寺越家を救うぞ!東京集会
2005年4月14日(木)
※ぴろんさんによる、丁寧なテキストです。会場の雰囲気を感じ取ってください。
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寺越昭男さん(寺越昭二さんの長男)のお話
皆様こんばんは。
私は今から42年前、昭和38年。
能登沖で、わずか海岸から200メートルのところから拉致をされた寺越昭二の息子です。
長男です。
ここにおるのは次男で名前は北野になりますけども。
養子に行きましたんで、北野になります。
事件は、私らはあの、本当にわずか海岸から200メートルのところから、何で800キロも離れた北朝鮮の清津というところに行ったか?と言う疑問。
そして父親が本当に北朝鮮で死んだんか?と言う疑問。
事件の真相を知りたいと言うことから2002年10月に政府に対して、寺越事件の真相究明と拉致認定・遺骨の返還を求めて声を上げさせていただいたわけです。
事件の当時は私は中学校の2年になったばかりでした。
5月の12日、私が中学校の2年で弟が小学校の6年、三男が小学校の4年でした。
小さかったせいもあるけども、本当に何で死んだんか?と。
何でこういう事になったんか?という思いというのは、今までずっと持ち続けて来たことなんですけども。
ひょっとしたら当てた船の当てた犯人が、怖くなって3人をどこかに殺して埋めたんじゃないか?とか。
常にそんなことを思っていましたんですけども。
17年後に突然北朝鮮から手紙が、叔母の栗原豊子さんのところへ来たわけですね。
それまでは本当に死んだとばっかり思ってたわけなんですけども。
突然北朝鮮から手紙が来たと言うことで、死んだ人間が生き返ったというような思い。
でもこの手紙には一番最初の手紙には父親のことは何も書いて無いんです。
「あるとき突然3人で北朝鮮で暮らすことになりました」と。
その後、「外雄さん・武志は結婚して幸せに暮らしております」と。
で父のことは何も書いてないんです。
3人で一緒に北朝鮮に来たのになんで父のことが書いてないのか?と。
そのこともきちんとと言うか、そういう思いはあったんですけども。
取りあえず北朝鮮から手紙が来た言うことで本当に大騒ぎになりました。
どういうふうに対応していいかというのは、やっぱり北朝鮮がどういう国か分からない国。
それから手紙なんかもおそらく検閲されているんじゃないか?とか。
こっちから変なことを書いたら武志とか外雄さんに何かあるんじゃないか?とかっていう。
そういう意見というか議論をして、差し障りの無いように、「うちの親父がどうしているか?」とかいう返事を書いたわけなんですね。
まぁ私は書いてませんけど、その手紙が来た栗原さんの所から手紙を出して。
2通目の返事にうちの親父は5年後に病気で亡くなったということで。
私らはその時に、ああやっぱり親父は死んでたか、と。
親父は心臓が悪くて、弁膜症とかって言う病気を持っとって。
力仕事なんかすると心臓の発作で苦しくなったりして自分で動脈注射をしてかってやってたんですね。
もし北朝鮮に行ったのなら私はそんなに長生きはしなかったやろな、とは思っていたんですが。
まぁ、とにかく死んだと言うことを手紙で知らされまして。
それから私らはなんと言うかな。
武志・友枝さん親子のことを見守って。
北朝鮮の方に私らが目を向けると言うことは、情けないと言う思いがあったんでとにかく沈黙をして行こうと。
これは私の考え方ですけども、弟たちも多分それと同じ考え方ではなかったんではないかなと思うんですけど。
一生懸命友枝さんは運動しながら、外務省行ったり警察行ったり、まぁあちこち苦労しているのを私らは見てました。
まぁ応援出来れば良かったんやけども、私らも経済的に余裕がなかったと言うか。
子供が出来て小さい子やったもんやし、本当に申し訳ないと思いながら、見守るしかなかったんですね。
お袋は昭和42年かな?
母親は親父なくしてから、いなくなってから私ら3人を育てるのに本当に苦労して。
42年に子宮筋腫になりまして手術をしたんですけども、それが元でホルモンのバランスを崩したんじゃないかなぁ、と思うんですけども。
寝たり起きたりの生活になったんですね。
それもあって経済的には本当に苦労してきました。
お袋は「親父の遺骨を見るまでは死んだとは信じられん」と、言うことで。
本家で葬式出したんですけども、葬式にも出なかったし。
その思いはやっぱり遺骨を見るまではと言うことで、淡い期待は持ちながら丁度2002年の2月に最後にはパーキンソン病で亡くなったんですね。
その2002年と言うのは私らにとっては2月にはお袋が亡くなり、そして9月に小泉訪朝、そして金正日が拉致を認めた。
そして武志が一時帰国したと。
ここが重なって私らは声を上げようという。
声を上げると言うのは親父の骨を返して、母親と一緒にお袋と一緒に墓に入れてあげたい。
そういう思いとそれから事件の真相と言うのをハッキリ知ってかって。
知る権利というのは私らにはあると思うし、お袋にもやっぱりそれを報告しなければいけないやろうし。
もし父親が本当に安明進さんの証言どおり殺されておったら、父親の無念と言うのを私らは晴らさにゃいかんと思うし。
いろんな思いから2002年の10月10日に声を上げさせていただいたんですけども。
この2002年と言う年ちゅうのは、いろんな事が重なって私らが声を上げるきっかけになったと思います。
2002年に政府に対して外務省には、事件の真相究明そして遺骨の返還・拉致認定を求めて声を上げさせていただいたんですけども。
まぁ本当に恥ずかしい話なんですけども、その時は私らは家族会というのも知らなかったし。
それから救う会も知らなかったし。
北朝鮮と言うものから目を背けながら生活してきたと言うような感じになっとるもんで。
東京へ出て来てから驚くことばかりでね。
拉致って言うのはやっぱり個人がすれば犯罪。
しかし一国のリーダーが拉致をさせたと言うことは犯罪じゃなくて政治問題なんですね。
その辺私らには一番歯がゆしいと言うかどうにもならんことなんで。
政治問題ではなくてやっぱり犯罪として日本の政府が北朝鮮に対して断固として解決を努力すべきだと思うし。
そのために圧力というものをかけなければいけないなぁと思います。
個人で拉致をすれば刑事罰があると思うんで、国が拉致をすればそれ相応の制裁というものがあって然るべきべきではないかと思います。
拉致問題と言うのはこの2002年から2年間ちょっとですけども活動して、奥が深いというか。
拉致だけでなくて教育問題とかそんないろんな問題が関わってくるもんで。
本当に個人では何も出来ない問題だと思ってます。
個人では出来ないというのは私らもそうやし、国会議員の先生方も一人一人は個人なんで。
拉致問題解決には全国民が一丸となって、活動って言うか。
解決に向けての運動をしていかなければならないんじゃないかな?と私自身は思っています。
今現在の私の心境は、寺越事件というのは私らが声を上げてから何一つ解決されてないんですね。
真相究明もまだ分かってない。
拉致の認定もされてない。
遺骨の返還もされてない。
本当に政府は私らに対して真剣に取り組んでくれているんかなぁ?と、いうふうに現在では思っています。
遺骨の返還としては外務省の斎木審議官が一生懸命取り組んでくれているので、私らとしては本当にありがたいなと感謝しております。
その他のことについては何一つ進展していないので、残念なことだなぁと思っております。
ちょっとまぁ写真の説明をさせていただきたいと思うんですけど。
この左の一番上が父の昭二です。
その下が叔父の外雄さんです。
親父の隣が従兄弟の武志です。
現在の武志がその下です。
その横が友枝伯母さんです。
事件の発端となったのが真ん中のあの船ですね。
清丸と言いまして大きさが1.5トン。
本当に小さい船です。
そしてその横が亀城(クソン)市にあると言われている父の墓なんですね。
この墓にはちょっと奇策がありまして。
2002年の10月に従兄弟の武志が始めて39年ぶりに日本に一時帰国。
それは寺越武志としてではなくて、北朝鮮の平壌市の職業総同盟副委員長としての役職と言うことで金 英浩(キム・ヨンホ)ということで一時帰国出来たわけなんですけども。
その時に私が武志と地元の歓迎会で話をすることがあったんですね。
わずか2~3分だったんですけども。
私は武志に「父親の墓には何と書いてあるんや?」と。
私としては父親が朝鮮籍を取ってないという認識があったもんですから。
寺越昭二の名前なのか?それとも北朝鮮の名前なのか?知りたくてそういう質問をしたんです。
武志は即座に「自分の名前を書いてある」と言ったんですね。
「どうや?死んでもおらんがに自分の名前を書いたがんな?」
という話をしとったら、そこへちょうど友枝さんが入って来て「ここの席でそういう話はするんでないから」と言ったもんで話はそこで終わったんですが。
その後武志が北朝鮮に帰って二週間後くらいですかね。
武志の妹の正枝さんが北朝鮮へ行ってこの墓の写真を撮ってきたんですね。
一番最初にこの墓の写真を見たとき、「えらい新しい墓やな?」と思ったんです。
帰ってすぐに作ったような墓じゃないかなぁ?と。
「この墓が何で新しい墓なんや?」と友枝さんに聞いたら、「武志は偉くなったんや」と。
「昔の墓やと恥ずかしいから新しい墓に作り変えたんがや」と言っておりました。
私らはその時には気が付かなかったんですけど。
ここには父の誕生日と死んだ日とが書いてあるんですね。
1927年3月30日生まれ。
1968年の3月30日死亡って書いてあるんです。
うちの父親は誕生日は3月31日なんです。
一日違うんです。
何で一日違うんか?と。
本人が生きとったらまず一日違うことなんて絶対に無いことなんですね。
生まれた日と誕生日とが違う人は広い世間には多分何人かおいでやと思います。
うちの嫁はんもそうです。
ましてうちの父の死んだのは、誕生日の前の日に外雄さんが「明日誕生日だから今晩祝いをしよう」と酒を買ってきたりして、皆で祝いをしてがって次の日の誕生日の朝にベッドから落ちて死んでたと、言うことなんですね。
北朝鮮では目上の人の誕生日は毎年するんやと。
ということは5年間おったんなら少なくとも5回はやっとるわけです。
で5回もやっとってがっておりながら尚且つ誕生日が一日違うというのはどういうことか?
親父が誕生日を間違うわけ無いし、武志は誕生日を知らんと思うんです。
子供の私らでさえ知らなかったんです、誕生日を。
うちの母親は知ってました。
そじゃけ誕生日を知ってる可能性があるのは、外雄さんか友枝さんか、ふたりのうちのどっちかなんですね。
どっちかが誕生日を勘違いして覚えておったと思うんです。
でこの墓が、なんで父親が北朝鮮で死んだということを工作するための材料なんですね。
私らは本当に遺骨があるんなら返して欲しい。
北朝鮮の政府も遺骨があるんならさっさと返せば寺越事件は救助で、多分私は落ち着くんで無いかな?と思うんです。
私らは納得しませんけども。
政府間ではおそらく寺越事件を本当に、今だかつて何にも進展してないってことは寺越事件はこのままうやむやにしておきたいと。
で、国交正常化がすればおそらく武志は今の体制では拉致だとは言えないから、寺越事件は救助でもう収まってしまうと思うんです。
そういう危険性というのは私たちも常に持ってますし。
そうならないためにも今一生懸命活動しているわけなんですけども。
政府に対して寺越事件が、真相究明するには拉致なのか?救助なのか?と言うことを北朝鮮に常にボールを投げつけんといかんと思うんですけど。
今だかつて全然そういうことは一度もしてはいないんじゃないか?と思います。
これが本当に残念と言うか。
拉致の特別委員会でも私らは寺越事件と言うものを本当にいっぺんでも取り扱って欲しいな、と今の思いですね。
真相究明に少しでもそれがつながるなら本当に嬉しいことやし。
もうひとつ大事なことは、武志が今の状態やといつ何時抹殺される可能性があるかも知れんということです。
北朝鮮が拉致を認めれば武志の命は絶対にまず保障されるでしょうけども。
日本の政府もやっぱり拉致を認定してがって武志の身の安全と言うものを北朝鮮に保障させなけりゃいかんと思います。
北朝鮮側に対してそういう意思表示をして欲しいと思います。
もしこのまま武志が死んでしまったら私らはそれで終わりですし。
寺越事件も永久に闇の中だと思います。
そうならないためにも一日も早く拉致認定、そういうものが大事になってくるんじゃないかなぁ?と思います。
私の考えは以上です。(拍手)
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※ぴろんさんによる、丁寧なテキストです。会場の雰囲気を感じ取ってください。
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寺越昭男さん(寺越昭二さんの長男)のお話
皆様こんばんは。
私は今から42年前、昭和38年。
能登沖で、わずか海岸から200メートルのところから拉致をされた寺越昭二の息子です。
長男です。
ここにおるのは次男で名前は北野になりますけども。
養子に行きましたんで、北野になります。
事件は、私らはあの、本当にわずか海岸から200メートルのところから、何で800キロも離れた北朝鮮の清津というところに行ったか?と言う疑問。
そして父親が本当に北朝鮮で死んだんか?と言う疑問。
事件の真相を知りたいと言うことから2002年10月に政府に対して、寺越事件の真相究明と拉致認定・遺骨の返還を求めて声を上げさせていただいたわけです。
事件の当時は私は中学校の2年になったばかりでした。
5月の12日、私が中学校の2年で弟が小学校の6年、三男が小学校の4年でした。
小さかったせいもあるけども、本当に何で死んだんか?と。
何でこういう事になったんか?という思いというのは、今までずっと持ち続けて来たことなんですけども。
ひょっとしたら当てた船の当てた犯人が、怖くなって3人をどこかに殺して埋めたんじゃないか?とか。
常にそんなことを思っていましたんですけども。
17年後に突然北朝鮮から手紙が、叔母の栗原豊子さんのところへ来たわけですね。
それまでは本当に死んだとばっかり思ってたわけなんですけども。
突然北朝鮮から手紙が来たと言うことで、死んだ人間が生き返ったというような思い。
でもこの手紙には一番最初の手紙には父親のことは何も書いて無いんです。
「あるとき突然3人で北朝鮮で暮らすことになりました」と。
その後、「外雄さん・武志は結婚して幸せに暮らしております」と。
で父のことは何も書いてないんです。
3人で一緒に北朝鮮に来たのになんで父のことが書いてないのか?と。
そのこともきちんとと言うか、そういう思いはあったんですけども。
取りあえず北朝鮮から手紙が来た言うことで本当に大騒ぎになりました。
どういうふうに対応していいかというのは、やっぱり北朝鮮がどういう国か分からない国。
それから手紙なんかもおそらく検閲されているんじゃないか?とか。
こっちから変なことを書いたら武志とか外雄さんに何かあるんじゃないか?とかっていう。
そういう意見というか議論をして、差し障りの無いように、「うちの親父がどうしているか?」とかいう返事を書いたわけなんですね。
まぁ私は書いてませんけど、その手紙が来た栗原さんの所から手紙を出して。
2通目の返事にうちの親父は5年後に病気で亡くなったということで。
私らはその時に、ああやっぱり親父は死んでたか、と。
親父は心臓が悪くて、弁膜症とかって言う病気を持っとって。
力仕事なんかすると心臓の発作で苦しくなったりして自分で動脈注射をしてかってやってたんですね。
もし北朝鮮に行ったのなら私はそんなに長生きはしなかったやろな、とは思っていたんですが。
まぁ、とにかく死んだと言うことを手紙で知らされまして。
それから私らはなんと言うかな。
武志・友枝さん親子のことを見守って。
北朝鮮の方に私らが目を向けると言うことは、情けないと言う思いがあったんでとにかく沈黙をして行こうと。
これは私の考え方ですけども、弟たちも多分それと同じ考え方ではなかったんではないかなと思うんですけど。
一生懸命友枝さんは運動しながら、外務省行ったり警察行ったり、まぁあちこち苦労しているのを私らは見てました。
まぁ応援出来れば良かったんやけども、私らも経済的に余裕がなかったと言うか。
子供が出来て小さい子やったもんやし、本当に申し訳ないと思いながら、見守るしかなかったんですね。
お袋は昭和42年かな?
母親は親父なくしてから、いなくなってから私ら3人を育てるのに本当に苦労して。
42年に子宮筋腫になりまして手術をしたんですけども、それが元でホルモンのバランスを崩したんじゃないかなぁ、と思うんですけども。
寝たり起きたりの生活になったんですね。
それもあって経済的には本当に苦労してきました。
お袋は「親父の遺骨を見るまでは死んだとは信じられん」と、言うことで。
本家で葬式出したんですけども、葬式にも出なかったし。
その思いはやっぱり遺骨を見るまではと言うことで、淡い期待は持ちながら丁度2002年の2月に最後にはパーキンソン病で亡くなったんですね。
その2002年と言うのは私らにとっては2月にはお袋が亡くなり、そして9月に小泉訪朝、そして金正日が拉致を認めた。
そして武志が一時帰国したと。
ここが重なって私らは声を上げようという。
声を上げると言うのは親父の骨を返して、母親と一緒にお袋と一緒に墓に入れてあげたい。
そういう思いとそれから事件の真相と言うのをハッキリ知ってかって。
知る権利というのは私らにはあると思うし、お袋にもやっぱりそれを報告しなければいけないやろうし。
もし父親が本当に安明進さんの証言どおり殺されておったら、父親の無念と言うのを私らは晴らさにゃいかんと思うし。
いろんな思いから2002年の10月10日に声を上げさせていただいたんですけども。
この2002年と言う年ちゅうのは、いろんな事が重なって私らが声を上げるきっかけになったと思います。
2002年に政府に対して外務省には、事件の真相究明そして遺骨の返還・拉致認定を求めて声を上げさせていただいたんですけども。
まぁ本当に恥ずかしい話なんですけども、その時は私らは家族会というのも知らなかったし。
それから救う会も知らなかったし。
北朝鮮と言うものから目を背けながら生活してきたと言うような感じになっとるもんで。
東京へ出て来てから驚くことばかりでね。
拉致って言うのはやっぱり個人がすれば犯罪。
しかし一国のリーダーが拉致をさせたと言うことは犯罪じゃなくて政治問題なんですね。
その辺私らには一番歯がゆしいと言うかどうにもならんことなんで。
政治問題ではなくてやっぱり犯罪として日本の政府が北朝鮮に対して断固として解決を努力すべきだと思うし。
そのために圧力というものをかけなければいけないなぁと思います。
個人で拉致をすれば刑事罰があると思うんで、国が拉致をすればそれ相応の制裁というものがあって然るべきべきではないかと思います。
拉致問題と言うのはこの2002年から2年間ちょっとですけども活動して、奥が深いというか。
拉致だけでなくて教育問題とかそんないろんな問題が関わってくるもんで。
本当に個人では何も出来ない問題だと思ってます。
個人では出来ないというのは私らもそうやし、国会議員の先生方も一人一人は個人なんで。
拉致問題解決には全国民が一丸となって、活動って言うか。
解決に向けての運動をしていかなければならないんじゃないかな?と私自身は思っています。
今現在の私の心境は、寺越事件というのは私らが声を上げてから何一つ解決されてないんですね。
真相究明もまだ分かってない。
拉致の認定もされてない。
遺骨の返還もされてない。
本当に政府は私らに対して真剣に取り組んでくれているんかなぁ?と、いうふうに現在では思っています。
遺骨の返還としては外務省の斎木審議官が一生懸命取り組んでくれているので、私らとしては本当にありがたいなと感謝しております。
その他のことについては何一つ進展していないので、残念なことだなぁと思っております。
ちょっとまぁ写真の説明をさせていただきたいと思うんですけど。
この左の一番上が父の昭二です。
その下が叔父の外雄さんです。
親父の隣が従兄弟の武志です。
現在の武志がその下です。
その横が友枝伯母さんです。
事件の発端となったのが真ん中のあの船ですね。
清丸と言いまして大きさが1.5トン。
本当に小さい船です。
そしてその横が亀城(クソン)市にあると言われている父の墓なんですね。
この墓にはちょっと奇策がありまして。
2002年の10月に従兄弟の武志が始めて39年ぶりに日本に一時帰国。
それは寺越武志としてではなくて、北朝鮮の平壌市の職業総同盟副委員長としての役職と言うことで金 英浩(キム・ヨンホ)ということで一時帰国出来たわけなんですけども。
その時に私が武志と地元の歓迎会で話をすることがあったんですね。
わずか2~3分だったんですけども。
私は武志に「父親の墓には何と書いてあるんや?」と。
私としては父親が朝鮮籍を取ってないという認識があったもんですから。
寺越昭二の名前なのか?それとも北朝鮮の名前なのか?知りたくてそういう質問をしたんです。
武志は即座に「自分の名前を書いてある」と言ったんですね。
「どうや?死んでもおらんがに自分の名前を書いたがんな?」
という話をしとったら、そこへちょうど友枝さんが入って来て「ここの席でそういう話はするんでないから」と言ったもんで話はそこで終わったんですが。
その後武志が北朝鮮に帰って二週間後くらいですかね。
武志の妹の正枝さんが北朝鮮へ行ってこの墓の写真を撮ってきたんですね。
一番最初にこの墓の写真を見たとき、「えらい新しい墓やな?」と思ったんです。
帰ってすぐに作ったような墓じゃないかなぁ?と。
「この墓が何で新しい墓なんや?」と友枝さんに聞いたら、「武志は偉くなったんや」と。
「昔の墓やと恥ずかしいから新しい墓に作り変えたんがや」と言っておりました。
私らはその時には気が付かなかったんですけど。
ここには父の誕生日と死んだ日とが書いてあるんですね。
1927年3月30日生まれ。
1968年の3月30日死亡って書いてあるんです。
うちの父親は誕生日は3月31日なんです。
一日違うんです。
何で一日違うんか?と。
本人が生きとったらまず一日違うことなんて絶対に無いことなんですね。
生まれた日と誕生日とが違う人は広い世間には多分何人かおいでやと思います。
うちの嫁はんもそうです。
ましてうちの父の死んだのは、誕生日の前の日に外雄さんが「明日誕生日だから今晩祝いをしよう」と酒を買ってきたりして、皆で祝いをしてがって次の日の誕生日の朝にベッドから落ちて死んでたと、言うことなんですね。
北朝鮮では目上の人の誕生日は毎年するんやと。
ということは5年間おったんなら少なくとも5回はやっとるわけです。
で5回もやっとってがっておりながら尚且つ誕生日が一日違うというのはどういうことか?
親父が誕生日を間違うわけ無いし、武志は誕生日を知らんと思うんです。
子供の私らでさえ知らなかったんです、誕生日を。
うちの母親は知ってました。
そじゃけ誕生日を知ってる可能性があるのは、外雄さんか友枝さんか、ふたりのうちのどっちかなんですね。
どっちかが誕生日を勘違いして覚えておったと思うんです。
でこの墓が、なんで父親が北朝鮮で死んだということを工作するための材料なんですね。
私らは本当に遺骨があるんなら返して欲しい。
北朝鮮の政府も遺骨があるんならさっさと返せば寺越事件は救助で、多分私は落ち着くんで無いかな?と思うんです。
私らは納得しませんけども。
政府間ではおそらく寺越事件を本当に、今だかつて何にも進展してないってことは寺越事件はこのままうやむやにしておきたいと。
で、国交正常化がすればおそらく武志は今の体制では拉致だとは言えないから、寺越事件は救助でもう収まってしまうと思うんです。
そういう危険性というのは私たちも常に持ってますし。
そうならないためにも今一生懸命活動しているわけなんですけども。
政府に対して寺越事件が、真相究明するには拉致なのか?救助なのか?と言うことを北朝鮮に常にボールを投げつけんといかんと思うんですけど。
今だかつて全然そういうことは一度もしてはいないんじゃないか?と思います。
これが本当に残念と言うか。
拉致の特別委員会でも私らは寺越事件と言うものを本当にいっぺんでも取り扱って欲しいな、と今の思いですね。
真相究明に少しでもそれがつながるなら本当に嬉しいことやし。
もうひとつ大事なことは、武志が今の状態やといつ何時抹殺される可能性があるかも知れんということです。
北朝鮮が拉致を認めれば武志の命は絶対にまず保障されるでしょうけども。
日本の政府もやっぱり拉致を認定してがって武志の身の安全と言うものを北朝鮮に保障させなけりゃいかんと思います。
北朝鮮側に対してそういう意思表示をして欲しいと思います。
もしこのまま武志が死んでしまったら私らはそれで終わりですし。
寺越事件も永久に闇の中だと思います。
そうならないためにも一日も早く拉致認定、そういうものが大事になってくるんじゃないかなぁ?と思います。
私の考えは以上です。(拍手)
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