拍手)
「生きてるということを信じて助ける」ということを総理が言わなくて誰が助けるんだ、と。
第三国の人が言うんならばいいでしょうけども、「助けに行こうとしたのじゃないのか?あなたは?」と。
「平壌に行くときに、生きてるのか死んでるのか分かりませんという気持ちで行ったのか?」というふうに思ったわけですよね。
端的にそういう質問したのはそういう気持ちですよね?(信宏さんの方を見る)

それはまさに、松木家については遺骨を、あのときにも遺骨が出てきて。
そのあと有力な国会議員の人が、北朝鮮の人間と会ったあとで死んでるといい始めたと。
いうことがあったから総理と確認したかったわけですよね?(信宏さん「そうです」の声)
しかし今はこうなっているわけです。
皆無であると。
全く受け入れられないと、いうことで。

そういう点について私たちは日本の政府も変えることが出来たと。(拍手)
この2年間やってきた運動が大変大きく勝利したと。
めぐみさんたちは生きているということをずっと言ってきたわけですけども。
そのことについて政府は客観的に立証されていないと、死亡ということは。
だから今生存者を助け出すことを第一優先にするんだといっていると。
まずそのことについて確認しておきたいと思います。

そしてですね、もうひとつ、松木さんのことについてお話があって。
私はひとつ考えたんですけど、実は松木さんについては不安があったんですよね。
最初の手紙で有本さんと石岡さんは自筆で筆跡があったわけです。
住所もちゃんと番号までちゃんと書いてあったんです。
旅行保険の証書とかが付いてたんですね。
写真も有本さんと石岡さんの写真はあって、そして有本さんと石岡さんの子供ではないか?と思われる子供の写真も付いてたんですね。

我々は子供のはそれは松木さんの写真じゃないか?と長い間誤解していたんですけど、そうじゃなかったんです。
というのはつまりあの手紙が出された時、すでに松木さんは有本さんと石岡さんとは離れていたんではないか?と。
で、よど号グループからもれ伝えられてくる話でも、松木さんがかなり怒って抵抗したと。
で連れて行かれたとかというような、伝聞ですけれども、そういう話もあったので。
あの時点で一緒にいなかったということは、じゃあどこに行ってるんだろうか?と。
特に抵抗したということは、北朝鮮の中で抵抗するということはどういうことを意味するのかと、いろいろ心配せざるを得ないような状況が実はあったわけです。

しかし今回ですね。
手書きの「出航」というTBSの番組のシナリオですが、シナリオといってもシナリオそのものではなくて、ビデオを見て松木さんが起こしたものなんです。(会場より「ほぉ~」という声)
セリフを起こしたものなんです。
手書きのものなんです。

ビデオが北朝鮮に誰かから運ばれて、それを見てビデオを止めながら、日本語に起こしたものなんです。
それをきれいに清書したものが出てきたんです。
日本語の教材だといわれているんです。
教材だというのは間違いはないと思います。
だとすると、つまり松木さんには何らかの役割が与えられたわけです。

つまりよど号の犯人たちのグループの一員として出て行って、また別の人間を拉致してくるということを拒否したんだということになるんだと。
そしたらば今度は「強制的に拉致した人間ていうのは信用できないんだな?」ということになって。
蓮池さんたちなんかと同じような所に入れられて、工作員たちに日本語を教える特殊機関の中でですね、側に回されたと。
そこで今度は教材作りをさせられたという証拠だと。

つまり抵抗した後に収容所に入れられたりとか、そういうことはなかったという、明白な証拠がここで出てきたと。
よど号グループと離されたけれども、そのあと日本語の教官になったということですから。
今でも生きているという可能性がもっと高まった、というふうに思っています。

実はですね、特殊機関、まぁ3号庁舎というんですけども。
北朝鮮の特殊機関の中には出版社があるんですね。
それが金正日政治軍事大学の中にあるんですけども、その出版社は実は政治軍事大学の中だけで使われる教材を作ってるんじゃなくて、外のすべての工作員たちが使う教材を作っていて。
そこには学生、生徒たちは近寄っちゃいけないことになってるわけですね。
そして安明進氏はそこにも拉致された日本人がいると、聞いているんです。

実はめぐみさんの写真であの、車が・・・あれ?車があった方でしたっけ?
(司会者より「車があった方」の声)車があったほうですね。
車があった方の写真、石垣があるんですけど、あれが出版社の前です。
安明進さん、その場所よく覚えていて。
じつは石垣、そこに雪が積もって春になるとですね。
雪が解けてきて、雪と一緒に枯葉だとか土が溝に詰まるのでいつも学生たちが動員されて溝掘りをやらされたので、だからこの場所を良くしっているんだと。
ただ、その上には行っちゃいけなかった。

松木さんはその上にいた可能性がある。
つまりその「出航」というのは日本語の教材だというのは間違いがないですから、拉致された人たちに一般の大学の教材を作らせる事は有り得ないわけですから、そこにいたんではないか?
いうふうに今は思っています。

とにかく一番心配だったのはよど号グループから離されたと。
で、抵抗したと、向こうで抵抗するのはかなりのことを意味するわけですから、そういう点が心配だったんですけど。
教材が出てきたということは、先ほど二人なりの解釈されていましたけど、私の解釈はよど号グループと一緒の活動はもう出来ないと。
忠誠心がないから。
しかしせっかく捕まえてきた「資源」ですから、彼らからすれば。
日本語、蓮池さんたちと同じような使い方をしようと。
そっちへ回されたと、ではないか?というふうに思っています。

しかしこれらのこともすべて北朝鮮側が証明するべきことなんですね。
私たちは生きてると信じて助けると。
出しなさいということで。
それは日本政府同じ姿勢を持っていると、いうことです。

そういう点では今後どういう形で松木さんたちを助けていくのか?と。
今信宏さんが生きているということは確信を持てたけど、でいつ帰国させるか?ということについてはじれったいと、いうふうにおっしゃってましたけど。
生きてるということについての確信は家族は2年前から持ってたんですけど、今日本政府にここまで確信を持たせることが出来たということは大きな勝利でして。

まずこれがなければ先に進めなかったわけです。
今は日本政府は生きてる人を取り戻すってことを優先すると。
真相究明はかえって危ないと、いうふうに言ってますので。
そういう意味ではこちら側の体制は整ったと。
認識は一致したと。

この2年間の戦いはそういう点で大変大きな勝利があったと。
ただ我々は、今勝ったということが分かってない人が首相官邸の真ん中にひとりいると。(笑い声)
いうことが少し問題ではあるんですが。
しかし基本的にはここ書いてあるとおりのことを日本政府はすると言ってるので。
生存者は直ちに帰国させることは基本であると。
これは日本政府の決めたことですからね。
ああいうことすることが出来たという点では、今は大きな2年間で前進したことで。

そしてブッシュ政権が、第二期のブッシュ政権が出来まして。
ブッシュ大統領は、松木さんを含むすべての拉致被害者の居所が分かるまで日本政府の政策を支持するというふうに、2年前の5月に小泉総理にハッキリと言ってるわけですね。
今回経済制裁についてアメリカは6者協議のとの関係で消極的だという、一部の誤報がありましたけども。
それははっきりと誤報で。
アーミテージ副長官は12月に平沼拉致議連会長と直接会った席上で、自分の発言が誤解されているので訂正しておく、と。

制裁には程度の高いものから低いものまでいろいろある。
それについて何をするのかを決めるのは日本政府だと。
しかし日本政府がどのレベルの制裁をするにしてもアメリカ政府は支持すると。
これがアメリカ政府の立場だというふうに、八ッキリとアーミテージ副長官は平沼会長に言ったわけです。
それはアメリカ政府の立場として言ってるわけですから、人が代わっても変わることはないことだとハッキリ言えるわけです。

北朝鮮側が拉致を認めて謝罪していながら、結論を客観的に立証できるものを何も出していない。
これは明らかに平壌宣言に違反ですから。
日本側は迅速に出しなさいと今言ってるわけですが。
答えなさいと言ってるわけですが。
絶対に答えられませんから。

そうなったときに一月の終わりぐらいから、2月のはじめ、12月の末に日本側は抗議して再回答せよといったわけですね。
期限が付いてないのが我々はちょっと不満なんですけど。
しかし期限については常識の範囲がありますと。
1年も2年も引っ張ることはしませんと、政府は言ってますので。

今日の話では北朝鮮側から公式に返事はまだないと。
ただ外務省スポークスマンの口を通じてたり、北朝鮮の新聞を通じていろいろ言ってると。
しかしそれが政府の基本的立場かどうかについては、まだ分からないと。
だから何回もこれからちゃんと返事をしろ!というふうにいい続けていくと。
そして北朝鮮側に迅速かつ納得のいく対応を引き続き求めると、書いてありますね?
そしてその対応いかんでは厳しい対応を取らざるを得ない。
その中には当然経済制裁の発動も入っていると。

そしてもひとつよど号犯人グループの国際手配している3名ですね。
3名の中に安部公博が入ってるわけで、有本さん拉致については引渡しを求めると、犯人としてですね。
森と黒田について日本の捜査当局にしていただきたいのは、安部公博は国際指名手配をするだけの拉致についての容疑を固められたと。
松木さん拉致と石岡さん拉致について、拉致だと認定しているわけですからね。
その犯人について、なぜ指名手配できないのか?と。

拉致容疑で指名手配をして、(森と黒田が)帰ってくるのを迎えて欲しい。(拍手)
いま捜査当局は必死でやってると思ういますけど、一番だと思うんですね。
今日本の法廷で拉致で、旅券法違反じゃなくてね。
まだ日本の法廷で拉致で誰も裁かれてないんです。(拍手)

八尾恵氏についてもまだ逮捕もされてなくて、参考人状態ですね。
多分安部が帰ってきたときに一緒にやろうと警察は考えているようですけども。
でもとにかくあと二人帰ってくると今いってるんですから。
ハイジャック犯たちは帰ってきたらば、ハイジャック防止法で裁かれるわけですから。
あの二人は帰ってきたらば、拉致犯人として裁かれる。
当たり前のことだと思うんです。(拍手)

そして民事的な責任も取ってもらうと。
刑法と同時に民法もありますから。
当然それはご家族とも相談しながらですね。
先ほど彼らはいやな気持ちをするようにという言い方をされていましたが、いやな気持ちじゃないです。
人間として当たり前の責任を取ってもらうと。
それは刑法上、民法上も、日本は法治国家ですから。(拍手)
ということをきちんと日本の法律に基づいてやっていただきたいと。

そのために警察当局に、公然とですね犯人が「逮捕されないと思って帰ってくる」と言ってるわけですから。
それをぜひ拉致で逮捕して欲しいと、いうふうに思ってますし。
日本の警察を甘く見てもらっては困ると。
多分この話も北朝鮮へ行くでしょうから、あなたたちは拉致で逮捕されるぞと。
その覚悟して帰ってくるなら帰ってきなさいと。
北朝鮮当局ともそのつもりで。

田宮はですね、実は自分たちは20人拉致したというふうに言ってるわけです。
まだ松木さんたちは手紙があったから名前が出てるって事で表に出られるけども、同じ立場の人があと17人いるわけです。
その人たちがまさに今特定失踪者の中に含まれている人たちもいる可能性がある。
ただ、海外で拉致されてますから。

海外の場合はもっといろんな理由があるということで、特定失踪者に何も出てない行方不明者の方も多いんじゃないかと思ういますけども。
まだ名前も出ていない被害者を彼らは知ってるわけですから。
一緒に住んでたんですから。
八尾さんももっとちゃんと話して欲しいというふうに、私は思ってますけども。

しかし日本政府とだんだん足並みが揃ってきましたので。
今当面は1月の終わりから2月のはじめぐらいに、北朝鮮が今回の第三回実務者協議で出して来た証拠と情報なるものについて、納得できる解答をしなければぜひ制裁をかけていただく。

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松木薫さんを救うぞ東京集会(6)

2005-01-13 | 松木薫さんを救うぞ東京集会
西岡力さんのお話(続き)

国会議員のアンケートでは今日配りましたけど。
全国会議員のアンケート、回答者の80%が早期に経済制裁発令せよ、といってるわけです。
回答率が57%で出したですけども。
これ以外に文章などをつけて1・2・3などに丸をつけなかった人は回答率に入れてませんので、それを入れると63~4%になりますけども。

そのなかで明記的に経済制裁に反対だとした人は5人だと。
その他につけた人たちも制裁という言葉を使って、今は反対だけどもう少ししたらやるべきだと。
早期じゃなくてですね。
北朝鮮の回答いかんによっては、という点では今の日本政府と同じなわけです。
この早期にというのは回答を待たないでという意味ですからね。

回答を待たないでも80%は賛成で。
その他につけた人たちの18%も回答を待ってやるべきだといってるわけです。
100%に近い国会議員がそうと言ってると。
そして世論調査でも国民は制裁を求めるわけですから。

私たちの戦略は、とにかく早い時期に拉致を理由として日本で単独制裁をかけてもらう。
それがまず対北朝鮮内部に大きな影響を与えるだろうと。
対北朝鮮内部で言いますとですね。
これは今は北朝鮮の担当者が大変困ってるんだと。

金正日に対して松木さんの骨を2年前送ったときに、高温で焼いたらDNAは出来なかったと。
あごの骨で変な骨相学の先生っていうのが変なやつがいて、あごのちょっとした骨だけで男か女か年齢とか分かっちゃうと。
今回は前回の松木さんのと同じ温度であごの骨入ってなかったんです。(笑い声)
分かりやすいんです。

だから金正日がそれならいいって決済したんです。
ところがDNA鑑定できたんです。
でも彼らは今何を言ってるかというと、DNA鑑定が偽物だと。
日本の方が嘘をついてるんだといってるんです。(笑い声)
そういわないと担当者は金正日の決済をもらった人が、「お前の言うとおりにやったら、これ何だ」といわれるから。
日本の鑑定結果を今の担当者は認められないんです。

実は90年代にですね、韓国の財閥の現代が500頭くらい牛を送ったことがありました。
すぐ死んじゃったんです。
で最近ですね、韓国に当時の事情を知ってる人が亡命してきてその時の話をしてるんですけども。
あの、牧草がなくて死んじゃったんですって。
当時は大飢饉で皆人々は草を食べてたから。
人間が草を食べてたから、牛に食べさせる草がなかった。
いうのが真相なんだけども。

金正日はその牛を大事にするように言ったと。
ところが死んでしまったんで担当者は困って、南朝鮮から送ってきた飼料の中にビニール紐とかなんかが混じっていて、それを食べて牛が死んだといって解剖して、牛の胃から出てきたというビニールの紐とかの写真を国際的に公開したと。

つまり担当者からすると、金正日から言われた事をうまく出来なかった場合に、自分の責任には出来ない。
認められないんです。
それは左遷されるだけではなくて、もしかしたら命がなくなるかもしれない。
そういう独裁社会ですから。

今めぐみさんの骨を出した担当者も困ってるわけです。
だから日本側のでっち上げなんですって、今金正日に上に上げてるわけです。
「で、の証拠は?」っていったら、「小泉総理は怒らなかったでしょ?」と。(笑い声)
「まだ話し合いが必要だ」、といったじゃないですか。
「あれは少し後ろめたいんですよ」、というふうなことを必死で言って、命がかかってますから。

そして遺骨も返せといってますよね?
返したらば、牛の胃から出てきたといって変なもの入れて写真を撮ったときと同じように、生きてる人たち、めぐみさんの腕なり何かから、DNAを入れてしまう事だってやりかねない。
担当者それじゃないと自分が死んじゃうわけですから。
家族もろともですね。

平壌からはずれて田舎に行くということは、配給ないわけですから飢え死にすることもありうるわけで。
処刑されるということでなくても生き死にの問題になるわけです。
必死だと思いますけど。
だからこそ日本が本当に怒ってるんだと。
もう皆無なんだと。
絶対にそのことについては揺れないんだと、いうふうにして低いレベルでも制裁かかれば担当者代わります。

代わった後ですね。
北の中で別の新しい担当者が、つまり「8人死亡2人未入境といった、あいつらのやり方は駄目だったんです。新しい案を出します」といって、「誰を返しましょうか?」と。
「10人全部返すほうがいいか?」、なんか考えます。
向こうは押されているわけですから。
日本の世論を納得させるために。

「じゃあ、パスポート持って入ってきた人は自分から入ったと言いやすいから、3人返しましょうか?」とか。
なんかいろんな案を考えると思います。
返してもらってきたら、まだ駄目だと言えばいいわけですから。
そういう点では帰国も近づいていると。
担当者を代えることが出来れば。

それからもうひとつ、北朝鮮では明日何が起こるか分からないような状況に今なってます。
最近亡命してきた人と、私昨日までソウルに行ってきていろいろ話を聞いてきたんですけど。
最近亡命してきたですね。
ある高い地位にいた人が、「韓国や外国社会は北のこと何も分かってない」と。

「金正日は今逃げ回ってるんだ」と。
「人民が一番怖い」と言ってる。
「だから軍隊ばかり行ってるのはそうなんだ」と。
「金正日が逃げ回っているところから分析をはじめなくちゃいけないんだ」と、興奮して私に言うんですね。
「それをあなたたちは分かってない」と。

それから別の脱北者出身のジャーナリストの人が、中国へ行ってよく脱北者とか内部を取材している人がいるんですけども
北朝鮮の人民の金正日に対する考え方はどうですか?言ったら。
みんなの前で「あの野郎!」とかって呼ぶようになってると。
我々ブッシュ大統領の当選を喜んだんですけども、北の人民もブッシュの当選を喜んでると。(笑いと拍手)

ブッシュ大統領が金正日を悪だといったのを皆知ってて、口コミで。
悪だといった人が、自分たちも悪魔だと思ってるんですから、その人が当選したと。
だから韓国は反米になってるんだけども、北朝鮮は親米になってる。(笑い声)

という状況の中で、中国が親米的なクーデターでも起こると困るのでその前に手を打つとか、いろんなシナリオがありうるわけですけども。
しかしそのときにもう一つ北の内部に対する重大な意味を持ってくるのは制裁のですね、日本が怒ってるんだというのを伝えなくちゃならない。
金正日が逮捕されたり処刑されたりした後ですね。
誰か実力を持ってる暴力を持ってる軍隊とか政治警察とかが権力握ると思いますけども。

そのときのその直後に、「被害者どこにいるんだ?保護しろ!」というふうになるかどうかが勝負なんです。
今日本担当や工作機関の人間たちは日本との関係で拉致問題はずせない、ということは分かってきたと思うんです。
しかし北朝鮮の軍の幹部や政治警察の幹部までにそれが伝わってるかどうか?
皆縦割りですから、分かってない可能性がある。

拉致を解決しなくても50万トン米が行ったじゃないか、と。
彼らはそういうことを経験してるわけですね。
でも絶対に日本からは、今認定されている人とそれ以外の人を全員返さない限り、日本は怒ってるんだと。
援助どころが制裁がどんどんどんどんかかってくるんだと。
核問題でアメリカと妥協しても日本はだめなんだと。

いうことを北の人民軍の幹部や政治警察の幹部に、そういう人間しか絶対クーデター起こすことできませんから。
そういう人たちに知らせると
次のポスト金正日政権になったら「被害者どこにいるんだ?」と。
「担当者出せ」と。
「保護しておけ」と。
「これからどうするか、後で決めるけどまず保護しておけ」と。
「混乱の中で流れ弾に当たったり、飢え死にさせちゃだめだ」と。
「逆に病気だったら病院入れろ」と。
「あとで返さなくちゃいけないんだ」と。

そういう点でもう日本が拉致で制裁かけなくちゃいけない。
アメリカと一緒に核とか拉致とか、アメリカにいわれたからやったんだということになって。
ほかの担当者以外の人たちは誤解するかもしれない。
偽物の遺骨をという酷い事されて、皆無だといってるんだから制裁すると。

日本はなぜ制裁したんだ?と。
北朝鮮製のアサリが売れなくなったと。
外貨減ったと思わせなくちゃいけないわけです。
いくらマツタケ採っても日本は買わなくなったと。(拍手)
金正日の秘密パーティーに行ってもトロが出なくなったと。(笑いと拍手)

金正日が機嫌が悪いと。
言うことが上層部の中に皆伝わるようにしなくちゃいけない。
「何なのか?」不思議に思ったらば、いや今まで何もしなかった日本が制裁かけたんだと。
そういうことが口コミで伝わるようにすれば、ポスト金正日にとって一番安全になるわけです。

残念ながら日本は自衛隊を送って助けに行くって状況じゃないし、どこにいるか正確な情報をまだ掴んでませんから。
そういう点でも、いつどこで起こるか分からない混乱の中で助けるためにも、まず日本は絶対に全員を取り戻す必要意思が政府と国民とにあるんだと、言うことを伝えなくちゃならない。(拍手)
それが出来るのが制裁だと。(拍手)

そしてもうひとつ対外的にですね。
制裁は大変効果があると。
一国でやっても効かないんじゃないか?という人がいますけども、そんなことは無い。
日本が絶対に拉致問題で妥協しないんだ、というメッセージになるんです。

核問題は皆考えているんです。
核問題については中国は、韓国もアメリカもいろいろ考えているんです。
核問題を妥協させるために、日本の金を使おうと皆思ってるわけです。
日本の金で北をおびき出せばいいって、皆言ってるわけです。
日本の専門家、いわゆる国際政治の専門家という人もそういうこと言ってる人多いですけど。

でも日本は拉致で制裁かけるということになれば、核は全部解決しても拉致は解決しないから。
制裁かかかってるのに日本が援助出すことはありえないと。(拍手)
つまり核問題を解決しようとアメリカや韓国や中国が考える場合に、この制裁を解除させなきゃだめだ。
それは生きてる人を全員返せということで理由に制裁かかってるから、返さなくちゃだめなんだ。

そしたら北朝鮮説得するしかしょうがない、いうことになるわけで。
すぐ金正日政権が制裁したら3日後に倒れるかどうかという、議論じゃなくて。
国際社会が日本の決意を感じるということは、今後拉致問題が国際社会の核と並ぶ優先課題になるわけです。(拍手)

そしてもうひとつ。
核問題で6者協議で、アメリカは6者協議出してますよね?
日本も出してると。
今後もアメリカは出しますし、日本も出すわけです。
その後、韓国や中国にもどうやって出してもらうようにするかという事ですけども。
韓国や中国は、出さないで拉致問題は2国でやれと。
核問題だけ進めようと言ってるけど、制裁かかっていればそれも出来なくなりますし。

いよいよ多分今年の、私は遅くても今年の後半には6者協議では進展がなくて、国連の安保理事会に北朝鮮の核問題が行く可能性がかなり高いと見てます。
イラク情勢とかイランの問題とかいろんな要素がありますけども。
今年の後半には国連の安保理事会にかかる可能性大変高いです。
そうなったときに安保理で核問題だけ議論させるんじゃなくて、核と拉致を一緒に議論させると。
そして国際制裁をかけるということになるわけですけども、制裁の理由に核と拉致両方を入れてもらう。
出来れば人権問題も。(拍手)

実はそれは先例があるんです。
対イラクの1441号決議というのがありまして、国連安保理事会でですね。
イラクが大量破壊兵器をまだ保有し続けているという疑いがあると。
それについてイラク側が証明する義務があると。

その義務を果たさなければ武力行使を含むことをしても良い、と読めるような文章になってるわけです。
それがアメリカがイラクに対する攻撃をした根拠になっているし、日本もその決議があるからアメリカの行動は国連の決議に反してないと支持したんです。
1441号決議の解釈でドイツやフランスとアメリカが違ってるんですけど、とにかくそういう決議があるんです。

その決議の中に実は拉致問題が書いてあるんです。
湾岸戦争のとき、イラクはクェート人を拉致したと。
クェート人を拉致してまだ10年たっても返してない、と書いてあるわけです。
大量破壊兵器、テロとの戦争の中で書かれた決議の中に拉致問題を書いた先例があるんです。

今日も次官にそのこと言っときましたけど。
まえに外務大臣に会ったときもそのこと強く言っときましたけど。
1月から日本は安保理の非常任理事国になるんです。
日本が発言できる。
決議文の中に前例があるんですから、書き込ませることが出来なければ日本外交は大失敗ですよね。
我々はそんなことは許さない。

安保理事会の決議が議論されるときには、ニューヨークへ行って座り込みをしようかと思ってるんですけども。
拉致はテロなんだから、テロとの戦争を言ってる国連が何で日本人拉致を書かないんだ?と。
おかしいじゃないかと、言うことをしようと思ってますけども。
しかし出来る可能性は非常に高い。

それは絶対条件がありまして、日本がまず拉致を理由にして制裁をかけてなくて、国連に行って制裁をしてくれ拉致を理由にしてくださいといっても。
お宅の国がやってないことをなんで人に最初にやれというんだ?と。
自分の国が制裁するほど深刻だと思ってない問題について、国際制裁かけてくれとアピールできないんです。

まずうちはここまでやったけれどまだ効果が無いから今度は同調してくださいと。
それが筋なんです。(拍手)
リビアに対する制裁も、アメリカはパンナムという飛行機を落とされてるわけですね。
アメリカはまず一国制裁をかけて、それから国連の制裁をかけたんですね。
それが当たり前の順序なんです。

国連に対するアピールをするためにも、今年の早い段階で拉致を理由に制裁をかけると。
イメージ的にですね。
それは北の内部に対しても先ほど言ったように、担当者を代えると新しい何人かが帰ってくる可能性が増えると。
ポスト金正日の有力候補にメッセージを送ることが出来ると、その2点で有効だし。

中国や韓国やそういう国々に対して、拉致問題解決を抜きに日本は動かないんだというメッセージを送ることが出来るし。
そして国連の安保理事会で核問題で北の議論が始まったときに、拉致問題も書き込ませることが出来るための重大なステップになる。

政府は生きてる人を取り戻すという所を、全員死んでるという証拠が全く無いんだという所まで行きましたから。
次はこちらが攻勢をかけるわけです。
こちらの体制は整ったと。
足並みは揃ったと。
そして制裁をかける武器はもう揃っていると。
法律もあるわけです。

あとは政府の決断だけで。
政府も決断するといってるわけですから、1月の終わりか2月くらいがひとつの山が来ると思いますけど。
そこでかけるように運動すると。
そして今度はかけたことを使って国際社会に強くアピールする。

ぜひ次2月の集会の時には、かけてる状況で皆さんとお会いしたいと思いますけど。(拍手)
出来ていなければここにいないでどこか外務省前で、我々座り込みしてるかもしれませんけど。(笑い声)
そのくらい勝負だと思っています。
見通しはかなり楽観的ですが。

そのあと実は2月にですね、今度は国際社会に対するアピールと言うことでアメリカですね。
アメリカに北朝鮮人権法というのを作るために大変活動された、NGOの活動家のスザン・ショルティーさんという方をお呼びすることになりまして。
2月の18日から来ていただきます。

それから韓国でも今拉致に関する関心がやっと高まり始めまてまして。
2000年に中国から拉致された牧師さんがいるんですけども。
その人を拉致した犯人が韓国に潜入していたんです。
別の任務を持って。
それを韓国は逮捕したんです。

それで今日テレビや新聞で韓国の国会議員が北京で記者会見しようと思ったら、公開されたじゃないですか?
あの人が一生懸命やってるんです、韓国人拉致を。
今回中国へ行って、韓国人が拉致された現場を見に行ったんです、あの人は。
金文洙(キム・ムンス)という国会議員です。
私大変親しいんです。そういう人も韓国から来てもらえないかなと、今思っておりまして。
日本側が絶対に譲歩しないんだという体制を作って。
今度は日本側のそういう姿勢を韓国とアメリカの人権問題考えている人たちに伝えて。
アメリカで拉致問題をもっとアピールするにはどうしたらいいか知恵をもらって。

韓国でもハンナラ党のほうは拉致問題やるようになってますから。
どう協力していけるのか、みんなで議論できるようなそういう集会を2月の19日の午後から、まだ時間は決まってませんけど、場所は霞ヶ関ビルの(司会者より「あとでやります」の声)
ていうのをそれはほぼ決まりました。

今年は攻勢をかけたいと思ってまして。(拍手)
去年はちょっと守備に回りましたけど、でも子供たちが帰ってきたということで負担がなくなったわけで。
今年は攻勢をかける年ということで希望がある。
我々は今勝ちつつあると。
ありがとうございました。(拍手)

(司会者より2月の集会についての説明などがあり、集会終了)
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