横田滋さんのお話
皆さん、こんばんは。(会場よりこんばんはの声)
お忙しいところをお出でいただいてありがとうございました。
めぐみは東京オリンピックが始まる直前の昭和39年の10月5日に生まれました。その日は朝早くから早紀江の方に陣痛があって、あんまりタクシーも通ってない時間だったのですが病院に入れました。名古屋の聖霊病院と言う名前でキリスト教関係の病院でした。それで銀行に行って休暇届を出したんですけど、それからカメラ等を持って病院に行きました。もう、生まれているかと思ったんですが、まだまだその時は落ち着いていまして、夕方になってやっと生まれました。非常に大きい子供で、女の子で例えが悪いんですけど、金太郎さんのような感じの女の子でした。私は女の子を望んでいましたので、すごく喜びました。
家に帰ってからも非常に元気な子供でしたのですが、いろんな病院に行きました。病院に行ったと言うのは、ひとつは大きすぎたので生まれる時に首のところに斜頸って言われましたんですが、筋肉にしこりが出来たり、整形外科でマッサージなどしました。それ以外は目を爪で怪我して眼科に行ったり、階段から落ちて外科に行ったり、ガラスを足で踏んで切ったり、元気なためにいろんな病院に行きまして、精神科と産婦人科以外は全部行ったと言われるくらい、病院には通いました。
めぐみが生まれましたのは名古屋ですが、1歳ちょっとで東京に転勤になりました。住んでいた所は品川の大井6丁目で、皆さん京浜東北線で大森貝塚が大森と大井町の間にあるのをご存知だと思いますが、あの近くに住みました。そこに6年間過ごした訳なんです。幼稚園はウノ学園、小学校は大井第一小学校へ行きました。近所の方はほとんどは近くのお寺の幼稚園に行きましたが、丁度その時は下の弟が生まれておりましてとても送り迎えが出来ないので、通学バスが迎えに来てくれるというのでそこの幼稚園を選びました。
非常にしっかりしているもんですから、学校の先生が何か話をしても、お子さんによっては帰ってからお母さんが話を聞いても良く分からない時は、めぐみさんの所へ聞きに行けば分かると言われるくらいにしっかりした子供でした。小さいときから本を読むのが大好きで、童話の本なんかを読みますとすぐに覚えていました。話すときには「えーと」とか「あのー」とか言わないで、本当に本の通りをきちんと何も見ないで読んで、そういう点では割に理解力は小さいときから優れておりました。
銀行のアパートに住んでいたわけなんですけども、そこの庭に大きなガマガエルを捕まえて手ぬぐいに包んで持ち歩いたり、そのころは乗用車などを乗ってる方はあんまりいなかったんですが、屋根の上に載ってトランポリンみたいにポンポンと跳ねて、屋根が潰れてしまった。(笑い声)中からポンと押したら戻ったんですけども、非常に活発な子供でした。
拓也・哲也が生まれましたのは佐々木病院て言いまして、今は大井中央病院と言って、沿線からも見える所にある病院です。そこに双子ですから早くから早紀江が入院したわけですから、そこまで、家から隣の家の奥さんの妹さん、大学生だったんですけど、その人を連れて病院まで行ったり。
それから大井町の阪急で迷子になった事も。家では絶対迷子になったら外に出るな、と教えてありました。もし外に出たら探せないから、中にいれば必ず見つかるからと言って、二手に分かれてひとりは玄関、ひとりはフロアの方を探したわけなんです。そしたらアナウンスがありまして「横田めぐみさんがお父さんお母さんを探しています」(笑い声)という事で。売り場に行きましたらレジのところに座って、リボンをつけてもらって、ちょこんと座って、なにかここにいたの?と言う感じで迷子になったと言う様子は全く無かったわけです。
動物園なんかに行きましても、前に大人がたくさんいますと背が小さいと見えないわけです。そういう時は、大人の間を掻き分けて行って十分に観察してから後ろに戻ってくるわけです。水族館に行っても、絶対にこの部屋から出るなと言っておいて自由に見て、そして終わったら次の部屋に移るという、ほとんど自主的に行動して、あんまり親に引っ付いていると言う事はありませんでした。
子供の時は踊るほうのバレエをやりました。大井町にババヨシエ先生と言うバレエスクールがありまして、そこへ通ってました。今はもう覚えてないかもしれませんけど、昔はコマーシャルでクリハラユカリさんと言う、後に女優さんになった人も同じバレエスクールには通ってました。
昭和47年には広島に転校しました。広島時代ってのは我々にとって一番幸せな時代で、家族でいろんな所に旅行しまして、近くにあります山口県では萩とか津和野とか。それから一番多く行ったのは松江の方で、山陰方面でも浜田とか宍道湖、大山へもいろんな所へ行きました。
瀬戸内海の水ってのは汚いもんですから、山陰の方にバスに乗って、民宿なんかに泊まって泳ぎに行きました。めぐみは、拓也・哲也を連れて帰る途中に猿がいた訳です。猿にいたずらしたもんです。(笑い)パッと逃げたんですが、その猿が拓也・哲也の頭の上に飛び乗って帽子をとって逃げたりしたんですが、めぐみはそれを見て自分が猿を最初にからかったのが何か大喜びで笑っていた、という事もありました。
広島時代ですが絵が非常に上手で、当時「ベルサイユのバラ」とか池田理代子さんの漫画とかそういったものを非常に好んでおりまして、家にも全部そういった漫画はそろえました。自分でも非常に上手なイラストを描いて、それから友達とも交換をしたり。例えば一冊のノートに1ページだけストーリーを描いて、その次の人に渡してその続きを描いて、戻ってくるときにはどんなふうに展開になっているか分からないわけですけど、そういったイラストを描いたりする事が好きでした。ですから、広島に「ベルサイユのバラ」の宝塚公演がありました時に、その時は安奈淳とか榛名由梨とか上原まりとか非常にいい組み合わせだったですけれども、めぐみを連れて行ったことがあります。
小学校の6年生の1学期が終わったところで新潟に転校になりました。私は札幌の生まれ育ちで、雪国の生活は長いわけですけども、早紀江や子供たちは雪国の生活と言うのは知らないので、どんな所かと非常に心配していました。私は北の方の支店に転勤すると言う内示を受けていたので「これは釧路か小樽か青森かなぁ?」と思っていたら、それが新潟だったんです。近いところに転勤になったと喜びましたんですが、子供たちから見れば雪国は初めてだったんです。
8月に転勤になったので、まだもちろんその時は雪がありませんでしたが、広島より涼しいし、海の水もきれいだし、なかなか良い所に来たと感じました。しかし秋になりますと雷がなって、雪起こしとか雪下ろしとか言うんですが、雪が降るといわれています。そんな事になってくると「嫌な所に来たなぁ」と子供たちが言って「大体どれくらいで転勤出来るの?」「まぁ、3年位もいれば、どこか次のところに移るかも知れないよ」という事を言ってました。
そして、めぐみは6年生の2学期に転校して、1学期が終わったところで転校したわけなんですが。そこで一般の人に比べれば3分の2の期間で、その年の図書館で図書を借りた冊数が学年で一番だったわけです。いかにたくさんの本を読んでいたかと言う事が分かります。特別なジャンルはありませんので、難しい本も読むし、漫画の本からスリラーから何でも読みました。話をさせますと、同じくらいの子供と比べますとずいぶんしっかりした感じを受けるんですけど。
その反面に私がちょっと甘やかして育てたんで、どこか旅行をするといっても切符を買うとか、お小遣いをもらってもそれを貯金したり下ろしたりは全くした事がありませんでしたので、生活面という意味では子供のままだったわけです。子供に家事をさせるなんて事も必要かもしれませんけど、子供の内は勉強するのが主なのであまり仕事もさせませんでしたし、世間で見れば甘いと思われたかも知れません。ほとんど叱った事もありませんし、甘やかして育てました。小学校の卒業の時は後でお話があると思いますが、今日お見えの馬場先生が新潟小学校の最後の卒業証書を渡してくださったと言う事なんです。その学年が全体が最後と言えるんですけど、めぐみの組が4組ぐらいありました。一番後ろの組で「よ」だったら遅くなる訳ですけども、転校生ですからさらに後ろになります。本当の意味での一番最後の例となってました。
だから先生が1組から順々に卒業証書をお渡しになって、本当の意味で一番最後に卒業証書を贈られた生徒なんです。
近くにあります寄居中学校と言うところに行きまして、そこはだいたい二つの小学校が集まってひとつの中学校が出来るわけですが、だいたい一学年400人くらいありました。
当時入学式の直前に風疹にかかって、お医者さんから他の人にうつったら困るからと言うことで休むように言われて欠席しましたんで、私が代わりに入学式に出て先生方のお話などを聞いて、4月の始業式の直前に桜が咲いているところで制服を着てめぐみの記念写真を撮りました。
ちょうど今いろんなポスター出てますけど、ポスターの写真がその時の写真で。ちょっと顔が病み上がりなもんですから、弱々しい感じもするわけなんですけども、いなくなった時の服装そのままなんです。
夏服にいったん着替えてますけど、あの頃はまた春の服に戻ってますから、同じものを着てますので、あの洋服を着て、靴もあのまま、それから鞄も同じ物。
そういった形でいなくなりましたので、警察が聞き込みに行く場合は、1日か2日で生きてるか死んでるか分からないけど、見つかるだろうと思いまして。「この子を見ませんでしたか?」と聞き込みに回る場合には、ちょっと顔色が悪いとか何とか言っても、実際出て行ったままの服装の写真が一番捜査のためには必要なわけです。それが現在まで何となくめぐみのイメージになってしまって、何となく弱々しい感じがしますが、実際は非常に明るい子でとても賑やかな子供でした。
うちでは下の男の子二人がどうしても母親と一緒に行動する事が多いので、だからめぐみは私が連れて歩くと言うのがいつものパターンでした。ですからいなくなる少し前にも、映画を観に行こうと言う事になったんですが、拓也・哲也は「スター・ウォーズ」を観たいといいますけど、めぐみはその時は「ラスト・コンサート」と「カサンドラ・クロス」と言う映画が来てまして、そっちの方を観たいと言う事で二手に分かれて行ったりしました。だからめぐみは、どちらかと言うと母親よりも父親の方に一緒に行動する事が多いので、そういった点では父親っ子と言えると思います。
めぐみがいなくなる前日、私の誕生日が11月14日でその時めぐみが櫛をプレゼントしてくれました。やっぱりお洒落を自分も気を使うようになったんで、お父さんもキチンとして欲しいという意味で櫛をプレゼントしてくれたんだと思います。
めぐみは中学に入って部活動をやる時、音楽をやったり絵を書いたりする事をやるのかと思ったら、意外にバトミントン部に入りました。おそらくは部活動すると言うより、同好会みたいなつもりで入っていたんじゃないかと思います。新潟のバトミントンは女子は全国一という位のレベルだそうです。新潟のセイリョウ短大を出た方が、たくさんユーバ杯など出場していまして、レベルが非常に高いところだったわけです。
そんなところで同じような環境で、その寄居中学というのはバトミントンの強い学校だったわけです。夏休みが終わってから新人戦が開かれて、そこにめぐみも出場したわけなんですが、正確な数字は覚えてませんけども優勝は出来なかったんです。しかし、優勝した人がいたにもかかわらず何人か選ばれて、新潟市の強化選手にめぐみが入ってしまったわけです。
それは非常に名誉な事なんですが、そんな高い水準のところで、自分が今までの学校の成績が維持できるか?と心配して「どうしようか?どうしようか?」と悩んでいました。だからいなくなった時に、私はそういうふうには思わなかったですけど、早紀江の方は「バトミントンの悩みって言う所で家出をしたんじゃないか?」と思ったそうです。しかし、私の方は、今まで帰りに寄り道をした事もないし、今まで学校を休んだ事も全然無かったわけですから家出と言う事は全く考えませんでした。
警察と同じように身代金目的の誘拐か、交通事故を考えました。
警察の方は新潟県警始まって以来と言われるくらいの大捜索をやりまして、この間も10月5日の日にテレビを見てましたら12チャンネルで、警察官がボートをたくさん出して海の中を探している所が映りましたんですが。よくもここまでやって下さったという事で、ヘリコプターを飛ばしたり、船を出したり、ちょっと時間が経って影になったんですけど、テトラポットのところをダイバーが潜って探してくれたりということで。
後でアベックの方がいなくなったんですけど、だいたい事件とは思わないので捜索願を出すといっても、みなさん一番早い人で2日目、遅い人だと3日目くらいに出してまして。
めぐみの場合は当初から事件だと言う事でやって下さいまして、大規模な聞き込みとか捜索とかをやって頂いたんですが、めぐみの姿はもちろん遺留品も見つける事は出来ませんでしたし、いろんな所へ聞き込みに行っても情報は全く入りませんでした。
テレビの人探し番組にも5回出たわけですが、テレビの力と言うのは非常に大きくて、家出をしたって言うケースなら例えば「バイクが好きだった」とかいろんなヒントがあって、殆どの人が当日のうちに見つかります。放送が終わっても受付をやってますので、ほぼ全員当日に見つかります。しかし、めぐみについては何も情報が入りませんでした。
テレビ局の方にも「本当はこれは事件に巻き込まれたかもしれない。だから家出であって欲しい」というようなことを言って紹介してくれたテレビ局もありましたけど、全く情報が入りませんでした。
警察の方は、だいたい犯人は同じような事を繰り返しますので、もし少女を連れ去ったような事件があってそれが解決した時に余罪として解決を図るしかない。そんな事しか出来ない。待つだけのような状態になりました。我々の方では、行方不明者とか死亡事件とかありますと、一般の方以上に注意をしていましたんです。
アベックの方がいなくなったと言うことを昭和55年の産経新聞に報道されたときも、私のところは産経新聞を当時取ってなかったんですけども「これと関連は無いだろうか?」と持って来てくださった方があったんですけども、全くそれは関係ないと感じました。それは、アベックの方がいなくなったのは翌年の7月8月の日本海が鏡のようにと言われる位静かなときですし、めぐみがいなくなった時は11月で波が荒いわけです。めぐみが北朝鮮にいることが分かった時は、警察が寄居浜の漁師さんに話を聞いたら「その時期はここからゴムボートで出られない」と言ったそうです。全く関係ないと思いました。
しいて関係があると思いましたのは、皆さんもご存知だと思いますが、新潟の三条市で小学校の女の子が行方不明になって、9年くらい経って柏崎で見つかった事件をご存知だと思いますが。あの人とは歳がひとつ違い、そしていなくなった日が3日くらいしか違わないので、学校の帰りとか非常に共通点が多いので、あの子の事件が解決したらその余罪で見つかるかと思ったら、その先にめぐみの方が先に北朝鮮にいるらしいと分かって、そしてあの女の子の事件が解決したわけです。
すると北朝鮮側は日本にもそういう事件があるんだから「めぐみさんもきっと国内にいるはずだ」と、新聞に出したと言う事を我々も見た事があります。
北朝鮮だと言う事はまったく考えもしませんでした。そして、平成9年の1月の下旬に「めぐみは北朝鮮にいるらしい」という情報が、参議院議員の橋本敦さんの秘書の兵本さんから連絡がありました。その時「お宅のお嬢さんは北朝鮮の工作員に拉致されてピョンヤンにいるらしい事と、それについては写真を見せたいし、それからいなくなった時の状況を聞かせて欲しい」ということで議員会館に向ったわけなんです。一瞬、それを聞いた時に「あ、これで解決した」と思ったんですが、やはり実際は北朝鮮にいるということが分かっても、なかなか帰る事は難しいと言う事を思いはじめ感じました。
平成9年の2月3日に産経新聞、それからアエラでめぐみの拉致事件が報道されまして、その日の午後の衆議院予算委員会で西村眞悟代議士が、橋本総理大臣に少女拉致事件という事で・・・・・・・(聞き取れず)日本人拉致という事が日本国中に知れ渡りました。
日本の方は殆どの方が、その時に日本人拉致という事が分かったと思います。しかし、実際は先ほどもいいましたように、昭和55年でもアベックの事件についても産経新聞が報じてますが、その時は北朝鮮と言う名前は出してませんけども、外国の情報機関が関与してるんじゃないか?と言うことでしたが、まあ読めば北朝鮮とは分かります。
昭和63年には国会で3件のアベック事件と1件の未遂、それから大韓航空機を爆破した金賢姫に、日本語とか日本の習慣を教えた李恩恵(リ・ウネ)について質問してます。それに対して梶山静六国家公安委員長が「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である」と国会の場で北朝鮮と言う事を話しています。外務大臣の宇野(宗佑)さんも「現在調査中であるが、事実であれば断固たる処置を取る」というふうに答弁なさっている。政府の方はそのときから知ってる訳です。
しかしその時新聞が、産経新聞と読売新聞に小さく報道されただけで、日本の人はほとんど気がつかなかったわけです。気がつかないと、救出運動というのも起きませんし、親の方もここで名乗り上げたら子供たちが殺されるかも知れないと黙ってたのと、やはり政府の方が家族が動かなくてもしてくれるだろうと思って何にもしなかったわけです。
結局、家族が騒がないと国民も騒がないとなると、政府は後から記憶を呼んで見ますと何もあの時しないで。李恩恵については北朝鮮に照会しても、そんな人はいないと突っぱねられたわけです。アベックについてはなんの事もやってないわけです。
めぐみのことで明らかになった平成11年でも、アジア大洋州局長の槙田(邦彦)さんという人が「たった10人くらいの拉致のことで騒いで、国交正常化が進捗しないのは国益に反する」と話をして顰蹙を買った事もありましたけど。やはり親が騒いで国民が騒がなければ、やっぱり拉致の人を救出すると言う事よりも、日朝国交正常化交渉を優先させようとするのが、外務省の体質じゃないかと思います。
ですから、現在でも非常に国民の世論が高まってますから、拉致の問題を解決しないまま、国交正常化交渉はするべきではないという声が出たり。
それから小泉総理は5月に25万トンの食糧援助を約束したわけなんですけども、それが半分は実行されたわけなんですけども、残りは凍結すべきだと言う声が高まって、それで現在は止まってるわけなんです。
国民が5人の方が帰ってきて、その子供さん7人が帰ってきて、ジェンキンスさんのことは完全な解決ではありませんけども、まあほぼ解決の見通しが立ちますから。これで一段落したんだということで、国交正常化を進めるべきだと言う世論になってしまいますと、政府は拉致の解決と言う事よりも国交正常化を急ぐんで無いか?と心配しております。
昨日も新しい町村外務大臣とお目にかかったんですが、町村大臣は再調査には期限をつけてそれでも進展がなかったら、制裁と言う事も念頭に置いて考えるということもおっしゃってましたので、従来の川口外務大臣と比べてますと、やはりちょっと政府のやり方も変わって来たのかと思います。
平成14年の9月17日の事と、最近の小泉総理再訪朝の事については早紀江の方からも話があると思いますので、もう時間が参りましたので、私の話はこの辺で終わらせていただきたいと思います。(拍手)
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皆さん、こんばんは。(会場よりこんばんはの声)
お忙しいところをお出でいただいてありがとうございました。
めぐみは東京オリンピックが始まる直前の昭和39年の10月5日に生まれました。その日は朝早くから早紀江の方に陣痛があって、あんまりタクシーも通ってない時間だったのですが病院に入れました。名古屋の聖霊病院と言う名前でキリスト教関係の病院でした。それで銀行に行って休暇届を出したんですけど、それからカメラ等を持って病院に行きました。もう、生まれているかと思ったんですが、まだまだその時は落ち着いていまして、夕方になってやっと生まれました。非常に大きい子供で、女の子で例えが悪いんですけど、金太郎さんのような感じの女の子でした。私は女の子を望んでいましたので、すごく喜びました。
家に帰ってからも非常に元気な子供でしたのですが、いろんな病院に行きました。病院に行ったと言うのは、ひとつは大きすぎたので生まれる時に首のところに斜頸って言われましたんですが、筋肉にしこりが出来たり、整形外科でマッサージなどしました。それ以外は目を爪で怪我して眼科に行ったり、階段から落ちて外科に行ったり、ガラスを足で踏んで切ったり、元気なためにいろんな病院に行きまして、精神科と産婦人科以外は全部行ったと言われるくらい、病院には通いました。
めぐみが生まれましたのは名古屋ですが、1歳ちょっとで東京に転勤になりました。住んでいた所は品川の大井6丁目で、皆さん京浜東北線で大森貝塚が大森と大井町の間にあるのをご存知だと思いますが、あの近くに住みました。そこに6年間過ごした訳なんです。幼稚園はウノ学園、小学校は大井第一小学校へ行きました。近所の方はほとんどは近くのお寺の幼稚園に行きましたが、丁度その時は下の弟が生まれておりましてとても送り迎えが出来ないので、通学バスが迎えに来てくれるというのでそこの幼稚園を選びました。
非常にしっかりしているもんですから、学校の先生が何か話をしても、お子さんによっては帰ってからお母さんが話を聞いても良く分からない時は、めぐみさんの所へ聞きに行けば分かると言われるくらいにしっかりした子供でした。小さいときから本を読むのが大好きで、童話の本なんかを読みますとすぐに覚えていました。話すときには「えーと」とか「あのー」とか言わないで、本当に本の通りをきちんと何も見ないで読んで、そういう点では割に理解力は小さいときから優れておりました。
銀行のアパートに住んでいたわけなんですけども、そこの庭に大きなガマガエルを捕まえて手ぬぐいに包んで持ち歩いたり、そのころは乗用車などを乗ってる方はあんまりいなかったんですが、屋根の上に載ってトランポリンみたいにポンポンと跳ねて、屋根が潰れてしまった。(笑い声)中からポンと押したら戻ったんですけども、非常に活発な子供でした。
拓也・哲也が生まれましたのは佐々木病院て言いまして、今は大井中央病院と言って、沿線からも見える所にある病院です。そこに双子ですから早くから早紀江が入院したわけですから、そこまで、家から隣の家の奥さんの妹さん、大学生だったんですけど、その人を連れて病院まで行ったり。
それから大井町の阪急で迷子になった事も。家では絶対迷子になったら外に出るな、と教えてありました。もし外に出たら探せないから、中にいれば必ず見つかるからと言って、二手に分かれてひとりは玄関、ひとりはフロアの方を探したわけなんです。そしたらアナウンスがありまして「横田めぐみさんがお父さんお母さんを探しています」(笑い声)という事で。売り場に行きましたらレジのところに座って、リボンをつけてもらって、ちょこんと座って、なにかここにいたの?と言う感じで迷子になったと言う様子は全く無かったわけです。
動物園なんかに行きましても、前に大人がたくさんいますと背が小さいと見えないわけです。そういう時は、大人の間を掻き分けて行って十分に観察してから後ろに戻ってくるわけです。水族館に行っても、絶対にこの部屋から出るなと言っておいて自由に見て、そして終わったら次の部屋に移るという、ほとんど自主的に行動して、あんまり親に引っ付いていると言う事はありませんでした。
子供の時は踊るほうのバレエをやりました。大井町にババヨシエ先生と言うバレエスクールがありまして、そこへ通ってました。今はもう覚えてないかもしれませんけど、昔はコマーシャルでクリハラユカリさんと言う、後に女優さんになった人も同じバレエスクールには通ってました。
昭和47年には広島に転校しました。広島時代ってのは我々にとって一番幸せな時代で、家族でいろんな所に旅行しまして、近くにあります山口県では萩とか津和野とか。それから一番多く行ったのは松江の方で、山陰方面でも浜田とか宍道湖、大山へもいろんな所へ行きました。
瀬戸内海の水ってのは汚いもんですから、山陰の方にバスに乗って、民宿なんかに泊まって泳ぎに行きました。めぐみは、拓也・哲也を連れて帰る途中に猿がいた訳です。猿にいたずらしたもんです。(笑い)パッと逃げたんですが、その猿が拓也・哲也の頭の上に飛び乗って帽子をとって逃げたりしたんですが、めぐみはそれを見て自分が猿を最初にからかったのが何か大喜びで笑っていた、という事もありました。
広島時代ですが絵が非常に上手で、当時「ベルサイユのバラ」とか池田理代子さんの漫画とかそういったものを非常に好んでおりまして、家にも全部そういった漫画はそろえました。自分でも非常に上手なイラストを描いて、それから友達とも交換をしたり。例えば一冊のノートに1ページだけストーリーを描いて、その次の人に渡してその続きを描いて、戻ってくるときにはどんなふうに展開になっているか分からないわけですけど、そういったイラストを描いたりする事が好きでした。ですから、広島に「ベルサイユのバラ」の宝塚公演がありました時に、その時は安奈淳とか榛名由梨とか上原まりとか非常にいい組み合わせだったですけれども、めぐみを連れて行ったことがあります。
小学校の6年生の1学期が終わったところで新潟に転校になりました。私は札幌の生まれ育ちで、雪国の生活は長いわけですけども、早紀江や子供たちは雪国の生活と言うのは知らないので、どんな所かと非常に心配していました。私は北の方の支店に転勤すると言う内示を受けていたので「これは釧路か小樽か青森かなぁ?」と思っていたら、それが新潟だったんです。近いところに転勤になったと喜びましたんですが、子供たちから見れば雪国は初めてだったんです。
8月に転勤になったので、まだもちろんその時は雪がありませんでしたが、広島より涼しいし、海の水もきれいだし、なかなか良い所に来たと感じました。しかし秋になりますと雷がなって、雪起こしとか雪下ろしとか言うんですが、雪が降るといわれています。そんな事になってくると「嫌な所に来たなぁ」と子供たちが言って「大体どれくらいで転勤出来るの?」「まぁ、3年位もいれば、どこか次のところに移るかも知れないよ」という事を言ってました。
そして、めぐみは6年生の2学期に転校して、1学期が終わったところで転校したわけなんですが。そこで一般の人に比べれば3分の2の期間で、その年の図書館で図書を借りた冊数が学年で一番だったわけです。いかにたくさんの本を読んでいたかと言う事が分かります。特別なジャンルはありませんので、難しい本も読むし、漫画の本からスリラーから何でも読みました。話をさせますと、同じくらいの子供と比べますとずいぶんしっかりした感じを受けるんですけど。
その反面に私がちょっと甘やかして育てたんで、どこか旅行をするといっても切符を買うとか、お小遣いをもらってもそれを貯金したり下ろしたりは全くした事がありませんでしたので、生活面という意味では子供のままだったわけです。子供に家事をさせるなんて事も必要かもしれませんけど、子供の内は勉強するのが主なのであまり仕事もさせませんでしたし、世間で見れば甘いと思われたかも知れません。ほとんど叱った事もありませんし、甘やかして育てました。小学校の卒業の時は後でお話があると思いますが、今日お見えの馬場先生が新潟小学校の最後の卒業証書を渡してくださったと言う事なんです。その学年が全体が最後と言えるんですけど、めぐみの組が4組ぐらいありました。一番後ろの組で「よ」だったら遅くなる訳ですけども、転校生ですからさらに後ろになります。本当の意味での一番最後の例となってました。
だから先生が1組から順々に卒業証書をお渡しになって、本当の意味で一番最後に卒業証書を贈られた生徒なんです。
近くにあります寄居中学校と言うところに行きまして、そこはだいたい二つの小学校が集まってひとつの中学校が出来るわけですが、だいたい一学年400人くらいありました。
当時入学式の直前に風疹にかかって、お医者さんから他の人にうつったら困るからと言うことで休むように言われて欠席しましたんで、私が代わりに入学式に出て先生方のお話などを聞いて、4月の始業式の直前に桜が咲いているところで制服を着てめぐみの記念写真を撮りました。
ちょうど今いろんなポスター出てますけど、ポスターの写真がその時の写真で。ちょっと顔が病み上がりなもんですから、弱々しい感じもするわけなんですけども、いなくなった時の服装そのままなんです。
夏服にいったん着替えてますけど、あの頃はまた春の服に戻ってますから、同じものを着てますので、あの洋服を着て、靴もあのまま、それから鞄も同じ物。
そういった形でいなくなりましたので、警察が聞き込みに行く場合は、1日か2日で生きてるか死んでるか分からないけど、見つかるだろうと思いまして。「この子を見ませんでしたか?」と聞き込みに回る場合には、ちょっと顔色が悪いとか何とか言っても、実際出て行ったままの服装の写真が一番捜査のためには必要なわけです。それが現在まで何となくめぐみのイメージになってしまって、何となく弱々しい感じがしますが、実際は非常に明るい子でとても賑やかな子供でした。
うちでは下の男の子二人がどうしても母親と一緒に行動する事が多いので、だからめぐみは私が連れて歩くと言うのがいつものパターンでした。ですからいなくなる少し前にも、映画を観に行こうと言う事になったんですが、拓也・哲也は「スター・ウォーズ」を観たいといいますけど、めぐみはその時は「ラスト・コンサート」と「カサンドラ・クロス」と言う映画が来てまして、そっちの方を観たいと言う事で二手に分かれて行ったりしました。だからめぐみは、どちらかと言うと母親よりも父親の方に一緒に行動する事が多いので、そういった点では父親っ子と言えると思います。
めぐみがいなくなる前日、私の誕生日が11月14日でその時めぐみが櫛をプレゼントしてくれました。やっぱりお洒落を自分も気を使うようになったんで、お父さんもキチンとして欲しいという意味で櫛をプレゼントしてくれたんだと思います。
めぐみは中学に入って部活動をやる時、音楽をやったり絵を書いたりする事をやるのかと思ったら、意外にバトミントン部に入りました。おそらくは部活動すると言うより、同好会みたいなつもりで入っていたんじゃないかと思います。新潟のバトミントンは女子は全国一という位のレベルだそうです。新潟のセイリョウ短大を出た方が、たくさんユーバ杯など出場していまして、レベルが非常に高いところだったわけです。
そんなところで同じような環境で、その寄居中学というのはバトミントンの強い学校だったわけです。夏休みが終わってから新人戦が開かれて、そこにめぐみも出場したわけなんですが、正確な数字は覚えてませんけども優勝は出来なかったんです。しかし、優勝した人がいたにもかかわらず何人か選ばれて、新潟市の強化選手にめぐみが入ってしまったわけです。
それは非常に名誉な事なんですが、そんな高い水準のところで、自分が今までの学校の成績が維持できるか?と心配して「どうしようか?どうしようか?」と悩んでいました。だからいなくなった時に、私はそういうふうには思わなかったですけど、早紀江の方は「バトミントンの悩みって言う所で家出をしたんじゃないか?」と思ったそうです。しかし、私の方は、今まで帰りに寄り道をした事もないし、今まで学校を休んだ事も全然無かったわけですから家出と言う事は全く考えませんでした。
警察と同じように身代金目的の誘拐か、交通事故を考えました。
警察の方は新潟県警始まって以来と言われるくらいの大捜索をやりまして、この間も10月5日の日にテレビを見てましたら12チャンネルで、警察官がボートをたくさん出して海の中を探している所が映りましたんですが。よくもここまでやって下さったという事で、ヘリコプターを飛ばしたり、船を出したり、ちょっと時間が経って影になったんですけど、テトラポットのところをダイバーが潜って探してくれたりということで。
後でアベックの方がいなくなったんですけど、だいたい事件とは思わないので捜索願を出すといっても、みなさん一番早い人で2日目、遅い人だと3日目くらいに出してまして。
めぐみの場合は当初から事件だと言う事でやって下さいまして、大規模な聞き込みとか捜索とかをやって頂いたんですが、めぐみの姿はもちろん遺留品も見つける事は出来ませんでしたし、いろんな所へ聞き込みに行っても情報は全く入りませんでした。
テレビの人探し番組にも5回出たわけですが、テレビの力と言うのは非常に大きくて、家出をしたって言うケースなら例えば「バイクが好きだった」とかいろんなヒントがあって、殆どの人が当日のうちに見つかります。放送が終わっても受付をやってますので、ほぼ全員当日に見つかります。しかし、めぐみについては何も情報が入りませんでした。
テレビ局の方にも「本当はこれは事件に巻き込まれたかもしれない。だから家出であって欲しい」というようなことを言って紹介してくれたテレビ局もありましたけど、全く情報が入りませんでした。
警察の方は、だいたい犯人は同じような事を繰り返しますので、もし少女を連れ去ったような事件があってそれが解決した時に余罪として解決を図るしかない。そんな事しか出来ない。待つだけのような状態になりました。我々の方では、行方不明者とか死亡事件とかありますと、一般の方以上に注意をしていましたんです。
アベックの方がいなくなったと言うことを昭和55年の産経新聞に報道されたときも、私のところは産経新聞を当時取ってなかったんですけども「これと関連は無いだろうか?」と持って来てくださった方があったんですけども、全くそれは関係ないと感じました。それは、アベックの方がいなくなったのは翌年の7月8月の日本海が鏡のようにと言われる位静かなときですし、めぐみがいなくなった時は11月で波が荒いわけです。めぐみが北朝鮮にいることが分かった時は、警察が寄居浜の漁師さんに話を聞いたら「その時期はここからゴムボートで出られない」と言ったそうです。全く関係ないと思いました。
しいて関係があると思いましたのは、皆さんもご存知だと思いますが、新潟の三条市で小学校の女の子が行方不明になって、9年くらい経って柏崎で見つかった事件をご存知だと思いますが。あの人とは歳がひとつ違い、そしていなくなった日が3日くらいしか違わないので、学校の帰りとか非常に共通点が多いので、あの子の事件が解決したらその余罪で見つかるかと思ったら、その先にめぐみの方が先に北朝鮮にいるらしいと分かって、そしてあの女の子の事件が解決したわけです。
すると北朝鮮側は日本にもそういう事件があるんだから「めぐみさんもきっと国内にいるはずだ」と、新聞に出したと言う事を我々も見た事があります。
北朝鮮だと言う事はまったく考えもしませんでした。そして、平成9年の1月の下旬に「めぐみは北朝鮮にいるらしい」という情報が、参議院議員の橋本敦さんの秘書の兵本さんから連絡がありました。その時「お宅のお嬢さんは北朝鮮の工作員に拉致されてピョンヤンにいるらしい事と、それについては写真を見せたいし、それからいなくなった時の状況を聞かせて欲しい」ということで議員会館に向ったわけなんです。一瞬、それを聞いた時に「あ、これで解決した」と思ったんですが、やはり実際は北朝鮮にいるということが分かっても、なかなか帰る事は難しいと言う事を思いはじめ感じました。
平成9年の2月3日に産経新聞、それからアエラでめぐみの拉致事件が報道されまして、その日の午後の衆議院予算委員会で西村眞悟代議士が、橋本総理大臣に少女拉致事件という事で・・・・・・・(聞き取れず)日本人拉致という事が日本国中に知れ渡りました。
日本の方は殆どの方が、その時に日本人拉致という事が分かったと思います。しかし、実際は先ほどもいいましたように、昭和55年でもアベックの事件についても産経新聞が報じてますが、その時は北朝鮮と言う名前は出してませんけども、外国の情報機関が関与してるんじゃないか?と言うことでしたが、まあ読めば北朝鮮とは分かります。
昭和63年には国会で3件のアベック事件と1件の未遂、それから大韓航空機を爆破した金賢姫に、日本語とか日本の習慣を教えた李恩恵(リ・ウネ)について質問してます。それに対して梶山静六国家公安委員長が「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である」と国会の場で北朝鮮と言う事を話しています。外務大臣の宇野(宗佑)さんも「現在調査中であるが、事実であれば断固たる処置を取る」というふうに答弁なさっている。政府の方はそのときから知ってる訳です。
しかしその時新聞が、産経新聞と読売新聞に小さく報道されただけで、日本の人はほとんど気がつかなかったわけです。気がつかないと、救出運動というのも起きませんし、親の方もここで名乗り上げたら子供たちが殺されるかも知れないと黙ってたのと、やはり政府の方が家族が動かなくてもしてくれるだろうと思って何にもしなかったわけです。
結局、家族が騒がないと国民も騒がないとなると、政府は後から記憶を呼んで見ますと何もあの時しないで。李恩恵については北朝鮮に照会しても、そんな人はいないと突っぱねられたわけです。アベックについてはなんの事もやってないわけです。
めぐみのことで明らかになった平成11年でも、アジア大洋州局長の槙田(邦彦)さんという人が「たった10人くらいの拉致のことで騒いで、国交正常化が進捗しないのは国益に反する」と話をして顰蹙を買った事もありましたけど。やはり親が騒いで国民が騒がなければ、やっぱり拉致の人を救出すると言う事よりも、日朝国交正常化交渉を優先させようとするのが、外務省の体質じゃないかと思います。
ですから、現在でも非常に国民の世論が高まってますから、拉致の問題を解決しないまま、国交正常化交渉はするべきではないという声が出たり。
それから小泉総理は5月に25万トンの食糧援助を約束したわけなんですけども、それが半分は実行されたわけなんですけども、残りは凍結すべきだと言う声が高まって、それで現在は止まってるわけなんです。
国民が5人の方が帰ってきて、その子供さん7人が帰ってきて、ジェンキンスさんのことは完全な解決ではありませんけども、まあほぼ解決の見通しが立ちますから。これで一段落したんだということで、国交正常化を進めるべきだと言う世論になってしまいますと、政府は拉致の解決と言う事よりも国交正常化を急ぐんで無いか?と心配しております。
昨日も新しい町村外務大臣とお目にかかったんですが、町村大臣は再調査には期限をつけてそれでも進展がなかったら、制裁と言う事も念頭に置いて考えるということもおっしゃってましたので、従来の川口外務大臣と比べてますと、やはりちょっと政府のやり方も変わって来たのかと思います。
平成14年の9月17日の事と、最近の小泉総理再訪朝の事については早紀江の方からも話があると思いますので、もう時間が参りましたので、私の話はこの辺で終わらせていただきたいと思います。(拍手)
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