法話1 (深川倫雄和上)
阿弥陀さま、阿弥陀さま
近頃、「親鸞」、「親鸞」とご開山さまを大事にしすぎる。
親鸞と言うとけばそれがお念仏の信仰だと思っている人がある。
親鸞・親鸞あまり言わなくてもよろしい。
もっと言わなければならないのは「阿弥陀さま、阿弥陀さま」ということ。
阿弥陀さまのお慈悲に救われて西方の極楽に参って仏になる。
これが私どもの信仰なのです。
「此の御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩」であります。
大勢の「もの知り」達が親鸞・親鸞と呼び捨てにいたしまして、ご開山さまのことを書くけれども、一体その人達に阿弥陀さまがいるのかと聞きたい。
親鸞と書かないでもっと「弥陀」と書いてもらいたい。
勿論、ご開山さまを阿弥陀さまのお使いと頂くのがお念仏の頂き方でありますけれども、やはり親鸞聖人に救われるわけではありませんよ。
何故、親鸞・親鸞と言うのかといえば、結局阿弥陀さまを持たない。極楽を持たない。
そして人間であり凡夫でありましたところの親鸞聖人のことならわかりますから、だから人間親鸞を大事にする。
人間親鸞を大事にするのなら、乃木大将や東郷元帥を大事にするのと全く変わりません。あるいは「あそこの先生は立派な人だ」というのと同じです。
私どもにはいろいろな趣味があります。説教中に眠るのを趣味にしておるのもおる。
絵を画く趣味、盆栽の趣味、剣道、柔道、水泳、奇妙きてれつな趣味もある。
巾着(きんちゃく)掏摸(する)のが趣味の人もある。
株をやるのが趣味の人もある。
株ってそう儲かるものじゃないけど、毎日電話とラジオを聞いて売買をして、そう儲かるものではないが楽しい。緊張してますからね。
ところが一つもないという人もあるかも知らんが、どなたにも共通した趣味が、人間の評判であります。
面白いですよ。趣味にはまあ、書道ならそれぞれ流儀があってグループを作りまして、そして景気づけや激励のために品評会がある。
そしてあれがええ、これがええとやる。
人間の品評会がある。これだけは、どなたもするところの趣味であります。
- 「あの人は若いのに禿ちょるのお」
- 「ありゃ、おやじが禿ちょったから」
- 「ありゃ、禿ちゃあおらんが三十代で真っ白や」
- 「ありゃ、ばあちゃんがそうじゃった」
それくらいならまあええが、
- 「あそこのばあさんは、たいがいにゃ根性が悪い」などと、すぐ品評会がはじまる。
その一類として親鸞聖人という、人間親鸞の品評会をするならば少しも信仰ではない。
信仰というのは、阿弥陀さまを信じ、極楽を信じ、眼をつむったら西方のお浄土へ参るというのです。
だから私どもは阿弥陀さまを持たねばなりません。極楽がなければなりません。
「あるような気がせん」
お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて待っていて下さるちゅうたら、「はあ、そうでございますか」と聞いておけばいいんです。
ここまで
私は「はあ、そうですか。」と行かないのである、とほほ
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