Blue jewel

拉致の解決を願って
「蒼き星々」関連テキストなど(ココログにも掲載)現在gooがメイン。
デザイン時々変更。

増元るみ子さんを救うぞ東京集会(1)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
※ぴろんさんによる、丁寧なテキストです。会場の雰囲気を感じ取ってください。
             ~~2004年12月9日(木)東京 芝 友愛会館にて~~

 1.平野フミ子さんのおはなし

皆さんこんばんは。
本当にこんなにたくさん集まっていただいて、ありがとうございます。
私、いつもこうやって立つ時、何から話して良いかいつも迷ってしまうんです。
でも今日はるみ子の事だけ、そして父の事を話さしていただきます。

るみ子は私たち増元家にとっては、太陽的存在でした。
私家族6人、きょうだい4人なんです。
私、信一という弟、そしてるみ子がいて、照明が一番下にいるんですけど。
本当にもう、いつも明るくて。
「家族」と言う本にも書いてありましたけども、父親がとにかく厳しくてですね。
私たちは本当に近づけない存在でした。
でも、妹るみ子だけは父親に対してものすごく「とうちゃん、とうちゃん」と言ってですね。

父親は営林署に勤めてました。
鹿児島の営林署は屋久島の杉を運ぶ船を持ってましたので、2~3日おきに帰ってきておりました。
しょっちゅういないんですけども、帰ってくるたんびに「とうちゃん、お帰り」と率先して行ってましたので、父は物凄く可愛がってた。

私たちは父が怖くて、何かというとすぐ怒るんですね。
父は酒を飲むんと、鹿児島の言葉で「やまいもを掘る」って言うんですけど、酒が入ると愚痴が出るんです。
仕事の愚痴かなんか知らんけど、ちょっと薩摩男児、亭主関白と言うのが強くてですね。
私たちは本当に「どうしてこんなとうちゃんと結婚したの?」と母にいつも言うぐらいですね、(笑い声)厳しい父でした。
妹のるみ子は厳しい父に本当になついて。
ですから父もそんなにして寄ってくるので目に入れても痛くないくらいほどに、可愛がっていたと思います。

その証拠にですね。
今日は妹の同級生が写真を持ってきてくれたんですけど、大龍小学校の入学式にですね、父が参加してるんですよ。
出席してるんです。
私もその写真見て、びっくりしました。
父親はもっと仕事一辺倒でですね。
子育てには参加してないと思ってたから、「へぇー」と思って。
母親が病気がちだったせいもあって、弟・照明のお守りしてたりして、小学校の入学式に行ったんじゃないかなぁ?と、今私は写真見て思った事でした。

本当に妹の事を可愛がっていたのは紛れもない。
この4人のきょうだいの中で一番可愛がってた。
その妹がですね、北朝鮮に拉致されていった。
本当に父親はどんな思いでいたのか?と思うと。

私は晩婚でした。
37歳で結婚して38で女の子を恵まれました。
その間、両親を見ててですね、本当に私も「嫁いで行けないな」と、縁の無かったのもあるんですけど。
この二人を残して嫁いでは行けないな、という思いがあってですね。

ふたり、夫婦を見ながらですね、まぁよう喧嘩してました。
仲が良い夫婦とはとても言えなかったです。
まして鹿児島は亭主関白が強いところですから、本当に仲が良い夫婦では無かったですけども。
でもやっぱり同じね、思いを、娘るみ子を無くして、失踪・・・何ていうか・・・本当に今まで元気にいたのに急にいなくなったという、そういう思いをですね、ずっと抱えて。

私たちは家族会が結成されるまで、妹の事に関してはタブーでした。
そうしないと母親が本当にもう、泣いてしまうし。
そして世間にもなにか知らないけどタブーの、皆「家族」って言う本見ると、皆、どこでも失踪した人のことには触れない、触れられたくないという気持ち。
どこからどういう気持ちが分からないけれど、私たちもとにかく、このことには触れたくないなぁ、という思いでずっと来ておりました。

家族会が、安明進さんの、「めぐみちゃんを見た」という証言がですね。
センセーショナルにですね、クローズアップされて。
で、私たちはやっとこれで私たちも妹の事をこんなして皆さんの前で公に話せるという、一条の光を見い出した思いで。
その時はすぐにでも妹たちが帰ってくると、それだけを私たちは信じて来てました。

しかし、なかなか動かなかった。
本当に私たちは地団駄を踏みましたけど、妹があんな・・・去年ずっとそういう調子の中でですね。
国が動かない。
一昨年9月17日、5人の方が帰っていらっしゃいました。
本当に私たちは、本当に私たちの、皆さんの世論の力が、そして家族会の訴える力が通じたんだと言う事で、私たちは本当に良かったなと思いました。
妹たちは死亡とされましたが、絶対信じる事は出来ないという事で、また結束が一段と強まった訳ですけども。

一昨年、5月の7日ですね。
国際フォーラムで6千人収容するところに、入りきれないほどの人たちが集まってくださいました。
その時に、私は日本が大好きになりました。
それまではなんて、こんな日本に生まれてきたんだろう?と。
本当に砂を噛む思いで過ごしていましたので、本当に去年の国際フォーラムの時は本当に嬉し涙で、幕が上がっていくのを見ておりました。

その翌日にですね、祐木子さんとお話することが出来ました。
私はさっき記者会見でも申し上げたんですけども、どんな話の内容が聞けるんだろう?話されるんだろう?かと、不安が一杯、聞きたいのは山々なんですけども。
ひょっとしたら「るみ子さんは死んでしまったんですよ」言われかねないと思ってですね。
「嫌、そんなのは私聞きたくない」と、弟にも私拒みましたけども。
「いや、そんな話じゃないから、とにかく祐木子さんと話をしてみたら?」と言われて、意を決してホテルの一室でお話1時間くらいさせていただきました。

この写真を祐木子さんに見せたんです。(るみ子さんの写真を掲げる)
「あ、るみちゃんだ」と言ってくれました。
私のるみ子はですね、修一君と一緒に行ってるというのは、あちらが言ってることなんですけども、実際るみ子を見たという目撃証言が全然無かったんですね。
ですから、「本当に?本当に行ってるんだろうか?」と、私は本当に「嘘じゃないんだろうか?嘘じゃないだろうか?」と思っていたりしたもんですから。
祐木子さんにですね、「あ、るみちゃんだ」ということを聞かされたときは、「ああ、やっぱり残念ながらあっちに行ってたんだなぁ」って言う、がっかりしたような嬉しいような、本当に複雑な気持ちでおりました。

その時のお話でですね。
「るみちゃん」「祐木子ちゃん」という風に話合って招待所で生活してたと言う事を、いろんな話を聞きました。
その話の中でですね、妹は歌が好きだったもんですから、すぐ朝鮮語の歌も覚えて。
朝鮮語も勉強して。
卓球を中学時代にしてたから・・・やっぱり共産圏は卓球が盛んですよね?
だから、招待所の人たちと卓球して遊んだりとか。

あの子はうちの家系には無い、あの身長が163センチ、結構高いんですよね。
後姿はモデルくらいでして、昔の24歳ですからね。
本当にすら~っとしていましたので、大きい先生と言われていたらしいですね。
で、祐木子さんが妹で小さいから小さい先生だったんですね。

その話の中で、鹿児島はスイカの漬物というのを作るんですよ。
鹿児島にしか無いそうなんですよね。
スイカを食べますね?白いところが残りますよね?
で、ちょっと食べた残りの赤いところを切り取って、皮を切り取って、白い身の所に塩を振って一夜漬けみたいにしたり、醤油につけたりして食べるんですけども。
父親が大好きだったもんですから、料理はあまりしなかった子ですけど、それだけは覚えていたらしくて、北朝鮮の招待所で食べさせてもらったっていう。
だから祐木子さんの地方ではそういう習慣が無かったですからね、印象に残ってたんだと思います。

北朝鮮に、南浦(なんぽ)というところに着いた時の話を聞いて、私は衝撃を受けたんですけど。
とにかく何時間かかるか・・・まぁ吹上浜から拉致されて行きましたから、南浦まで何時間かかるか私は分かりません。
相当数船倉にですね、入れられて、恐怖と絶望の中で何時間も暮らしてたと思うんです。
私も妹も暗がりが嫌いでした。
怖がりでしたから、どんなに恐怖を味わったんだろうか?と思うと、私は想像を絶するんです。
想像だに出来ないんですけども。
その時南浦に着いて、下船するとき足腰立たなくて、やっと両脇を工作員にかかえらるようにして下船したと言う話も聞くことが出来て。
私はその時にもう、何ともいえない気持ちになりました。

本当に妹は、今の24歳といったら大人です。
でも27年前の24歳は子供なんですよね。
本当に私の妹はまだ市川さんと付き合い始めたばかり。
まだ3ヶ月くらい、手も握ったかどうか分からないくらいの状態だったと思います。
そういうところに連れて行かれて、本当にどんな気持ちでいたか?
足腰が立たないっていう、その状態を想像しただけでも、私は何も聞けなくなった、というのが実情でした。

いろんな事聞きたかったけども、まだ子供さんが帰ってない状態がありましたので、いろいろ聞くのも困らせるだけだなぁという思いもしましたし。
酷だなぁと思って、私たちはもう、あの方たちは子供さんはじきに帰ってくるから、その時に話せる場になったら、話してくださるだろうなぁ、と思って。

ひとつ、ひとつだけですね、子供さんがいるんじゃないか?という話をしてくれたんです。
というのもあちらの証言では、あの時点では、翌年の4月の20日に結婚式を挙げて、修一君がその年の9月4日に元山で・・・北朝鮮で9月に水泳するのもおかしいと思ったんですけど・・・ま、水泳して心臓麻痺で死んで、妹は1981年、3年後に心臓麻痺で死んだということですね。
で、子供はいないという、で遺留品もないと言うことで。
ホントにもう私たちは何も無いんですよ、妹の事が、ただ、(北朝鮮に)いたという事だけで。

祐木子さんの話だけでですね、死んだということを信じることはできないんですけども、本当に何も無いんですよ。
残酷な、なんて言っていいか、本当にその時は分からなかったんですけども。
祐木子さんの話の中で「ひょっとしたら、るみちゃんは子供がいたんじゃないかな?」って言う話をですね。
「どうして?」って聞いたら、別れてからですね。
その年月は私は聞いてもいませんし、あちらも話さなかったと思いますけども。

別れてから、それぞれ結婚したんでしょうね。
で、「風の便りにるみちゃんに子供がね、一人目生まれた、という話しを聞いたよ」って、言うんですよ。
それは今だから話すんですけども、今だから話せるということなんですけども。
だから、未確認情報ではあるけれど、祐木子さんもるみ子が赤ちゃんを抱いてるところを見た訳では無いんですけども。
妹が赤ちゃんを産んだということを、男の子ってその時は言ってましたけどもね、そういう話を聞きました。
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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(2)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
平野フミ子さんのお話 続き

でこの話とダブるんですけど、平成12年現在ですね、子供が二人いるという未確認情報でありますけども。
(情報が)ありますので!
絶対に私たちは死んでると言う事を信じていませんけども、子供がいるという話も私は信じております。
色々な情報を集めれば、確実な情報になっていくと思います。

父も本当に残念ながら、一昨年、10月の15日に5人の方が帰っていらした翌々日に、肺がんで、10月に17日に、本当にるみ子に会いたくて会いたくてたまらなかったと思います。
末期がんの中でですね、苦しい中で、私はどんなしても父に生きていて欲しかったから、延命措置もさせました。
うちの父は「そんなのはよか」と首を振りました。
声が出ないくらい、喉が皆さんの中でもそのような状況で旅立っていかれた方がいらしてると思うんですけど、私も初めて家族がそういう状態になるのを目にしたもんですから。
ここの喉が吸引でからからになってるんですね、干からびてるんですね、ミイラに近い状態で。

私も本当にあんな状態で、父も我慢強い父でしたけども、肺がんというのはとにかく痛いらしくて。
看護婦さんにも初めの頃はですね、お下の世話をしてもらう時でも「恐れ入ります」(と言って)礼儀正しい患者だったんですよ。
ところが9月の17日、訪朝が決まったあと、心筋梗塞を起こしてですね。
相当のプレッシャーだったと思うんです。
10月になって急にガクッと体調を崩しまして、起き上がれない状態になって、吸引もしょっちゅう受けておりました。

私はもう、父は一日でも長く生きていて欲しかった。
ですから、延命措置してもらったんですけども、その時にですね。
10月の10日に延命措置をしました。
私はそれを見きりませんでした、もう怖くて。
父がどんなに苦しい思いをするのか?と思うとですね・・・(照明氏の方を見て)あ、10月の11日だったね?延命措置受けたの。

10月の11日に延命措置受けましたから、その午前中に、私に言うんです。
血圧が低下して「延命措置するなら今しかないですよ」って、病院の先生に言われてましたので、私たちきょうだい、決断をする場面があったんですけども。
うちの父が最後に力を振り絞って、あのがらがらの喉の状態の中でですね。
「おれは、るみ子と市川君との結婚を許す」って言いました。

もう本当に私はね、今までクローズアップされてから、修一君とるみ子が付き合っていると言うのを、父親は知らなかったんですよ、それまでは。
で、いなくなってから、いなくなってから初めて、付き合ってると言うのを父は知ったんです。
というのも、厳格な父でしたので男女交際には凄く厳しかったんです。
もし結婚を前提にしてないふたりがね、二人は結婚を前提にしてると思ってたんですけど、まだそう煮詰まった話じゃなかったから、言ってなかった。
私と母は知ってましたけど。

テレビに婚約間近とか婚約したとかいう話が先にたって、いかにも婚約中ということで話が出てましたので、そのときでも「おれは許しとらん」て言ってました。
そして9月17日以降もですね、テレビの中で妹たちを紹介するのに、婚約間近とか解説がついてたんです。
その時でも、病室のベッドの上で「まだおれは許しとらん」って言うんですね。
父親というのはすごいなぁと思いました。
自分が知らないところでそういう話がいってると言うのが、とても許せなかったんでしょうね。

10月の11日、延命措置を受ける午前中にですね、父親は「結婚を許す」って言ってくれました。
もうその時は自分でも死期が分かってたから、これだけは言って旅立ちたいと思ったんでしょうね、
父親の責任として。
なんでそんな気になったのか?
(このあたりから会場内あちこちから、すすり泣く声。以後最後まですすり泣き止まらず)
声が小さいから、耳元に私こうして(顔を寄せるしぐさ)近づけて聞いたんですけども。
「修一君とるみ子、二人は愛し合ってる」って。
「なんで愛し合ってると分かるの?」って聞いたら、何か、悪者がですね、市川君を刀で切りつけて2~3刃、刃を受けたそうです。
軽症になったそうですね。
それをるみ子がかばったんですって。

だから「二人は愛し合ってるんだ」って、言う。
傷を負ったんだけども、二人のかばい合うその姿にですね・・・父の夢なんでしょうけど・・・父は「二人を許す」それしかないんだと思ったんでしょうね。
ですから自分がこの世を去るけれども、妹にはそれを伝えて欲しい。
私も本当「とうちゃん良かったね。やっと許す気になったね」って。
「るみ子が帰ってきたらちゃんとそれ言うからね。市川さんにもそれ報告するからね」って言いました。

私は父にいつまでも生きて欲しかったけども、あの痛みの中ですね、いつまでも頑張ってもらうのは、私は酷じゃないかなぁって。
79歳の老体にですね。
精神的にも、あのような死亡って言う事をもたらされた、あのような現実を見ないといけない。
24年間ですね、本当に妹に会いたくて会いたくて。

でもね、ひとつも「会いたい」って事、言わなかったんです。
大正生まれの人間だと思いました。
「父ちゃん、なんで言わなかったの?」
私は葬式の時に、法事の時に「言って欲しかった」って。
「るみ子に会いたか」ってなんでいってくれなかったの?って、私は本当に思いましたけど。
それが父親の最後の強がりだったのかなぁ?って思います。

私の父は本当に私たちには厳しかったけども、地域の人たちには本当に良くしてくれてました。
亡くなってから初めて父の偉大さってのを分かりました。
もっと父親に優しくしてればよかったなぁっていう・・・後の祭りですけども。
ですから、妹をですね、取り戻すのが父に対する孝行だと思ってます。
生前に会わせられなかったけども、絶対にるみ子をですね、取り戻さなければ。

母親ももう身体をやってますけど、妹に会うためにがんばって・・・してます。
でも、いずれは(母も)あの世に逝くでしょう、父親の元に。
その時にですね、母親に妹を会わせるだけ会わせて、報告させたいんです。
あの世に逝って「とうちゃんるみ子は元気だったよ、子供も何人おったよ。本当に日本の人が良くしてくれたよ」て言う風な、そういう気持ちをですね。
持って、あの世に、父親に報告させてあげたいんです。

父親の命日もいつも思うんですけど、この前の10月17日、1年忌を迎えました。
「今年もやっぱりだめだった」って。
国民の人たちも理解を示されて、妹たちのことがですね。
皆さんに一杯いろんな人たちに知ってもらえるようになった現状なんですけど、北があのような事ですのでなかなか前に進みませんけども。

こんなして皆さんが・・・めぐみちゃんのことも、私は信じておりませんでした。
あちらの言う事は嘘ばっかり・・・うちの父も9月の17日にベッドで言ってましたけど・・・8人死亡2人未入国ということを、それをわたしは一緒にテレビで見てたんですけども、あ、私は東京にいたんでした。
「とうちゃん、かあちゃん信じないで、がんばろうね」って、言うのが精一杯でした。
父親はその時母と一緒にテレビ観てて「北の言う事はうそばっかりじゃぁ」って。
いままでずっと騙され続けておりますので、それに屈する事はなかったんです。
でもあのようにバンって言われますとですね、やっぱり弱い、人間ですから、どんなに落胆しただろうかと思うと私は想像も出来ませんけども。

わたしもひとりの娘をもつ身ですので、13歳のめぐみちゃんが突然いなくなった。
それを私に合わせると、私も自分の娘をひとり持つ親として絶対に取り戻さないと、という思いがいっつもしてるんですよ。
わたしも妹に早く会いたい。
でも、めぐみちゃんはぜったいに早紀江さんに会わせてやらないと、日本の名折れですよね?
皆さん、そう思いませんか?(拍手)

本当に一生懸命、早紀江さんは日本の為に頑張って下さっています。
私たちの代表する方ですけども、本当にめぐみちゃんだけの問題ではない。
日本国中の津々浦々からですね、大根を引っこ抜くようにして連れさられて行った人たち、皆を救わなければならない。
その崇高な目的のために、動いてくださっています。

私は昔は日本が大好きでしたけども。
でも今日本が嫌いになりつつあるんです・・・政府の人ですよ?(笑い声)
国民の方々は、こんなにたくさんの方々が理解してくださって、日本も捨てた物では無いんだなぁと、そういう思いになってますけど。
ただ、私たちは家族に会いたい、それだけのためなんです。
それだけの為なのに、どうして日本の行く末の事まで論じなければならないのか?という思いが今してるんです。

早紀江さんもおっしゃってます。
この問題は今の日本を問いただしてるんだということをですね。
妹たちもこんなに大きな事になってるとは、つゆ知らないと思いますけども。
私は絶対に妹を取り戻すんだ。
そして、母親に会わせてあの世に逝かせたいと、その思いだけで動いております。

特定失踪者のことも忘れてはならないと思っております。
「未知との遭遇」という映画がありましたけども、UFOが世界の各地から連れて行った人たち。
丁度妹たちはUFOの仕業じゃないか?と言われてたこともありましたので、あれとオーバーラップしてですね。
UFO中からいろんな人が降りてくるんです。

今度もですね、絶対取り戻して、羽田のタラップにですね、日本の各地から拉致された人々を、皆さんの力で降ろす。
そういう夢を持とうではないですか。
絶対実現する夢だと思います。
日本人の力を、底力を見せてください。

私の父は弟にですね「わしは日本を信じる、だからお前も信じろ」といって旅立っていきました。
あんなに日本の政府に切り捨てられてきた父でしたけども、最後まで日本国民だったと思います。
ですから皆さん。
まだ、あの地で日本を見ながら、日本の地を、そして肉親を思って涙してる人たちに思いを馳せてください。
私たちはこんなしてぬくぬくした、平和な生活しておりますけど、あちらに拉致された人々は、今年また冬を極寒の地で迎えようとしています
絶対に助けなければ日本が世界の物笑いになります。
どうぞお願いいたします。

めぐみちゃんの遺骨も嘘ということが分かって、絶対に良い方向に。
小泉さん今度こそ経済制裁、何がしかの知恵を、意思を示していってくださると思います。
それでなければ日本の元首じゃ無いと私は思っています(拍手)
ありがとうございます。
これからもどうぞこの拉致問題に関心を持っていただき、そして全員救出するまでお力を貸してださい。
◆―――――――――――――――――――――――――◆
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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(3)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
 2.増元照明さんのお話 1

こんばんは。
(立ち見の人に向って)こちらの方、まだ空席があるので、こちらの方入ってください。
(司会より「空間があります」の声)空間がある。(笑い声)
(司会者の声で「ちょっと、どうぞよろしかったら、前へ座ってください」)

あの~今日は家族会事務局次長ではなくて、増元るみ子の弟として話をしてくださいと言う事で、鹿児島弁でしゃべろうかと思ってるんですけど。(笑い声)
姉が少し泣かしたんで、少し笑わせなきゃ。(小さな笑い声)
私が第一回の国民大集会で「るみ姉」と言う名前を言ったんです。
それが1998年だったんですけども。
そしたら、去年あたりからるみ姉のるみ姉が出始めて、私、商標登録しとけばよかったかなぁ?と(笑い声)思ってます。

私の姉をるみ姉と言い始めたのは、何時頃だったか?ちょっと私も覚えてないです。
小さい時には一番上(ここに)フミ子がおりますけども、フミ子の事を「姉ちゃん」と言ってました。
長男を「信ちゃん」と言ってました。
その次のるみ子は「るみ子姉ちゃん」と言ってたんですね。
小さい時、小学校の位まではそういう呼び方をしたと思うんですけども。

中学校になって、この中学校の写真なんですけどもね。(中学時代の集合写真を一枚掲げる)
姉が中学校3年生、私か中学校1年生で。
中学校入って、私は野球部かサッカー部に入ろうと思ったんですけども、姉貴が「卓球部に入れ」と言われて、素直な弟だったもんですから(会場、くすくす笑い)、そのまま卓球部に入りました。
この真ん中にいるのがキャプテンだと思う、その隣にいるのが副キャプテンの姉、これ卒業アルバムの中の物です。
この一番端にいるのが私なんですが、なんか猿みたいな顔して(笑い声)

私、中学校一年まで本当に小さかったんですね。
確か私の記憶では、129か130です、中学校一年のとき。
ホントに小さくて、姉はさっきフミ子が言ったように大きい姉でしたので、非常にカッコ良くて。
サウスポーなんですけど、サウスポーで卓球やると凄いカッコいいですよ。
あの~、惚れ惚れしますけども。
ただ、男女一緒に練習した事はなくて、姉と卓球をしたという覚えは無いんです。
とにかくそれぐらい近い存在ではありました。

一番上が私より5つ上なんですけど、長女がいて長男がいて、るみ姉がいて、私。
丁度女男女男、学年も丁度一年おきくらいになってるわけですね。
よく産み分けたな、と私思ってるんですけども。
母は身体が弱く、結婚前は子供は産めないというような診断を受けたようです。
だから、昔の医療はあまりたいした事なかったんでしょう。
結婚してみたら4人ポロポロと産まれて来たんですが。

小さいとき、我々家族は小さい家に暮らしておりました。
物心ついたときには4畳半に6人が寝る状態で、私は寝る時に押入れに寝ていたような気がするんですけども。
親父は屋久島と鹿児島を結ぶ船、これは連絡船じゃないですけども、屋久島から杉を運んでくる船に乗っておりました。
これは、営林署の持ち舟なんですが、だから一応公務員です。

その船に乗って行き来しておりましたので、一週間に半分ぐらいしかいないんです。
さっき姉が言ったように親父は凄い怖かったもんですから、帰ってくるのがきょうだい皆、嫌だったんです。
帰ってこないで欲しいくらい。(笑い声)
でも一週間に半分くらいは帰って来るので、帰ってきたときは皆じ~っとしていて、なるべく顔を見ないように(笑い声)逆らわないようにしてたんですけども。
それでもさっき言ったように、るみ子は結構なついていたようです。

これが中学校のときの姉の写真です。(一枚の写真を掲げる)
私もあんまりこの顔に覚えが無いんですけど。
このときにはすでにもうちょっと広い社宅に入りましたので、大分寝るときにも楽になりましたけども。先ほど言った様に、姉が中学の時、私まだ小学校6年くらいまでは、姉と一緒の布団で寝ていたと言う記憶です。
というか、一緒に寝ておりました。
それくらい小さいときからの習慣で、姉と寝るのが全然抵抗なかった。
中学の1年まではもしかしたら、寝てたかも知れない。
130センチですから、ホント可愛かったですから、私。(笑い声)

昔の子供は、今の子供よりもっと子供子供していて。
全くパソコンもありませんし、うちはそんなに贅沢も出来なかったですから、甘えて育ったと言う記憶を私は持ってません。
特にるみ姉には(歳が)近かったせいもあり、非常に甘えて育ちました。
先ほども言ったように私末っ子ですから、今でこそこうやって偉そうにしてますけども、本当は甘えん坊なんです。
ですからいつも姉に甘えて、ずっと大きくなってきました。

中学になって、姉と同じ卓球部になって、そして姉のカッコ良さを知りました。
背がすらっとして、サウスポーで卓球するるみ姉を見てると、あぁカッコいいなぁと思って。
「自分もこの道を精進しなきゃ、あそこくらいまで強うならないかんなぁ」と思って精進はしてたんですけども。
でも、その頃になるとそんなに一緒になって遊ぶ事も無い。
いくら甘えん坊とは言え、男友達も一杯できますし、野球とかもやっておりましたし、クラブもちゃんと行ってましたので、遊ぶ事無かったのでそんなに多くの接点は無かったんです。

ただ、姉の思い出としては、この頃ね、皆姉の友達は明るかったとか言ってるんですけど、僕は姉泣いてる姿しかあまり思い出さないんですね。
特に私が小さい時に、親父にしかられて投げられたんですね。
あの時なんでだろ?お客さんが来て、お客さんに出したお菓子を私がつまんだんですね。(笑い声)
そしたら親父がお客さんが帰ってから、怒りまして。
その時は3部屋くらいありましたから、奥の部屋に連れて行って、頭からボンと投げたんですよ。
それをかばってくれたのが(フミ子さんの方を見て)姉ちゃんだった?(笑い声)覚えてる?(フミ子さん、頭を振る)(笑い声)
じゃあ、じゃあ、るみ姉でしょう。(笑い声)
確か女性が私をかばってくれた事を覚えていますから。(笑い声)
その時に泣きながらかばうんです、私の事を。
私はもちろん小さいからビイビイ泣きながら、言い訳をしてたんですけども、泣きながら私の事をかばってくれました。

更に大きくなって高校のときかな?
よく覚えてるんですけども、これが高校の生徒手帳に載ってた写真を引き伸ばしたものです。(るみ子さんの制服姿の写真を掲げる)
確かに姉の顔ですが。(自分でも写真を見つめる)
高校の多分1年か2年の時だと思うんですが。
私の家は鹿児島市内とは言えちょっと外れの方でしたし、昔は街灯が無かったですからね。
だから、学校帰りがちょっと暗くなると、街灯が無いもんですから薄暮がちょっとすぎると暗いんです。
そこへ姉が帰ってくる途中に、バス停から自宅まで5~6分かかるんですが、そんなに人気のいないところでもないんですけども。

姉がうちに帰ってからもびぃびぃ泣いてるもんですから、「何で泣いてるんだ?」と言ったら、帰り道に暗がりの中で誰か、確か若い男だと言ったんだか、小さい男子生徒、私ちょっと記憶が無いんですが、スカートをまくられて怖くて逃げて帰ってきたと。
その話聞いて私すぐに表へ出ました。
その時私は高校生で、小さいとはいえ、少しは根性もありましたからね。
表へ出ましたが、その時はもう、犯人はおりませんでした。
で、びぃびぃすぐ泣くんです。
さっき、姉が暗がり怖がってたと言うのは、多分そのトラウマがあったんではないか?
だから姉は絶対暗いところには、あえて、修一さんと一緒でも暗がりには行こうとはしなかったはずなんです。
ですから、やはりどこか明るいところで、多少は明るいところで襲われたんだろうと、私は思っています。

高校を過ぎて、高校の頃までは本当に泣き虫だと私は思ってます。
うちの親父、厳格と言うのは(巨人の星の)星一徹を思い出すんですが、ああいう感じじゃないんです。
もっとそのなんて言うかな、もっとわがままで、酒飲みで、子供を良くしかって殴られたりしてたんですが。
一回親父が酒を飲んでお袋と喧嘩して暴れだして、私高校のときでしたけれども、やばいと思って親父羽交い絞めにしたんです。
羽交い絞めしたら親父がここに(自分の右腕を指し示す)噛み付きましてね。(大きな笑い声)
歯形がその時残ってしまって。
やばいと思って玄関から外へ出たら、姉がそこでまた泣いておりました。
ですから、高校までは姉の泣いてる姿が非常に印象に残っております。

高校卒業して就職し始めました。
で、それからじゃないかな?姉がちょっと変わってきたのは。
私昭和49年に高校卒業しまして、北海道の大学に行ったんですが、その同じ年に長男が信一って言うんですが、信一も就職で静岡へ出て行きました。
これは3月の半ばくらいだと思います。
で、同じ49年の4月になって私は大学の方へ出て行ったんですが。
ですから自宅にいた4人きょうだいのうち長男が消え私が消えていく。
同じ年だったので、お袋が非常にショックが大きかったのか、女親ってのはどちらかと言うと息子の方が可愛いみたいで、特に末っ子の私は可愛がられていましたので、私がうちを出る時はお袋が泣いて泣いてしようが無かったんですが。

その当時車を持ってたるみ姉が、私を空港まで送ってくれました。
その時には本当に、私の大学入学を非常に喜んでくれて。
その当時まだ昭和49年50年ですから、高卒の事務員の給料はたいした事無いと思うんですが。
給料の半分くらい、月給の半分くらいで時計を買って私に贈ってくれました。
今持って来れば良かったんですが、もうベルトがちぎれそうになって、これ以上触ると何時ちぎれるか分からない。
私、あの、ベルトがちぎれるとちょっと気持ちが落胆してしまって、願掛けみたいな物ですので、あまり触りたくないんですけども。
それくらい今、私も大事にしております。
本当に大学入試受かった時、非常に喜んでくれました。
時計をくれて、それほど喜んでくれたので、私大学行く時も寂しかった気持ちもありますけども、でも喜んで送り出してくれました。

で、私も大学行って、休みのたびに帰ってたんですが。
そのたびに、車の免許を持ってるのは、フミ子は持ってたんですがペーパードライバーで、ほとんど運転できなかった。
で、るみ姉は、ペーパードライバーじゃだめなんで、一人くらい運転できなきゃ。
親父は持ってなかったし、当然お袋も持ってなかったので、一人くらい免許持ってるのがいないといかん、ということで。
◆―――――――――――――――――――――――――◆
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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(4)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
増元照明さんのお話 続き

姉は持ってたんですけどもペーパードライバーですから。
ですから、るみ姉が免許とってあちこち家族を連れて行くのに、車を使っていました。
だから、私大学から帰る時も必ずうちに電話すると空港に迎えに来てるのが姉なんです。
帰る時、北海道に行く時も必ず姉が空港まで見送ってくれました。
ですから姉がいた当時は空港と家の間を自家用車と言う物で、一応帰っていたんですね。
それで助かったんですけども。

そのころは高校卒業してなぜかしら明るくなっていたんです。
さっきフミ子が言った様に、私の家の中心のような存在になってた。
そして車の運転もして家族をあちこち連れて行ってくれている。
で、お袋なんかも良くそれで乗って、ばあちゃんがちょっと離れたところにいたもんですから良くそこへも行ったり、後墓参りに行ったりという話は、多少聞いています。
その頃あんまりうちにいなかったので、後から聞いておりました。

運命の1978年の8月12日なんですけども、たしか8月11日の晩でした。
親父は確かいなかったと(思う)。
私も8月11日と言うと北海道は後期が始まるのが早いものですから、もうそろそろ帰らなきゃいかんなぁと、友達と飲みに行くのを止めて家族と一緒に飲んでました。
その時に、姉が「明日市川修一さんと言う人と、デートに行く」と。
その事を、姉ちゃんとお袋と私と3人で、飯を食いながらそこで姉から話を聞いておりました。
フミ子とお袋は多少話を知っていたようですけども、私は初めてだったもんですからショックを受けたんです。

それまでさっきも言ってたように、空港と家まで送り迎えしてくれてた姉がいなくなるという事は、じゃあ姉が嫁に行ったら、じゃあ俺はいったい誰が送り迎えをしてくれるのだ?(笑い声)
それで困ったなぁ、というのが最初の印象でした。
ただ、聞いてみると2回か3回目くらいのデートだと言うんで、まだ結婚は先だな?と思ってちょっと安心しとったんですけど
オレが卒業するまでは絶対結婚するなよ、と言ったそんな気持ちで。(笑い声)
でも、3回目くらいのデートでしたから、私もその市川さんに会わなきゃいけないのかなぁ?という思いもありましたけども、会いたくないなぁという両方の気持ちで。
じゃあ、次の休みまで会うのは止めておこうと思ってたんですが。

その翌日に姉が、土曜日だったんです、私は普通の日だと思ってたんですけど。
フミ子の言うには土曜日だったようで、ふたりとも半ドンで会社に行って、その間私は寝てたようで。
姉が会社から一旦帰って、自宅で着替えて修一さんと吹上浜まで、鹿児島市内から1時間半から2時間、車でかかります。
そこへ行くのに、私のうちを出て行く姿を、私は寝起きの・・・昼ぐらいに起きる人間でしたから、大学時代は・・・その寝起きの顔で姉を玄関で「行って来い」と言って見送ったんです。
皆さんご覧の眼鏡、サングラスをかけて赤いトレーナーを着た姿だったんです。

玄関を出る時にはサングラスをかけてなかったですから、姉らしい笑顔、ここに2枚写真があるんですが(演台の前に貼ってある左側の写真を取って掲げる)こっちの顔です。
これが本当の姉らしい顔だと私は思います。
この顔見ると、本当に30年近く、27年前の姉の(顔を)そのまんま描ける、という写真です。
これに近い笑顔で家を出て行った、それが1978年昭和53年の8月12日です。
そのまんま、姉は帰ってきませんでした。
親父はその時家にいなかったんですが、私も8月12日は友達と飲んだくれて、帰って。
夜遅くになって姉が帰って来ていないと言う事を知りました。

るみ姉の車は庭に置いてあったので、誰か車の免許持ってる人がいればすぐに行ったんでしょうけど、先ほど言ったように、フミ子はペーパードライバーで、私は無免許で、家の中に免許持ってる人が誰もいなかったんで、どうする事も出来ずに一夜を明かしてしまいました。
とても一睡も出来るような状況では無かったんですが。
親父はその時確か仕事に出ていたんだと思います。

それから翌日になって市川さんのご家族と吹上浜まで行って、吹上浜のキャンプのロータリーの所で市川さんの車を見つけました。
ドアに鍵をかけてあって、中に小物入れ、カメラ、そういった物が全て残っておりまして。
周りを探しても全然応答無いですし、警察に届けることになったんですけども。
それから大捜索が10日ほど続きまして。

本当に私もあまり記憶に無かったんですが、お袋がちょっと気を狂わせかけた。
お袋って、結構気持ちが弱い女で、九州って本当は強いですけどね、まぁ、姉を見てれば分かる(笑い声)親父の気性を一番継いでるのはフミ子で。(笑い声)
だから喧嘩してたし、合わなかったと思いますけど。
お袋はその点、九州の女らしくなくて、気が弱くて、すぐに参ってしまう。
姉貴がいなくなって「るみ子がいなくなったら、こん家は火が消える」って泣いて、そしてちょっと気を狂わせかけた。

フミ子が自宅でお袋を見て、で私、親父、長男がその当時静岡にいたんですが、静岡から呼び寄せて、姉の友人、私の友人、それから消防団と、皆さんで手分けして8月のあの暑い14日から一週間・十日間ほど、吹上浜の周りを捜索しました。
その時の私が見た親父の姿、今でも忘れられないんですけど。
さっき言ったように私たちにとっては怖い親父だったんです。
絶対私たちの前では弱いところを見せた事は無かった。
酔っ払ってだらしないところは良く見せてましたけど、弱いところは見せてなかった。
その親父が、詰め所のような所があったんですけども、そこに座り込んで砂浜に何か字を書いてるんです。
その後姿を見たとき、私は非常に悲しい思いをした覚えがあります。

先ほども言ったように私たちに弱みを見せなかった親父が、可愛い娘がいなくなった事にホントに寂しい、何が起こったんだ?自分の中で整理できていない。
そんな中で、息子たちにも弱みを見せてしまったんだと思うんですが。
その後姿を今見ても、本当に姉貴の事が可愛かった親父にしては残念だったんだろうな、と思います。
それからずっと、先ほど姉が言ったように私のうちの中では姉のことを言うと、お袋がすぐ泣いてしまうので、話をすることが出来なくて。
親父はそうでもなかったんですけども、その親父にしてもるみ子のことを積極的にしゃべる事も無く
て。

で、1997年3月に突然、私その当時東京に住んでおりましたけども、親父から電話がかかってきて「明日東京に行く」と。
「何で来るんだ?」と聞いたら「明日、家族会を結成する」と言って。
「なんでもっと早く言わんとね」言ってましたけど。
私もそれまで19年間、姉の為に何にもしてこなかったという負い目がありましたので、家族会結成を是非やらなければならないと言う事で、その会に馳せ参じました。

それから救出運動が始まって、親父は良く私に言ってました、「すまんね」
自分が鹿児島にいて、晩年体が弱くなって東京に出て来られなくて、国民大集会も第1回目第2回目くらいまでは元気な声で張り上げてたんですけども、それ以降ちょっと足腰が弱くなって、ちょっと出て行けなくなったもんで、私と姉が大集会に出かけていました。
その時によく電話をした時にも良く「すまんね」と。
私は姉の為に、るみ姉のために自分はやると思ってるんで、別に親父に礼を言われるためにやってる訳じゃないんで、それで何にも言わなかったんですけど。
親父としては自分が救出運動が出来ない身体になっていると言う、その思いがあって、私にお礼を言ってたんじゃないかと思います。
多分、長女のフミ子にもそうやってお礼を言ってると思います。
うちのお袋もたまにこの頃お礼を言ってるんですが。
あんまりお礼を言われると後が無いのかな?と(笑い声)心配してるんですけども。
なるべく早く取り戻さなければいけない、と思っています。

2002年9月17日、まぁ、ああいう発表があったんですけども。
皆さん、これです。(ハングルが書かれたA4版の白い紙を二枚掲げる。)
北朝鮮の赤十字が日本の赤十字に送ってきた、死亡と生存の紙2枚だけです。
これもおそらく北朝鮮で日本の外務省の人に渡された物と同じ物だと思う。
この2枚だけで「5人生存・8人死亡・2人未入国」ということを知らせられた外務省は、我々に断定的に「死んでる」なんて言ったんです。

この二枚。
何の調査もしない。
我々は一瞬信じかけてしまいました。
2日間は本当に私は、道を歩いていても涙が出てしまいました。
なぜなら、弱虫だった姉の事を思いまして、その姉があんな北朝鮮に無理やり連れて行かれて、どんなに悲しい思いをして、どんなに辛い思い・怖い思いをして死んでいったんだろうと思うと、可哀想で仕方が無い。
その時は力が無かったんですけども。

外務省の、まぁ蓮池さんや横田さんたちが根本公使というロンドン公使を捕まえて「確認したのか?」と聞いたら「確認してない」と。
それから、私たちは怒りに変わっていきました。
「なんだそれは?あんだけ断定的に言ったのに。確認の上にも確認をしてお知らせすると言ったのに、全く確認をしないで死亡と言ったのか?」
それから戦う気力が湧いてきました。
もう本当にその2日間は何もする気がなくて、鹿児島へ帰って親父の顔見て何も言えなかったです。
親父は、さっき言ったみたいに「るみ子は死んどらん」と言っておりましたが。
やっぱり私は気力が萎えておりましたが。
その根本公使を捕まえて確認をしていないと言う事で、もう一度戦う気力を取り戻しました。

で、その9月18日に鹿児島に帰ってきた時は、親父はマスクまでは行ってないんです。
まだビニールのパイプみたいのを鼻につけていたんです。
あちらにいらしゃっる木村さん達が、姉の中学校の同級生なんですけども、木村さん達が親父を見舞ったのは9月の初めでしたっけ?(演台の横に座っている木村さんたちの方を見る)
9・17のちょっと前で、その時は器具も何にも着けないで、ベットに座った親父と木村さんたちとお袋が元気に写ってる写真があった。
それが一週間か10日くらい経ったら(器具を)つけてた。
それを見て私もちょっとびっくりしたんですけど。
先生の話を聞くと確かに老人性の肺がんですから、「いつまで持ちますか?」と聞いたら「半年でしょう」というから次の正月までは持つかな?と思ってたんです。
ところが、10月になって厳しいと言う事を聞きまして、急遽10月の8日に帰ることになりました。

2002年の10月7日になってブルーリボン運動が始まったんです。
で、その7日のブルーリボン運動が地方議会の会・東京の会の集会があって、その場で発表されたんですが。
その次の日に私は鹿児島へ帰ったので、早速これはブルーリボン運動、その時はブルーのものだったら何でも身に着けようという事でそういう思いで。
これとか(右手首に着けた幅1センチほどのひも状のブレスレットのような物を指差す)それで(テニスの時に手首につける)汗取り、あれなんて言うんでしたっけ?
何とかバンド、(会場より「リストバンド」の声)リストバンドでしたっけ?
リストバンドを買って親父にすると血が通わなくなって、弱いやつなんですけど、それでも手が腫れてしまいました。
それでこちらの方を買って(ひも状のブレスレットのような物)を親父に着けて私も着けて、それ以来離れられないんですけど。

とにかくなぜこれを着けたかというと、10月に帰った時の親父の姿を見て非常に弱ったんです。
9月の半ばに見た、そして後半年と言ってたその気持ちからすると最初に見た親父の姿が、10月の8日に帰った時の姿もうマスクをつけてて、皆さん(ビデオを)ご覧になったと思うんですけど、あれに近い弱りようだったのでもうびっくりしまして。
もう一度気力を持たせなきゃと、だから親父にブルーリボン運動、これはるみ姉を救出するためのシンボルだからと言って、これを着けさせたんですけど。
それでもやはり一回消えた気力は、もう直らなかったんでしょうね。

あのビデオも実は親父の気力を呼び戻そうと、私が親父に向って「るみ子に呼びかけろ!」って言ったんです。
そうすればもう一度気力を取り戻して、もう一回持ち直すかな?と思ったんですが。
ビデオ向けたら、姉に対する「頑張れ」と言う呼びかけだけじゃなくて、「帰って来い」と言うだけじゃなくて「もうオレはこういう状態だから迎えに行けん」という、弱気な言葉を言い始めたのですぐ止めました。
それが結局、なんというか、最後の姿になったんですけれども。

あの姿で一番最後、姉が聞いた遺言みたいな「結婚を許す」。
その前だと私は思うんですけども、私が一人でいた時に、突然うわ言のようにさっきの「修一君とるみ子が一緒にいる」というような事も言ってたんですけども、同じような事、日本刀がなんとかかんとかというような事を言ってました。
「日本刀は魔剣で、美しい」というようなことも「日本は強い」と言うようなことも言い始めまして。
「俺は日本を信じる」そして私にも「お前も日本を信じろ」と。
それまでの親父がそんなことを言うなんて、全く考えていなかったので私にはちょっと分からなかった。
ただ目は私のほうを向いておりましたけども、果たしてそれが私に言ったのか、それとも幻影みたいな姉に対して言ったのかは、今でもちょっと分かりません。
でも「日本を信じろ、日本が助けてくれる」それを私は姉に言いたかった、のではないか?と思っています。

今、小泉さんも先日の・・・昨日もそうですけど、小泉さんは実務者協議から帰ってきて「努力の跡がうかがえる」・・・冗談じゃないと。(笑い声)
あれを聞いて非常に小泉さんではだめだ。
まぁ、5月22日の段階で言ってしまいましたけども、あれを聞いてもうだめなんだなぁと、そういう思いでいました。
ましてや、昨日、めぐみちゃんの遺骨が別人であると分かっても 小泉さんは「対話はまだまだ続けなきゃいけない」と。

ひとつ腹が立ったのは、「被害者家族のためにも・・・」(うんうんと、うなずく気配)
私たちはそこで私たちの名前を使って欲しくなかったです。
我々が望んでいるのは経済制裁してでも国家として国民を助けるその意思を見せろと言ってるのに、「被害者家族の為にも交渉の窓口は空けておかなければいけない」
私たちは経済制裁をして、交渉の窓口がとざしても別に構いません。
(このあたりから声のトーンが少し上がる)この日本の姿勢が被害者を全員、一番早く取り戻す道だと信じているからです。

なぜなら2002年の9月17日、あれだってアメリカの圧力があったから、小泉訪朝を金正日が受け入れたんです。
圧力がなければ本当の事を言わない国なんです。
本当にそれまで食糧支援なんかやってて、でっち上げだでっち上げだと言い続け、5年半たってアメリカの圧力があってようやく認める結果になった。
今、死んだと言われている人間を生き返らせるためには、もっと大きなエネルギーが要るし、もっと強い圧力がいります。
ですから死んだと言われている人間だからこそ、日本が圧力をかけて向こうに白状させる。
日本が追求して白状させていくと言う姿勢を見せていかなければならないと思っています。

みなさん、やっぱり怖いと思います。
でもあの国を怖がっていたら、私たちはこのままずっとあの国を怖がって貢いでいかなければならない。
末代までずっと貢いでいかなければならない。
中国に貢いでいかなければならない。
こんな国だったら、アメリカの52番目の州になれば良いんです。

私たちは、姉は日本が嫌いになりそうだと言ってますが、私は日本は好きです。
海外から見た日本と言うのはすごく美しいですし、天皇家の行事を見ても日本の文化と言うのは素晴らしいものがある。
私はそう思ってますし、その文化を守らなきゃいけないし、この日本と言う国を守らなきゃならないと思ってますので、中国の属国にもなりたくありませんし、アメリカの52番目の州になりたくもない。
日本と言う国は日本で守らなければならない。
自由と平和は授かるものではない。
自分たちで勝ち取っていかなければならないものだ。(大きな拍手)
ぜひ皆さんも周りの人にそういうふうに言いながら、経済制裁この発動、これに対して大きな声を上げていって下さい。

後ほどご案内しますが、○○さんという女性がネットでブルーのハガキ運動というのをやっておられます。(ハガキの束を掲げて見せる)
後ほどご案内いたします。
今日はありがとうございました。
(大きな拍手)
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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(5)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
3.同級生からのエピソード

松元みどりさん(るみ子さんの中学・高校時代の同級生) のお話 


(司会者の「るみ子さんの同窓生が鹿児島から駆けつけています」の声を受けて)
私は千葉に住んでおります。
私も最初は小泉さん好きでしたが、だんだん嫌いになりそうです。(拍手)
え~っと、ちょっと読みます。(用意したメモを取り出す)
あがってしまうんで・・・

私はるみ子さんと中学・高校が一緒で、仲良しグループでした。
大きな目が印象的な誠実な女性です。
もう、35年も前のことなのでエピソードなど思い出せませんが、表情やしぐさははっきり覚えています。
ここにしわを寄せて(指で眉間を指差す)はにかむように笑うんですね。
それとか卓球してる時の、切れの良い動きなんかを良く思い出すんですが。
私もいなくなって吹上浜でローラー作戦している時にたまたま行って、「何事が起こったのか?」と思って、夕方のニュースでるみ子さんがいなくなったことを・・・偶然にもその場面を見たんです。

私の中でもそのときからが、ある戦いが始まったような気がして。
まぁ、それからは北朝鮮に拉致された事が分かるまでは何回も同じ夢を見たり。
時としてそうやって思い出しては来たんですが、やはり、絶対諦めてはいけないし、忘れてもいけないので。
なんていうか、皆さんにやっぱりずっとずっと応援してもらって、盛り上げてもらって、空港にお迎えに行くということを頭に浮かべながら、今ずっとひとりでも頑張ろうと思っております。

あと、るみ子さんのお母さんが「心から笑った事がない」という事を聞いた時に、これは絶対に会わせて上げなくちゃいけないな、とそう思いました。
どうぞ、皆さん力を貸してください。
宜しくお願いします(拍手)


 <木村宏次郎さん(るみ子さんの同級生)のお話  /b>

こんばんは、皆さん。
今日はお急がしい中をありがとうございます。
今日は裏方としてきたつもりなんですが、代表でみどりさんがですね。
お話しするちゅう事で安心したんですが、急にしゃべってくれと言う事で(笑い声)飛び飛びになりますけども、宜しくお願いします。(拍手)

そもそも増元家の方とはですね、お父さんを先に知っててですね。
まず鹿児島市内の国道沿いの八百屋さんにですね。
営林署に勤めてらっしゃったもんですから、賄いの野菜を買いに行くとかですね。
そしてまぁ、電車道を挟んで向かい側が私の家でしてね。
それが、その威勢の良い親父さんでですね。
まぁ家族が怖がっていたと言うかそのくらい、一瞬私は「どこかのやくざかな?」と(笑い声)思ってですね。
自分では側に付きたくない位。
だけど歩道を通る方々へ皆さん笑顔で挨拶してるから、「この人は絶対やくざでは無いな」と思って見てたんですけど。

それで北朝鮮に拉致されて、吹上浜の報道のなされてですね。
「あら?この親父は、るみ子さんの親父さんやったとか?」と言うくらいびっくりしてですね。
何かしないといかんなぁ、ちゅう事でですね。
当初は北朝鮮に拉致されたと言うのが分かんなかったもんですから。
るみ子さんがああして駆け落ちするような女性では無いんです。
とっても優しいですね。
皆に好かれる女性です。

その後、ちょいちょい同窓会を私なんかを良くしてたもんですから、もっと早く力になれたら良かったんですけども。
ここ5~6年ですかね。
募金も少し、1万2万と皆から集めてですね。
初めて実家の方へ持っていったら、ものすごくお父さんが喜ばれてですね。
「やっと清水中のクラスの同級生が動き出してくれやった」と言ってですね、喜んでくださいましてですね。
同窓会をやるたび、募金を持っていきまして「活動に使ってください」と、そのように動いてまして。

それといなくなる前、病院にですね。
また同窓会があったもんだから、実家の方にお電話したらなかなか電話出ないもんですから。
夜遅く電話したらお母様がでてらして 「ちょっと、他の人には入院している事黙っていてくれ」と言うんで。
私は「クラスメートだけは見舞いに行ってもいいでしょうか?」ちゅう事で許可を貰ってですね。

入院して10日目くらいだったですかね。
女性3人男性2人でですね、病院に行きまして。
「多分、検査入院だろうな?」と思いきやったんですね。
個室を借りてらっしゃって、ベッドに横たわってステテコ一枚でお昼寝してらっしゃって、お母様はソファで寝てらっしゃって。
「こうしてまた募金が集まったから、家族の為に使ってください」と持って行きました。

最後までちょっと悲しいと言うか。
るみ子さんのお母さんと言う人はですね、本当こう、あんまし表情をですね。
あんまり笑ったりとかなさらない方なんですけども、最初は機嫌が悪そうな顔してらっしゃってですね。
最後にですね、お父様にお母様が「ほら、るみ子が3人来たよ」とですね、励ますんですね。
そしてお母様が3人に向って「ありがとうね」というてですね、泣かれましてですね。
とっても、その時私辛かったです。
それからすぐ、悪くなられてですね。
まさか?って言うくらい・・・危ない・・・すぐ亡くなってしまわれて。

るみ子さんとはクラスが一緒で、みどりさんともクラスが一緒で、クラスメートであったもんですから。
私の横にるみ子さんがいらっしゃっいましてですね。
常にこう、でしゃばりでもない、勉強も出来てらっしゃっいましたからね。
私なんか後ろから数えた方が早かったんですけども、勉強も良くしてらっしゃった。
卓球をですね、頑張ってらっしゃって。

照明君がサッカーが好きで、私がサッカー部にいたもんですから「いつも邪魔しに来る」と言ってですね、るみ子さんに言っとったんですね。
「邪魔しに来て迷惑だ」と冗談ぽく言ってたんですね。
私が可愛がっていた照明君なもんだから、「宜しくお願いします」て言うような事でですね。
たまに給食を貰ったりですね。(笑い声)
今思えば「照明君を宜しく」ということだったんじゃないかな?と思ってですね。
餌で釣られたかな?と。(笑い声)
るみ子さんとはわりに仲良くしてました。

私たちは今回、当初中学の3年6組の救う会を作りまして。
その後、今度は去年中学校同級生がですね、35年ぶりの同窓会をしましてですね。
全国から100人くらい集まって。
その時私が実行委員長をしまして、私としては、るみ子さんの事がまた忘れつつあるんじゃないかな?始まる前に皆にお断りしてですね。
今日は始まる前に増元るみ子さんの講演をしていただくということでお姉さん・照明君をお呼びしてですね。
皆に協力して欲しいとお願いしまして。

それからだんだんと鹿児島の方も盛り上がってきまして。
今年の10月はですね、小学校・中学校・高校の市川修一さんも一緒にですね。
うちの学校も、一本化の救う会を作ろうちゅう事で。
そもそも私たち清水中がですね、ものすごく人数が多いもんですからね。
修一さんの所は地方になるもんですから、人が皆さん就職して地元に残ってらっしゃらないんですよね。
それでいっつも私たちがメインでいろいろ活動してまして、まぁ、一緒には活動してましたけど。

一緒に拉致されているのに同じあれを作ってあげなきゃいかんなぁ、ちゅうことで、私が高校の方とか、修一さんの方にも話をしてですね。
なるべく一本化にして、家族と一心同体となってですね。
なかなか問題が解決しないもんですから、一本化にして活動するちゅう事が決まりまして。
その時は、市川さんご夫婦が喜ばれてですね。
自分たちは人数が少ないから、こちらは活動してくれる人が少ないと。
だけど「皆で一心同体にやってくれれば本当に嬉しいと」発会式でおっしゃってくださって。
これからも一生懸命頑張っていきますけども。
まだしばらくは続くと思いますけど、未帰還者を奪還するまで、宜しくお願いします。


假屋達郎(たつろう)さん(るみ子さんの小学校・中学校同級生)のお話 

どうも、皆様はじめまして。
小学校と中学校が同級生ということで、中学校の方で活動していましたけども。
小学校の方が100年以上の歴史があるという事で、関心を持つより行動してもらわないといけないという事で、小学校の方も立ち上げました。

小学校はですね、昭和35年に入学です。
1960年ですね。
まだ、日本が貧乏・貧乏してる頃です。
私たちが最後の日本の貧しいのを知ってるんじゃないかなぁ?と、いうような環境で育ちました。
西郷さんの墓のすぐ近くに、大龍小学校がありました。
西郷さんもそこで学んだと言うことを、先生から西郷さんの幼い頃の話を良く聞かされて、「西郷さんも貧しかったんだよ、皆頑張れよ」と言うような教育を増元さんも受けたんじゃないかなぁと思います。

いろんなエピソードをと思って、クラスの人に同じ学年の人にいろいろ聞いて回ったんですけど、もう何十年も経っているもんですから、文集とか写真がなかなか見つからないで。
やっと見つかりまして、入学式のを引き伸ばして来てありますけども。(大きく伸ばしたモノクロの集合写真を掲げる)
まぁみんな和服ですよね、昭和35年の入学式ですから。
お母さんがいらっしゃらないちゅう事で、昨日お母さんにもお見せしたんですけど、鹿児島で。
お父さんが入学式に来られてるという事です。

こちらの方に、2年の時ですね。(もう一枚の集合写真を掲げる)
一クラス50人くらいいる、大龍小学校はマンモス学校で8クラスですから、400名一学年にいる。
全体では2千人から3千人いると言う学校でした。
まだ脱脂粉乳で給食を(小さな笑い声)ね、ああいう給食を、牛乳じゃなくて。
何故日本の貧しいのを知ってるのか?と言いますと、タダの本を貰った事が無いのが私なんかの年代なんです。
5年生になると4年生まで、6年生になると5年生までという時代ですね。

彼女も拉致という形になりましたけども、やはり気丈にですね。
厳しい中でも生きられる体力を持ってるんじゃないなかぁ、と私自身こう思いましてですね。
なんかそれをちょっとお話しした方がいいかなぁ、と。
今の昭和30年から産まれた後の子供たちとはまた違う、ちょっと教育を受けた子供で。
今、北朝鮮に拉致されてますけども、気丈に生きているんだと言う気持ちを自分は持ちます。

あともう一枚6年生の時のがあります。(別の写真を掲げる)
これが多賀山と言いまして桜島が見えまして、東郷平八郎の銅像があるんです。
そこへ遠足に行くんですね。
歩いて遠足に行くと、城山か、城山はあの西郷さんが切腹した所があります。
それの上に山があります。
そこに遠足にいく。
東郷平八郎の多賀山へ遠足へ行く。
そこで卒業の記念写真を撮ったのが、この写真です。

貴重な文集などもですね。
やっとかっと見つかったのでちょっと読み上げます。
将来何になりたいか?という事ですね。
昨日私は始めて実家の方にお邪魔したんですけども、琴がありましたですね。
それで「琴の先生になりたい」、て書いてあります。
お母さんがされていたので、「ああ、琴の先生になりたいんだなぁ」と、そういう気持ちです。

文集で文をいろいろ書くんですけども。
私たちの卒業する頃も、面白い人間の方が人気があるんですよね。
それはどう言う事かと言うと、こう書く人もいましたね。
「僕は大きな会社の平社員になりたい」(大きな笑い声)
こういう風に書くと「あぁすごいなぁ」、と「あぁいい文集だなぁ」と子供心に思ったんです。
それを頭において聞いてください。

「池之上町58 増元るみ子 私の夢は世界で有名なロケットに乗って、宇宙に行って、帰りに宇宙のタコを日本に連れて来たい」(笑い声)
こういう風に書いてありますね。
やっぱりこういう風にユーモラスのある、主張するところは主張して、気丈のある、増元るみ子さんでした。

北朝鮮でもこの過酷な中で、絶対絶対生きているという確信をしております。
皆様どうかご支援ください。(大きな拍手)
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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(6)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
 ~西岡力副会長のお話1 ~

西岡でございます。
今日、先ほどここで記者会見をしまして、家族会と救う会としてですね。
11月25日に一度、北朝鮮が今回出してきた出してきた情報の疑問点・矛盾点というのを指摘したんですが。
そのPart2というのを作りまして、それを記者会見をする前の今日の午後4時に政府に提出しまして、午後5時に記者会見をして公開をいたしました。

ここで何回も言ってるんですけども。
基本的に北朝鮮は、日本政府が認定していてまだ帰って来られない拉致被害者10人について、死亡したとか未入国と言ってますけども。
それを証明できる物証をひとつも提供してないんです。
10人についても、ひとつも無いんです。
「そして何も無くなった」という感じです。
今回の結果がそうなった訳なんです。

その事はすでに明らかなんですが、それにもう一押ししようと思って。
実は帰国した5人の方々から、かなりいろんな事を、家族会・救う会はずっと聞いておりまして。
そのことを事前に公開すると、北朝鮮がそれに会わせて情報を修正してきたりする事がありますので。
実際めぐみさんの死亡時期については、あきらかに毎日新聞が、日本政府が北朝鮮にぶつける前に書いてしまったという事のために、1年北朝鮮がずらしてきたという経緯もありましたので。
大変情報の扱いを慎重にしてきたんですが。

今回の実務者協議でかなりのやり取りがあって、北朝鮮が知る事になった情報についてはもう隠しておく意味もありませんし。
また北朝鮮が絶対に修正することが出来ない決定的な矛盾については、今明らかにしたほうがいいだろうと言うことがありまして。
まだ明らかにしない方が良いだろうと思ってる部分もあるんですが、今日は合計8点、話を(政府に)持っていきました。

今日、飯塚さんがここに来てらしゃいますので、田口八重子さんについてですね。
大きな点があるんですけど、それは最後にご挨拶いただく時に飯塚さんの方から話してもらうので、私はここでは増元るみ子さんについて、今日発表した物について、皆さんにご報告します。

とにかく!
何回も言いますけども、死亡の物証は無いんです!
10人についてひとつも無いという事は、生きてるということなんです。
10人いるんですからね、一人くらい物証があっても良いじゃないですか、変な話ですけど。
無いんですよ。
めぐみさんの遺骨と称するものだけが最後に残ってたんです。
10人のうち9人は(物証が)無くなっちゃって、死亡診断書が捏造と認めましたからね。
一個(物証が)残ってたんですけど、それも二人分(骨が)入ってたと、両方(めぐみさんとは)違ってたと。
と、言う事ですから(物証が)無いんです。

死亡と言ってるけど、向こうは死亡と思わせたいんですよ。
ここにいる人皆、遺族会にしたいんですよ、家族会じゃなくてね。
遺族会になったら、お葬式をして終わりになっちゃうんですよ。
増元さんも2日間、9月17日のあと、気力がなくなったと言いますけども、遺族会になったら気力なくなっちゃいますよね。
北朝鮮は遺族会を作ろうという事を2年前からずっとやって来てるんですけども、出来ないんですよ。
向こうがしいたのに、出来ないんですよ。
向こうにいるんですよ?人が、向こうが管理してたんです。

10人のうち一人だけ出せないけど9人分(物証が)ある、ってのなら分かります。
半分くらい(物証が)あるってのも分かりますけども。
ひとりも無いんですから。
死んだという証拠が何にも無いんですから。
つまり、昨日までの段階で100点満点のうち、90点分はバッテンだったんです。
ひとり分の10点が残ってて、それも無くなったから0点になったんです。

何かですね。
コンテナがあったりして、今回たくさんの物証が来て、それを一生懸命政府が精査していて、どうなんだろうかなぁ?と、思わされちゃったんですけども。
実は今回、増元るみ子さんについて言えば今回無くなったんです。
増元るみ子さんの死亡診断書というのが2年前出てきたんです。
死んでますという書類だったんです。

その書類は、死んだ日の次の日だったかな?
お医者さんが現場でるみ子さんを診て、心臓麻痺で死んだと書いてる。
死んだ日と次の日付けで書いてあります。
つまり検死したお医者さんが、遺体の脈を取って死にましたって、その場でサインして作った死亡診断書な訳です。

日本でもそうですよね?
死亡診断書を役所に持っていくと、死亡手続きが受け付けてくれるんですよ。
遺体を持っていかなくても良いんですよね?
社会的にはお医者さんのサインがある死亡診断書があれば、死亡ということになって保険が下りたり戸籍へ死亡届が出されたりするんですよ。

遺体を持っていかなくて良いんですよ。
それが医者というものなんですよ。
その死亡診断書を、北朝鮮は2年前8枚出したんです。
るみ子さんのも入ってたわけです。

ところが今回それが初めから無かったんだと。
だから、言われて作ったんだと言ってる。
2年前になんで昔の物を作るのか?ってことですよ。
2年前に慌ててコピーをとるのを失敗したというんなら、分かりますけども。
そうじゃなくて作ったと。
元々無かったんです。
検死した医者の診断書なるものも捏造だったんです。

これは遺骨の捏造も酷いですけど、もっと酷いと僕は思ってる。
医者がちゃんとサインをしてるんですからね。
病院のハンコを押してある。
8枚出てきたんですから。
全員について捏造だったんです。
死亡診断書を全員について捏造する。

つまり、昨日(遺骨の鑑定結果が出て)日本中が怒りましたけど、実は実務者協議終わって薮中さんが帰ってきたときに、同じくらい怒っても良かったわけです。
死亡診断書が捏造だったというのが分かったのは、あの日だったんですから。
増元さんたちにしてみれば、あの日に死亡の物証が無くなった日だったんです。
コンテナが帰ってきた日と言うのは、実は増元るみ子さんたちの物証がすべて無くなった日なんです。
何にも無いんです。
北朝鮮が認めたんです。

そして逆に、蓮池祐木子さんは招待所で、拉致されたあと結婚する前は、男同士・女同士一緒に2人のペアでいさせられたんです。
蓮池さんと地村さんは一緒だったんです。
で、めぐみさんは曽我さんと一緒だったんです。
そして祐木子さんがるみ子さんと一緒だったんです。
それから富貴恵さんが田口さんと一緒だったんです。
だから一緒にまず暮らしていて、さっきスイカのお漬物を作ったとか、歌を歌ったとか。

一緒の招待所にいたわけです。
そこで、夜中に静かになった時だと思いますよね。
「るみちゃんは、どこから上陸したの?どこから拉致されてきたの?」と聞くわけですよね?
当然聞きますよね?
そしてその時に、「クタクタになって、上陸したときは自分でも歩けなくて、工作員に両手を持ってもらったんだ」と言う話を、るみ子さんは祐木子さんに話したわけですよ。

でその時に、上陸地点は「南浦(なんぽ)」だと言ってるわけです。
北朝鮮は海州(へじゅ)だと言ってるんですけどね。
南浦だと(るみ子さん)本人は言ってるのを、祐木子さんが聞いてるわけです。
ところが今回も(北朝鮮は)海州だと言ってるんです。

もうひとつるみ子さんについて言うと、北朝鮮は今回もですね。
さっき照明さんもちょっと言いましたけど、79年の7月20日に市川さんと結婚したと言ってるんです。
79年の7月20日に。
しかし79年の10月まで、同じ招待所で祐木子さんといたんです。

そこに市川さん、いなかったんです。
女は女同士の招待所なんです。
そして10月になってから祐木子さんは、薫さんと結婚したんです。
で、そこを出て行ったんです。

それまで一緒に暮らしたんですから、(他人から)聞いた話じゃないんです。
全然違ってるわけです。
北朝鮮は前回(結婚したのは)4月って言ったけど、今度は7月だと変えたんですけど、10月まで独身だったと。
「私と一緒に同じ家に暮らしてましたよ」と、言う意味なんです。
祐木子さんは、(他人から)聞いたとかそんな話じゃなくて、一緒に暮らしてたから分かるんです。

スイカの話なんて誰だって分からないですよね。
私だってスイカの皮、白いなんて分かりませんよね。
そういうことを知ってる人が言ってる話で。
それは嘘をついてると言う事です。
死亡診断書まで捏造する国ですから、嘘つくんですね。

で、もうひとつ今日僕はちゃんと初めて聞いたんですけど。
だから今日のペーパーには書けなかったんですけども。
平野さんが先ほど言ったように、招待所の中のおばさん・家政婦の人が、「祐木子さんのことを知ってる日本人がいたよ」と。
「その人が子供がいたよ」と、いう話をした訳ですね。

知ってるという場合に、祐木子さんはるみ子さんとしか一緒になってなくて、その後薫さんと一緒になってる訳ですから。
薫さんと一緒にいる時に、(おばさんから)話を聞いてるんだから、それ以外の人じゃなくちゃいけないわけで。
そうすると一緒にいた人といったら、るみ子さんしかいないだろうと。
北朝鮮は子供はいないと言ってるけど、子供はいたという話を聞いてると。

招待所のおばさんたちっていうのは、お互いいろんな招待所で、拉致された人たちの世話をする人たちは知ってるわけですね。
金賢姫の招待所のおばさんが「大工仕事の上手な日本人の夫婦がいた」と言ってますよね?
あれは地村さんたちの事だったわけです。
そういうふうにお互いを知ってるわけ、別の話が出てきてるわけですから、子供が生まれたと言うのは分かるわけなんです。
と言う事は嘘なんです。

そして何よりも安明進さんという、めぐみさんを目撃したと言う亡命工作員の人が、88年から92年まで、「るみ子さんを見た」と言ってるんです。
「市川さんも同じところにいた」と言ってるんです。
るみ子さんについては、当初は安明進さんは記憶がないといってたんですけども。
実は日本の警察には、1998年の段階で「るみ子さんに良く似た人を見てました」と言ってるんです。

だけど、市川さんみたいにタバコ貰ったり話をしてないから、めぐみさんみたいに・・・めぐみさん独身に見えたんですって、一番可愛かったんですって。
るみ子さんは結婚しておばさんタイプだったんだそうです。(笑い声)
(増元さんたちのほうへ向って、頭を下げる)
それであんまりじろじろ見てなかった。
年がちょっと違いますから、「申し訳ないけど」と後で言ってましたけど。

めぐみさんの事はじろじろ見て、セクハラ紛いのからかいをやったりしたそうなんです。
昼間なのに日本語で「こんばんは」と話しかけたりした、そういってましたけど。
こんどはこっちが、すみません。(横田夫妻の方に向って頭を下げる)(笑い声)
そう聞いてるんですけど、だから顔を覚えていたんだと。
るみ子さんの事は似た人がいたなと思ってた。
だけどこの間、全身の写ってる写真を見てもらったら、「足に見覚えがある、ちょっと太かった」と。
で、めぐみさんと良く一緒に歩いていた人のひとりだと。

安さんの記憶力と言うのは大変な物がありますから、つまり絶対に生きているんですよ。
反対に市川さんが安明進に見られていて、安明進の証言は嘘だとしなくてはいけないから、死んだとしてるんです。
市川さんとるみ子さんがタラップをおりてきて、安明進が下にいて、「あぁ、タバコありがとう」とかってなっちゃうから。
金正日政治軍事大学があると、そこがテロリスト養成学校だと。
拉致を命令したのは金正日だってことが全部ばれちゃうんです。

麻薬をやってると。
日本のやくざを呼んで、技術指導をして覚せい剤を作ったとかですね。
全部本当だということになっちゃうわけです、あの本に書いてある事が。
それは認められないから、金正日の責任に関する部分は絶対認められないから、安明進さんが見たと言ってる人や、あとで飯塚さんが説明されると思いますけど、金賢姫の証言は絶対本当だと言えないんです。

それは北朝鮮と言う独裁国家が、絶対に認められない一線なんです。
拉致は認められるけど、独裁者の責任は認められないんです。
それを我々は認めさせなくちゃいけない。
いよいよ戦いは本丸に向ってまして。
死亡か生存かと言うことについては勝ったんですね。
この2年間の論争で、北朝鮮が出して来た物証なる物や証明書なる物は、全部捏造だと証明しきったんです。

何にもないんですからね。
あとは彼らが口で言ってる事だけですから。
死にましたとかね、事故がありましたとか。
私は医者ですとかね、私は目撃しましたとか。
病院のハンコだって、医者のサインのある書類まで捏造する国で。
口で言ってる事なんて信用できるはずがないじゃありませんか。

そういうところまで、しかし私たちは今この2年間で追い詰める事が出来てる。
それは日本全体の力だと思いますけど。
前回の松木さんの骨を鑑定してくださった、橋本先生と言う骨相学の専門家がいたり。
今回は帝京大学の最高水準の技術で、高熱で焼いてあってもミトコンドリアが出てきて、DNA鑑定が出来て。
もうはっきりとふたりの物があって、偽物だと分かったわけです。

そして私も一助としてですね、死亡診断書をこうやってかざして見たらば、ハンコの位置が同じだとか・・・それだけ私見つけたんですけども。(笑い声と拍手)
そういう風に言って皆で、そしてこういう記者会見をして、皆で情報を出したらば、めぐみさんの写真を出したら、今度は影がおかしいと専門家が言ってきてくれて。

僕らじゃないですよね?
専門家が色々言ってきてくれて。
言論の自由がある国は弱いように見えて強いんです。
独裁国家はひとりの決済がないと全部動かない。

何でこんな嘘をつくのか?ってことですけど。
つまり、金正日の責任は認められないんですよ、国益とか自分の国の立場よりも。
「金正日の責任は絶対に認める」というペーパーを書いたら、そこで山送りか処刑ですから。
実務者がそういう計画書を書けないわけなんです。

金正日がサインしないと全ての事が動かないわけですけども。
そしたらば金正日政治軍事大学にいて、金正日の子供のうちの一人に日本語の教師をやってる可能性が大変高いめぐみさんの存在を出したらば、金正日の私生活が分かっちゃうと。
そしたらば死んだと言う事にしましょうと。
一度「よし、死んだという事にしよう」と言うサインをしたら、死んだ事になっちゃう。

で、「日本の調査団が来たら適当に言っておけ」と。
病院に行って「こういう女性が入院して死んだんだぞ」と言ったら、しょうがないから、死亡診断書作らなきゃならないんです。
死亡台帳も作らなきゃならないんです。
紙がないからしょうがないから表紙を書き換えたりするわけです。

前回実はですね、死亡診断書をどうやって取ってきたかといいますと、斎木さんが。
外務省の斎木審議官が団長で、一番最後の日に机を叩いて、「死亡診断書くらいあるだろう?」と。
「口で言ったりしてる事だけでは駄目だ」と、「遺骨が全部流れているなら持って来い!」って言ったんだそうです。
そしたら2時間後に持って来たんです。(笑い声)

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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(7)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
~ 西岡会長のお話2~

多分それは、2時間後って言う事は、まず最初に・・・あの時はまだ日本を騙して金取ろうと思ってたわけですから。
しかし「斎木が頑張っている」と、「どうしましょうか?」と金正日に報告しなくちゃいけない。
最初は決済で死亡診断書作る事にはなって無かったのに、なんか電話通じたんじゃないですか?
で「作れ!」って言ったんです。
「作れ!」って言ったら2時間でつくらなきゃならないんです。

しかし、拉致された日本人の情報は一般の病院に持って行っちゃいけないんです。
これはまた別の決裁があるわけです。
金正日の決済があるわけです。
簡単に秘密を持って行っちゃいけないんです。
そういう中で695病院というのは、金正日政治軍事大学の中にある病院ですから、そこを担当してる工作機関の人間が「あの医者なら頼める」と。

だいたい車で30分で行けますからね。
まず30分くらいで金正日の決裁にかかって、車で30分くらいで行って、そこで20分くらいで捏造して持って来たと。
だから、17年間に渡って死んだ人の死亡診断書が、同じ書式で、同じゴム印が押してあって、生年月日が間違ってたりするんですよ。

しょうがないですよ、そんな。
日本がどう思うか?国際社会に通じるか?これが嘘か本当か?というよりも、金正日の決済があるかどうか?
決済どおりにやったかどうかが問題なんですから。
決済どおりにやったかやらないかの方が、第一なんですから。

週末になるとですね、総話という時間がある。
自己批判と相互批判をするわけです。
それぞれが職場なら職場、職場に行ってない人なら、地域で所属している班みたいなのがあってですね。
金正日同志の指導に、この一週間自分がどう従ってきたのかどうか?まず自己批判をして。
自己批判が終わると今度は他者批判をさせられるわけです。

そういう中で拉致は認めると・・・アメリカの圧力で認めなきゃいけないんだけれども・・・しかし金正日の責任だけは回避するような認め方をしないとですね。
「田口八重子さんを帰しましょう」なんて言ってしまった、と自己批判をしなちゃいけない。
「田口八重子さんを帰しましょうと言った私は、思想性が低かった、主体思想の学習が足りなかった」と。

なぜならば「指導者同志の責任が、かかって来てしまうような事を言ってしまった」と、言う事になるんです。
そういう世界で生まれてから死ぬまで生きる人たちにとっては、国際社会に通用する真実を出す事よりも、一週間後の相互批判の時に批判されないように行動する事が、優先順位が高いんです。
だからこんなめちゃくちゃが出るわけです。

しかし、まだまだ日本は分かってないんですよね?
あれは国だと思ってる。
国なら嘘はつかないだろうと思ってません?
国じゃないんだ「一味だ」くらい。(笑い声)
「金正日一味」だ、くらい。(笑い声)

で、それから取り戻すためにはどうすればいいか?
しかし、我々は国家ですからね。
言論自由がある民主主義の国ですからね。
情報を貰えば、こうやって分析して公開して、皆で議論して、おかしい所ひとつひとつ指摘すると。
皆が納得して、ここがおかしいじゃないかと。

今やらなきゃいけない事は、めぐみさんの骨が偽物だと分かりましたけど。
国民、皆分かってくれましたけど。
実はめぐみさんだけじゃないって言う事なんです。
るみ子さんについても、無いんですよ。
死亡を証明するものが、今何も無いんです。

今日も支援室に行ってですね「早く政府の評価を出してくれ」と。
なにか「精査する」とか言ってですね、何を精査するのか?良く分からない。
だってるみ子さんについては精査する物はないんですよ?
今回何も来て無いじゃないですか。
遺品も無くて遺骨も無いでしょ?
で、死亡診断書が偽物だったんだから、何を精査するのか?

北朝鮮が嘘をついてる事が、だんだん、どんどん分かっていくだけで。
そりゃやった方がいいですよ?
カルテとか分析した方が良いけれど、もう今の段階で「嘘つきだ」と何故言わないのか?
そしてその嘘の背景を分析して欲しいわけです。
金正日の責任を認められないと言う事から来てる訳です。

そうだとすればどうするか?と言ったらば、金正日を脅すしか、しょうがないんですよ。
めぐみさんたちやるみ子さんたちを帰せば自分の責任になる、と。
しかし、帰さなければもっと酷い事があなたに行きますよ、と。
国家とか北朝鮮住民じゃなくてですね、彼本人に対して思い知らせる以外ないんです。
自分で決済しなければ、「るみ子は生きてる事にしろ」と出来ないんですから。
それをさせる力は何か?と言ったら、彼がそれをしなければいられないような、圧力をかけるしかないんです。(拍手)

しかし、日本は実はその手段を持ってるんですよ。
まず今絶対にしなければいけない事は、第一段階何でもいいから制裁をかける必要があるんですよ。
拉致を理由にして制裁をかける。
私は食料の輸入禁止がいいと思います。(拍手)
北朝鮮製食料の輸入を禁止する。
北朝鮮は国際社会から食糧の人道支援を受けてるんですよ、食料が足りないと言って。
そういう国から、日本がいくら金持ちだと言っても、食糧を買っていいのか?と。
それは飢餓貿易じゃないか?

普通の人たちが食べられるアサリなどを、何故日本が買うんだ?と。
買わなければそのアサリは北朝鮮の人民の口に入るんですよ。
それを北朝鮮の子供たちが強制労働させられて、採ったのを日本に来てるんですよ。
日本が消費するアサリの50%くらいは北朝鮮製だと言うわけです。
まず原産地表記をちゃんとさせると。

われわれは情報を貰う権利があるわけですから、民主国家ですから。
政府に言ってちゃんと原産地をきちんと書いて欲しいと。
消費者には選ぶ権利があるじゃないですか。
なんかフランスが原爆の実験やった時に、「ワイン飲まない」と言ったキャスターがいたけれども。
このアサリは北朝鮮の国民のお腹に入るべき物だと。

敵は金正日ですから。
彼のお腹に入るトロなんかは、オレ売ったりしたくないけど、アサリは買っちゃいけない。
北朝鮮の人民のお腹に入る物は買うって事は良くない。
我々は食料輸出の方はね、まだ止めなくていいと思うんです。
まぁ、トロなんかは悔しいけれども。
食べ物ない国に食べ物売らないのは、かなり上の段階だと思ってる。
食料の無い国から食べ物買っちゃいけないんです。

そして先ほど増元さんも言いましたけど、実は国際情勢は今我々は有利でして。
アメリカは核問題で、北朝鮮の核を完全に廃棄させるという方針は変わって無いわけです。
しかし北朝鮮は核開発、止めないわけです。
絶対にぶつかるんです。
来年になれば緊張が高まるのも、目に見えてるわけです。

その時国連の安保理事会で、北朝鮮の核問題が10年前と同じように議論されると。
国連の安保理事会で議論されるのは、まず経済制裁です。
日本がまず、何でもいいですから拉致を理由に制裁をかけておいて、国連の議論を迎えると。
日本は今度1月から、国連の非常任理事国に入ったわけです。
国連の中でですね、北朝鮮の制裁決議案を日本が最初に出せばいいんです。

その文章の中に、もちろん核問題も書くと。
テロ国家が核を持つのは絶対反対だと。
検証可能な形で全部見なくちゃいけない。
それと同時に拉致被害者全員を日本と韓国に帰せと。
それを国連決議に書くんです。
その努力を日本は今からすべきなんです。

それは実は前例があるんです。
イラクに対する14415決議というのがありまして、国連安保理の。
これが対イラク戦争の根拠のひとつになったわけです。
その中には大量破壊兵器がイラクがもってる可能性があると言う事も書いてありますけど、もう一つ拉致も書いてあるんです。

イラクはクウェート人を拉致してると、湾岸戦争の時に。
まだ帰さないと。
それも国連決議の理由のひとつなんです。
軍事制裁の理由のひとつになってるんです。
国連は拉致も取り上げてるんです。
前例があるんです。

しかしその時に「経済制裁してください、拉致も入れてください」、と言って「お宅の国は何をしてるの?」と聞かれて「食糧送ってます」と言ったら、どう思うか?
自国が真剣にやってなくて、国際社会に訴えられる事が出来るか?と、言う事です。
しかしアメリカは今真剣に日本人拉致問題にとりくんで、国会で全会一致で北朝鮮人権法を通したんですけども。
その中には日本人拉致と韓国人拉致が書いてあるんです。
法律の中に。

アメリカ人被害者がひとりもいないのに、日本人拉致と韓国人拉致が解決しるまでは、アメリカは北朝鮮に経済援助はしないと書いてあるんです。
そういうアメリカと日本は同盟を結んでるんですから、拉致と核を一緒に解決すると。
北朝鮮はこんな分かりやすい嘘をついたんですからね。
これを英語にして世界中にばら撒いてですね、小泉さんにはワシントンに行ってもらいたいと。

まず、ブッシュ大統領にこんな酷い事されていると。
我が国は制裁をかける覚悟だと。
アメリカも北朝鮮に対して圧力をかけて欲しい。
そして軍事的緊張が高まれば、アメリカは一緒に戦いますよね?と約束をもう一度取って来る。
アメリカももちろん上下両院で、日本人拉致を解決するべきだと法律が通ってるんだから、協力するって言いますよ。

制裁かけたらミサイルが飛んでくると言う人たちは、制裁かけなくったって(ミサイルは)飛んでくるんですよ。(拍手)
北朝鮮が(ミサイルを)持ってる限り飛んでくるかも知れないんですよ。
飛んでくると言うから、お金を出し続けるのか?っていう事ですよね?(会場より「そうだよ」のささやき声)

そうじゃなくて飛んでこないようにするしか、しょうがないんです。
今アメリカが飛んでこないようにしようとしてるんですよ、日本の同盟国、アメリカは。
そして日本も飛んでこないようにする方が良いんですよ。
飛んでこないようにしながら、拉致も解決する方法があるんですよ。

それを何かが起きたら困る。
もうひとつは効かない。
制裁をするとミサイルが飛んでくる、北を刺激する。(会場より「それは無いよなぁ」というささやき声)
でも、もう片一方では効かないと言う。
効かないなら(ミサイル発射は)起こらないはずなのに。
二つの反対論があるんですけども。

ミサイルが飛んでくるとか、北朝鮮が協議に出なくなるとか、関係ないです。
アメリカとの関係を強めて圧力をかけると。
圧力から抜け出したいと思って、話し合いをしたいと向こうが言って来ます。
アメリカが一番良い例で、アメリカはずっと朝鮮戦争以来制裁してるんですよ。
そして今度日本人拉致まで入れちゃったんですよ。

北朝鮮の要求は、「アメリカと一対一で協議をしたい」なんです。
でも、アメリカの方は嫌だと言ってる。
あいつ信用できないから、一対一では会わないと。
6人なら会うといって6者協議やってるわけですよ。
ブッシュ大統領は金正日は嘘つきだから会わないと、最初から分かってるんですよ。

アメリカが一番厳しいことを言うから、厳しい事をやめてくれという交渉を、北がしたいしたいと言ってるんです。
そのアメリカと一緒に厳しい事をすれば、北の方から交渉をしてくれと言うんですよ。
してくるに決まってるんですよ。
それを交渉が途切れちゃうから制裁しないというのは、逆転してるんです。

こちらから「交渉をしてください」と言ってるから、向こうは「あぁ交渉してやるよ、代わりに何か寄越すのか?」という事になるわけです。(会場内、「そうそう」「へっぴり腰」などというささやき声)
だから私は第一段階は、国際社会にアピールできる、北朝鮮の住民に被害のあたらない物で良いと思ってます。
効かなくて良い。
しかし、意思を表示する。(拍手)

意思表示するという事は効くんですよ。
経済制裁ひとつで、金正日政権を倒す事ができるかどうか?という事になったら、ひとつじゃ駄目だと思いますよ?
しかし意思表示をすることはできる。
そうすれば、交渉になったらですね。
「それを止めてくれますか?くれませんか?」というのが交渉のカードになるんですよ。
今、日本は何も持ってないから、「コメを出しますか?出しませんか?」という事になってる。
今度は制裁を止めるか止めないかで、こちらの腹は少しも痛まないのに交渉のカードが増えるんですよ。

で、もう一つ絶対にやっておかなくちゃいけないのは。
国際社会に対するアピールと言う事は先ほどもいいましたね?
安保理事会になって核になったときに日本が(制裁を)やってれば、国際的に皆が協力する制裁をするときに、その理由に拉致も入れることが出来るわけです。
それをしておかないと出来なくなっちゃう。
だからそれも、今(制裁を)やっておくと効く訳です、国際的な制裁をするときのステップとして。

そしてもうひとつは、北朝鮮で今何が起こるか分からない状況が、起きてます。
今年の4月に龍川爆破事件と言うのがあったわけですけど、あれは金正日の列車の通過した15分後に大爆発が起きてるわけです。
今までそんな事有り得なかった。
金正日の暗殺未遂事件である可能性はどんどん高まっている。
ほぼ間違いが無い。

そして最高指導部の亡命や粛清が続いてます。
もしも金正日政権が倒れたときですね。
何時来るか分かりませんけど、倒れる可能性はいつでもあるわけです。
明日になるかもしれない。
その時にですね、日本人拉致はどうなるか?拉致被害者はどうなるか?

日本の政府は悲しい事に今助けにいけないんです。
どこにいるか、まだ分からないんです。
いるって事は分かってるけど、どこで監禁されているか情報がない。
助けにいけないんです。
その時に誰が助けるか?って言ったらば、クーデター勢力が助けるしかないわけです。

今、日本が拉致問題で怒ってると言う事を、宋日昊(ソン・イルホ)とかですね。
対日工作担当者は分かってきたんです。
私も怒鳴りあいを、宋日昊と一度しました。
「斎木とか西岡とかはけしからん」と向こうは思ってると思います。
西岡のファイルはあります、なんて僕を脅しましたけど。

しかし軍とか政治警察で、金正日を暗殺するような、日本と関係のない部署にいる高官たちが、日本が怒ってると言う事がまだ伝わってない。
それを伝えなきゃいけない。
アサリが売れなくなって、金正日の秘密資金が少なくなって、金正日が贅沢がちょっと出来なくなってイライラしてると。
なにかビール瓶を投げたりなんかしてると。
そういう噂は平壌に流れますから。

金正日が怒ってると。
なんだ?と。
アサリで稼いだ外貨が来なくなって、金正日がイラついてると。
何でアサリが売れなくなったんだ?と。
日本が拉致で制裁をかけたと・・・言う事が伝わるようにしなくちゃいけない。

そして国連の安保理事会で拉致も理由で制裁がかかったと。
安保理事会になったら、我々はまたニューヨークにまで行こうと思ってます。
金正日とその側近に見えるように映してもらって、「ここにいるぞ」と。
国連も一緒に拉致を戦ってるんだと。
あなたは世界中を敵に回しているんだということを見せて。
そして制裁決議に書いてもらう。
そうすれば金正日の取り巻きにも分かるわけです。

そしていつのタイミングで起きるか分かりませんけど、金正日が除去されたとき、金正日の責任のせいにすれば良いんです。
でもこれが日本人にとって絶対に譲れない「拉致被害者の人命は絶対に譲れないものなんだ」というメッセージが発してないと、混乱の中で放置されちゃうわけです。
100人くらいの命を救えば1兆円が来るんだったら、まずクーデターして金正日政権倒したあと、放送局を占拠したあと、「被害者どこにいるんだ?名簿はどこにあるんだ?全員安全を確保しろ!」ということになります。

そして日本に帰して恩を売ればいいんです。
そしたらば1兆円来るんだったら本当に安い物だですから。
まぁ1兆円かどうか分かりませんけども・・・僕は1兆円反対かもしれませんけど、その時になれば。
だけどまぁ、とにかく多額のODAがいく事は彼らは分かってるわけです。
でもそれはこの人たち、めぐみさんやるみ子さんを確保してなくちゃいけないんだぞ、と。

もしも今これから後、生きてた人が死ぬような事があったら、もう絶対に北朝鮮という国へ日本は一切ODA出さないと。
50年でも100年でも出さないと、日本の憲法か法律かに書いちゃう。(拍手)
北朝鮮に援助はやらないと。
ということを言ってるという声が、どんどんどんどん北朝鮮に伝わんなくちゃいけない。
そのために一番良い事は、向こうが嫌がっている制裁をかけるってことなんです。(拍手)

いまその瀬戸際に来てるわけです。
しかしこの間に死亡してるのかどうか?ということについては我々は勝ったんです。
もう死亡の物証は全部消したんです。
世論の力です。
言論の自由の力です。
日本の民主主義の勝利だと思いますね。

辞めた銀行員とか、鉄工屋のお父さんとかが、総理に会って「何ですか!」と言えるんですよ」。
それが日本の強さです。
こんな事、北じゃ絶対にこんな事有り得ないわけなんです。
独裁者の決済がないと動けないから、偽物の遺骨が来るんです。
日本は捨てた物じゃない、我々は強いんだと。(拍手)

そしてその軍事力で言っても、世界で一番強いアメリカが今同盟国なんです。
北朝鮮のミサイルも何にも怖くない。(拍手)
怖いと思う心だけが怖いだけです。(笑いと拍手)
そういう状況の中でまだ怖いと思う心を持つが、永田町とかにいるわけですけども。

でも今日は拉致議連の総会があってですね。
拉致議連は過激なんですよね。
「金正日政権打倒」という(笑いと大きな拍手)
今日の声明で、平沼武夫先生の名前で、時期総理大臣だと思いますけど。
そういう大物の名前で「金正日打倒」って、書いちゃったんですから。
私が書いたら書かないですよね、僕は穏健ですから。(笑い声)

そして明日は衆議院の拉致特別委員会が開かれて、議論するんです。
皆で議論すれば良いんですよ。
それが日本の良い所です。
そしてまずここの連続集会で皆さんに言ってるのは、死亡の物証は無い!
今回の実務者協議の前にもここで言いましたけど、本当になくなっちゃったんですから。(笑い声)
ゼロになったんです。
これをどんどんどんどん言って欲しいんですよ。

金正日の言う白紙に戻す再調査と言うのは、「物証はありませんよ」と白状しただけだと。
つまり生きてる事を事実上白状したんですから、金正日をもっと追い込んで取り戻す。
そのプロセスになってるんです。
我々は今勝ちつつあると。
いうふうに思いまして、ぜひ一緒に戦っていきたいと思います。(拍手)
◆―――――――――――――――――――――――――◆
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増元るみ子さんを救うぞ東京集会(8)

2004-12-09 | 増元るみ子さんを救うぞ東京集会
飯塚繁雄さんのお話

皆様こんばんは。(拍手)
お忙しいところをたくさんお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。
この会も3回目となりましたけども、各家族被害者のお話を聞きますと、本当に長い間ご苦労なさって。
本人にとっては大事な人生の1ページって言うか。
ちょうど22歳から45歳までの大事な時間を、あんなB5版の偽の死亡診断書で抹殺されてしまっていると言う、今の状態です。
これは絶対有り得ないと言う話を、今西岡先生からもおっしゃったとおりですけども。
先ほどの記者会見で報告した内容を、ちょっと時間無いですから簡単に申し上げます。

いわゆる北の嘘について。
更に「これもだ」と言う事で更に一押ししたのが、いわゆる「田口八重子が、例の大韓航空機事件の金賢姫の教育係り、李恩恵は有り得ない」という、北の報告でありますけども。
地村富貴恵さんから直に私が小浜で聞いた話ですね。
田口八重子さんと別れて、具体的には86年の7月20日に別れたんですけども。
その後数ヵ月後、まぁ約3ヵ月後と言っておりますけども。

「田口八重子をよく知っている運転手が、『田口八重子をデパートで見た』という話を聞いた」と言う、話ですね。
皆さんご存知のとおり、(金賢姫の)本にも書いてありました。
八重子はデパートで良く買い物をする。
しかも外貨デパート、外貨百貨店なんですね。
一般の人はなかなか入れない所でいつもそこに行ってたということは、金賢姫が書いた本にも書いてあります。

ここではっきり言えるのは、北の発表した死亡時期は全くの間違いだと、捏造だという事がハッキリしました。
もちろんこの情報については、直に私と被害者だった富貴恵さんとの確認という形で、はっきりと明確になった情報ですから。
これはある意味では重要な情報として、これからもこれを信じて行きたいし。
生きてると言う事に、さらにつなげて行きたいと。

それからもう一つはですね。
金賢姫と関係ないという話・・・ちょっと前後しちゃったんですけど。
ある時期、「金賢姫に日本語を教えていた」と、いう事が地村富貴恵さんから伺ったんですが。
富貴恵さんは実際金賢姫という言葉は使わなかったんですが。
当時金賢姫の名前が金玉花(キム・オッカ)と。
(飯塚さんの後ろで、西岡氏が「金賢姫=玉花(オッカ)、田口八重子=李恩恵」と板書)

玉の花と書くんですけども、これを朝鮮語でオッカと。
これは後になって救う会の人たちと色々分析した結果、これ(金賢姫=玉花)が出たわけですね。
当初、オッカオッカとこれしか分からなかったんですが、言葉として分かってなかったんですが。
待てよ?という事で西岡先生の分析で、こう(オッカ=玉花)書くんだと。

金賢姫の別名が金玉花ですか。
金賢姫の書いてる本からもわかるんですが、2人で生活している間に彼女のことを、「玉ちゃん玉ちゃん」と呼んでたんですね。
で、それと「オッカ」全部これ(金賢姫=玉花=オッカ)イコールになるんです。
従って北が言ってる「李恩恵なんてのは有り得ない」、向こうが言ってる、「実際教育した李恩恵という人物はいない」と言ってるんですが。
今回の報告でも、「田口八重子はコ・ヘヨクという名前しかなかった」と、いうふうに若干和らげて言ってますけども。

これ(田口八重子=李恩恵と書いたところを指差す)を認めてないんですね。
これ(田口八重子=李恩恵)を絶対に認めてない。
なんで田口八重子を拉致したんだ?と、いうふうになるわけですけども。
先ほど西岡先生がおっしゃったように、北はですね、金正日の命令によってあの事件を起こさせた。
いわゆる「日本人の仕業で韓国の飛行機を爆破して、日本人のせいにしよう」という企みの計画だったんですけど、それを絶対認めてないんですね。

田口八重子の細かい嘘の情報を一杯並べても それはいいと。
問題はこれ(田口八重子=李恩恵)を認めさせて、要するに教育係だったという事を認めさせて。
そこから生きてる田口八重子を探し出すしかないんですね。

そういう意味では、昨日横田めぐみさんの骨が出てきて、それが嘘だと。
唯一の物証も嘘だと言うことになりました。
しかも我々、こういった情報も、帰ってきた人たちに聞けば皆嘘だと。
今回3回目の成果と言うのは、向こうの言ってる事全て嘘だと、ハッキリしたのが成果だと。(拍手)
小泉さん曰く「北の努力も認められる」というのは(笑い声)「嘘をつくための努力は一生懸命した」(拍手)と、いうふうに我々考えています。

また今後、これを含めてですね、また更に何人かの方の集会をここで開きますが。
やはり皆様の一致団結した北への怒りを示していただいて。
実際国の方でも先ほど出た特別委員会とか、あるいは議連の怒りの声とか。
もちろん国民の皆様のこれに対する支持。
「こんな交渉ではだめだ」と、「経済制裁をやれ」と、いう強い怒りを、ぜひこれからも私たちと一緒に、皆様と頑張って行きたいので、宜しくお願いします。(拍手)


 増元氏による 「蒼のハガキ」の案内

先ほどもちょっと申し上げましたけど○○さんという人が、インターネットの「青き星々」というHPをやられている方たちが、その中で呼びかけて。
こういうブルーの地に、こちらのほうにはすでに「小泉潤一郎様、内閣支援室宛」になってますが。
こういうものを作って、皆さまにひとりずつ、皆さまの住所と名前を書いて送っていただきたいんです。

で、救う会の方ではハガキの運動を考えておりますが、正式に救う会運動としてはやっておりません。
ですから今日は、私・増元家からのお願いという事で、ぜひ、入り口のほうで配りますので帰る時にお持ち帰りになって頂きたい。
ひとりで何枚というより、なるべく大勢の方に書いていただいた方が良いと思います。

であの、ここに「私の一言」とありますけども、絶対に誹謗中傷だけはやめて下さい。
私等もそうなんですけども、この運動、誹謗中傷するような運動になってしまっては、運動のマイナスになります。
私も日頃あまりだらしない格好して、外を歩けなくなっております。(笑い声)
私のイメージとして、やはりキチッとしとかなければいけないという事で、非常に苦しい思いをしておるんですけども。(笑い声)
でもそれが会としての姿勢だと、いうふうに思っていますので。
この運動も誹謗中傷という事ではなくて、総理大臣に対する国民の一人の意思表示ということでやっていただきたいと思います。

これを欲しい方は、蒼き星々のところに申し込めば送っていただけるとのことです。
これじゃなくても良いです。
電脳保管録の方で作ってるブルーリボンシール、それを貼ってでも良いし。
とにかく小泉総理に・・・私の気持ちとしては辞めて頂きたい・・・そんなこと書いちゃいけません。(笑い声)
小泉総理に国民の意思を突きつける、と。
それで経済制裁の発動を国民の声として突きつける。
どうぞ宜しくお願いします。(拍手)

(司会者より、来年以降の連続集会の案内、チャンネル桜の案内などがあり、そのあと登壇者が全員ならんで挨拶をし、大きな拍手のうちに集会終了)
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