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Blue jewel

拉致の解決を願って
「蒼き星々」関連テキストなど(ココログにも掲載)現在gooがメイン。
デザイン時々変更。

>今、子供が危ない

2005-08-30 | アンデスの声さん投稿集
2005年8月30日(火)

つくる会の歴史・公民教科書は、昨年一次帰国したときに市販本を買って読んだ。実際にあの本を読んだ反対派は困ったんじゃないかな、振り上げた拳がおろせなくて。「勉強会」をやっても騒ぐほどの問題点が見つからないから、「戦争賛美のケシカラン連中が作った教科書だから戦争賛美でケシカラン」というトホホな結論になり、いつもの「半島・中国」の仲間に協力頼んでてマスコミ取材させてそのテレビ放映を見て、「よし、やることはやった」と自己満足、ってか。

昨今の教科書問題は「意地でも掲載したい」側と「意地でも掲載させたくない」側の大人同士の意地の張り合いで、当の子供たちは冷めている(そもそも教科書をまともに読んでるのかいな)。子供たちは、そういう大人たちの大人げない政治的メンツの張り合いをクールに眺めながらも、問題のポイントは把握してるように思う。私が読み終えて置いていた「市販本」を、高2の息子は勝手に部屋に持っていってゴソゴソ読んでいたようで「これ、最近話題のやつだね」と返してきた。「今使っている教科書と比べてどうだ?」と聞いたら「うん、まぁね・・・」と含みのある返事をしただけ、私もそれ以上聞かなかった。(本は親が子に読めと言えば読まず、読むなという本を子は読みたがる・・・反抗期の自分がそうだった)。

>浅川巧、阿弖流為、杉原千畝、長屋王、安重根、シャクシャイン、知里幸恵、李舜臣

momoedakeさんが挙げられた上の歴史人物は、その教科書掲載を要求した連中の人間的嫌らしさは別にして、やはり知っておくべきと私は思う、もちろん、日本のなりたちの礎となった人物をきちんと知った上での、補助的な歴史人物として。(杉原千畝は、瀋陽日本領事館の脱北者引き渡し事件と並べると分かりやすい。)

長い人類史の中で、加害者・被害者双方の経験のない国・民族は無いだろう。多くが弥生人の末裔である我々現代日本人は縄文・アイヌ人の累々たる屍の上に立っており、その縄文・アイヌの分身(mtDNAが最も近い)のケチュア~アイマラ族は南米アンデスに大侵略帝国築き、それをスペイン人が襲い破壊し黄金を略奪した400年後にそのスペイン系白人支配階層を押さえて君臨したのが、弥生人の末裔フジモリ、そのフジモリを引きずり降ろしたのが縄文・アイヌ分派ケチュア族の現トレド大統領だ。したがって、太平洋をはさんだ今のフジモリvsトレドのケンカは、数千年の時の流れを越え世界をまたぐ弥生人vs縄文人の末裔同士の戦いと言えるのだ(以上、一部曖昧な部分も混じっております)。

日本が加害者であったときの被害者の立場を知ることは、『自分の属する日本という国とそこに住む人々と文化と歴史を他の国のそれよりも自分にとっては大切だと感じる人々の側』(←これを『右翼の側』と書きかけてやめた、誰か新語を造ってくれ)にとって大切なことだ、それを知ることが、中国・北朝鮮・韓国の現在の横暴危険な振る舞いを押さえることにもなる。

やや露骨に言えば、①自分が与えた相手の傷を確認すること、②それを謝罪すること、そして③実際に補償することは、それぞれ別の問題だ(原爆投下した米国は日本の損傷データを徹底的に調べたが被爆者への謝罪も補償も無い、つまり①だけ。②~③をしないのは、米国にとってそれをしないほうが良いから)。

相手がどんなワルでも、こっちが先に足を踏んでしまったら、踏んだことは認めて「すまなかった」と言わねばならなぬ。つぶれた靴を弁償するのも仕方ない。しかし「骨も折れた、治療費も寄こさんかい」とワルの言うままに余計な弁償する必要はなく、さらに、もし弁償した靴でそのワルが別の人間をの足を踏んづけるのが分かっていれば弁償してもいけない、当然だ。もし過去に日本が与えた損害を理由に現在の中国・北朝鮮の国家犯罪を認めるなら、過去と現在トータルの犠牲者が増えるばかりだ。北東アジアの平和と安全を願うならこそ、現在の中国・北朝鮮の国家犯罪に加担するような謝罪や援助は一切してはならず、むしろ現在の彼等の動きを牽制する義務が、過去の加害者日本にこそある。

踏んだ側として靴のつぶれ具合を確認するのは、ワルを増長させないためにも大切なことなのに、「水たまりを避けるためだ、足を踏んだのはしょうがない」などとアラブ・イスラムみたいな事をいうから、墓穴を掘る(そういう言い方するなら何も言わない方がまだマシ、こらえきれずに先に踏んだ日本は辛抱負け、パールハーバーを先に踏ませたアメリカは作戦勝ち、しょうがないじゃん)。その結果、過去の日中戦争、靖国問題、現代中国・北朝鮮の国家犯罪が、同じ中華テーブルの上に一緒くたに乗ってグルグル回ってしまい収拾がつかなくなる、これはひょっとして、中国の謀略にまんまと引っかかっているんじゃないか?

ところで、これはあくまで私の個人的見解ですが、社会思想立場の軸足は右に、一方の補助足を左に置くのが、程良い案配だと思う。両足とも右または左に揃えて置くとバランスを崩して倒れやすい。ただし、左足は軸足には向かない、体重を支えきれず折れる。

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政治運動に思う

2005-07-06 | アンデスの声さん投稿集
アンデスの声さんの投稿  7月 6日(水)

私は家族会や救う会の内部事情や人間関係を全く知らない、知る術もないが、桜氏の投稿が本意なら実際に何か軋轢があるのだろう、これまでもそれを感じさせる投稿が無かったわけではない。強い意思を持った(=クセのある)生身の人間が連帯すると軋轢が生まれるのは町内会でも親族会でもテロリスト組織でも然りだが、そういうイザコザを見せつけられながら協力者故に我慢せざるを得ない家族の方々もつらいだろう。患者不在の医療論争はできれば避けてほしい。組織内の不協和音は敵を喜ばせるだろうが、私のような匿名個人支援者にとってはウラの事実も知りたい、まともな大人なら政治運動の世界がきれい事だけで済まぬことくらいはわかっているから、陰の部分も支援者の前に透明にした方が、その先の大きな破綻を防げるのではないか。今回の政府の無反応は、ひょっとしたら救う会内部のそういうアキレス腱を見越して「恐るるに足らず」とタカをくくったからじゃないか? などとつらつら一般論から憶測した、以下雑感。


【骨肉相喰み、両雄並び立たず】

同業他社とは本来ライバル・敵対関係のはずだが、付き合いはある。特に海外駐在員社会は狭いから、飲み会・ゴルフなどの交流はしょっちゅうだ。そういう付き合いの中で気づいた、面白い現象がある。公前での他社の悪口は紳士協定でいちおうタブーだが、気心が通じ酒も入るとたまに悪口も出る(その場合も相手に直接向かっては言わない)、そしてさらに気心が通じる(=酒が回る)と、自分の同僚・上司の悪口にも及ぶこともあるのだが、意外なことに、他社の悪口よりも身内に対する悪口非難の方がずっと辛辣な場合が多いのである。それはきっと、同じ目標・立場でどちらも真剣勝負で頑張っているからこそ譲れない部分も多々あって、メンツ・意地の張り合いも加わり感情がよけいにこじれてしまうのだろう。大人げないといえばそれまでだが、かく言う私だってこれまでの職場生活で譲れぬ意地を張りすぎて上司と大衝突し二度も出向(とば)されてんだから人のことは言えぬ(あるとき他板で『冷静なアンデスの声氏』と形容されて思わずのけ反った、実際の私は、特に業務中はとても気が短いのだ、今朝だって2週間も納期遅れの催促の電話入れたら先方担当者は一ヶ月のバケーションで不在だってよ、くっそぉあのペルー人ヤロー)。


【叩くために叩く】

思想・立場・目標が対立する場合は分かりやすい。“敵”の一挙手一投足すべて悪意に解釈し、相手の不幸は自分の幸福、相手の幸福は自分の不幸、エクボもアバタで坊主憎けりゃ袈裟も足袋もドブに放り込みたくなる。沈みゆく泥船の同舟相手が敵対思想なら自分が沈むのもそっちのけで相手を叩く、叩くことが目的になる。アルカイダの同時多発テロ事件で社民の原陽子新人議員の"ザマーミロ"発言叩きも保守ジジイ連中による集団的イジメ、言葉狩りそのものだった(彼女は「ザマーミロと思った国もあったはずだ」と言っただけ、当時アラブ担当だった私からすれば「何がおかしいの?彼女の言うとおりだよ」である)。日本だけではない、元ペルー大統領フジモリは22件の刑事事件で告発中だが、告発する側も糾弾が目的でほとんど難癖だからまだ一つも立証されていないし国民も本気にしていないから私の業務や日常生活にフジモリ問題が影を落とすことはない、どころかフジモリ人気は今だ根強い(フジモリ訴追を真に受け騒いでいるのが人権の衣を被った左翼政治団体日本アムネスティだが、彼等はフジモリの前任のガルシア政権時代の桁違いの国家犯罪は無視する、知ろうともしないのだろう)


【カモメのジョナ損】

人の通わぬ岩場で、雨の日も風の日も自分を信じて一人で釣りをしてたら、ある日ようやくアタリがきた。凄い大魚だ。最初にそこに釣り糸を垂らした彼の慧眼と勇気を、人々は褒め讃えた。かかった魚は獰猛なシャチだった、竿は大きくしなり糸は今にもちぎれそうだ。それを見た太公望たちが「俺も手伝おう」押しかけた、素人の釣り人もたくさんいた。しかし彼は「これは俺の魚だ」と自分の竿にしがみつき、気に入らぬ助っ人が差し出した手を払った。他の釣り人たちは諦めて、それぞれが背中を向けて勝手に釣り糸を垂らした。一人になった最初の釣り人は竿ごと海に引き込まれシャチの餌食になった。勝手を知ったシャチは同じように他の釣り人を次々に食べてしまい、岩場には誰も居なくなり、シャチはそのまま幸せに暮らしましたとさ、メデタ・・・くない!

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情と運動

2005-07-05 | アンデスの声さん投稿集
~座り込み後の運動を見据えて~                 2005年7月 5日(火)

私の親は戦後焼け出されて無一文・ゼロから始めたサラリーマン、子に残す資産も無く、わずかな年金で細々と暮らしている。その息子の私も40歳台半ばで持ち家もなく、高・狭・遠の賃貸マンション住まいで金のかかる中~高校3人の受験期の子供を抱え、日々汲々の生活だ。先日帰省したとき老いた両親に向かって「俺がもし外地で何かあったら、子供達はみんな退学・就職だな」とこぼしたら、父が「馬鹿ぬかせ、ワシらの食い扶持削ってでも孫にそういう思いはさせん、心配するな」と言い切った。自分の昔の苦労を無にしたくない、怨念に近い思いもあるのか。親が子を、孫を思う気持ちは誰も同じようなものだろう、だから拉致被害者家族が座り込みに至った姿に、つい自分の親の心境を重ねてしまい、私はたまらない気持ちになった。今の我々を突き動かしているのは、人間として内面から自然に沸き起こる情である。

しかし残念ながら、情だけで運動はできない。情が強いほど、危険性が高いほど、その行動には冷徹な判断と現実的な対応・采配が必要だ。1997年4月22日の夕方、日本大使公邸がいきなり爆音とともに銃声と煙に包まれたのを目の当たりにしたとき、「これで人質の大半は死んだな」と考え、全身総毛立つ緊張感の中で我々がまず行なったのは、人質家族の精神的保護とマスコミからの隔離、そして葬儀の手配だった(結果は奇跡的に日本人全員無事だったが・・・・)。救う会のリーダーの方々は何十年も運動の世界の裏表に通じてきた、いわばプロだから、運動論の技術的な部分はお任せし、我々はそのペダルを漕ぐ燃料補給となるべく情の補充拡大につとめたい。が、妙な動きにはカナリア役として、監視の目は怠らないようにしたい。

自ずと沸き起こる情では無く、理想・理念・理屈から麻薬のようにバーチャルな情を掻き立ててくれるのが宗教やイデオロギーだ、私はそういう、簡単に訳知り顔で利いた風な口を利く連中とその世界が嫌いだが、いざ運動となるとそういう組織のほうが強い。拉致事件を創価学会や左翼団体が本気で取り仕切れば、官邸・総連の糾弾行動も人間の鎖もとっくに完了し、動員数もマスコミ報道も総理コメントもこないだの座り込みの数倍あったかもしれない。しかし、この拉致問題は既成の日本式思想運動組織では根本的に解決しない、拉致被害者奪還運動は、我々日本人が自分たちの心の底に流れる人間の良心を掘り返し、それを、これからの子供達に伝えてゆく、大切な試金石でもあるように思う。
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助っ人ヤンキー登場!? 嗚呼、頼もしくあり哀しくもあり

2005-07-03 | アンデスの声さん投稿集
(座り込み後、いくつかのアメリカからのアクションをみて)

かつて私の子供が通っていたリマ市内の幼稚園の先生から興味深い話を聞いた。「他国から転入してきた子供でアメリカ人と日本人は対照的なのですぐに分かる、アメリカ人の子供は言葉が通じないのにお構いなしに英語のまま入り込み周りに話しかけリーダーシップをとりたがる、日本人の子供は言葉が通じないショックで隅に一人ぼっちでたたずんで涙ぐんでいる」と。大人社会も同じだなと私は思った。

拉致事件に対する今回のアメリカ人の助力には感謝したい。強く豊かで傲慢ゆえに敵も多いアメリカ国家だが、そこに住む国民の、他人の意見を真面目に聞き是々非々で判断する正義感と果敢な行動力は我々も素直に学ぶべきだろう。私が仕事を進める場合も北米連中相手だと仕事の道筋が明確で人間的性格も快活なのが多いから楽である(特に人間関係で気疲れしないのが助かる、アラブは付き合いは大変だが筋は通す、どっちもデタラメなのが中国・・・最悪である)。

アメリカ人の忌憚無い言動を、粗野・厚かましいと捉え、歴史の浅い新参国家が何言うか、と嫌うむきは少なくない。英国圏では米国製TV番組の影響で子供達の言葉に米式発音が混ざるのを露骨に嫌がっている年輩者がたくさん居たし、もともとイギリスに反感を持つフランス人はアメリカ的なものをさらに嫌いパリ・ディズニーランドも歴史あるパリ旧市街には作らせず設備はTDLより貧弱で現地人の人気も今一つ。あるアラブ人が「フランスでチーズ食べたら青カビはえてんのさ、フランス野郎ってなぁカビ食って気取ってんだぜ、ケケケッ」と馬鹿にしてた話をパリで紹介したら「カビチーズはワインといっしょにつまむものなの!酒の飲めねぇアラブが何ぬかす、おととい来やがれ」と反発した。フランス文化をけなすアラブ人、どちらもアメリカ的なものを嫌う。

単純な反米になれないのが中南米。地理・政治・経済的にアメリカ大国の庭でありいわば南北関係にある中南米国民はアメリカに対し反感と憧れのアンビバレントな感情を抱いている。アメリカ国家の横柄ぶりには反発しつつもその公正で豊かな国民社会に憧れ、マックもケンタッキーもピザハットも盛況で日本より早く6月に封切られたスターウォーズⅢは連日長蛇の列。英語教育も盛んで、金のあるペルー人は自分の子供をアメリカンスクールに入れたがるのが多い。先日出席した国際会合で私が当地の国語スペイン語で話しかけたら米語で答えたペルー人がいたっけ、しかも変に気取った口調でエーゴを話すのが鼻についた(この手の哀しい輩は日本人にもよくいる)。

フジモリはマイノリティー出身でありながら白人支配構造に楯突きアメリカまで敵に回したためアメリカによって独裁者のレッテルを貼られ事実上の国外追放になった。後任の世銀出身トレド現大統領はアメリカ傀儡でカミさんのエリアンカープはユダヤ系ベルギー人でイスラエル国籍も持ちトレド関係者にはユダヤ系が多く先週は麻薬密輸ユダヤ人を特赦したため騒動になっている。無為無策トレドの支持率は10%に落ち、訴追中のフジモリ人気の方が上回っている有様だが、昨年来の中国による資源買い漁りで原料国際価格が高騰している影響で資源立国ペルー経済も俄に潤い国民の不満は辛うじて抑えられている、が、北京オリンピック後に中国経済が破綻崩壊すればこの国の経済も崩れて1990年頃の狂乱インフレとテロに荒れる社会に戻る危険性を孕んでいる。

50~60年代のアジア・アフリカ植民地独立、90年代の東欧~中央アジア解放で国の数は増えたが、いまだに自国だけで自国を維持する能力のない、独り立ちできない国が、中南米に限らずたくさんある。国家安全保障については、残念ながら日本もそうである。軍事力も国家思想哲学もない戦後の日本の外交政策を進める上で、日本の経済・技術力の恩恵にずいぶんと預かりながら、企業の経済活動を“卑しいもの”と見下す空気が外務省内にはあり、パーティー外交ばかりで当てにならぬ日本の外務省に見切りを付けた通産省は自前の在外機関としてJETROを設置した。今の日本の実効性ある外交力は経済力だけだがその強大さは使い方次第で北朝鮮程度の小国を破綻させることも可能だ。しかし狡猾な中国はその日本の経済構造を自分の体内に取り込み意のままに差配するまでになり、自国の財界圧力を中国の手によって自分自身に向けられ身動きできない状態にあるのが、今の日本の姿ともいえる。

なぜ日本の国際問題対応能力はここまで劣化したのか。在外日本大使館主催の日本文化紹介イベントに顔を出したことがある、その日は茶道の紹介。日本の茶道の歴史について大使が英語で長々と説明している間退屈そうにしていた欧米人観客は、日本からやって来た高齢の爺さん師匠が和服で実演をはじめるとみんな色めき立ち覗き込み、終わったあとで質問攻めになった。この茶道師匠の爺さんはもちろん英語は全くダメで黙って作法どおりに行っただけだが、インパクトは大使の英語説明よりはるかに大きかった。国際化とは駅前留学に通うことではない。他人に媚びない、自分本来の価値観・哲学・文化・社会倫理がしっかりと確立していること、他人に語るべきものをもつことが、まず最低の条件だろう。

最近日本人もチーズを普通に食べているが私は今だチーズの何が美味いのか分からない。戦前派の私の父は決して食べない。「バタ臭い」の言葉が生まれたのと同じ頃におそらくチーズもバターと一緒に日本に入ってきたはずたが日本人の味覚には合わず根付かなかった。極めて好奇心旺盛な日本民族だが何でもかんでも無節操に取り入れてきたわけではない。日本人は自分の感性や価値観に合わぬものは異物として厳しく排除・峻別してきた・・・はずだが、ある時知人がフランスのカビだらけチーズを職場に持ってきてみんなに振る舞い「これはね、・・・」とウンチクを始めたので私はそそくさと退散した。毎年11月になると日本で意味不明の痴態が繰り返されるボージョレヌーボの馬鹿騒ぎなどを見ると(フランス人は高慢でクセが強くて食えない連中も多いが審美眼と味覚は確かにしっかりしていて、普段はスーパーで買った5~6ドルのワインで済ます-それでも十分に美味い-が年に一二度は三ツ星レストランで数百ドルのワインを飲みその味と価値の違いはしっかり認識していて味が気に入らなければソムリエにきっちりクレームを付ける、そこまで行くとホンモノだし嫌味は感じない。ボージョレヌーボーみたいな未完熟でジュース臭い赤ワインは体に悪いし、もともと新酒儀式用の酒で、ワインの奥深さを知っているフランス人はハナから相手にしないのだ)、日本人は戦後の自己喪失の過程で欧米ものならなんでもダボハゼみたいに跳びつく、自分の感性もプライドも無い卑屈な民族になりさがってしまったのか。民族の矜持に関する限り、私はアラブ人の誇り高き反欧米精神に私は共鳴する。

自立した先進国なら、あるいは後進国でも(アラブのように)誇りを持った民族なら、自国の問題にアメリカがしゃしゃり出てきてホッとするような、植民地・奴隷根性に近い卑屈な感覚は持たないだろう。北朝鮮拉致被害者を自らの手で取り戻せない限り、日本に国連安保理の常任理事国の資格は無い、隣国の政権によって暴力的にさらわれた自国民の安全も人権も守れず、数十年間ほったらかし、犯罪を渋々認め居直った加害国に抗議行動の一つも起こせない国の言うことなんか、“国際連合の安全保障理事会”では誰も聞かないって。

危機に直面し明治維新の改革をなしとげたのは、今の我々より遙かに情報が乏しく経済的に貧しくNOVAもTOEICも無い、しかし誇り高く崇高な民族自主独立の理念に燃えた、我々のほんの数世代前の祖先たちである(しかも20~30歳代)。その当時(少なくとも日露戦争まで)の日本人の行動と精神は今もアジア、アラブ、アフリカの多くの途上国が自国建設の範にしている。我々もここまで墜ちたら、もはや自分自身の過去に学ぶべきか。


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【情報と常識(コモンセンス)】

2005-06-20 | アンデスの声さん投稿集
【情報と常識(コモンセンス)】 6月20日(月)

約20年前、東京勤務が始まった頃、朝の通勤電車内の異常なまでの静けさに違和感をおぼえた、満員の人混みなのに会話が聞こえない、無表情に吊革にぶら下がり黄泉の国へ向かう幽霊電車みたいに感じた(これと対照的なのが夜の電車の酔っぱらいのダミ声だが、どっちも“傍若無人”ってことは同じ)。先月一時帰国で眺めた通勤車内の情景、携帯を見つめいじってる者が増えたが基本的には変わらぬ、沈黙の混雑の中で背を丸め新聞、週刊誌、文庫本を黙って読んでいる者が目に付く。

会話交流に乏しい日本人だが活字やTVによる情報収集は好きだ。どの街の本屋も実に立派で様々な種類の膨大な本がギッシリと並びまるで図書館みたい、活字離れと言うが、まだまだたいしたもの。単身赴任で(海外駐在員に珍しく)ゴルフ嫌いの私はたまに時間がとれると日本で買い込だ本を読みふける。私の日本人同僚も暇な時間は良く活字(新聞・週刊誌・単行本・文庫本etc)を読んでいるし、毎日の昼休みにしおりを開けては文庫本の続きを読んでいる者もいる。その昔の学生街の食堂じゃ飯食いながらうつむいて膝上の漫画週刊誌読んでる学生が多かったな。敗戦後の進駐軍が「日本じゃ靴磨きが新聞を熱心に読む」と驚いたように、日本人の本好き・活字好きは特異なほうだろう。ある米人教師から「食事中にはもっと喋りなさい」と説教されたこともある、漫画を膝に置いて黙々と食べる日本学生に我慢ならない様子だった。

しかし溢れる情報に囲まれ常に情報を求める日本人が、情報に乏しい民族よりも常識に通じているとは限らぬ。今だ文盲のいるアンデス山岳民族やアマゾン流域の部族社会にも人付き合いのルール・常識はあるし、その常識・マナーは我々にもちゃんと通じる。ある欧米先進国の大学で、大人のつきあい・マナーを知らず留学先の研究室にこもりっぱなしで顰蹙を買っている日本人研究者を何人か見た。日本人の情報好きは、他人の視点を知識としてなぞり(宗教心に替わる?)精神的充足を求めているようにも思う。しかし情報は情報でしかない、情報を知識としてため込み常識(コモンセンス)と勘違いして虚の世界で満足してしまうなら危険だ。外地の本屋は「これ何屋だろ?」と思うくらい貧弱な本屋が多く人前で本を読む姿もあまり見掛けない。そして暇なときはよく人と喋っている。女の長電話は万国共通だが、男どうしでも何時間もず~っと喋ってられるし、生活の中の人付き合いも濃厚だ。

彼等は言いたいことを腹に溜めず生身の考えをキャッチボールする中で共通感覚(コモンセンス)が生まれ、その緊張関係の中でバランス感覚も育つ。私が業務上の交渉ごとで相手と揉めて難渋していたとき傍らで見ていたアングロサクソンから「面白い! エキサイティングだね、俺も加わろうか」と言われ、私は「好きでこんな苦労してんじゃないわい、こいつらDNAが根本的に違うな」と思ったものだ。しかし万事つつがなく安泰平穏を求める日本人が得る以上のものを、彼等は人間どうしの生の切磋琢磨の中で学んでいるように見える、それも幼い頃から。それは一方的メッセージをなぞるだけの活字媒体よりもポイントがずれないし、最終的にはそれがより効果的にコモンセンスを身につける方法とも言える。

宗教のない日本は組織や国家の帰属意識や抽象理念にその代役を求めがちだが、宗教と違い国家の教義は変わる。安易な思い込みは楽だが危険である。まず人間社会の基本常識(コモンセンス)を核としてしっかり身につけそれを情報(理論)で補強補正するのがいわば常道、これと逆にコモンセンスよりも情報(理論)が先行し、人でなしが人を語り始めると人が殺される、北朝鮮のように。今やさまざまな掲示板が百花繚乱であり、その仮想空間の中だけで張り切る者も多いが(私の妹がそうである、バカモン!)、同じ時間を生の体験・議論に向けた方がコモンセンスはずっと簡単に身につく。恋愛小説書くなら恋愛映画ビデオを1000本見るより3人の生身の女とのスッタモンダ経験の方が役に立つ。(そういや映画見て世界事情を理解したつもりの独裁者殺人鬼がいたな) ネットも本もしょせん単なる情報であり、情報・知識をいくら蓄えてもコモンセンスは生まれない。「若者よ、書を捨て街へ出よ」と言った寺山修二じゃないが、たまには少しPCの前を離れ街へ出て署名し集会に参加し座り込もう(私も帰国時に近くで集会がある場合は必ず参加する)、被害者たちの感覚(sense)を共有(common)する大切な機会だ。
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【自己の足元利益を守るためにも】

2005-06-20 | アンデスの声さん投稿集
【自己の足元利益を守るためにも】 6月20日(月)

日本の組織腐敗の中枢は霞ヶ関にある。我々納税者から見れば、とりわけ日々の資金繰りに呻吟し社員の給与に身銭を削っている零細企業のオヤジからすれば、一列に並べて機関銃で撃ち殺したくなるような、ロクな仕事もせず役得手当をせしめる意地汚くいじましいフザケた血税の浪費が既得権・慣行として黙認され、当人達に罪悪感は全く無く、部外者が問題を指摘すると「俺達だって納税者だ!」「これも生活費に織り込み済みの必要な収入だ」という答えが政労協組合員からも返ってくる(恥を忍んで言えばかつてそこにいた当時の私もその慣行に無批判に従っていた)。組織体にはその組織と人間を守るための常識がある。ゼネコンの談合も当事者にとっては真面目で真剣な、実際に自分たちの生活のかかった常識、だれもがやってる必要悪、バレたのは運が悪いから、上の人間がコクミンノミナサマに頭を下げればよい、そこの労働者は「仕事が無くてもキヨク・タダシク、不正な談合するな」とは絶対に言わぬ、言っても思わぬ。拉致被害者を見殺してきた外務省には外務省職員に好都合な大切な彼等の常識がある。そしてそういうあまたの不正常識を暴き追及する正義のマスコミですら自らの常識の汚れにはゼネコン並に開き直り、弱者の味方が党是の政党が自分の組織に不都合な弱者の命は虫ケラ扱いすることを、拉致事件で我々は知った。だからダニのような総連にもダニ組織として守るべき常識があるのだろう。そして冒頭の零細企業のオヤジも可能な脱税の手だては試みているはずだ、当然。

古今東西人間が自分の身を守るのは動物としても当然だから組織・集団間の利害対立も当然生じ、自己利益のため相手を殴る場合もある、そして殴られた側に相手の事情を斟酌する義務はなく、殴った“敵”を糾弾し殴り返すか場合によっては殺して良いのが、衝突と和解の葛藤の歴史の中で(日本人以外の)人類が辿り着いたコモンセンスとしてのとりあえずのルールだ。なのに、今の日本はその常識の範囲が自己組織保全の姑息な利益確保の中だけで組織間のとりあえずのルールもない、ゆとりがない故にそういう状況に追い込まれているのだろうが、一歩引いてもう一つ上の共通のルール(コモンセンス)を確立しないといずれ個々の利益組織すら根本から崩壊してしまう、その危機を避けるために、大局的見地から英断大鉈をふるうのが・・・、オイコラ!、聞いてるか官邸と外務省。
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【沈黙の国民】

2005-06-20 | アンデスの声さん投稿集
【沈黙の国民】  6月20日(月)

「『声なき声』に耳を傾ける」と語ったのは安倍晋三の爺さん、亡くなった今もA級戦犯のレッテルを貼られ貶され続けている気の毒な爺さんだが、元気だった当時はこの国の行く末を、「一億の国民をどうやって食わせるか」を、矜持を持って真剣に考えていた、だからアンポハンタイでない派は黙って後楽園球場に向かったのだろうが、今の小泉はロバの耳だからそうはいかぬ。

日本には確かにアラブ欧米のような露骨な自己主張の文化はない。私が入社後に受けたビジネス英語研修の中では語学教育とともにユダヤ系米人によるプレゼンテーションの技術指導もあった、そう、PEELSというやつ。ちょうどその頃、河野洋平がこのPEELSの教科書通りの仕草論旨構成でぎこちなく演説しているのをTVで見て、「あ、こいつ、最近習ったな」と思わず笑ってしまい、日本人は政治家でさえプレゼンが苦手なんだな(だからあの歳で改めて教わったんだろう)、同じ手法を10代に学校でしっかり学ぶ多くのアメリカ人が見たら実に滑稽だろうと考えた(今思えば河野洋平のレベルの低さを示したに過ぎぬ、日本人相手には日本流のやり方がある、角栄はその天才)。

日本じゃ“喜怒色に顕わさず”は大切な常識だが、最近の反日中国朝鮮人に限らずたいていの民族は喜怒、特に怒りは顕わしまくる、TVニュースカメラは毎日のように拳を挙げわめき泣き叫ぶ人々を映し出す。日本人でこういうのは、まず少ないし見る側も嫌う。サッカーの国際試合で日本選手はファールを受けても自己主張しないから損をするとの指摘があったが、サッカーの盛んな当地南米の連中と日々付き合う中で私も確かにそう感じる。しかし自己主張をしない日本人に意思がないのではもちろん無く、むしろ欧米以上に強固な哲学・行動美学・倫理感・正義感は綿々と培われており武士道・五輪書は欧米でも熱心に読まれている。口べたな我々もじっくりと丁寧に渡り合えば口先だけの連中に臆する必要はない、むしろ今問題なのは自己アピールの技術よりも、その前提の意思哲学がだんだん希薄になっていることではないか、口に出さないのは昔からだ、それより価値観、倫理観の喪失の方がはるかに重大だ、これまでの北朝鮮との“ねばり強い対話”の内容の無さがまさにそうだろ。日本の子供の頭からシラミを消した進駐軍のDDTのように、戦後民主主義の浸透の中で国民の底に暗黙の了解として潜在していた声なき声が消えていき、ふだん弱者の人権を叫ぶミーイズム蝉たちが中国問題・北朝鮮拉致事件の犠牲者の人権では一斉にぴたりと啼き止み、残るのは街宣ウヨクのガマガエルの声だけという、不気味な沈黙の春がきた。だったら、疲れ果て声も枯れかかった拉致被害者のために、我々が、拡声器になろうじゃないの。時と場合次第で雄弁は金、沈黙は鉛である。
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【歪な日本の人権運動の根源】

2005-06-20 | アンデスの声さん投稿集
歪な日本の人権運動の根源】 6月20日(月)

三日間ほど当地の政府機関主催の講習会に出た。出席者は外資系の技術~財務関係者、最近の法改定に伴う投資環境・経済性評価見直し方法の講習。参加者は約50人で、狭い会場に机はなく椅子だけがギッシリと並んでいる。椅子の幅よりオトコの身体のほうがでかいから詰めて座ると隣のオトコと身体がくっついて気持ち悪い。私は早めに行って一つ空席を挟んで座ってたら遅れてきたペルー人オトコがその空席に割り込んでけっきょくギュウギュウになった。ペルー人はエレベーターや満員バスのギュウ詰めは嫌うクセに座席のギュウ詰めは平気みたいである。(ギュウ丼も食う)

で、講師がボードに書き出した数式を私が顔を上下させながらノートに書き写していたら、割り込んできた隣のオトコがこっちを覗き込んで私のノートからせっせと書き写しているではないか。おまけに私のメモを鉛筆で指して「この数字は1か7か」と聞いてきた(数字の1と7と9は日本と欧米で書き方が違うのでよくこんがらがる)。「・・・ったく図々しいし野郎だな」と思いながら教えてやったら、そのオトコは私の西語のスペルミスを教えてくれこっちが「ありがと」と礼を言うハメになった。

<上の文章で、オトコをオンナにすると主旨は全く逆になる。なお、アラブ圏ではひげ面のオトコどうしが手をつないで街の通りを歩いているのをよく見掛ける、決してホモではなく-イスラムで同性愛は重罪-そういう文化なのだが、あれも何だかなぁ。ロシア圏のほっぺにブチュ式の挨拶もいま思いだしても鳥肌が立つ。日本の文化でオトコが肌を触れあうのは相撲くらいで、張り手・突っ張りはそれをさかんに嫌がっている組み手なのである。>

(以上の話は前振り)で、講習会そのものは熱が入り、講師は話が巧く、受講者から活発な質問・意見が飛び交い居眠りする者はいない。それを三日間朝から晩までぶっとおし、休み時間は2時間に一回15分、ふだんノンビリ屋のラテン連中がよく気力体力が持つなと感心するくらいだった。私が通っていた頃の日本の大学教養部では出席や点数やカンニングに甘いいい加減な教授が「ホトケの○○」よ呼ばれいい加減な学生に人気があり、講義中の脱線話も好まれた。今回の講習会のような講師・受講者双方の真剣さは社会人講習だったからではない、学生も同じである、講師は講義という商品提供で収入を得て、受講者は自分の身銭を切った授業料分の元を取るべく貪欲に吸収し、その受講証明書を携えて会社に自分を売り込む、そういう教育現場の真剣・ドライさにおいてペルーは欧米型なのである、というより、学ぶ気のない学生を無気力教師が教えている日本の教育が極めて異常なのだ。

日本の大学教養部の存在、中でも無気力無意味な文系講座の発生は、戦後の学制改革における旧制高校教員の失業対策に端を発する。失業対策だからもともと研究教育へのモチベーションは低い。淀んだ水は腐る、そしてそこが“進歩的”社会主義思想の温床の場になり、不幸なことに人権問題もその場に収斂されていった。大学入試だけで全てが終わる日本の退廃教育を受けた学生と、ロクに論文も書かず社会運動に生きがいを見出した失業対策教授の負の相乗効果である。20数年前の授業料値上げ反対闘争のストの時、スト破りした(つまり真面目に受講し出席してきた)学生を叱り学問の自治独立を説教していたのは、まったくつまらない講義だが全員に単位を出すので人気のある法学教授だった。学問の独立、大学自治は、もともと市民の知的探求の場として政治とは独立して自然発生したヨーロッパの大学がその思想的根源だが、日本の大学はもともと明治政府がお上の命で国のために創った官製大学なのに根っこのない形だけの自治意識が甘えとして内在されたからタチが悪い、形骸化した正義感と甘ったれた選民思想。そういう異常な思想集団に日本の人権運動が絡め取られてしまったのは不幸な事態だった。彼等が大切なのは弱者よりも自分の依ってすがる思想立場であり、彼等が好むのは自分の思想に好都合な弱者、尻尾を振るポチであり、噛みつくポチは平気で薬殺対象になる、拉致被害者が典型的な例だろう。

私の父親は旧制中学中退、母は新制定時制高校卒、時代は敗戦直後、会社に就職した当初の彼等は当然のように赤色組合員だったそうだが、そのうち学卒エリート組合リーダー達の鼻持ちならない選民意識を嫌悪し組合活動から距離を置いたと聞いた、思想の先行したエリート共産党員は自分より低学歴の労働者たちを動物愛護対象の動物と同じような目で見ていたのだろう。小学卒の田中角栄を当初熱烈に支持したのは低学歴の社会的弱者たち、その角栄をつぶしたのも霞ヶ関の東大エリート官僚たちだった。
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【座り込みに向けて】

2005-06-20 | アンデスの声さん投稿集
【座り込みに向けて】 6月20日(月)

隣国の凶悪な虐殺・独裁者によって略奪され殺されかけている家族・同胞を取り戻すために圧力を掛けるべき相手が自国政府だという現実を、我々は重く受け止めたい。

昭和20年8月15日、私の父は、広島陸軍病院の避難所で死んだ被爆者の遺体から剥がした軍用毛布を上官の命令で太田川の川辺に運び水に浸して、毛布こびりついた血膿を素足で踏んで洗っていた。玉音放送の知らせを聞いたとき無念さ・悔しさでその場に泣き伏したそうだが、その後占領軍支配が進むにつれて「もう古兵に殴られない、殺されることもないし、殺さなくていいんだ」と開放感を覚え、「自由にものが言える、民主主義、自由っていいもんだな」としみじみ感じたという。それから60年間、少なくとも制度上は定着したはずだった戦後民主主義の正体がしょせん与えられたまがい物だったことが、拉致事件とともに顕わになった。60年前、多くの人々が殺され日本の都市は物理的廃墟になった。その後60年間かけて、こんどは日本人社会の精神的廃墟化がゆっくりと、深く確実に進んできたのではないか。

座り込む拉致被害者家族の姿を見ても官邸は何とも思わないだろう、それで心が動くような人間の正義の血が流れているならとっくに動いている、彼等が気にするのは座り込みへの世論の反応である、ならば相手はそこを攻めてくる可能性がある、拉致被害者の無視黙殺と奪還運動のイメージダウン、日の丸・菊紋街宣車を応援派遣して「あれはああいう連中の政治運動だ」とレッテルを貼り世論を切り離すのは簡単で効果的だ、私が工作員ならそうする、注意したい。この座り込みはもはやオカミへの請願では無い、人間としての基本的生存権を我々が自分で確保するための反権力闘争だと認識した方が良い。
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痛々し過ぎる

2005-06-06 | アンデスの声さん投稿集
アンデスの声 さん 2005/6月 6日(月)

ここまで不条理が明らかになった段階でなんでまだ当事者が座り込まなきゃならんのだ、なぜ彼等をそこまで追いつめる、日本はなんちゅう未開野蛮な人権蹂躙国か、この恥さらし的事実・・・。

彼等は私の父母とそう変わらない年齢だ。私の親は人一倍健康に気を使ってきたほうだが加齢による体力の衰えは必然、誰も避けられぬ、たまに年に一度会うたびその老いゆく姿に一抹の寂しさを感じている。もし私が拉致被害者であり、両親が体力の限界に近い中で気力をふり絞りながら私を救い出すために苦しむ姿を見たら、「もう良いから止めてくれ、もういいよいいよ十分だ、ありがとうな」と自ら命を絶つかも知れぬ、絶望感の中で、無能な祖国を呪いながら。

日本の政治家よ、被害者と家族を、なぜこれ以上苦しめるのか、それで平気なのか、なぜ動かぬ。拉致だけが政治じゃないってか、あれはウヨクが仕切ってるからってか、政治家としての自分の思想信条党利私利に益がなければ動かないってか、それが大局的見地だってか、ご立派だよ。

それから・・、老人を「お年寄り」とその表現にまで気使うマスコミよ、しっかり報道しろよな。

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二極対立を超えて

2005-05-10 | アンデスの声さん投稿集
二極対立を超えて    2005年5月10日(火)

一時帰国の荷造りをしながら聞き流していたNHK国際放送のTV画面が突然事故現場の中継映像に切り替わり、飴のように曲がり潰れて壁にへばりついた電車の映像に驚愕し「3名の死亡確認」の報に「あれが3名で済むはずがない」と思いながら空港へ向かい、四日後に日本へ着いたら犠牲者の数は100名を超えていた。

事故発生直後に消防・警察による救出活動が始まり、付近住民や工場の工員たちも救助の応援に駆けつけた。精神的にも未熟不安定な23歳の若者が数百名の命を預かり、短期間に3度も訓告・厳重注意処分を受けながらハンドルを握らせていたJR西日本の“温情”と日勤教育という陰湿情緒的な制裁制度も明らかになった。遺族やマスコミがJR西日本の「誠意の無さ」「官僚的対応」「営利優先」といった“精神姿勢”の瑕疵を責める中で、ある遺族が「JRも救助隊も事故現場では犠牲者を必死で助けようとしていた、誰かを責めて終わる話ではない」と語りTVコメンテーターもこれに同調する。遺族たちの怒りの矛先も、資本の利益優先構造を非難する側も、鉄道経営の道理、社会人としての筋、あるべき姿を訴えているのは同じ、事故をめぐるこれらの反応に私は日本を感じた。JR職員の敵前逃亡出勤やボーリング・宴会・ゴルフコンペは国鉄時代を彷彿とさせるが、当事者がカメラの前に曳き出され晒されて「軽率でした」と頭を下げて詫びている姿はやはり日本的である、懺悔がものを言う日本社会。よその国で懺悔が有効なのは教会の懺悔室と家庭の中くらいだ。

10年前ペルー南部のアレキーパ郊外に旅客機が墜落した。墜落現場にはすぐに郊外スラム街の住民が押しかけ散乱する遺品の略奪が始まり、遺体の口をこじ開けて金歯を抜く者もいた。遺族に対する航空会社の保証金は申し訳程度で「金が無い、無いものは払えない」と開き直り運行も再開、「中国の上海列車事故の場合と同様、この国の事故で死んでも死に損だから、保険には自分で入っとけよ」と教わった。外国の企業は社員教育にはあまり力を入れない。必要な労働技術は労働者が自分で身につけるもので資本家はその技術提供に対して対価を払う、労働者の技術は労働者の資産であり他人にタダでは与えないから日本式の社員相互OJT教育によるスキルアップは難しく、なまじ技術を教え込むとそれを自分の武器にしてあっさりと転職していく、特に日本企業での職務経験はハクがつく。労務ミスは一般的に個人責任、会社に損害を与えたら減棒か解雇、あのJR運転手も外資企業なら2度目の違反時点で配転か解雇されて事故も起きなかったかもしれない、欠けた運転手は新たに公募補填すれば良い。労働者の死亡災害では「社内保安規定はあり保安教育も法定どおりやっている、事故は規定を遵守しなかった被災者の責任」に帰されて、企業組織の保安管理責任が厳しく問われることは少ない。今回の福知山線事故のように加害企業のトップが犠牲者の家族を尋ね一緒に涙を流すことは奇異にさえ映る。被害者側も補償金は求めても、口先の謝罪や原因の解明や誠意あるコトバに興味は無く、まして「我々のような悲しい思いを二度と起こさないでほしい」などと被害者が加害者の倫理目標までご忠言するのも興味深い光景だ。進化した個人主義は何より自己利益をしばしば優先する。銀行から金を下ろして出てきた会計課員が強盗に襲撃され応戦した警備員が犯人を射殺したことがある、犯人が先に発砲したので正当防衛が成立、射殺は罪には問われなかったが、数日後に強盗犯の家族が銀行に押しかけてきた、「一家の収入源を失った、遺族の生活を保障しろ」と。

日本人社会には守るべき動議・道理がある、日本の中にいるとあまり意識しないがハタから見ると日本人の行動を拘束している、まるで宗教のような、日本社会特有の強い社会倫理規定である。しばしばプレッシャーになるその規定が日本の高度緻密な社会を維持している、秒単位の正確さで複雑な同時大量輸送を行う大都市圏の毎朝の通勤ラッシュの過密ダイヤ運転はおそらく日本人にしか不可能じゃないか(ラテンの連中にハンドル握らせたらその日のうちに全国で福知山事故が大発生するだろう)、われわれ消費者もその精密さを当然のように要求し、そしてそれが世界トップレベルの正確・安全神話を生み、厳しい環境基準対応技術、きわめて高度な品質管理を支えている。今回の事故でもその責任プレッシャーから徹底した原因究明と対策がなされるだろう、今回の事故は利益優先の資本の原則からも大失態である(ただし安全対策に便乗した役所の焼け太り-これは役人の常套手段-に要注意)。これも日本社会の徹底主義と強迫観念のなせるわざで、日本の安全管理・公害環境対策・品質管理はそういう失敗体験を徹底検証する過程で、結果的に世界トップレベルの精緻なシステムを築いてきた。現在JR職員は中堅の30代がごっそり抜けている、技術・安全維持にとって重大な欠陥構造であるが、こういう歪な構造にならざるを得ないほど、新規採用を10年近く中断せねばならぬほど経営体質を劣化させた主要因の一には往時の国労の無責任税金泥棒寄生虫体質にもあるわけだが、今回、安全対策へ向けて労使双方が協力を表明した、その姿勢は評価したい、過去の古臭く硬直化した労使二極対立を超えて実効性のある結論を出して欲しい。

今回の鉄道事故に見られるような日本人社会の几帳面性、徹底主義、道理思想が、かくもデタラメ理不尽な北朝鮮拉致事件においてなぜ今ひとつ全国民に拡がらないのだろう。

今年の花粉はひどかったそうだ。花粉症でない私にはちっともその苦しさが理解できないのだが重度の花粉症の私の家族によると「くっそお、奥多摩の杉林を焼き尽くしてやる、ソドムの怒りを受けよ」と温厚ペルソナがはがれるくらいしんどいものらしい。花粉はあっても空気のきれいな田舎や、排気ガスはあって花粉の無い海外では症状は出なかったのに、排ガス+花粉の多い日本の都市部に戻るたびに症状が再発する。花粉症は明らかに複合汚染による人災であるが、毎年国民の2割が数ヶ月も苦しみその間接的影響による死者は狂牛病による死者より多いだろうに農水省は動かない。対症薬による製薬会社のモウケより国民のエネルギー損失による国全体の損失の方が多いだろうに政府も国会議員も動かない。不思議である。花粉は政治問題にならないので政治団体が動かないから政治も動かないのか。交通事故の年間死者1万人と年間自殺者3万人を一日当たりにすると福知山線事故と同じ犠牲者が毎日発生していることになる。大切な家族をいきなり奪われた衝撃と悲しみに差は無いが単体の交通事故のニュース価値は低い。ニュースの重さって何だろう。我々の日常の99%以上はニュースではなく、その報道されない部分で人々は悩み苦しみながら生きている。芸能スキャンダルニュースは別として、ニュースの重さはその社会性にある。以前にみなさんの反発を食らったせりふを敢てもう一度言う、交通事故であれ病気であれ拉致であれ突然理不尽に奪われた肉親を思う気持ちに差はないが、社会的にとらえた場合、『人命の重さに差はある』。

北朝鮮がたまたま社会主義を名乗り日本の左翼連中がこの国に甘かった経緯があるので、拉致事件の露呈をきっかけに左嫌いの連中がワラワラと便乗して頭をもたげてくる。しかし鬼の首を取ったようにサヨク批判に固執している限り拉致事件解決には何の効果も無い。そもそも今の北朝鮮や中国が社会主義なものか、一党独裁の全体主義・差別主義国家だ。日本人駐在員の多くは先日の反日暴動を「官製やらせデモ」と認識しているしデモを知らない中国人学生もいる。中国国民の貧富の差も身分差別もひどく日本企業が中国人を現地採用する場合には出身地・学歴・親の職業(共産党員)を考慮“せざるを得ない”。そういう国を賛美してきた日本の左翼組織が拉致日本人奪還の役にも立たぬなら所詮彼らの人権思想レベルはその程度だったわけで無視してほっときゃいいし、それでなくても萎えているんだから、邪魔するならつぶせばよいが、叩くべき真犯人北朝鮮とその直属を叩く刀はむやみにあちこち返さない方がいいのではないか。東西冷戦は10年以上も前にとっくにおわり、世界の人々は新しい視点の中で個別に是々非々の判断で動きつつある。5月1日のメーデーの日に近くの公園に出向いたら、労働旗を掲げた初老オジン連中と日の丸掲げた右翼の街宣車、戦後60年間日本を浅薄皮相な二極対立構造で硬直化させてきた馬鹿の双璧が拡声器でわめきあっていた。

北朝鮮拉致事件は独立した事件ではない、その病巣は日本社会の隅々まで根を広げているから拉致事件だけを引っこ抜いてもまわりの土壌ごとひっくり返る可能性が高い。拉致事件を風化を狙う連中は右にも左にもまたがっているから、この問題に既存の左右二極対立を持ち込むと双方を敵に回し、中間的な浮動票も離れ、却って風化が進むのではないか、それは風化を望む連中の思う壺である。だから、二極対立を離れて「北朝鮮・拉致事件のみ」で攻めるべきだと思う。拉致事件は国家の根幹にかかわるきわめて社会性の高い大問題であり、拉致被害者の命をおろそかにすることは自国の崩壊につながりかねず、そうなれば鉄道の安全も自殺も交通事故も花粉症もBSEもクソも無くなるのだから。

2002.9.17以降、多くの日本人もマスコミも変わったが、総連も北朝鮮も金正日も依然として変わらない、こっちの変化に対応は相応に変えても彼らの本質は何一つ変わっていない、日本人の怒りも非難も全く堪えていない。創価学会や池田大作を非難する記事や本はもう何十年も前からたくさん出ているが池田も学会も信者も依然として変わらない。オウム真理教も同様。彼らはいつも壁の向こうにいて、外部からの非難はまったく堪えない。私は10数年前の朝生での『オウムvs幸福の科学』を見て「へぇ麻原ってホンモノじゃん、かたや幸福の科学はアホだな」と麻原に素直に感心してしまった一人である。その後のサリン事件で正体は分かったが彼らの心の中は殻の中に封印されてしまいわけが分からずどうにも後味が悪い。我々もむやみに相手に殻をかぶせると自分も殻をかぶってしまう、すくなくとも周りの浮動票はそう捉える、そういうことを避けたい、このご時世では先に殻を脱いだほうが勝ちだと思うのだが。硬直化した北朝鮮戦略を進め浮動票を引き寄せ声を拡げるには、そういう認識が必要ではないか。

私は、日本の中国侵攻と朝鮮併合は日本の国家犯罪と認識している。しかし中国へのこれ以上の謝罪や補償は不要、東アジアの平和のためにもODAは即刻廃止し、靖国参拝も中国が反対するならむしろ中止すべきでないと考えている。北朝鮮への賠償も現金正日独裁体制が存続し拉致日本人を全員戻さない限り無用、凶器を持ったキチガイへのODA援助など検討すら論外。反日デモ直後にバンドンで謝罪表明した小泉は、それを要請した財界・外務省は死の商人と売国奴に等しい。こう言うと二極対立に慣れた視点から「いったいテメエはどっちなんだ」と罵声が聞こえそうだが、私は日本でしか通用しない特定の政治家や政党が得しようが潰れようがあまり興味は無い、私が大切に思い傷つけたくないのは、日本人が生きる場として世界唯一の日本社会である。

日本上空にさしかかった機窓から見る成田空港周辺の地面があたり一帯水浸しになっていたので「すわっ、利根川氾濫か?」と驚いてよく見たら水を張った水田だった。南北米大陸の西海岸の大部分、アフリカ、中東、豪州大陸の多くは乾燥沙漠地帯である。そういう自然が殺伐とした国から日本へ来ると日本の気候の湿潤さ、自然の細やかさ・豊かさ・密度の高さを実感する。久々に眺める日本の山野はちょうど新緑に覆われ瑞々しく穏やかに輝いている。数年ぶりに陽光の中のヒバリのさえずりを聞いた。気候風土の異なる国の人々の気質はその土地の自然環境にも大きく影響されるように思える(同様な気候と気質の相関は日本国内の気質の地域差にも感じる)。マルクス資本論の形成に強い影響を与えたダーウィン進化論の支えとなったのは洋上に孤立したガラパゴス諸島の閉じた生態系である。この競争原理・自然淘汰の解釈に基づくダーウィン進化論に対し、豊かで穏やかな日本の自然の詳細なフィールド観察に基づき種の共存・共生原理から進化論を唱えたのが京大の今西錦司*である。ダーウィニズムの心棒者が支配する当時の日本の学界は今西進化論をことさら無視したが、今私は、日本特有の生態系観察に基づく今西進化論の妥当性を感じ始めている、その日本の自然が数千年にわたって育んだ日本人の気質を(その底に秘められた陰湿・残忍性も含めて)考える上でも。

祖国でのつかの間の休暇を終えて、明日からまた砂漠の地へ向かう。

*: 『ダーウィンを越えて 今西進化論講義』  今西錦司 吉本隆明 著 朝日出版社
20数年前の本なので絶版でしょうが図書館にはあると思います、平易な表現で読みやすい本なので興味ある方は一読下さい。
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家族の絆と、国との絆

2005-04-18 | アンデスの声さん投稿集
家族の絆と、国との絆
         アンデスの声さん  2005年4月18日

今週後半から一時帰国予定だったので「よおし、24日の国民集会に参加できるぞ」と土日返上で業務をこなしてきたが野暮用が入って日程がずれ込み無理になった。どうか、盛況で実りある集会になることを、祈っています。

最近、当地の知人がアメリカとフランスへ移住した。自国での将来に見切りを付け、むこうに住む家族・親族をたよって国を去った。「日本に行って働きたい」という相談もしばしば受ける。日本の事情を知らなくても、街中を走り回るピカピカの日本車や店のデジカメ・電器コーナーを席巻している日本製品に日本がとても豊かで輝く国に思えるようだ(当地の日本ブランド製品の多くはmade in Chinaなのだが)。良い仕事、より豊かな暮らしを望んでコトバができなくても文化が違っても平気で国境を越えたがる彼等の感覚は、我々日本人とやや異なる。彼等が国との絆よりも大切にするのが家族や知人・友人との絆である。中東ベドウィン社会でも国よりも血縁ベースの部族への帰属意識がずっと強く、アラビア半島の地図に一部国境が描かれていないのもそのため、サウジアラビアの国名も“サウジ家が(ようやくたまたま)統一したアラビア”の意味、彼等にとって国家は道具としての組織体に過ぎない、が、人間は一人では生きていけない、国が頼りないとなおさら人は人との絆、家族や部族との絆をより求めるのだろう。

日本に何年も暮らした日本事情に詳しいガイジンがかつて私に「日本人の親戚のつきあいって年賀状とお葬式の時くらいでしょう、私たちはいつも普段から親戚や友人との関係を大切に育てているわよ」と語った。我々はそうまで日々努力して人間関係を創り出さなくとも、ムラ社会や職場組織への帰属意識と同様、海外へ出てもただ日本人というだけで一種安心感を覚える、日本国籍であることが一種家族体のような意識を我々にもたらしてきた。そういう、自分を無条件に護ってくれるハズだった国から見捨てられた時、国の脆弱さに気づく。国は国民が創り出し声を上げきちんと支え動かさないと、何もしてくれないものだと。国に見放された個人に残るのは親子・家族の絆だけだが、特定失踪者にはその絆さえ希薄だった者も多く、そしてそういう人が特に狙われた。国家が見捨てた彼等を我々国民も見捨てるなら、彼等を救う絆はもう残されていない。

NHKニュースで、今日も街頭で国民集会への参加を懸命に呼びかけている高齢の横田夫妻の姿を見て、ふとそう思った。

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鰯を侮るべからず

2005-04-11 | アンデスの声さん投稿集
  鰯を侮るべからず  アンデスの声さん

もとより我々は拉致問題で自己主張・自己実現をしたいわけではない。強引にさらわれ人生を、命を蹂躙されて続けている同胞被害者を助け出したいのが原点、そこから自国への危機意識も生まれてくるが、当事者は拉致被害者とその家族であり、我々はサポーター、マトリックス、一山いくらの鰯の群れであることは了解済みだ。そういう素朴な素人集団ながら24時間体制で掲示板を維持したり自主的に集会報告をしたり街頭署名応援に出かけている方々には、たまに思いついて投稿するしか脳のない私には頭の下がる思いである。

掲示板で経済制裁を求める声がトーンダウンしたのは気移りしたからではなかろう、昨年末に気運があれだけが高まっても政府・政治家が何も具体的に動かなかったことへの失望感から“いったいどうしたもんかいな”との閉塞感はあるが(私の場合)、少なくとも国交正常化の動きへの歯止めは掛かっている、とにかく火を絶やさぬようあの手この手でこれがダメでも別の点から騒げばいい、ベクトルの向きと大きさに変化はない。

この拉致事件は普通の国なら総連・社民党本部・総理官邸の焼き討ち暴動に発展してもおかしくない、国民・国家の根幹に関わる危険でスキャンダラスな事件なのに、何となく国民が静かなのはそれが日本人の気質なのかとも思う。あの中国の暴徒の姿を多くの日本人は“下品”と感じ顔をしかめたんじゃないか。我々は露骨な自己主張のDNAに乏しい。しかし我々には我々の方法があるはずだ、感情を爆発させるより効果を考えたい、目的ははっきりしているのだから。

戦後まともな市民運動がほとんど育たなかった日本人の意識は市民運動後進国といえる(今の市民運動の多くは思想趣味クラブの思想活動に過ぎぬ)。この拉致事件解決をめぐる動きにようやく一般市井人による、運動を目的としない本来の市民運動の萌芽を感じる。我々の市民意識は未熟だし運動も素人だし、最善の方法はわからない、しかしだからこそ目的達成の方法が具体的に見い出せれば、鰯の群れは動くべき方向へ動く。もし仮に総理官邸焼き討ちが最も効果的手段となれば、私はそれに参加する。

周知の通りペルー沖は世界最大級の漁場で、日本マグロ漁船の基地もあり高級マグロは冷凍せずに日本へ空輸されている。今年は海水温が高めで鰯(アンチョビータ)がチリ沖へ南下したのでマグロも南下ぎみだ。漁獲量の大部分はこの鰯なのだが魚粉と魚油に使われるので魚屋に鰯は置いてないしほとんど目に付かない。日本の商社は利ざやの多い高級マグロしか相手にしないが、そのマグロを、そしてペルー全体の漁業を支えているのは、水温変化と潮に流されているだけに見える、アンチョビータの大群なのだよ。

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法王死して私の下痢は続く

2005-04-05 | アンデスの声さん投稿集
法王死して私の下痢は続く   アンデスの声
鳳凰は不死身だが生身の法王は死ぬ。法王の死を悼み喪に服するよう、ブラジルもフィリピンもフランスもイギリスも大統領が国民に呼びかけた(政教分離は世界の非常識?)。カトリック教徒にとってのローマ法王の存在感は我々日本人(少なくとも無宗教の私)にはどうにもさっぱりわからぬが、たぶん彼等にとって民族・国家を超えた、国連よりも大切な精神的拠り所なのだろう。

植民時代の布教活動により国民の9割がカトリック教徒(リマの宗教裁判博物館には改宗に応じない先住民に対する往時のすさまじい拷問の様子が蝋人形で再現されている)となった当地では、今回の法王死去で昨日緊急政令が公布され3日間喪に服することになった。本日月曜も朝から街全体が静まり各教会で追悼ミサが行われている。ふだん付き合う中ではあまり意識しなかった、自分の知らない彼等の精神世界を垣間見た気分である。

その昔、英国教会圏の大学に滞在中、下宿屋のオバサンから「日本人のあなたは仏教徒でしょう?」と聞かれ私が「いえ、宗教は無い」と答えたら目を丸くして「宗教無しに人は生きられない、神がいないとみんな自殺しなきゃならないでしょう」と真面目に語り始めた。宗教が当たり前の国において無宗教にはアナーキストの印象があり物言いには注意を要する。アラブイスラム圏の仕事していたとき必要知識としてイスラムの本は色々と読んだが本はあくまで本、彼等の信心の心の襞の奥には部外者には窺い知れぬ部分がある。南米担当になるとき経験者から「ここのカトリックはいわば浄土真宗、みんな賛美歌は歌うが門徒のお経みたいなもんで、聖書をまともに読んでいる者は少ない」と聞いた。若い頃にプロテスタントの洗礼を受けた私の母の聖書には所々に赤線が引っ張ってあったが、そういうクソ真面目なのが(特に日本人の)新参信者の特徴らしい。南米の人々にとってカトリックは別に何もしなくても最初から精神・生活の中に溶け込んでいる空気のようなものなのである。

日本の天皇、ローマ法王、北朝鮮の独裁者を(不謹慎ながら)並べてみる。天皇制に反対する一部の日本人も人間としての皇族個人を嫌う者は少ないはずだ、天皇制大嫌いなあの本多勝一でさえ日本山岳会で出会った皇太子の人となりについては好感を持って高く評価していた。ヨハネパウロ二世の人柄は宗教・宗派・民族の壁を超えて広く敬愛されていた。で、一部の狂信者に支えられながら民族国境を越えて蛇蝎の如く憎まれ嫌われている金日成・正日親子、彼等は何をめざそうとしたのだろう。自信と自惚れ、自覚症状は似ているがその判断を下すのは他人である。ある価値観を人々が精神風土として受け入れ消化するのは理屈でも強制でもなく自身の良心からであり、寛容と慈愛を欠いた社会思想はいずれ必ず破綻する、膨大な屍とともに。

ところで私は先週水曜日に親不知の抜歯縫合手術して以来固形物が噛めず牛乳に浸したパンとヨーグルトだけ食べていたらずっと下痢ぎみで、今日ようやく抜糸の予定だったのに法王追悼休日で歯科医院も休業、私の下痢はまだ続くことになった。

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北朝鮮の公開処刑について

2005-03-26 | アンデスの声さん投稿集
北朝鮮の公開処刑について  2005年3月26日(土) 

(所用でしばらく日本のニュースから離れていてやや浦島太郎の気分ですが、拉致事件の状況はあまり変化がない、残念ながら。最近の動きをざっと拝見し「北朝鮮公開処刑ビデオ」への反応について少し引っかかったので感じたことを述べます。)

ブラジルにシュラスコという串焼肉料理がある。サーベルみたいに長い鉄製の大串に刺した牛の塊肉を岩塩だけで味付けし炭火で焼きナイフで肉を削ぎ落としながら食べる風土料理で、霜降り状に脂肪が入ったクッピンと呼ばれる瘤(首の後ろコブ)の肉は特に逸品である。ブラジルの片田舎で数ヶ月の仕事が終わったとき現地の連中がこのシュラスコを馳走してくれた。中型の瘤牛が村の広場に引き出され、一人の男が柄長のハンマーを牛の眉間に叩き付けると牛は赤土の上にどうと倒れ、その場で解体作業が始まった。抜いた血をバケツにため皮を剥ぎ肉と臓物を分け骨を割り手際よく解体が進む。私はこういうのはわりと平気な方だが、同行の日本人は青ざめてその肉をあまり食べようとしなかった。牛の解体現場は大勢の子供達が取り巻いて目を輝かせながら眺めていた、それはちょうど、私が幼い頃、台所で魚を捌く母の手元をワクワクしながら眺めていたように。

アンデス山中でバスが転落した。そのバスに乗っていたはずの同僚を捜しに他のペルー人スタッフと一緒に現場に駆けつけたら、草原の上には約20名分の損傷した死体がまだ転がっていた。うつ伏せの遺体は後ろ髪を引っ張り顔を起こし覗き込んでは仲間の死体を捜しているペルー人たちの姿を少し離れた場所から眺めていて私は気分が悪くなり草の上に吐いた。当地では事件・事故の遺体の映像をそのままニュースで流す。公邸事件で射殺され階段の踊り場に仰向けに転がるMRTA首謀者セルパの遺体もそのままテレビ放映された。先週の朝のニュースで、誘拐・殺害・死体遺棄された下着姿の中年女性の死体が用水路の水門にゴミと一緒に引っかかってうつ伏せに浮かんでいるシーンがアップで映ったときはさすがに口に入れかけた朝飯の目玉焼きを飲み込めなくなった。焼き豚に巻き付けるタコ糸のように、膨らんだ背中にブラジャーの背ヒモが食い込んでいる光景がいまだ目に浮かぶ。植民地時代の白人入植者の数千体のミイラ(白骨)が並べられたリマ・サンフランシスコ教会のカタコンベ(地下墓地)は観光名所のひとつであり、プレインカ時代のミイラを自宅に飾っている御仁もいる。人の死体の扱いは民族・文化が違えばかく異なる。

サウジアラビアでは今も公開処刑である。テレビ放映はされないが、月に一度、各都市の処刑場に行けば誰でも見ることができる。死刑になるのは不倫・同性愛者が多い。死刑の受刑者は何か飲ませられているのか引き出されたとき既にフラフラになっている。不倫の男は刀で首を切られ、女は下半身を地中に埋め頭部に石を投げつけて殺される。イスラムで同性愛は重罪のためレイプした同性被害者を口封じのため殺してしまい殺人罪として裁かれる場合が多い。麻薬は死罪だが酒の密造は鞭打ちの刑、これは数が多いので受刑者が順番に並び鞭打つ側も手が疲れるので複数の執行者が交替で行う。これらの処刑は全てコーランの規定にのっとったいわば宗教儀式で淡々と行われる。不倫女の処刑方法もコーランの規定で「女の首は切ってはいけない」ためである。

日本のテレビが逮捕者の手錠にモザイクをかけるようになって久しい。逮捕者の“人権”を守るためか、子供への悪影響を恐れてのためか知らぬが、私の父は18歳の時に広島で何千人もの死と死体を目の当たりにし腐乱した死体の処理を何日も続けた悲惨な体験をしながら人や生き物の死には深い思いを抱いていて、飼っていた金魚が死んでも墓を作って弔うように幼い私に命じた。私の実家の近所に、前原一誠の乱の首謀者たちの処刑を幼い頃に目撃したというお婆さんがいた。「首が切れる瞬間にゃ“シャバッ”ちゅう音がしての、首から血がピューッと飛ぶんよ。」 幼少時に公開処刑を目撃したこの婆さんは決して人命を粗末に考えるような人ではなく、路傍の地蔵にも手を合わせる人だった。今の日本は人の死をことさら隠すことで、むしろ興味本位で見たがる、はたまたバーチャルと混同してしまう未熟なバカが現れるのではないか。かつて日本で処刑は公開されていた、京都三条河原は明治まで続いた獄門さらし首の場だ。そして今も日本に死刑はある。民主主義国家が国民を処刑するのであれば、その国家の主体である国民はその事実から目をそらすべきではなく、真の民主主義国家ならその処刑を国民に公開すべきともいえる(・・・ま、現実にはそうはいかぬでしょうが、私が言いたいのは、きれいにパック詰めされた牛肉を買ってきて美味そうにスキヤキを食うなら、その背景の事実を段階から、その生命の重さとともにきちんと理解しておくべきではないか、ということ)。

今回の北朝鮮公開処刑映像も、処刑が公開であることを問題にすると視点がずれるのではないか。我々が問題にすべき点は処刑の公開・非公開ではなく、あの受刑者達がなぜ処刑されたのか、“金正日という個人”が北朝鮮国民を情報閉鎖により一方的に洗脳し一方的に虐殺しその虐殺シーンを使ってさらに恐怖支配しているというおぞましく野蛮な強権支配の事実証拠としてあの映像の意味がある。一方のサウジアラビアでは北朝鮮と違い外部情報は(ヌード画像を除けば)結構正確にに入っており、彼等は他の世界も知った上で、酒や売春のはびこるだらしない世界を忌み嫌い、イスラムの戒律を至上の価値として自分の身を委ねている。サウジのイスラム教徒を律しているのは脂ぎった生身の野蛮な他人ではなく自らの強固な信心であり、その個人的信心に基づく戒律社会の決めごとによるサウジの公開処刑を欧米の“人権屋”が野蛮と言うのはお節介かつ“解放”に名を借りた中東支配の口実に過ぎぬ。したがって、サウジの公開処刑はちっとも野蛮ではなく、北朝鮮の公開処刑は野蛮極まりない、と私は考える。
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