阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

爺様の掛け軸

2018-09-11 13:30:53 | 栗本軒貞国

 (この記事は私にとって狂歌研究の出発点ではあるけれど、なにぶん狂歌について無知な頃に書いており、追記を繰り返してわかりにくくなっています。そのため改訂版を書いて少し整理しました。こちらもプロセスとして残しておきます。)

 母方の祖父が亡くなったのはもう40年以上前、私が小学生の時であったが、その母方の家に伝わる掛け軸、昔は正月に飾られていたという。

 

 左の福の神という文字はすぐに読めた。だからこの絵は福の神の一種だと思っていた。そして二十数年前、祖父が住んでいた今の場所に戻って来て、両親は正月関係なくこの掛け軸を床の間に飾るようになった。掛け軸を眺める機会も増えて、解読は少しずつ進んでいき、歌の部分は大体読めるようになった。

 

 あたまから

 かくれたるより

 あらはるゝ

 おきてをしめす

 福の神わさ

 

意味はあとで考えるとして、歌は読めたけれど、右の一行が読めない。私はずっと、先に絵があって、あとから賛として歌を入れたのではないかと思っていた。だから右の一行には〇〇の図、みたいに神様の名前が入っていると思い込んでいた。

 

二年前に崩し字ソフトを使って色々調べてリンクとともにツイートしたら、最初の一文字は私が考えていた粟ではなくて栗だという指摘をいただいた。そして別の方から、これは短歌の柿本をもじって狂歌の「栗のもと」を名乗る人の名前ではないかと教えていただいた。神様の名前ではなく、狂歌の作者の名前だった。

しかし私は和歌文学は少しはわかるけれど狂歌はさっぱりでそこから進んでなかった。ところが去年、みんなで翻刻に参加した時に、思い切って質問してみたら、あっさり「栗のもとの貞国」と読んでいただいた。本軒貞国という天保まで生きた広島の狂歌師だった。そして、絵についても神様ではなくて、正月の祝福芸ではないかというご指摘だった。


ここでも、神様の絵という先入観が敗因だったようだ。さて、改めて歌を見てみよう。


  あたまからかくれたるよりあらはるゝおきてをしめす福の神わさ

 

上の句は中庸の「乎隠」(隠れたるよりあらわるるはなし)、の本説取りと思われる。隠れているものよりはっきりと見えるものはない、隠そうとしても他人に必ず知られてしまうものだ、という意味だろうか。母方の先祖は広島藩士であったというから、こういう学問的な背景のある歌が好まれた時代だったのかもしれない。

残る問題は万歳のような祝福芸にこのように顔を隠す演目があったかどうか。ここがまだわかっていない。江戸時代の人がこの絵を見たらピンとくるような、有名なお話のように思えるのだけど見つけられない。それから、この絵と字は誰が書いたのか。右が作者の名前ということは、貞国本人とはかえって考えにくい。この歌は詞書か絵がなければ単独では理解しにくいと思う。絵とセットだった、先に絵があって賛を入れたと考えるのが普通だろう。しかしこの掛け軸は、最初に貞国の名があって、歌が主のような構成になっている。例えば襖絵のような元の絵があってそれを写して掛け軸に再構成したと推理しておこう。もとより骨董品の価値にかかわる興味はなく、昔の人がどういう予備知識を持って、またいかなる気持ちでこの絵を眺めたのかもっと知りたいと思う。私にはまったく読めない印の写真ものせておく。読める方がいらっしゃったら御教示いただきたい。

 

また、間違い等あればコメントで指摘していただけると助かります。とにかく一歩ずつ、間違った先入観のせいで随分回り道をしているけれど、ここまで一幅の掛け軸で随分楽しめた。ご先祖様に感謝したいと思う。

 

【追記1】「狂歌桃のなかれ」(pdfファイル)冬の部に「ふくの神わさ」が出てきた。

 

      職人頭巾           廿日市 梅翁

  槌を持鍛冶屋もくゝり頭巾着てさすか吹茸をふくの神わさ

 

吹茸は吹革(ふいご)ではないかと思う。画像をみても私には判別できないが。

 

くくり頭巾は大黒様がかぶっている頭巾だそうだ。歳時記によると、ふいご祭りは冬の季語となっている。この歌は吹くの神でわかりやすいけれど、掛け軸の貞国の歌はどうしてふくの神なのかピンと来ない。単に万歳がおめでたいというだけなのか、あるいは別の意味を掛けていて例えば拭くの神で掃除をしているのだろうか。まだまだスッキリしない。しかし、最初は見慣れない言葉と思った「ふくの神業」という用例はもっとありそうな気がする。探してみたい。

 

【追記2】 「五日市町誌 上巻」に貞国が涼風亭貞格にあたえた「ゆるしふみ」(文政七年)の写真があり、上記2番目の印と似た印が「柳門正統第三世 栗本軒貞国」の署名の横に押してあるのが確認できる。しかし、拡大してみると、

右の福井か福日かの二文字は同じ字だが、左の二文字は違っている。こちらは柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」に記述があった「道化」という号かもしれない。もしそうだとすると、道化は貞佐から貞の字を許される前の号ではなく晩年に使用していた可能性もある。それでは掛け軸との相違をどう考えるのか。掛け軸の二文字は全く見当がつかず、今のところお手上げである。


【追記3】 名田富太郎「山県郡史の研究」に貞国が文化年間に加計吉水園を訪れた時の歌が載っていて、詞書に続いて「栗の本の貞国」とあり、掛け軸にある「栗のもとの貞国」と同じ形の名前を初めて確認できたことになる。しかし、同じ吉水園の歌を「吉水録」から引用した「加計町史」と「日本庭園史大系」は詞書と歌は同じであるのに「栗の本の貞国」の記述はない。一方「山県郡史の研究」に出典の記述はなく、少し気になるところだ。


【追記4】 ここまで狂歌を読んできた限りでは、近世上方狂歌においては、福の神イコール七福神と考えて差し支えなさそうに思える。この歌が七福神のどの神様に当てはまるか考えてみると、「頭から隠れたる」と始まって絵は烏帽子をつけている。この烏帽子が頭を隠しているとすると、頭が長いとされる福禄寿か寿老人だろうか。そういえば烏帽子の中の部分は頭が透けているようにも見える。そうだとすると貞国はどちらを念頭に詠んだのか、歌には神様の名と縁語になるような語句は見当たらない。この二神は元は同一の神様で、絵では持ち物で区別するという。福禄寿は経典をつけた杖を持ち、もう一方の手には宝珠、寿老人は経典の杖は同じだが片手にはうちわや桃を持っているという。残念ながら、この掛け軸では手を後ろに回していて何を持っているのかわからない。右腕の周りの黒く見える物は何だろうか。この線だと福の神の絵で合っていたことになるが、もう一歩証拠が足りない。