1.斉藤文代さんのお話(1)
皆様こんばんは。
今日はお忙しい中集まっていただいて、
本当にありがとうございます。
このような場で私の弟の話をさせていただくと言うことは、
本当にうれしく思っております。
松木薫という人物を知らない方がまだたくさんいると思います。
私の弟・松木薫は1980年に、スペインのマドリードから
北朝鮮の方に拉致されました。
連絡も何も無くて、88年に石岡さんの手紙、有本さんたちのところに「薫と3人で一緒に暮らしている」ということで、北朝鮮にいると言うことが分かりましたけども。
私たちきょうだいには父は何も教えてくれなくて。
父は本当につらかったと思います。
私たちが(北朝鮮による拉致を)知ったのは本当に後のことですから。
(司会者より「座って」の声)
よろしいですか?
すみません、座らせてお話させていただきます。
父は本当につらい思いをしたと思います。
薫は私より8つ下で、小さいときからだいたいおとなしくて。
私たちきょうだいは父母が戦後復帰で、一生懸命二人とも共稼ぎしておりましたので。
薫が生まれてからは、私が8つ下の薫をいつも連れて、どこへ行くにも一緒におんぶしたり引っ張って歩いたりして面倒を見てきましたので、私が母親みたいな役をさせていただきました。
本当におとなしいもんですから。
女のきょうだいの方が、うちの場合は男の子一人ですから、女のきょうだいの方がやんちゃで。
面倒見るのは全然手がかからない弟でした。
弟は私たちにとっては大事な宝物でしたし、小さいときから男の子が一人ということで。
父親は男の子が欲しくて欲しくて、「男の子が生まれるまで産んでくれ」と言うことで母に言ったらしいんです。
でも母も、いやもう私・・・女ばかり生まれるもんですから、5人きょうだいで4人目が亡くなったんですけど女ばっかりでしたから。
母は「そんなに産めない」って言ってたらしいんですけど、5人目に薫が生まれまして、それはそれは父はとっても喜んで。
嬉しくて私たちにも小さい頃、父がよく言ってたんですよ。
「やっと薫、男の子だよ、きょうだいだよ、きょうだいだよ」と言ってかわいがってくれました。
私たちもとても大事にしてくれましたし。
父は子煩悩で優しい顔をしておりましたし、小さいときからですね。
私たちも、だから父も大好きだったし、母も大好きでした。
母もおとなしい性格で、父の言うとおりに人生を歩んできておりますので、薫もどちらの方に似たのか、良い方ばかりを貰ってて。
私たち女の子は、ちょっと男・・・私はあります。
二番目はおとなしいですけども。
3人ともいろいろ特徴があって、案外元気良かったんですが。
薫は小さいときから私たちが一緒に面倒見ても手のかからない。
母も勤めに行ってるときに、私たちは少しでも母の手伝いをしようと思いまして、きょうだいで青果市場なんかにですね、お掃除に行くんです。
「おじちゃん、お掃除させてください」と言うとね、「いいよ」って言って、竹ぼうきを持って、子供ながらに役にはたたなかったと思うんですけれども。
お掃除が終わるとお野菜なんかをくれるんですよね。
たくさん大根とかを、ひびの入ったのとか西瓜のひびの入ったのとか、私はそれがうれしくて。
きょうだいみんなでそれを頂いて帰っては、家で七輪を起こしながら母の帰りを待ちながら、出来ないながらも料理を何かかにか作って帰りを待って。
そういう、貧しいなからも楽しい家庭だったんですよね。
薫たちが成長していくにつれ、私たちもきょうだいいろんな、年の差もありますもんですから。
私が大体早く結婚しましたので、父親たちとは一緒にいる時間帯がちょっと少なかったかな?と今思えば後悔しております。
もう少しお嫁行かないで、父ともう少したくさんおればよかったかな?とか、そう言う事も父がいなくなってからそう思います。
うちの家族はとても父母を頼りにしていましたし、甘えていました、皆。
薫がいなくなったときの頃も、今となりにいる信宏は父から伝えられましたけれども、なんか「私たちには言うな」と言うような。
私たちお嫁に行ったりしてましたので、口止めされていたようで、信宏もつらい思いをしたと思うんです。
父もとてもつらい思いをしたと思うんですよね。
父親は私たちに口癖のようによく言ってたんですが、
「お勉強したければ、父ちゃんはどんなに働いても苦にならないから、お勉強したければどんだけでも頑張って勉強していいよ。
どんだけでも父ちゃん頑張るよ。
だから学校に行きたければ学校行きなさい」
と一生懸命言ってくれましたけど、私たちは高校だけであれしましたけれど、薫はやはり勉強が好きな子で、小さいときから。
一生懸命机に向かって本を読んだり勉強したりしておりました。
父にお願いして大学も行かしていただいて、それで最後にスペインに行くときにも「家に帰ってきて父と一緒に、勉強して帰ってきたら父たちと一緒に暮らすから」、と約束して行ったのですから。
父を裏切ったのでもないし。
また帰ってくる、あの、いろんな事情もありましたので、多分薫は一年たったら帰ってきたと思うんです。
私は本当に、スペインに行っただけでこんなことになるって、本当に思いもしなかったし。
スペインに行く前に、今日これ初めて私これを公開したんですけど。
(信宏さんが、衿にホテル名の入った黒いはっぴ姿の薫さんの写真を一枚掲げる)
やはり行きたくてお小遣いをですね、溜めてたんですよ。
これは大きくしましたが、富士山にですね、富士山でバイトをしてたみたいで。
だいぶきつい仕事だったと思いますけれど、お友達とずっと皆さんとでバイトをしていて。
その中に一人女の方がおられて、薫のことを良く知ってらっしゃってですね。
私に初めて去年手紙を下さって、写真も、「薫さんとこういうお仕事さしていただいたんですよ、バイトしてたんですよ」と、初めて私は知ったわけです。
「どんな風に薫が言ってたですか?」と言ったら「お小遣いを貯めて、スペインに行って、お勉強をして、そしてまた帰ってくるから」と。
「みんな待っててね」というような話をしたということでした。
ですから、薫が好んで北朝鮮に行くということは絶対にありえないし。
またよど号犯の森に、いろんな報道で流れているときもありますけど。
色恋なんかで薫が(北朝鮮に)行くような子ではない、ということだけは、本当に私は皆様に分かっていただきたいと。
薫はどうしても日本に帰ってきて、いろんな自分の人生計画を立てていたと。
私は今でも信じております。
ですから、本当に今でも薫を拉致した人が憎いです。
母もですね、今も病院に入院しています。
父は亡くなりましたけども、父も本当に無念だったと思います。
私は何もしてあげられなくて父にはですね。
本当に申し訳ないという気持ちもあります。
母は病院のほうに入院しておりますけども、やはり痴呆がかかっておりますから、私が病院に行ってもですね。
毎日時間がある限りはわたし行きますけども、私が娘ということがですね、今は分からないんです。
ですから私が「誰?」ってこういう風に(自分を)指差すと違う人の苗字を言うんですよ。
でもやはりね、私はそれでもいいと思ってます。
母は母なりにいろんな苦労をしてきていますから、だから私は精一杯出来ることをしてあげたいと。
毎日毎日本当にそう思って病院のほうに来ておりますけど。
2.斉藤文代さんのお話し(2)
やはりあの、小泉さんが訪朝されたときにですね。
私に・・・病院に行ったときが。
私はその日はつらくてとても病院に行けなくて、死亡と言う事を言われた時に行ってなくて、次の日に行ったんですね。
そしたら「テレビを見た?」って私に言うもんですから、母が。
「何のこと?」って、私もすぐピンと来たもんですから「何のこと?」って。
であの「違う人よ」って。
「薫って名前はたくさんいるんだから」って。
「だから母ちゃん、それは違う人よ」って私が言ったら「そうかしら?」って言うんですよ。
だから私が「薫はもうすぐしたら帰ってくるからね」って言ってるんですけれども。
あの私のこと、名前すら分からないのに、母はいつも「薫、薫」という頭。
でまた、26歳の記憶で母は止まってるわけです。
私が病院から帰ろうとすれば「奥さん、奥さん」って私に言うから「なあに?」て言うと、「ご飯が炊い
てありますので」と敬語を使うんですよね。
「ご飯が炊いてありますので、おかずを作って、薫と爺ちゃん食べさせてあげてくれませんか?」て言うから。
「ああいいですよ、作りますよ、じゃあ何がいいかね?」って私が言うと、
「薫はまだ若いからお肉がいいんじゃないですか?お肉料理をたくさん作ってあげてください」て言う。
「ああいいわよ、じゃあ爺ちゃんはどうしようか?」と言うと、
「爺ちゃんは年だから、簡単な軽いものでいいんじゃないですか?」って私に言うから、
「ああいわよ、じゃあたくさん作って食べさせるから」って言ったら、
「薫は若いからたくさん作ってあげてください」って言うんですよね。
だから本当にそれを聞くとですね。
つらくてつらくて、私は何とかして母に会わせてあげたい。
本当に何とかして会わせてあげたいと思うんですけど、私の力ではどうすることも出来ませんし。
かといって私たちが動かなければ、尚更薫は置いていかれるし。
だから私も何とかして頑張って、これから先も生きていかなければ、母に会わせてあげなければ、薫を、と思ってですね。
(病院に)行けば私がいつも「今日も元気で来て良かったね」って「私も元気だよ」って「だから一緒に頑張ろうね」って、いつも口癖になってるんです。
「頑張りますよ」って言うんですけど、やはり病気なんかして高熱を出したときなんか、「頑張ろうね」って私が言うと「もうそんなに頑張れませんよ」とかって言うんですよ。
そのときは本当につらくてですね。
なんでこんなに長いね、拉致の人生をね、過ごして来たんだろうかと。
この世に神も仏も無いのかなぁ、と思いつつですね。
でも、私がくじけたら、母に薫に会いたいと言う希望をかなえてあげなきゃいけない、という気持ちがあるもんですから。
「頑張るのよ」と。
「どんなことがあっても頑張るのよ」といつもいつも励ましております。
去年ですね。
ちょっと、具合が悪くなりまして、もう本当にだめかと助からないかという状態になりました。
私は耳元でですね。(文代さんの目から一筋の涙がこぼれる)
もう、くたっとしておりましたので。
だから母に「かあちゃん!」って。
「今あなたが頑張らなければどうするの!薫が帰ってきたら泣くよ!」と耳元で言ったんですよ。
そしたら本人は本当に具合が悪いもんですから、くたっとしていて返事も出来ませんけど。
私はかわいそうだな、耳元で大きな声でこんなに叫んだらかわいそうだな、とは思ったんですれどけど。
「頑張るのよ、薫が帰ってきて母ちゃんがいなかったら泣くでしょ!」と、ちょっときつかったんですけどそう言いまして。
そしたら何とか母もそれが通じたのかどうか、熱も一週間以上ずっと続いていたんですけど、点滴なんか本当かわいそうだな、と思って。
見るに耐え切れないようないろんな治療をしておりましたけれども、なんとか今も頑張っておるんです。
いつも病院から帰るときも「今日、母ちゃん頑張ってくれてありがとうね」という気持ちで私は帰るんです。
いつかは絶対に薫をこの病院に連れてこなきゃいけないから、って。
いつもいつも頭の中に入れてますもので。
看護婦さんたちも「お母さん、薫さんが帰ってきたときにはお迎えに出ようね、玄関に」と約束してるらしいんです。
ですから、母が「はい、迎えに出ますよ」って言って。
「そのときのご挨拶は?」って、看護婦さんと相談してるみたいなんですよ。
「なんていうの?」てたまに言うと、「お帰りなさい」って言うって。
私が冗談ですね「じゃあ、『薫どこ行ってたの?』って言って頭ポンポンってしようか?」って冗談で言うんです。
「そんなことしたらかわいそうだよ」って、まぁ冗談なんですけど、そう言うんですよ。
「そうだよね、好き好んで行ったわけじゃないのにね、かわいそうだね」って言うと、「そうですよ」って私に言うもんですから。
「そうだね、帰ってきたときは、おいしいものたくさん作って食べさせようね」と言うような会話を、毎日毎日私は母としているんです。
母がですね、今も何とかかんとか頑張ってくれておりますので、帰ってくるということを、本当にそう長くは待てないわけなんです。
私たち家族には時間が無いわけですから。
何としてでも、去年もそう思ってたんですけども、今年中には本当に北朝鮮から返して欲しいといつもいつも願っております。
それでなくてもうちの場合にはいろんなおまけが付きまして。
骨も何度も何度も持たされてきてます。
本当にね、なんという国なんだろうと。
最初の時は本当につらい思いをしました、あの鑑定が出るまでですね。
これはなった者の身でないと、本当にもう分からないと思いますけど。
1ヶ月間、本当に苦しかったです。
どのような結果が出るのか。
本当に薫の骨なのか?
薫の骨ではないとは思っていても、やっぱり不安ばっかりが募るわけですから。
橋本先生の電話を、本当にもう、かかっていたときは身震いがしました。
先生が一言最初にですね「お姉さん、おめでとうと言っていい?」と言ってくれたときは本当に嬉しかったです。
あ、薫のものではないんだ。
「先生、薫じゃないんですね?」って言ったら「違いますよ」って言われて。
「60過ぎのおばあちゃんですよ、女の方ですよ」って言う。
「そうですか、ああ良かった」と思ってですね。
そしてそのあと、また今回第3回実務者協議で骨をまた渡されましたね。
でもそれは、もう全然私はなんとも思っておりませんでした。
また北朝鮮がそういうことをしたんだと。
じゃあ薫はね、生きてる証拠をね、だんだん、だんだんこうやって逆に出してきてるんじゃないかと、私はそう思います。
3回目に行った時も書籍を持って帰ってきてましたので。
「出航」っていうのを、中身は見られませんでしたけれど、字を見たときに信宏と「ああ、薫兄ちゃんの字だね」って信宏もですね、言ってくれて。
本当に私たちやっぱりきょうだい皆、特徴というのをちゃんとわかってるんだなぁ、って思ってですね。
何年離れてもですね、本当に懐かしいと思ってその字を読みました。
それをちょっと見るのがちょっと、ビデオとって下さったので、私見なきゃと思ってずっと思ってたんですけど。
今回こちらに来るときにですね、見てきました、「出航」というのをですね。
それは本当に、薫の気持ちがそのままドラマの中の気持ちが伝わってきました。
ていうのは、あの船がですね、銅鑼がぼ~んと鳴ってですね、テープを皆がわ~っと投げて出航して行く所からドラマが始まるんですけれども。
もうなんか、それを最初見たときに「ああ、帰りたかったんだろうなぁ」って「皆本当におうちに帰って来たいのに、なんでこんな僕だけ帰れないんだろう」って「つらかったんだろうね」って思って。
そのドラマを見たとき薫は帰りたい一心で、この「出航」というのをね(シナリオを)書いたんだろうなと思って。
ますます取り返してあげなければかわいそうだと思いました。
ドラマの内容、がいろんな内容が素晴らしいもので、300回記念で日曜洋画劇場なんですけども。
(信宏さんが隣で「日曜劇場」と訂正の声をかける)日曜劇場か、に出てて。
本当に素晴らしい「出航」というドラマでした。
私も主人も二人で見入っておりました。
その内容が伝わるものがあって、薫からのメッセージがですね、ますます私の胸の中に入ってきました。
だから絶対にこれは特に母に、これは薫を取り返して何としてでも生きてる間に会わせてあげなければ、私は本当に母に対して申し訳ないと、言う気持ちが今ますます沸いてきております。
自分では何にも出来ないんですけど、やはり国民の力を借りて政府を動かしていただきたい、と。
本当にその気持ちしか私はありませんので。
私たち、薫を本当に取り戻すという気持ちが毎日毎日募るばかりで。
薫を母に会わせてあげたい。
そして母も薫に会いたいと思っておりますし。
母はですね、今となりにいる信宏って、「信宏」と言う名前にもいろいろいわれがありまして。
信宏にはこの間話したんですけども。
薫がですね、まだ信宏が生まれてない時に、薫って名前は女の子みたいな名前ですから、自分でも男らしい名前が欲しかったんだと思うんです。
それで私たちに相談したことがあるんですよ。
「僕家におるときにはこの名前を使っていいかなぁ?」って母に言うから、私たち「いいんじゃないの、いい名前だね」って。
自分でちゃんと考えて来たって言うから、家では「信宏、信宏」と呼んでたんですよ。
ですから信宏が生まれたときになんて名前をつけようかねって、皆で。
かわいい子でしたから、小さいときに(くすくす笑い)なんて名前をつけようかねって皆で言ってたら、薫がですね。
「僕の名前、信宏ってのをあげていいよ」ていうもんだから、「そうだね、信宏って言う名前にしようか」と言う事で。
ですから信宏とまぁ薫を、私たちは知ってたんですけども、父が亡くなる前に信宏のことを「薫お帰り」とかって言ったとか言ってるから。
それは信宏を薫と家では言ってたもんですから、そこんところは、父は間違っていったわけじゃあないんですが。
信宏にしてみたら「何で間違えるんだろう?」と。
そういう話をしなかったから、思ったんだろうと思います。
信宏も薫もとっても父は男の子はなんて言うんでしょうかね。
可愛がって可愛がって自慢して抱っこして、信宏なんか孫でしたから、本当に可愛くて抱いて歩いてたんですよ。
そういうような家庭でしたけども、拉致ということになってから、本当に家の中が一変してしまってたんです。
父も母もそわそわと、私たちと会話をするときも何かこう避けるような。
何か分からなかったんですけど。
後でよく考えれば、そういうような薫が拉致されて本当に苦しんでたんだなと。
本当に何も力に慣れなくて申し訳なかったという気持ちで一杯です。
ですから母には、精一杯私は出来ることは、薫が帰ってくるまで、薫に会わせて。
それからじゃないと絶対に私は母を死なせるわけには行きませんので。
もう一生懸命私はそれを毎日毎日願って、こういう活動をしたり、家のことをやったりしております。
皆様がお力を貸してくださるから、こんなして頑張れるんじゃないかと自分でも言い聞かせをして、ありがたいなと感謝しています。
もう、本当に今年中には解決したいです。
本当に返して欲しいです
薫がですね、帰ってきたら「玄関で母が『お帰りなさい』って迎えるんだ」と練習をしておりますので、どうかみなさん力を貸してください。
私たちも頑張りますので、よろしくお願いしたします。(拍手)
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皆様こんばんは。
今日はお忙しい中集まっていただいて、
本当にありがとうございます。
このような場で私の弟の話をさせていただくと言うことは、
本当にうれしく思っております。
松木薫という人物を知らない方がまだたくさんいると思います。
私の弟・松木薫は1980年に、スペインのマドリードから
北朝鮮の方に拉致されました。
連絡も何も無くて、88年に石岡さんの手紙、有本さんたちのところに「薫と3人で一緒に暮らしている」ということで、北朝鮮にいると言うことが分かりましたけども。
私たちきょうだいには父は何も教えてくれなくて。
父は本当につらかったと思います。
私たちが(北朝鮮による拉致を)知ったのは本当に後のことですから。
(司会者より「座って」の声)
よろしいですか?
すみません、座らせてお話させていただきます。
父は本当につらい思いをしたと思います。
薫は私より8つ下で、小さいときからだいたいおとなしくて。
私たちきょうだいは父母が戦後復帰で、一生懸命二人とも共稼ぎしておりましたので。
薫が生まれてからは、私が8つ下の薫をいつも連れて、どこへ行くにも一緒におんぶしたり引っ張って歩いたりして面倒を見てきましたので、私が母親みたいな役をさせていただきました。
本当におとなしいもんですから。
女のきょうだいの方が、うちの場合は男の子一人ですから、女のきょうだいの方がやんちゃで。
面倒見るのは全然手がかからない弟でした。
弟は私たちにとっては大事な宝物でしたし、小さいときから男の子が一人ということで。
父親は男の子が欲しくて欲しくて、「男の子が生まれるまで産んでくれ」と言うことで母に言ったらしいんです。
でも母も、いやもう私・・・女ばかり生まれるもんですから、5人きょうだいで4人目が亡くなったんですけど女ばっかりでしたから。
母は「そんなに産めない」って言ってたらしいんですけど、5人目に薫が生まれまして、それはそれは父はとっても喜んで。
嬉しくて私たちにも小さい頃、父がよく言ってたんですよ。
「やっと薫、男の子だよ、きょうだいだよ、きょうだいだよ」と言ってかわいがってくれました。
私たちもとても大事にしてくれましたし。
父は子煩悩で優しい顔をしておりましたし、小さいときからですね。
私たちも、だから父も大好きだったし、母も大好きでした。
母もおとなしい性格で、父の言うとおりに人生を歩んできておりますので、薫もどちらの方に似たのか、良い方ばかりを貰ってて。
私たち女の子は、ちょっと男・・・私はあります。
二番目はおとなしいですけども。
3人ともいろいろ特徴があって、案外元気良かったんですが。
薫は小さいときから私たちが一緒に面倒見ても手のかからない。
母も勤めに行ってるときに、私たちは少しでも母の手伝いをしようと思いまして、きょうだいで青果市場なんかにですね、お掃除に行くんです。
「おじちゃん、お掃除させてください」と言うとね、「いいよ」って言って、竹ぼうきを持って、子供ながらに役にはたたなかったと思うんですけれども。
お掃除が終わるとお野菜なんかをくれるんですよね。
たくさん大根とかを、ひびの入ったのとか西瓜のひびの入ったのとか、私はそれがうれしくて。
きょうだいみんなでそれを頂いて帰っては、家で七輪を起こしながら母の帰りを待ちながら、出来ないながらも料理を何かかにか作って帰りを待って。
そういう、貧しいなからも楽しい家庭だったんですよね。
薫たちが成長していくにつれ、私たちもきょうだいいろんな、年の差もありますもんですから。
私が大体早く結婚しましたので、父親たちとは一緒にいる時間帯がちょっと少なかったかな?と今思えば後悔しております。
もう少しお嫁行かないで、父ともう少したくさんおればよかったかな?とか、そう言う事も父がいなくなってからそう思います。
うちの家族はとても父母を頼りにしていましたし、甘えていました、皆。
薫がいなくなったときの頃も、今となりにいる信宏は父から伝えられましたけれども、なんか「私たちには言うな」と言うような。
私たちお嫁に行ったりしてましたので、口止めされていたようで、信宏もつらい思いをしたと思うんです。
父もとてもつらい思いをしたと思うんですよね。
父親は私たちに口癖のようによく言ってたんですが、
「お勉強したければ、父ちゃんはどんなに働いても苦にならないから、お勉強したければどんだけでも頑張って勉強していいよ。
どんだけでも父ちゃん頑張るよ。
だから学校に行きたければ学校行きなさい」
と一生懸命言ってくれましたけど、私たちは高校だけであれしましたけれど、薫はやはり勉強が好きな子で、小さいときから。
一生懸命机に向かって本を読んだり勉強したりしておりました。
父にお願いして大学も行かしていただいて、それで最後にスペインに行くときにも「家に帰ってきて父と一緒に、勉強して帰ってきたら父たちと一緒に暮らすから」、と約束して行ったのですから。
父を裏切ったのでもないし。
また帰ってくる、あの、いろんな事情もありましたので、多分薫は一年たったら帰ってきたと思うんです。
私は本当に、スペインに行っただけでこんなことになるって、本当に思いもしなかったし。
スペインに行く前に、今日これ初めて私これを公開したんですけど。
(信宏さんが、衿にホテル名の入った黒いはっぴ姿の薫さんの写真を一枚掲げる)
やはり行きたくてお小遣いをですね、溜めてたんですよ。
これは大きくしましたが、富士山にですね、富士山でバイトをしてたみたいで。
だいぶきつい仕事だったと思いますけれど、お友達とずっと皆さんとでバイトをしていて。
その中に一人女の方がおられて、薫のことを良く知ってらっしゃってですね。
私に初めて去年手紙を下さって、写真も、「薫さんとこういうお仕事さしていただいたんですよ、バイトしてたんですよ」と、初めて私は知ったわけです。
「どんな風に薫が言ってたですか?」と言ったら「お小遣いを貯めて、スペインに行って、お勉強をして、そしてまた帰ってくるから」と。
「みんな待っててね」というような話をしたということでした。
ですから、薫が好んで北朝鮮に行くということは絶対にありえないし。
またよど号犯の森に、いろんな報道で流れているときもありますけど。
色恋なんかで薫が(北朝鮮に)行くような子ではない、ということだけは、本当に私は皆様に分かっていただきたいと。
薫はどうしても日本に帰ってきて、いろんな自分の人生計画を立てていたと。
私は今でも信じております。
ですから、本当に今でも薫を拉致した人が憎いです。
母もですね、今も病院に入院しています。
父は亡くなりましたけども、父も本当に無念だったと思います。
私は何もしてあげられなくて父にはですね。
本当に申し訳ないという気持ちもあります。
母は病院のほうに入院しておりますけども、やはり痴呆がかかっておりますから、私が病院に行ってもですね。
毎日時間がある限りはわたし行きますけども、私が娘ということがですね、今は分からないんです。
ですから私が「誰?」ってこういう風に(自分を)指差すと違う人の苗字を言うんですよ。
でもやはりね、私はそれでもいいと思ってます。
母は母なりにいろんな苦労をしてきていますから、だから私は精一杯出来ることをしてあげたいと。
毎日毎日本当にそう思って病院のほうに来ておりますけど。
2.斉藤文代さんのお話し(2)
やはりあの、小泉さんが訪朝されたときにですね。
私に・・・病院に行ったときが。
私はその日はつらくてとても病院に行けなくて、死亡と言う事を言われた時に行ってなくて、次の日に行ったんですね。
そしたら「テレビを見た?」って私に言うもんですから、母が。
「何のこと?」って、私もすぐピンと来たもんですから「何のこと?」って。
であの「違う人よ」って。
「薫って名前はたくさんいるんだから」って。
「だから母ちゃん、それは違う人よ」って私が言ったら「そうかしら?」って言うんですよ。
だから私が「薫はもうすぐしたら帰ってくるからね」って言ってるんですけれども。
あの私のこと、名前すら分からないのに、母はいつも「薫、薫」という頭。
でまた、26歳の記憶で母は止まってるわけです。
私が病院から帰ろうとすれば「奥さん、奥さん」って私に言うから「なあに?」て言うと、「ご飯が炊い
てありますので」と敬語を使うんですよね。
「ご飯が炊いてありますので、おかずを作って、薫と爺ちゃん食べさせてあげてくれませんか?」て言うから。
「ああいいですよ、作りますよ、じゃあ何がいいかね?」って私が言うと、
「薫はまだ若いからお肉がいいんじゃないですか?お肉料理をたくさん作ってあげてください」て言う。
「ああいいわよ、じゃあ爺ちゃんはどうしようか?」と言うと、
「爺ちゃんは年だから、簡単な軽いものでいいんじゃないですか?」って私に言うから、
「ああいわよ、じゃあたくさん作って食べさせるから」って言ったら、
「薫は若いからたくさん作ってあげてください」って言うんですよね。
だから本当にそれを聞くとですね。
つらくてつらくて、私は何とかして母に会わせてあげたい。
本当に何とかして会わせてあげたいと思うんですけど、私の力ではどうすることも出来ませんし。
かといって私たちが動かなければ、尚更薫は置いていかれるし。
だから私も何とかして頑張って、これから先も生きていかなければ、母に会わせてあげなければ、薫を、と思ってですね。
(病院に)行けば私がいつも「今日も元気で来て良かったね」って「私も元気だよ」って「だから一緒に頑張ろうね」って、いつも口癖になってるんです。
「頑張りますよ」って言うんですけど、やはり病気なんかして高熱を出したときなんか、「頑張ろうね」って私が言うと「もうそんなに頑張れませんよ」とかって言うんですよ。
そのときは本当につらくてですね。
なんでこんなに長いね、拉致の人生をね、過ごして来たんだろうかと。
この世に神も仏も無いのかなぁ、と思いつつですね。
でも、私がくじけたら、母に薫に会いたいと言う希望をかなえてあげなきゃいけない、という気持ちがあるもんですから。
「頑張るのよ」と。
「どんなことがあっても頑張るのよ」といつもいつも励ましております。
去年ですね。
ちょっと、具合が悪くなりまして、もう本当にだめかと助からないかという状態になりました。
私は耳元でですね。(文代さんの目から一筋の涙がこぼれる)
もう、くたっとしておりましたので。
だから母に「かあちゃん!」って。
「今あなたが頑張らなければどうするの!薫が帰ってきたら泣くよ!」と耳元で言ったんですよ。
そしたら本人は本当に具合が悪いもんですから、くたっとしていて返事も出来ませんけど。
私はかわいそうだな、耳元で大きな声でこんなに叫んだらかわいそうだな、とは思ったんですれどけど。
「頑張るのよ、薫が帰ってきて母ちゃんがいなかったら泣くでしょ!」と、ちょっときつかったんですけどそう言いまして。
そしたら何とか母もそれが通じたのかどうか、熱も一週間以上ずっと続いていたんですけど、点滴なんか本当かわいそうだな、と思って。
見るに耐え切れないようないろんな治療をしておりましたけれども、なんとか今も頑張っておるんです。
いつも病院から帰るときも「今日、母ちゃん頑張ってくれてありがとうね」という気持ちで私は帰るんです。
いつかは絶対に薫をこの病院に連れてこなきゃいけないから、って。
いつもいつも頭の中に入れてますもので。
看護婦さんたちも「お母さん、薫さんが帰ってきたときにはお迎えに出ようね、玄関に」と約束してるらしいんです。
ですから、母が「はい、迎えに出ますよ」って言って。
「そのときのご挨拶は?」って、看護婦さんと相談してるみたいなんですよ。
「なんていうの?」てたまに言うと、「お帰りなさい」って言うって。
私が冗談ですね「じゃあ、『薫どこ行ってたの?』って言って頭ポンポンってしようか?」って冗談で言うんです。
「そんなことしたらかわいそうだよ」って、まぁ冗談なんですけど、そう言うんですよ。
「そうだよね、好き好んで行ったわけじゃないのにね、かわいそうだね」って言うと、「そうですよ」って私に言うもんですから。
「そうだね、帰ってきたときは、おいしいものたくさん作って食べさせようね」と言うような会話を、毎日毎日私は母としているんです。
母がですね、今も何とかかんとか頑張ってくれておりますので、帰ってくるということを、本当にそう長くは待てないわけなんです。
私たち家族には時間が無いわけですから。
何としてでも、去年もそう思ってたんですけども、今年中には本当に北朝鮮から返して欲しいといつもいつも願っております。
それでなくてもうちの場合にはいろんなおまけが付きまして。
骨も何度も何度も持たされてきてます。
本当にね、なんという国なんだろうと。
最初の時は本当につらい思いをしました、あの鑑定が出るまでですね。
これはなった者の身でないと、本当にもう分からないと思いますけど。
1ヶ月間、本当に苦しかったです。
どのような結果が出るのか。
本当に薫の骨なのか?
薫の骨ではないとは思っていても、やっぱり不安ばっかりが募るわけですから。
橋本先生の電話を、本当にもう、かかっていたときは身震いがしました。
先生が一言最初にですね「お姉さん、おめでとうと言っていい?」と言ってくれたときは本当に嬉しかったです。
あ、薫のものではないんだ。
「先生、薫じゃないんですね?」って言ったら「違いますよ」って言われて。
「60過ぎのおばあちゃんですよ、女の方ですよ」って言う。
「そうですか、ああ良かった」と思ってですね。
そしてそのあと、また今回第3回実務者協議で骨をまた渡されましたね。
でもそれは、もう全然私はなんとも思っておりませんでした。
また北朝鮮がそういうことをしたんだと。
じゃあ薫はね、生きてる証拠をね、だんだん、だんだんこうやって逆に出してきてるんじゃないかと、私はそう思います。
3回目に行った時も書籍を持って帰ってきてましたので。
「出航」っていうのを、中身は見られませんでしたけれど、字を見たときに信宏と「ああ、薫兄ちゃんの字だね」って信宏もですね、言ってくれて。
本当に私たちやっぱりきょうだい皆、特徴というのをちゃんとわかってるんだなぁ、って思ってですね。
何年離れてもですね、本当に懐かしいと思ってその字を読みました。
それをちょっと見るのがちょっと、ビデオとって下さったので、私見なきゃと思ってずっと思ってたんですけど。
今回こちらに来るときにですね、見てきました、「出航」というのをですね。
それは本当に、薫の気持ちがそのままドラマの中の気持ちが伝わってきました。
ていうのは、あの船がですね、銅鑼がぼ~んと鳴ってですね、テープを皆がわ~っと投げて出航して行く所からドラマが始まるんですけれども。
もうなんか、それを最初見たときに「ああ、帰りたかったんだろうなぁ」って「皆本当におうちに帰って来たいのに、なんでこんな僕だけ帰れないんだろう」って「つらかったんだろうね」って思って。
そのドラマを見たとき薫は帰りたい一心で、この「出航」というのをね(シナリオを)書いたんだろうなと思って。
ますます取り返してあげなければかわいそうだと思いました。
ドラマの内容、がいろんな内容が素晴らしいもので、300回記念で日曜洋画劇場なんですけども。
(信宏さんが隣で「日曜劇場」と訂正の声をかける)日曜劇場か、に出てて。
本当に素晴らしい「出航」というドラマでした。
私も主人も二人で見入っておりました。
その内容が伝わるものがあって、薫からのメッセージがですね、ますます私の胸の中に入ってきました。
だから絶対にこれは特に母に、これは薫を取り返して何としてでも生きてる間に会わせてあげなければ、私は本当に母に対して申し訳ないと、言う気持ちが今ますます沸いてきております。
自分では何にも出来ないんですけど、やはり国民の力を借りて政府を動かしていただきたい、と。
本当にその気持ちしか私はありませんので。
私たち、薫を本当に取り戻すという気持ちが毎日毎日募るばかりで。
薫を母に会わせてあげたい。
そして母も薫に会いたいと思っておりますし。
母はですね、今となりにいる信宏って、「信宏」と言う名前にもいろいろいわれがありまして。
信宏にはこの間話したんですけども。
薫がですね、まだ信宏が生まれてない時に、薫って名前は女の子みたいな名前ですから、自分でも男らしい名前が欲しかったんだと思うんです。
それで私たちに相談したことがあるんですよ。
「僕家におるときにはこの名前を使っていいかなぁ?」って母に言うから、私たち「いいんじゃないの、いい名前だね」って。
自分でちゃんと考えて来たって言うから、家では「信宏、信宏」と呼んでたんですよ。
ですから信宏が生まれたときになんて名前をつけようかねって、皆で。
かわいい子でしたから、小さいときに(くすくす笑い)なんて名前をつけようかねって皆で言ってたら、薫がですね。
「僕の名前、信宏ってのをあげていいよ」ていうもんだから、「そうだね、信宏って言う名前にしようか」と言う事で。
ですから信宏とまぁ薫を、私たちは知ってたんですけども、父が亡くなる前に信宏のことを「薫お帰り」とかって言ったとか言ってるから。
それは信宏を薫と家では言ってたもんですから、そこんところは、父は間違っていったわけじゃあないんですが。
信宏にしてみたら「何で間違えるんだろう?」と。
そういう話をしなかったから、思ったんだろうと思います。
信宏も薫もとっても父は男の子はなんて言うんでしょうかね。
可愛がって可愛がって自慢して抱っこして、信宏なんか孫でしたから、本当に可愛くて抱いて歩いてたんですよ。
そういうような家庭でしたけども、拉致ということになってから、本当に家の中が一変してしまってたんです。
父も母もそわそわと、私たちと会話をするときも何かこう避けるような。
何か分からなかったんですけど。
後でよく考えれば、そういうような薫が拉致されて本当に苦しんでたんだなと。
本当に何も力に慣れなくて申し訳なかったという気持ちで一杯です。
ですから母には、精一杯私は出来ることは、薫が帰ってくるまで、薫に会わせて。
それからじゃないと絶対に私は母を死なせるわけには行きませんので。
もう一生懸命私はそれを毎日毎日願って、こういう活動をしたり、家のことをやったりしております。
皆様がお力を貸してくださるから、こんなして頑張れるんじゃないかと自分でも言い聞かせをして、ありがたいなと感謝しています。
もう、本当に今年中には解決したいです。
本当に返して欲しいです
薫がですね、帰ってきたら「玄関で母が『お帰りなさい』って迎えるんだ」と練習をしておりますので、どうかみなさん力を貸してください。
私たちも頑張りますので、よろしくお願いしたします。(拍手)
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