先日山下公園内を散策していると、木の陰に隠れるように
建っている記念碑が目に飛び込んだ!!!
記念碑には次のように刻まれていた・・・・
リカルテ将軍記念碑
アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。
(日本語版)
(タガログ語版)
リカルテ将軍は北イロコス地方のイロコスノルテ州バタック(Batac)町で生まれた。
イロコス ノルテ(Ilocos Norte)州
Batacは州都Laoag(ラオアグ)のすぐ南に位置する町である。
Batac町は後の大統領マルコスの生まれた町でもある・・・
(マルコス元大統領の生家の前で)
リカルテ将軍はフィリピンの独立を目指した米比戦争(1899~1902)でアメリカ軍にとらえられ、
グアムや香港に追放された。
その後日本に亡命して横浜に移った・・・
第二次世界大戦が始まると日本政府はリカルテ将軍をフィリピンに帰国させて、抗日ゲリラを
根絶させるために活動する組織を創設したと云われる。
その後米国の反撃が始まると、山下将軍は日本への再亡命を勧めたが、断って日本軍とともに
退避行軍をした。
そして最後は終戦少し前の1945年7月31日にマウンテン プロビンス州の山奥の町カリンガで一生を終えた。
そして1971年には横浜山下公園に将軍の記念碑が建立されたのでした・・・
建っている記念碑が目に飛び込んだ!!!
記念碑には次のように刻まれていた・・・・
リカルテ将軍記念碑
アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。
(日本語版)
(タガログ語版)
リカルテ将軍は北イロコス地方のイロコスノルテ州バタック(Batac)町で生まれた。
イロコス ノルテ(Ilocos Norte)州
Batacは州都Laoag(ラオアグ)のすぐ南に位置する町である。
Batac町は後の大統領マルコスの生まれた町でもある・・・
(マルコス元大統領の生家の前で)
リカルテ将軍はフィリピンの独立を目指した米比戦争(1899~1902)でアメリカ軍にとらえられ、
グアムや香港に追放された。
その後日本に亡命して横浜に移った・・・
第二次世界大戦が始まると日本政府はリカルテ将軍をフィリピンに帰国させて、抗日ゲリラを
根絶させるために活動する組織を創設したと云われる。
その後米国の反撃が始まると、山下将軍は日本への再亡命を勧めたが、断って日本軍とともに
退避行軍をした。
そして最後は終戦少し前の1945年7月31日にマウンテン プロビンス州の山奥の町カリンガで一生を終えた。
そして1971年には横浜山下公園に将軍の記念碑が建立されたのでした・・・