30歳にして、シンもようやく結婚し落ち着いた。
ここからは、アタシの父としてのシンを書いていこうと思う。
父は秋田銀行の中でもちょっと異質なタイプであり、しかも、出世街道からも外れて独自の道を進む。
お酒が好きでとことん楽しい酒を飲む。
車の免許も持っていないのは、どこに行ってもお酒を飲みたいから、車生活はできないと自分で言っていた。秋田で、しかも営業をしなければいけない銀行マンで車の運転ができないとは、さすがに珍しいと思うが。
お酒は、日本酒なら1升は軽いし、ウイスキーでも1本あけてしまうくらいの酒豪で、誰かが止めなきゃきりがない。
ただ、たちの悪い飲み方はしない。
楽しい話で盛り上げるのも得意な男で、真っ先に歌を歌ったり、ふざけて変な格好をしたり、芸達者で沢山の友達に囲まれていた。
父の歌声で好きなのは「錆びたナイフ」や「今日でお別れ」かな。幼かったアタシが寝言で菅原洋一の今日でお別れを歌いきったのは、伝説になっている。よほど、父の歌声が気に入っていたらしい。
部下の結婚式で挨拶を頼まれると、「堅苦しい挨拶は抜きにしてこの歌を贈ります!」といきなり小坂明子の「あなた」をアカペラで熱唱してしまう人だった。
アタシの結婚式では「娘よ」を挨拶代わりに唄った。
旦那の親戚は、かなり面食らっていたと思う。が、父だけではなく、おじさん達(父の兄と弟)も民謡を歌ったり、踊ったり、後に続けとばかりそれぞれ芸を見せ、伝説の3兄弟を目一杯披露してくれた。(昔から地元では有名な3兄弟だったようだ。)酒も馬鹿みたいに飲むからもうあきれて言葉を失っていた。
スポーツも得意だ。
元々学生時代はサッカーをしていたが、銀行時代は野球部の部長をしていて、よく企業対抗野球大会に連れて行かれた。実は、この野球部部長をしたことが、父の死に方の明暗を決めた。
ゴルフコンペでも必ず賞品をもらい、何をやらせても器用にこなす。多分、賞品泥棒と嫌われていたかもしれない。
趣味はスポーツだけにとどまらず、山菜採り、キノコ採り、釣りと食につながる趣味には特に才能を発揮していた
父親としては、何かに夢中になると連れて行った娘の存在を忘れてしまうあり得ない親で、むかーし、キノコ採りに連れて行かれた姉が山の中に置き去りにされたことがあり、母を泣かせたことがある。
仕事はというと、多分、適当にそつなくこなしていたのではないかと思う。
若い時にいきなり、八郎潟干拓事業と新農村建設事業団という国の仕事に経理として銀行から出向した。
八郎潟干拓は、昭和27年独立国となった日本が経済的な自立のためにも食糧の自給率を高め、食糧問題と過剰人口問題を一挙に解決できると大いに期待された国の事業である。
最新の土木技術を駆使し、7年の歳月と543億円の国費を投じ、昭和39年9月には、ついに干陸に成功、約1万6千haの土地が新たに誕生した。
昭和40年からの国の全国公募による入植事業は八郎潟中央干拓地が初めてであり、沢山の入植希望者から審査をし、通過したものには1年間もの訓練を義務付ける程、徹底していた。
まるで街づくりゲームのように、生活に必要な施設を作り、新しい農村を作り上げる…そんな仕事は、たぶん父に合っていたと思う。
しかし、その後、国の減反政策により、全財産を処分することを条件に入植した農民の中では自殺者もでたり、離農者も相次ぎ、ニュースでは「闇米」の流通による逮捕も報道された。未だに、日本の政策によって犠牲になったモデル地区であり続けているのだ。
父は一旦銀行へ戻ってはいたが、共に村を作ってきた戦友のような彼らの痛みを、いつも同じように感じていたようだ。
そして、事業団から銀行へ強い要望があり、1978年の事業団解散までの数年間、再度、出向することとなる。
これによって、父は出世道から外れ、銀行に戻ってからも東京事務所に長期間勤務し、大蔵省などに関わるような仕事に着くのだ。(内容は理解できなかったが、造幣局の話などを聞いたのは面白かった。)
ここから、東京世田谷の高級住宅地でのなれない生活が始まる。
アタシは、中学2年生。
ちょうどサザンのいとしのエリーが爆発的ヒットをした年だ。
ここからは、アタシの父としてのシンを書いていこうと思う。
父は秋田銀行の中でもちょっと異質なタイプであり、しかも、出世街道からも外れて独自の道を進む。
お酒が好きでとことん楽しい酒を飲む。
車の免許も持っていないのは、どこに行ってもお酒を飲みたいから、車生活はできないと自分で言っていた。秋田で、しかも営業をしなければいけない銀行マンで車の運転ができないとは、さすがに珍しいと思うが。
お酒は、日本酒なら1升は軽いし、ウイスキーでも1本あけてしまうくらいの酒豪で、誰かが止めなきゃきりがない。
ただ、たちの悪い飲み方はしない。
楽しい話で盛り上げるのも得意な男で、真っ先に歌を歌ったり、ふざけて変な格好をしたり、芸達者で沢山の友達に囲まれていた。
父の歌声で好きなのは「錆びたナイフ」や「今日でお別れ」かな。幼かったアタシが寝言で菅原洋一の今日でお別れを歌いきったのは、伝説になっている。よほど、父の歌声が気に入っていたらしい。
部下の結婚式で挨拶を頼まれると、「堅苦しい挨拶は抜きにしてこの歌を贈ります!」といきなり小坂明子の「あなた」をアカペラで熱唱してしまう人だった。
アタシの結婚式では「娘よ」を挨拶代わりに唄った。
旦那の親戚は、かなり面食らっていたと思う。が、父だけではなく、おじさん達(父の兄と弟)も民謡を歌ったり、踊ったり、後に続けとばかりそれぞれ芸を見せ、伝説の3兄弟を目一杯披露してくれた。(昔から地元では有名な3兄弟だったようだ。)酒も馬鹿みたいに飲むからもうあきれて言葉を失っていた。
スポーツも得意だ。
元々学生時代はサッカーをしていたが、銀行時代は野球部の部長をしていて、よく企業対抗野球大会に連れて行かれた。実は、この野球部部長をしたことが、父の死に方の明暗を決めた。
ゴルフコンペでも必ず賞品をもらい、何をやらせても器用にこなす。多分、賞品泥棒と嫌われていたかもしれない。
趣味はスポーツだけにとどまらず、山菜採り、キノコ採り、釣りと食につながる趣味には特に才能を発揮していた
父親としては、何かに夢中になると連れて行った娘の存在を忘れてしまうあり得ない親で、むかーし、キノコ採りに連れて行かれた姉が山の中に置き去りにされたことがあり、母を泣かせたことがある。
仕事はというと、多分、適当にそつなくこなしていたのではないかと思う。
若い時にいきなり、八郎潟干拓事業と新農村建設事業団という国の仕事に経理として銀行から出向した。
八郎潟干拓は、昭和27年独立国となった日本が経済的な自立のためにも食糧の自給率を高め、食糧問題と過剰人口問題を一挙に解決できると大いに期待された国の事業である。
最新の土木技術を駆使し、7年の歳月と543億円の国費を投じ、昭和39年9月には、ついに干陸に成功、約1万6千haの土地が新たに誕生した。
昭和40年からの国の全国公募による入植事業は八郎潟中央干拓地が初めてであり、沢山の入植希望者から審査をし、通過したものには1年間もの訓練を義務付ける程、徹底していた。
まるで街づくりゲームのように、生活に必要な施設を作り、新しい農村を作り上げる…そんな仕事は、たぶん父に合っていたと思う。
しかし、その後、国の減反政策により、全財産を処分することを条件に入植した農民の中では自殺者もでたり、離農者も相次ぎ、ニュースでは「闇米」の流通による逮捕も報道された。未だに、日本の政策によって犠牲になったモデル地区であり続けているのだ。
父は一旦銀行へ戻ってはいたが、共に村を作ってきた戦友のような彼らの痛みを、いつも同じように感じていたようだ。
そして、事業団から銀行へ強い要望があり、1978年の事業団解散までの数年間、再度、出向することとなる。
これによって、父は出世道から外れ、銀行に戻ってからも東京事務所に長期間勤務し、大蔵省などに関わるような仕事に着くのだ。(内容は理解できなかったが、造幣局の話などを聞いたのは面白かった。)
ここから、東京世田谷の高級住宅地でのなれない生活が始まる。
アタシは、中学2年生。
ちょうどサザンのいとしのエリーが爆発的ヒットをした年だ。
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