※ぴろんさんによる、丁寧なテキストです。会場の雰囲気を感じ取ってください。
~~2004年12月9日(木)東京 芝 友愛会館にて~~
1.平野フミ子さんのおはなし
皆さんこんばんは。
本当にこんなにたくさん集まっていただいて、ありがとうございます。
私、いつもこうやって立つ時、何から話して良いかいつも迷ってしまうんです。
でも今日はるみ子の事だけ、そして父の事を話さしていただきます。
るみ子は私たち増元家にとっては、太陽的存在でした。
私家族6人、きょうだい4人なんです。
私、信一という弟、そしてるみ子がいて、照明が一番下にいるんですけど。
本当にもう、いつも明るくて。
「家族」と言う本にも書いてありましたけども、父親がとにかく厳しくてですね。
私たちは本当に近づけない存在でした。
でも、妹るみ子だけは父親に対してものすごく「とうちゃん、とうちゃん」と言ってですね。
父親は営林署に勤めてました。
鹿児島の営林署は屋久島の杉を運ぶ船を持ってましたので、2~3日おきに帰ってきておりました。
しょっちゅういないんですけども、帰ってくるたんびに「とうちゃん、お帰り」と率先して行ってましたので、父は物凄く可愛がってた。
私たちは父が怖くて、何かというとすぐ怒るんですね。
父は酒を飲むんと、鹿児島の言葉で「やまいもを掘る」って言うんですけど、酒が入ると愚痴が出るんです。
仕事の愚痴かなんか知らんけど、ちょっと薩摩男児、亭主関白と言うのが強くてですね。
私たちは本当に「どうしてこんなとうちゃんと結婚したの?」と母にいつも言うぐらいですね、(笑い声)厳しい父でした。
妹のるみ子は厳しい父に本当になついて。
ですから父もそんなにして寄ってくるので目に入れても痛くないくらいほどに、可愛がっていたと思います。
その証拠にですね。
今日は妹の同級生が写真を持ってきてくれたんですけど、大龍小学校の入学式にですね、父が参加してるんですよ。
出席してるんです。
私もその写真見て、びっくりしました。
父親はもっと仕事一辺倒でですね。
子育てには参加してないと思ってたから、「へぇー」と思って。
母親が病気がちだったせいもあって、弟・照明のお守りしてたりして、小学校の入学式に行ったんじゃないかなぁ?と、今私は写真見て思った事でした。
本当に妹の事を可愛がっていたのは紛れもない。
この4人のきょうだいの中で一番可愛がってた。
その妹がですね、北朝鮮に拉致されていった。
本当に父親はどんな思いでいたのか?と思うと。
私は晩婚でした。
37歳で結婚して38で女の子を恵まれました。
その間、両親を見ててですね、本当に私も「嫁いで行けないな」と、縁の無かったのもあるんですけど。
この二人を残して嫁いでは行けないな、という思いがあってですね。
ふたり、夫婦を見ながらですね、まぁよう喧嘩してました。
仲が良い夫婦とはとても言えなかったです。
まして鹿児島は亭主関白が強いところですから、本当に仲が良い夫婦では無かったですけども。
でもやっぱり同じね、思いを、娘るみ子を無くして、失踪・・・何ていうか・・・本当に今まで元気にいたのに急にいなくなったという、そういう思いをですね、ずっと抱えて。
私たちは家族会が結成されるまで、妹の事に関してはタブーでした。
そうしないと母親が本当にもう、泣いてしまうし。
そして世間にもなにか知らないけどタブーの、皆「家族」って言う本見ると、皆、どこでも失踪した人のことには触れない、触れられたくないという気持ち。
どこからどういう気持ちが分からないけれど、私たちもとにかく、このことには触れたくないなぁ、という思いでずっと来ておりました。
家族会が、安明進さんの、「めぐみちゃんを見た」という証言がですね。
センセーショナルにですね、クローズアップされて。
で、私たちはやっとこれで私たちも妹の事をこんなして皆さんの前で公に話せるという、一条の光を見い出した思いで。
その時はすぐにでも妹たちが帰ってくると、それだけを私たちは信じて来てました。
しかし、なかなか動かなかった。
本当に私たちは地団駄を踏みましたけど、妹があんな・・・去年ずっとそういう調子の中でですね。
国が動かない。
一昨年9月17日、5人の方が帰っていらっしゃいました。
本当に私たちは、本当に私たちの、皆さんの世論の力が、そして家族会の訴える力が通じたんだと言う事で、私たちは本当に良かったなと思いました。
妹たちは死亡とされましたが、絶対信じる事は出来ないという事で、また結束が一段と強まった訳ですけども。
一昨年、5月の7日ですね。
国際フォーラムで6千人収容するところに、入りきれないほどの人たちが集まってくださいました。
その時に、私は日本が大好きになりました。
それまではなんて、こんな日本に生まれてきたんだろう?と。
本当に砂を噛む思いで過ごしていましたので、本当に去年の国際フォーラムの時は本当に嬉し涙で、幕が上がっていくのを見ておりました。
その翌日にですね、祐木子さんとお話することが出来ました。
私はさっき記者会見でも申し上げたんですけども、どんな話の内容が聞けるんだろう?話されるんだろう?かと、不安が一杯、聞きたいのは山々なんですけども。
ひょっとしたら「るみ子さんは死んでしまったんですよ」言われかねないと思ってですね。
「嫌、そんなのは私聞きたくない」と、弟にも私拒みましたけども。
「いや、そんな話じゃないから、とにかく祐木子さんと話をしてみたら?」と言われて、意を決してホテルの一室でお話1時間くらいさせていただきました。
この写真を祐木子さんに見せたんです。(るみ子さんの写真を掲げる)
「あ、るみちゃんだ」と言ってくれました。
私のるみ子はですね、修一君と一緒に行ってるというのは、あちらが言ってることなんですけども、実際るみ子を見たという目撃証言が全然無かったんですね。
ですから、「本当に?本当に行ってるんだろうか?」と、私は本当に「嘘じゃないんだろうか?嘘じゃないだろうか?」と思っていたりしたもんですから。
祐木子さんにですね、「あ、るみちゃんだ」ということを聞かされたときは、「ああ、やっぱり残念ながらあっちに行ってたんだなぁ」って言う、がっかりしたような嬉しいような、本当に複雑な気持ちでおりました。
その時のお話でですね。
「るみちゃん」「祐木子ちゃん」という風に話合って招待所で生活してたと言う事を、いろんな話を聞きました。
その話の中でですね、妹は歌が好きだったもんですから、すぐ朝鮮語の歌も覚えて。
朝鮮語も勉強して。
卓球を中学時代にしてたから・・・やっぱり共産圏は卓球が盛んですよね?
だから、招待所の人たちと卓球して遊んだりとか。
あの子はうちの家系には無い、あの身長が163センチ、結構高いんですよね。
後姿はモデルくらいでして、昔の24歳ですからね。
本当にすら~っとしていましたので、大きい先生と言われていたらしいですね。
で、祐木子さんが妹で小さいから小さい先生だったんですね。
その話の中で、鹿児島はスイカの漬物というのを作るんですよ。
鹿児島にしか無いそうなんですよね。
スイカを食べますね?白いところが残りますよね?
で、ちょっと食べた残りの赤いところを切り取って、皮を切り取って、白い身の所に塩を振って一夜漬けみたいにしたり、醤油につけたりして食べるんですけども。
父親が大好きだったもんですから、料理はあまりしなかった子ですけど、それだけは覚えていたらしくて、北朝鮮の招待所で食べさせてもらったっていう。
だから祐木子さんの地方ではそういう習慣が無かったですからね、印象に残ってたんだと思います。
北朝鮮に、南浦(なんぽ)というところに着いた時の話を聞いて、私は衝撃を受けたんですけど。
とにかく何時間かかるか・・・まぁ吹上浜から拉致されて行きましたから、南浦まで何時間かかるか私は分かりません。
相当数船倉にですね、入れられて、恐怖と絶望の中で何時間も暮らしてたと思うんです。
私も妹も暗がりが嫌いでした。
怖がりでしたから、どんなに恐怖を味わったんだろうか?と思うと、私は想像を絶するんです。
想像だに出来ないんですけども。
その時南浦に着いて、下船するとき足腰立たなくて、やっと両脇を工作員にかかえらるようにして下船したと言う話も聞くことが出来て。
私はその時にもう、何ともいえない気持ちになりました。
本当に妹は、今の24歳といったら大人です。
でも27年前の24歳は子供なんですよね。
本当に私の妹はまだ市川さんと付き合い始めたばかり。
まだ3ヶ月くらい、手も握ったかどうか分からないくらいの状態だったと思います。
そういうところに連れて行かれて、本当にどんな気持ちでいたか?
足腰が立たないっていう、その状態を想像しただけでも、私は何も聞けなくなった、というのが実情でした。
いろんな事聞きたかったけども、まだ子供さんが帰ってない状態がありましたので、いろいろ聞くのも困らせるだけだなぁという思いもしましたし。
酷だなぁと思って、私たちはもう、あの方たちは子供さんはじきに帰ってくるから、その時に話せる場になったら、話してくださるだろうなぁ、と思って。
ひとつ、ひとつだけですね、子供さんがいるんじゃないか?という話をしてくれたんです。
というのもあちらの証言では、あの時点では、翌年の4月の20日に結婚式を挙げて、修一君がその年の9月4日に元山で・・・北朝鮮で9月に水泳するのもおかしいと思ったんですけど・・・ま、水泳して心臓麻痺で死んで、妹は1981年、3年後に心臓麻痺で死んだということですね。
で、子供はいないという、で遺留品もないと言うことで。
ホントにもう私たちは何も無いんですよ、妹の事が、ただ、(北朝鮮に)いたという事だけで。
祐木子さんの話だけでですね、死んだということを信じることはできないんですけども、本当に何も無いんですよ。
残酷な、なんて言っていいか、本当にその時は分からなかったんですけども。
祐木子さんの話の中で「ひょっとしたら、るみちゃんは子供がいたんじゃないかな?」って言う話をですね。
「どうして?」って聞いたら、別れてからですね。
その年月は私は聞いてもいませんし、あちらも話さなかったと思いますけども。
別れてから、それぞれ結婚したんでしょうね。
で、「風の便りにるみちゃんに子供がね、一人目生まれた、という話しを聞いたよ」って、言うんですよ。
それは今だから話すんですけども、今だから話せるということなんですけども。
だから、未確認情報ではあるけれど、祐木子さんもるみ子が赤ちゃんを抱いてるところを見た訳では無いんですけども。
妹が赤ちゃんを産んだということを、男の子ってその時は言ってましたけどもね、そういう話を聞きました。
~~2004年12月9日(木)東京 芝 友愛会館にて~~
1.平野フミ子さんのおはなし
皆さんこんばんは。
本当にこんなにたくさん集まっていただいて、ありがとうございます。
私、いつもこうやって立つ時、何から話して良いかいつも迷ってしまうんです。
でも今日はるみ子の事だけ、そして父の事を話さしていただきます。
るみ子は私たち増元家にとっては、太陽的存在でした。
私家族6人、きょうだい4人なんです。
私、信一という弟、そしてるみ子がいて、照明が一番下にいるんですけど。
本当にもう、いつも明るくて。
「家族」と言う本にも書いてありましたけども、父親がとにかく厳しくてですね。
私たちは本当に近づけない存在でした。
でも、妹るみ子だけは父親に対してものすごく「とうちゃん、とうちゃん」と言ってですね。
父親は営林署に勤めてました。
鹿児島の営林署は屋久島の杉を運ぶ船を持ってましたので、2~3日おきに帰ってきておりました。
しょっちゅういないんですけども、帰ってくるたんびに「とうちゃん、お帰り」と率先して行ってましたので、父は物凄く可愛がってた。
私たちは父が怖くて、何かというとすぐ怒るんですね。
父は酒を飲むんと、鹿児島の言葉で「やまいもを掘る」って言うんですけど、酒が入ると愚痴が出るんです。
仕事の愚痴かなんか知らんけど、ちょっと薩摩男児、亭主関白と言うのが強くてですね。
私たちは本当に「どうしてこんなとうちゃんと結婚したの?」と母にいつも言うぐらいですね、(笑い声)厳しい父でした。
妹のるみ子は厳しい父に本当になついて。
ですから父もそんなにして寄ってくるので目に入れても痛くないくらいほどに、可愛がっていたと思います。
その証拠にですね。
今日は妹の同級生が写真を持ってきてくれたんですけど、大龍小学校の入学式にですね、父が参加してるんですよ。
出席してるんです。
私もその写真見て、びっくりしました。
父親はもっと仕事一辺倒でですね。
子育てには参加してないと思ってたから、「へぇー」と思って。
母親が病気がちだったせいもあって、弟・照明のお守りしてたりして、小学校の入学式に行ったんじゃないかなぁ?と、今私は写真見て思った事でした。
本当に妹の事を可愛がっていたのは紛れもない。
この4人のきょうだいの中で一番可愛がってた。
その妹がですね、北朝鮮に拉致されていった。
本当に父親はどんな思いでいたのか?と思うと。
私は晩婚でした。
37歳で結婚して38で女の子を恵まれました。
その間、両親を見ててですね、本当に私も「嫁いで行けないな」と、縁の無かったのもあるんですけど。
この二人を残して嫁いでは行けないな、という思いがあってですね。
ふたり、夫婦を見ながらですね、まぁよう喧嘩してました。
仲が良い夫婦とはとても言えなかったです。
まして鹿児島は亭主関白が強いところですから、本当に仲が良い夫婦では無かったですけども。
でもやっぱり同じね、思いを、娘るみ子を無くして、失踪・・・何ていうか・・・本当に今まで元気にいたのに急にいなくなったという、そういう思いをですね、ずっと抱えて。
私たちは家族会が結成されるまで、妹の事に関してはタブーでした。
そうしないと母親が本当にもう、泣いてしまうし。
そして世間にもなにか知らないけどタブーの、皆「家族」って言う本見ると、皆、どこでも失踪した人のことには触れない、触れられたくないという気持ち。
どこからどういう気持ちが分からないけれど、私たちもとにかく、このことには触れたくないなぁ、という思いでずっと来ておりました。
家族会が、安明進さんの、「めぐみちゃんを見た」という証言がですね。
センセーショナルにですね、クローズアップされて。
で、私たちはやっとこれで私たちも妹の事をこんなして皆さんの前で公に話せるという、一条の光を見い出した思いで。
その時はすぐにでも妹たちが帰ってくると、それだけを私たちは信じて来てました。
しかし、なかなか動かなかった。
本当に私たちは地団駄を踏みましたけど、妹があんな・・・去年ずっとそういう調子の中でですね。
国が動かない。
一昨年9月17日、5人の方が帰っていらっしゃいました。
本当に私たちは、本当に私たちの、皆さんの世論の力が、そして家族会の訴える力が通じたんだと言う事で、私たちは本当に良かったなと思いました。
妹たちは死亡とされましたが、絶対信じる事は出来ないという事で、また結束が一段と強まった訳ですけども。
一昨年、5月の7日ですね。
国際フォーラムで6千人収容するところに、入りきれないほどの人たちが集まってくださいました。
その時に、私は日本が大好きになりました。
それまではなんて、こんな日本に生まれてきたんだろう?と。
本当に砂を噛む思いで過ごしていましたので、本当に去年の国際フォーラムの時は本当に嬉し涙で、幕が上がっていくのを見ておりました。
その翌日にですね、祐木子さんとお話することが出来ました。
私はさっき記者会見でも申し上げたんですけども、どんな話の内容が聞けるんだろう?話されるんだろう?かと、不安が一杯、聞きたいのは山々なんですけども。
ひょっとしたら「るみ子さんは死んでしまったんですよ」言われかねないと思ってですね。
「嫌、そんなのは私聞きたくない」と、弟にも私拒みましたけども。
「いや、そんな話じゃないから、とにかく祐木子さんと話をしてみたら?」と言われて、意を決してホテルの一室でお話1時間くらいさせていただきました。
この写真を祐木子さんに見せたんです。(るみ子さんの写真を掲げる)
「あ、るみちゃんだ」と言ってくれました。
私のるみ子はですね、修一君と一緒に行ってるというのは、あちらが言ってることなんですけども、実際るみ子を見たという目撃証言が全然無かったんですね。
ですから、「本当に?本当に行ってるんだろうか?」と、私は本当に「嘘じゃないんだろうか?嘘じゃないだろうか?」と思っていたりしたもんですから。
祐木子さんにですね、「あ、るみちゃんだ」ということを聞かされたときは、「ああ、やっぱり残念ながらあっちに行ってたんだなぁ」って言う、がっかりしたような嬉しいような、本当に複雑な気持ちでおりました。
その時のお話でですね。
「るみちゃん」「祐木子ちゃん」という風に話合って招待所で生活してたと言う事を、いろんな話を聞きました。
その話の中でですね、妹は歌が好きだったもんですから、すぐ朝鮮語の歌も覚えて。
朝鮮語も勉強して。
卓球を中学時代にしてたから・・・やっぱり共産圏は卓球が盛んですよね?
だから、招待所の人たちと卓球して遊んだりとか。
あの子はうちの家系には無い、あの身長が163センチ、結構高いんですよね。
後姿はモデルくらいでして、昔の24歳ですからね。
本当にすら~っとしていましたので、大きい先生と言われていたらしいですね。
で、祐木子さんが妹で小さいから小さい先生だったんですね。
その話の中で、鹿児島はスイカの漬物というのを作るんですよ。
鹿児島にしか無いそうなんですよね。
スイカを食べますね?白いところが残りますよね?
で、ちょっと食べた残りの赤いところを切り取って、皮を切り取って、白い身の所に塩を振って一夜漬けみたいにしたり、醤油につけたりして食べるんですけども。
父親が大好きだったもんですから、料理はあまりしなかった子ですけど、それだけは覚えていたらしくて、北朝鮮の招待所で食べさせてもらったっていう。
だから祐木子さんの地方ではそういう習慣が無かったですからね、印象に残ってたんだと思います。
北朝鮮に、南浦(なんぽ)というところに着いた時の話を聞いて、私は衝撃を受けたんですけど。
とにかく何時間かかるか・・・まぁ吹上浜から拉致されて行きましたから、南浦まで何時間かかるか私は分かりません。
相当数船倉にですね、入れられて、恐怖と絶望の中で何時間も暮らしてたと思うんです。
私も妹も暗がりが嫌いでした。
怖がりでしたから、どんなに恐怖を味わったんだろうか?と思うと、私は想像を絶するんです。
想像だに出来ないんですけども。
その時南浦に着いて、下船するとき足腰立たなくて、やっと両脇を工作員にかかえらるようにして下船したと言う話も聞くことが出来て。
私はその時にもう、何ともいえない気持ちになりました。
本当に妹は、今の24歳といったら大人です。
でも27年前の24歳は子供なんですよね。
本当に私の妹はまだ市川さんと付き合い始めたばかり。
まだ3ヶ月くらい、手も握ったかどうか分からないくらいの状態だったと思います。
そういうところに連れて行かれて、本当にどんな気持ちでいたか?
足腰が立たないっていう、その状態を想像しただけでも、私は何も聞けなくなった、というのが実情でした。
いろんな事聞きたかったけども、まだ子供さんが帰ってない状態がありましたので、いろいろ聞くのも困らせるだけだなぁという思いもしましたし。
酷だなぁと思って、私たちはもう、あの方たちは子供さんはじきに帰ってくるから、その時に話せる場になったら、話してくださるだろうなぁ、と思って。
ひとつ、ひとつだけですね、子供さんがいるんじゃないか?という話をしてくれたんです。
というのもあちらの証言では、あの時点では、翌年の4月の20日に結婚式を挙げて、修一君がその年の9月4日に元山で・・・北朝鮮で9月に水泳するのもおかしいと思ったんですけど・・・ま、水泳して心臓麻痺で死んで、妹は1981年、3年後に心臓麻痺で死んだということですね。
で、子供はいないという、で遺留品もないと言うことで。
ホントにもう私たちは何も無いんですよ、妹の事が、ただ、(北朝鮮に)いたという事だけで。
祐木子さんの話だけでですね、死んだということを信じることはできないんですけども、本当に何も無いんですよ。
残酷な、なんて言っていいか、本当にその時は分からなかったんですけども。
祐木子さんの話の中で「ひょっとしたら、るみちゃんは子供がいたんじゃないかな?」って言う話をですね。
「どうして?」って聞いたら、別れてからですね。
その年月は私は聞いてもいませんし、あちらも話さなかったと思いますけども。
別れてから、それぞれ結婚したんでしょうね。
で、「風の便りにるみちゃんに子供がね、一人目生まれた、という話しを聞いたよ」って、言うんですよ。
それは今だから話すんですけども、今だから話せるということなんですけども。
だから、未確認情報ではあるけれど、祐木子さんもるみ子が赤ちゃんを抱いてるところを見た訳では無いんですけども。
妹が赤ちゃんを産んだということを、男の子ってその時は言ってましたけどもね、そういう話を聞きました。