墓石クリーニングの女

お墓と向き合うことで『大切なもの』を日々感じながら、あつく生きる女…それが、アタシ。

父の話 ~東京そして妻の死~

2014年01月09日 | あきねぇ便り
転校先の学校でアタシは自己紹介をさせられ、先生からの突然の質問に「んだ!」と満面の笑顔で答えたことがある。

数年後には(おしん)の大ヒットで方言への親しみも定着していたが、この時はクラス全員がドン引きだった。

秋田でしか暮らしたことのないアタシは、「んだ」がなまりだと知らなかった。本当に、自分が思いっきり秋田弁だと気づいていなかったのだ。

さすがのアタシも、中学2年生の思春期だし、「オラはなまってたんだ・・・しらねがった~~」と落ち込み、しばらく誰とも口を利かなかった。

段々、東京の言葉を覚え(東京も標準語ではありません。独特の話し方です。)友だちもでき、中2の時のトラウマも消え、新しい高校生活に張り切っていた頃のことである・・・

初めての満員電車に乗って通学。

父と同じ電車だったから、一緒に乗った。

なんて、ひどい乗り物だ!!!とヒーヒー言って乗り込むと、長身の父が離れたところから「明子~~おめ~大丈夫だが~~こっちゃけ~~」と叫んでいる。

信じられない!!!!あんな大きな声で、秋田弁丸出しで、こっち見ないでよ~~~~~!!!

あの時の恥ずかしさは、今でも覚えている。

それから、二度と同じ電車にのるのはやめた。



世田谷区の高級住宅街での生活は、7年にもなった。

アタシは進学先に秋田の短大を選び、一足先に秋田へ戻った。都会で一生暮らす気にはなれないと思っての事だったが、何故か今、こっちで暮らしている。

秋田へ戻ると、父は本社の営業部次長となり、家を建て、アタシは就職も決まり落ち着いた生活が始まった。はずだったが、まもなく母が癌になった。

母の癌は大腸から、子宮~卵巣~直腸と転移し、手術を繰り返した。

抗癌物質による吐き気や脱毛も辛かったが、あまり泣き言は言わない人だった。しかし、人工肛門になり着物を着れなくなった時だけは、「お茶できなくなるよ。」と悲しそうにつぶやいた。

母は自宅を新築する時、お茶室を作り時々お茶会を開くなど、人を集めるのが好きだった。

段々弱っていく母を見て、アタシは仕事を辞め、専業主婦をしながら看病することに決めた。

もう時間の問題と言われてから、3年生きた。

最後のひと月は、モルヒネ漬けになり、幻覚を見るようになっていた。

自分もあちこち痛かったはずなのに、付き添っているアタシにいつも言うのは「お父さん火事起こすから早く帰れ!」「お父さんお腹すいてるから早く帰れ!」と父の心配ばかり。

で、本当に病室から出て行くまで納得してくれない。

少しウロウロして戻ってくると、自力でポータブルトイレに降りたけど立てなくなって座り込んでいたり、自分のことより父のことばかり心配する母が、とても悲しくて。

でも、父は病院にこなっかった。

姉と二人、こんな男とは結婚したくないねと話していた。

たまに顔見せてあげてと言っても、こなかった。

だから、父を恨んだ。

そして母は旅だった。




「ご臨終です」と言われた数分後には、姉とアタシは泣きはらした顔のまま、走り回っていた。

姉は、遺体の処置を待って自宅に運ぶ準備のため病院で、アタシは自宅に戻り、母が寝れるようにお茶室の掃除をした。

母が戻ると、弔問客のためのお茶の準備、お通夜や葬儀の打ち合わせ、役所への届け、親戚への連絡や宿泊の準備・・・悲しんでなんかいられない。泣いてなんかいられない。

そんな時、ずっと泣いてる人が・・・

父だ。

初めて見た、父が泣いているところ。

人目も気にせず、酒のんで、オイオイ泣いていた。

頭にきていたけど、全部許せた。

辛くて、病院来れなかったんだね。

お葬式の日に、あの札幌で始めてあってもらったおみやげの蛇革の財布、使っていたの知ってるよ。

母は、プレゼントしても全然使わないって愚痴っていたけど、本当は大切にしすぎて使うタイミング逸してしまったんだよね。

なんで、生きているうちに、優しい言葉の一つもかけてあげなかったんだろう。

器用な人なのに、母の前では不器用で素直になれなかったんだね。



妻を失った父は、まもなく仕事を早期退職し、大好きなゴルフも行かなくなり、引きこもり、酒を煽り、食事制限もしなくなり、持病の糖尿病が悪化して、片足を失ってしまう。

ただのひねくれオヤジになってしまった。

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